25話 世界の意思
昂った感情を落ち着かせるため、アネッテは基本色数五の『涼風』を使用していた。火照った体を涼めていた風が、不意に揺らめく。
「……呼び出してごめん」
《いや、丁度良いタイミングではあったな。んで、用件は?》
「…………」
この謝罪には、つい先程晒した醜態も含まれていたのだが、リンプファーは飄々と受け取り、軽々と会話を続けて見せた。「そんな事には爪先の欠片程度にも興味が無い」という心情が透けて見える。
勇気を出して謝った側であるアネッテは僅かに怒りを覚えた。暗に謝罪を滲ませているだけであって、直接謝っていない点・常々指摘されているというのに感情的に当たり散らしてしまった点などは、思案の外である。
「……運命値が規定よりズレそうに見えたから」
《あん?》
「これ」
リンプファーはアネッテの視界を介し、スクロール上の数値を確認する。
《っ……おいおい、マジかよ。百年前の大氾濫クラスのイレギュラーじゃねえか?》
「まだ予兆だけど、多分そう。そして、『あの子』絡みじゃないのも確認済み」
リンプファーはアネッテの言葉の真意を探った。過ぎた事を蒸し返すようなら精神世界で擦り潰してやろうかとも思ったが……
…………………………
続く言葉は無く、「ただの報告だったか」と溜飲を下げた。
《これなら、シュラバアルの『平等の旗』を皆殺しにすんのがベターか? 頭だけ逃せば良いだろ》
「二百人だから、丁度いいと思う。リョウの護衛もあるけど、三一八小隊に頼んで大丈夫?」
《どうせ護衛はリエル一人で充分だしそれで良い。第一、カシュナも合流するしな。三一八小隊も人数に余裕があるからな。人員は──》
「──それについて、私から指示がある」
「十人程度見繕ってくれ」で締めくくろうとした言葉は、何者かに遮られる事となる。常々リョウに対してそうするように、リンプファーはアネッテの精神に直接語りかけている。外部から盗聴する術など存在しないのだが……
目の前の空間が裂け、ズルリとそこから黒衣を纏った長身の男が吐き出される。仮面に覆われたその表情は窺い知れない。もっとも、どのような材質なのか男の動きに合わせて揺らめき、痕跡をなぞる様に黒い尾を引くソレを仮面と呼称すべきかと聞かれれば疑問符が付くが。
「貴様の願いを叶えてやろう。それが、世界の意思だ」
五百年前と変わらぬ姿、変わらぬ声、変わらぬ圧──
(アーク・シクラン!? まさかコイツまで出て来るか!!!)
──度重なるイレギュラーの、その止めとでも呼ぶべき存在。理不尽の体現者、天上の戦士、世界の意思がそこに居た。
「“代償術式”を使う!! 『蠢光』!!!」
(!? この馬鹿が! 余計な事を!!)
アネッテは両手を翳し、敵を屠らんと魔術を発動した。つもりだったが──
「どっどうして!?」
──基本色数一千万の魔術が、防がれるどころか発動すら許されない。
《……一々驚くな。コイツならそれくらい当然だろ。なあ、アーク。直接話すのは初めてだったか? 前々から聞こうと思ってたんだけどよ……どうやって俺の声を聞いてんだ? いくら世界から適宜必要な術式を付与して貰えるっつっても、術式保持者に直接術式で干渉は出来ねえだろ。どんなデタラメな事してやがる?》
「それが、世界の意思だからだ」
アネッテの短慮……と片付けてしまって良い事案か分からないが、基本色数一千万の魔術を羽虫の様に軽く去なしたその結果に、リンプファーは胸を撫で下ろした。
アネッテの体を支配すれば、リンプファーは制約無く力を行使できる。だが、それでもこの男には敵わないのだ。必要な時に必要な術式を必要な数だけ世界から付与されるこの男に敵う者など、理論値最大に成長しきったリョウ以外に存在しない。
《魔法の言葉かそりゃあ。まあ……五百年前と同じ、相変わらずだってのは分かった、それとアネッテは動くな。まだ戦う時じゃねえからな》
アークは虚空に腰掛けながら、アネッテを見つめている。
「先程の攻撃もそうだが、随分と嫌われたものだな? 嘗ては共に戦った仲だというのに」
《好き勝手に暗躍してただけで、碌に貢献しなかっただろうが。お前は》
「だが、それが世界の意思だった。そして世界は救われる。漸く実を結ぶ。貴様の悲願は叶えられる」
《ああ、嘗ての悲願はな。今は違う》
「リョウ・キサラギか……? それについては手を尽くそう。それが世界の意思だ」
《そうかよ……んで? シュラバアルをどうしろって?》
一見すると久方振りに会う戦友との交流とも思える会話だが、リンプファーの内心は穏やかではなかった。
『リョウ・キサラギ』『それについては』……すると、リエルは? リエルが救われなければ、全てが水泡に帰すというのに。
僅か百余年で『成った』。そして外界で牙を剥いたあの女。更に今までBパートに姿を表さなかったこの男が、同時に動き出した意味とは?
百年前の大氾濫・運命値の急激な変動・兄弟の未知の発言の数々。これらはポジティブな結果に繋がるものなのか?
その圧倒的な力で以って元凶を擦り潰せば良いものを、アークは回りくどい手段で暗躍し続けている……その理由とは?
思案するリンプファーだったが、状況は動き続ける。
アークは仮面の裏から一枚の紙片を取り出すと。アネッテに手渡して見せた。
「『クトゥロー・ブラキャット』『ラビィ・ギーヤンサ』『ローゼ・ピーチ』……? これ……三一八小隊の隊員だね。このメンバーで攻略しろって事?」
リストを見たリンプファーは気付いた。十名の内半分が、百年前の大氾濫で入隊した者達だという事に。
《成る程……つまり、百年前のイレギュラー……クラフター大氾濫はお前の差金だった訳だ》
「私では無く、世界の意思だ」
《どっちでも良いんだよクソ傀儡野郎が……それで? コイツに実戦経験を積ませりゃあいいのか?》
「その通りだ。そして、魔物の山脈で才能が開花する。それが世界の意思だ」
《……もし、これを飲まなかったらどうなる?》
この五人はイレギュラーで増えた隊員であり、運命値の修正という手間こそかかるがリンプファーからすれば最悪死んでも構わない人間である。故に、ここでアークの申し出を断る理由は無い。これは少しでも情報を仕入れておきたいという腹積もりから来る牽制であった。
「書庫のネズミを生かしておく道理は無い……が、貴様は必要だ。世界の意思に逆らう者には、枷を設けさせてもらう」
《……へえ? まあ、そう易々と殺られるつもりは無えけどな》
…………………………
「……随分と」
《あん?》
「随分と、脆く、緻密な、犠牲と試行と倒錯と欺瞞の上に成り立つ生き物がいるようだ…………そう……リエルと言ったか?」
《……チッ》
アネッテの奥歯がギリギリと軋み声を上げ、終いにはひび割れた。
「あの子に、何かするようなら、許さない……!!」
「……貴様が、それを言うのか? 他でもない貴様が?」
「それでも! 私 《アネッテ》
「……ッ!」
《少し、黙ってろ》
最終局面で必要だろうとの判断で重用されているアネッテだが、逆に言えばそれだけの理由である。感情的と呼ぶには余りあるこの女を、いよいよ切り捨てようかと思案するリンプファーだったが──
「……この女はリョウ・キサラギと同じく、望みを繋ぐ為に必要だ。世界の意思がそう告げている」
さも当然のように心を読む者と相対し、諦めにも似た心持ちになる。兄弟もこんな気分だったのだろうかとも。
「世界の意思の前には、貴様の考えは手に取るように分かる」
《……ああ、そうかよ。じゃあお望み通り、その編制で手配しといてやる》
「当然だ。何故なら──」
《──それが世界の意思だ……ってか?》
「その通りだ」
用は済んだとばかりに、アークはリンプファーに背を向け──
「術式を賜る。“空間術式”」
──去り際に残す一言すら無く、何処かに消え去った。
(アネッテは必要……なら、リエルも必要なんじゃねえのか? いや、ダメだ分からねえ)
《アネッテ、念のためお前の推察も聞いといてやる》
考えたところで明確な答えは出ない。まるで期待はしていないが、発想の転換も大事だろうかと考え、アネッテからも意見を募るのだった。
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