××話 救いの無い世界なら
如月良は孤独だった。
両親は優しい人『だった』。
昔の事で記憶も朧げだが、年に一度は旅行に行き、季節毎の行事を大切にする……温かな家庭だったろうと思う。学校行事にも欠かさずに参加してくれていた。
しかし、それは八歳になる頃に終わりを告げる。
ある日の朝。突然二人きりで旅行に行くのだと言い出した両親。どう考えてもリョウ一人では数日かけても食べ切れないだろうという量の料理を冷蔵庫に詰め込んで準備をしていた。
いざ出発する際にも、やけに仰々しく手を振って出掛けるものだと訝しんでいたのだが、不帰路に旅立っていたとは。
そこからは怒涛で。
両親の遺書通り、祖父母に引き取られたまでは良かった。だが、祖父が三年後に他界。続いて、その翌年に祖母が他界。本当にこちらの言語が通じているのか疑わしいような手合いばかりの遠方の親戚をたらい回しにされ、転校する事七回。
死に物狂いで正規の働き口を見つけ、中学卒業後は一人で暮らした。
友人も知り合いも居ない生活ではあったが、元より身寄りも無く、転校続きでクラスメイトに友人が一人もいなかったリョウは寂しさなど感じなかった。
むしろ、煩わしい親族がいないだけ、今の生活の方がマシだろうとさえ思っていた。
彼女に出会い、幸せを思い出し──
────
──失うまでは。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
それは五年前の七月半ば。月に僅か四日間のみ支給される貴重な休日だったが、食料の調達及び・備蓄用料理・溜まった洗濯物の処理・掃除をしなければならない為、休んではいられない。
とはいえ休みは休みである。あまりに小さく、あまりにチャチな抵抗ではあるが、携帯頼りに行動範囲外の安売りスーパーまで遠征に繰り出し、多少の非日常を体感しようと意気込んだのだが……
(うおおおお……クッソ……迷った………)
スマホに表示されている地図を見るも、現在位置が分からない。目印となる建築物に乏しい住宅街に入り込んだのは失敗だったらしく、一人頭を抱える。位置情報とはどうやって送信するのだったか。設定画面に移動するも、煩雑な手続きが必要で断念する。
地図を逆さに見たり、周りを見渡したりと試行錯誤を試みるが、こうなるともうドツボである。焦燥で碌に回らない思考は、来た道を戻るという単純かつ確実な選択肢すら生み出せない。
「適当に真っ直ぐ進むか」と愚痴を零しつつ、頭をガシガシと掻き、ため息を一つ。
道なりに進めば、いつか目印になり得る道路・建築物に突き当たるだろうと判断し、スマホを懐に仕舞った。これは方向音痴な人間の典型的な失敗例なのだが、そんな事に気付けるのなら、そもそも道には迷わない。
前を向き、一歩を踏み出しかけたその時。
「あの……すいません」
後ろから、可愛らしい一声。
閑静な住宅街の、それも平日の昼間である。もちろん人通りは皆無。人類が滅亡したかのような静けさの中、声をかけられるとしたら自分以外に有り得ないだろう。
振り返りつつ、先程までの仏頂面を解き崩し、微笑を貼り付ける。同時並行で、若干高い声を出す準備も忘れない。
これは、目つきが悪く、声の低めなリョウにとって必要な処世術であった。
何の用かは知らないが、近所の人間ならスーパーの場所を聞くのも良いだろう。とにかく返事。これをしなければ始まらない。のだが──
「はい。なんで、す……」
句が継げなかった。
その女性の美しさに、言葉を失ってしまったから。
大人しそうで、儚げな印象だが、どこか芯の強さも伺える顔。
両袖口にレースのあしらわれた白いシャツに、グレーのスカート。時折、風に揺らめき見える足首は、白くか細く美しい。
膝裏まで届かんばかりのスーパーロングの髪の毛は、サラサラと絹のように滑らかで、その清楚な顔付きとは正反対に絶大な妖艶さを放っていた。
「……あの、もしかして、道に迷っているのかと思って声をおかけしたんですが、私の勘違いでしたか?」
「しまった」と、内心舌打ちを打つ。数秒間もの間、彼女を凝視してしまったのだ。『男のチラ見は女のガン見』とはよく言ったものだが、これは男の自分からしても、まごう事無きガン見である。適当な言い訳をし、この場を切り抜けようと逃げ道を探す。
「ああ……すいません。ジロジロと見てしまって。昔の知り合いにソックリだったもので──」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「………ん?」
刹那、足裏に襲い来た冷たさに、思わず我に返る。
気付けば、土間に裸足で佇んでいた。小綺麗な服に身を包んでおり、無意識のうちに家から出ようとしていたらしい。
(いよいよ、マズイな。これは)
そんな美しい妻が死んで二週間になるが、日を増すごとに記憶の欠落が大きくなっていた。気付いたら目の前の食事が消えていたなどはザラで、数時間単位での欠落も散見され始めている。
リョウは記憶の糸を手繰り寄せる。近頃はよく絡まり、千切れるようになってしまった弱々しいそれだが、痕跡を辿ればヒントくらいは見えてくるものである。
(こりゃ、歳とってボケても大丈夫だな)
もっとも、そこまで生きるつもりは無いのだが。
(そう、確か、大掃除を始めるところだったはずだ)
二LDKとはいえ、家具まで揃えて処分するとなると、なかなかの重労働である。時間的制約があるわけでは無かったが、この症状を見るに、急いだ方が賢明だろう。じきに自分が誰かすら分からなくなるかもしれない。
記憶の糸を手繰り寄せ終えた所で、周囲を確認する。備え付けられていた鏡や敷物が無くなっており、靴などは一足を残すのみである。察するに、玄関周りの掃除が終わった瞬間に覚醒したということか。
困ったものだと思いつつ、仕方がないとばかりにリビングへと続くドアを開ける。
(あのデカイ鏡まで消えたのは謎だが、家具を無料で引き取ってくれる業者とかいんのか? まずはネットで探すとこ……か……ら……)
思考が寸断される。全身から汗が噴き出し、両足から力が抜け、弛緩する。
尻餅をつきながらリョウが見たのは、家具どころか者一つないリビングだった。
「ッ────……」
慌てて懐の携帯を探り取り起動すれば、二度目の衝撃が襲い来る。掃除を始めた日は八月二十日の朝。すっかり充電の減った携帯に表示されている日時は、八月二十二日午前七時過ぎ。ゆうに、丸二日は経過している事になる。
他の部屋を急ぎ確認するも、リビングと同様。がらんどうとしている。家具はおろか、埃一つ無い。
(これは、いよいよ、だめだな……)
最早、一刻一秒の猶予も無い。
何もかも記憶から消えてしまう前に。
唯一残された靴を履き、ドアを開ける。
なるほど、両親はこんな気分だったのだろうか。などと考えながら、ドアを閉じる。
鍵はかけない。
もう要らない。
意味がない。
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体感で十分程度か。
ただただ無心に歩き続けるよう心掛ける。
一時でも忘れたいが故。
しかし、思考は止め処なく流れ続ける。
(一人は嫌だ……)
『人付き合いなど煩わしい』と、孤独を好んでいたリョウだった。だが、それは本当の温かみを知らないが故だったのだと、只の強がりだったのだと、彼女に出会ってから痛感した。
嬉しい事、楽しい事は二人で倍に。辛い事、悲しい事は二人で半分に。
あの温かみを知ってしまえば、一人には戻れない。
戻れないのに。
──また、一人きり。
歩を進めながら思い出すのは、やはり彼女との事ばかり。
巫山戯た時の反応も愛らしかった。
『何を言わせようとしてるんですか…もう…』
どんな弱音にも、強く応えてくれた。
『……天涯孤独だなんて、関係ありません』
『大丈夫ですよ。ずっと一緒です。私は何があっても、ずっとリョウさんの味方ですから』
『ちょっぴり意地悪で……でも、とても優しいリョウさんと一緒なら──』
優しい女性だった。
どこまでも強く、優しく応えた彼女の言葉。この時リョウは、「そうでもねぇよ」と言いかけ、慌てて口を噤んだ。
俯きながら絞り出しかけたその言葉は、照れ隠しでは無く、本心からの言葉だった。孤独だったリョウにとって、彼女は妻であり、友人であり、生き甲斐であり──全て。故に、両親のように失いたくはないし、捨てられたくはない。あくまで打算的な優しさだと、リョウも自覚していたのである。
しかし、彼女は──『綾』は、そんな考えなど全てお見通しだとでも言うようにクスリと笑い、『そん──
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
……気付けば墓前に辿り着いていたらしく、リョウは驚きのあまり思考を中断する。体感では家を出て数分程度歩いた気分だったのだが、時計を見るに二時間以上歩き続けていたらしい。
これが心と体の乖離が始まっているという事かと、顔には焦燥の色を浮かべながらも、どこか冴えた判断を下す。
姿勢と襟元を正し、一礼。
「ご先祖様と、俺を遺して死んだバカ二人。すんません。お騒がせします」
線香を供えた後、手を合わせながら語るリョウは、先程とは打って変わって驚くほど明朗な表情を浮かべていた。周囲に人気こそ無いが、もし誰かが今のリョウを見たとしても、身辺整理を済ませ、遺書を認め、懐に凶器を忍ばせているとは夢にも思わないだろう。むしろ、ここから墓の掃除に精を出すかと思うのかもしれない。
「最後に一服すっか…」
墓前に三つある手荷物用の椅子。その中でも一番墓石に近い席に腰を下ろし、ゴソゴソと懐を探る。取り出したのは大掃除前日から買っておいたタバコだ。可愛い妻から『私を残して逝かないでください』と言われ、不健康の権化であるタバコからの卒業を余儀なくされたリョウであったが、喫煙欲求が無くなったわけではない。
カチリと火を点け、フゥッと吐き出す。
「ッチ…… 美味くねぇ……」
吸い始めたばかりのタバコを地面に落とし、踏みにじった。
綾との約束を破ってまで得た最後の一服。それがこの不味さかと思うと口惜しいが、逆に、「だからこそ」の不味さかと思い当たったリョウは、ボソリと呟いた。
「……思い通りにならねぇもんだな」
せめてこの後の行為だけは破綻なく進んで欲しいものだと、そう思いながらリョウは
タバコとライターを懐に戻し入れ、入れ替わりに剃刀を手に取り、首に押し当てる。
『大丈夫ですよ──』
これは走馬灯なのだろうか。彼女の言葉が脳裏をよぎる。
『私はずっと一緒です。私は何があってもリョウさんの味方──』
剃刀を首に押し当てながら俯くリョウだったが、彼女の声を切り払うかのように、怒りのまま吠え猛る。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」
この怒りの源泉はどこにあるのか。
彼女を狂った義父から守れなかった。そんな自分の不甲斐無さか。約束を守ってくれなかった彼女への怒りか。………世界と運命の理不尽な仕打ちにだろうか。
比較的広大な墓地である。今の咆哮で即座に誰かが来るとも思えなかったが、管理人は常駐している上、どこかに参拝者もいるだろう。時間的猶予は減ったと見るべきか。
今すぐ死ぬべきだ。死ぬべきなのだが…………可笑しい。
「……ククッ……ッハハハハハハハハハハ!」
今度は堰を切ったように溢れ出る笑い声。何が可笑しいのか分からないが、止まらない物は仕様がないと笑い続ける。肺の中の空気を全て吐き出して尚、止まらない笑いの欲求。それすら可笑しいとばかりに溢れ出る笑み。心の中の感情が飽和し、破裂する。その理由は明白。
──狂ってしまったのだ。深い絶望と孤独によって。
ひとしきり笑い終えたリョウは、墓前に向かいポツリと呟く。
「うそつき………」
そして、スパリと軽く、ズブリと重く、首を断ち命を絶った。
色々手探りです。
最後まで書ききれるよう頑張ります。