君死にたまふことなかれ
「これがあなたの望む物語ですか、時の女神よ」
開いた本を片手に眼鏡をかけた男が問う。本の文字は目まぐるしく変化し続けている。男の赤い瞳は女神に向けられているが問いかけられた方は振り返らずに答える。
「……そうね。やり直しすぎて我々に近くなりすぎてしまったけれど、これならば……。あれには生きていく方がつらいのかもしれないけれど、わたくしは光の神も、あのお方……闇の神も救いたいの」
「傲慢で、何処までもっ、身勝手だっ……。人を、家畜のように、愛でて、搾取する……」
声を搾るように胸の辺りの服を握りしめ、苦しそうに男が片膝をつく。
「お前も難儀な在り方ね。今にも倒れそう。どうしてそうなると分かって、わたくしたちの悪口をやめられないのかしら。お前も同じなのに」
「これが、俺の在り方だからだ。お前たちと一緒にするな、生まれた時から神だったものと同じであるものか」
「……そうね。なれどわたくしたちの在り方もこうなのよ。お互いにいがみ合って共存していくしかないのよね。特にお前のように神に昇華してもこうして、かつての体の記憶を持ち続けているのも珍しいから仕方のないことなのだろうけれど。智の神だもの、かつての記憶すらもその力の根源なのでしょう。忘却をゆるされていないのね」
かわいそうに。振り返った時の女神の赤い瞳が憐れみの眼差しを向けていた。
長期休暇の間に物語のように濃い出来事が起きたが、それでも時は歩みを止めることなく進んでいく。プラータの長期休暇も明けて今日からまた魔術学校での生活が始まる。
「隣に座っても?」
予習のために教科書を読み返していると不意にすぐ側で声がした。わざわざプラータの隣に座らなくてもこの広い講義室ならどこでも座り放題だ。不審に思い顔をあげると知らない少年がいた。しかしどこか見覚えがある。黒い髪に青い目、身に付けられた魔術具から見ても貴族の子のようだ。これで目が黄色だったならば、今プラータの家で店番をしているヴェルメリオに少し似ている。ヴェルメリオの幼い頃はこんな風だったのかもしれない。
「……どうぞ」
不審に思ったものの、貴族の子には逆らわない方がいい。プラータには分からないだけで何かこの席にこだわりがある人なのかもしれない。そう思って教材を寄せて、二人分ほど座れるようにプラータも右横へ移動した。ガラガラに空いているから一人分くらいは空けて隣に座った方が良いだろうと思ったからだった。
「ありがとう!」
花が咲くように笑った少年はプラータの真横に詰めて座った。広めに席を移動したつもりだったのに肘がぶつかりそうなほど近くに座られてしまった。プラータは驚きつつも座り直す振りをして少年から離れた。気を取り直して教科書を見ようとすると左腕を捕まれた。
「どうして俺から離れるの」
「え?」
突然腕を掴まれてそう言われ、困惑したプラータは何か言い訳をしなくてはと焦りながら答えた。
「あまり近すぎると記録を取るのに狭くてあなたに迷惑がかかってしまいますので……」
「そんなこと、気にしないのに……」
少年が気にしなくてもプラータは気になるからそうしたのだが、今一つ通じなかったようだ。
「あの、離してもらえますか」
未だに捕まれたままの左腕に目線を向けながらそう言うと、少年は酷く傷付いたような顔をした。
「どうしてだ?俺のこと嫌いになった?また知らない間に君の嫌がることをしてしまったのか?何故だ?今回は君に魔術をかけたりなどしていないのに」
それはプラータが魔術学校に登校するからと、ヴェルメリオに留守番を言いつけた時に言われたのと同じ台詞だった。目の前であわてふためく少年はその時のヴェルメリオそのものだった。
「……もしかしなくともあなたはヴェルメリオ様?」
「そうだよ!まさか分からなかったのか?」
「はい。だって今、ヴェルメリオ様は私の代わりに店番をしてくれているはずですから」
「うん。そうなんだ。店番はジョーヌに邪魔だから出ていけと追い出され、シーニィも近所に遊びに行ってしまったからな」
全く悪びれもせずにこにこと返事をする様子を見たプラータは額に手を当て深い溜め息を吐いた。
ジョーヌはあの日プラータを浚った女性だ。仮にも高位魔術師のヴェルメリオに危害を加えたとして処刑は免れないところをヴェルメリオ本人に従属契約させることで罰としたらしい。処刑するにはジョーヌの実家の位も高すぎたからだ。ジョーヌの恨みは凄まじいものだったが、自分が側にいることでヴェルメリオに一生苦しんでほしいし、苦しむ様を近くで見られるからと彼女なりに屈折した思いを抱いているので、抵抗せずこの契約を結んだようだ。
その結果、自身の主であるヴェルメリオがプラータの実家を手伝っているためジョーヌもそれを手伝う形になっている。彼女は今や貴族にも対応できる凄腕商人としてプラータの実家での地位は揺るぎないものとなった。当の主人、ヴェルメリオには商才は全くないが店先に立って微笑んでいるだけで客を吸い寄せることが出来るので、店先でルプス家末っ子のシーニィの子守りをする事が主な仕事だ。シーニィがヴェルメリオの面倒を見ている訳ではないと信じたい。
「なんで、ここに……」
「君の側を離れると何も手につかない。だから俺も魔術学校について来た」
名案だろうとにこやかに笑うヴェルメリオを見て唖然とした。千年も生きた高位魔術師が今更初歩中の初歩の魔術学校に入ったところで何の意味もない。むしろ講師側の立場だろう。
「だからと言って勝手に入ってはダメでしょう」
「何故だ?誰も引き止める者はいないぞ?」
「それはそうでしょうとも……」
正真正銘の吸血鬼であるヴェルメリオが目を見て『お願い』して断れる存在などそうそういない。ヴェルメリオを引き止められる者がいるのなら紹介してほしいとプラータは項垂れた。その瞳が力を奮えば目が合っただけで術中に嵌まってしまう。吸血鬼の魔眼が魅了、精神支配を得意とすることは古くから言い伝えられている。
「いつでも瞳が見れるところに居てもいいって言ってくれただろ」
隣から窺うように見上げる、いつもと違うヴェルメリオにプラータの心臓は早鐘を打っていた。
「そんな物理的な意味で……?!あれは精神的な意味では?」
「いつでも見ることができるという精神的安堵感を直接的に叶えることでより強く充たされるだろう?」
片肘をついてプラータを見るこの少年は授業を聞く気などなく、帰る気もないらしい。楽しそうに見てくるヴェルメリオを横目に、プラータは何も言えなくなってしまったのだった。
「瞳で変な魔術はかけないでくださいよ」
「そんな酷いことしないよ」
されそうになったからこうして予防線を張っているのだが。そう思ってヴェルメリオを見ると少し困った顔をしていた。
「本当にもうしないから。君の瞳はよく反射するからかけるのも手間がかかるんだ」
「……授業の邪魔はしないでくださいね」
「うん。君の側にいられるだけで満足だ」
本当の少年のようにはにかむその顔が胸を締め付けるから、死ぬまで一緒にいよう。その時が来るまでは。
──殺されるなら君がいいって見つけた瞬間からもう囚われてしまったんだ。ごめんね、もう離れられないんだ。