百代の過客
その凪いだ青が夜の静かな湖のようだ。その湖に自分の最期が映されるならばこれまでの人生のどんな事よりも素晴らしい事だと思ってしまったのだ。
生まれてすぐ、自分は何者なのか漠然と理解していた。この珍しい境遇は天の采配によるものらしい。何者なのかは理解していても一体何のために生まれたのかまでは教えてくれないようだった。
「良いですか、あなたは普通の生まれではない。この世界に二つとない特殊な存在だ。それは分かるな?」
その高貴なお方が分厚い本を片手に、文字を追いながら語る。その文字は瞬きの合間にも揺らめいて動き目まぐるしく姿を変えていた。そのお方は背が高く眼鏡をかけた青年の姿をしている。ヴェルメリオには何が書かれているのか読めなかったが、そのお方の赤い瞳は本に書かれた文字を写していた。
「はい。何か理由があってこの命を与えて下さったことは」
「そうだ。正反対の性質を併せ持って生まれたあなたは不死だ。この地のあらゆるものはあなたを殺す事ができない。そしてあなたは自分自身を害することもできない」
「何故ですか?」
「それを語ることは許されていない」
「俺は死ぬことが出来ないのですか」
「いや、方法はある。制約の魔術を使い、そして主たる者に殺してもらえばよい」
「それは、いつその様にすれば良いのですか?」
ヴェルメリオがそう答えるとそのお方の目が細められてそこから赤い光がじわりと滲んだ。ヴェルメリオは自分と同じ色を宿していながらも全く次元の違うそれをただ見つめ返す。目の前のこの高貴なお方が何故『感情のようなもの』を自分のような位の釣り合わない相手に向けているのかわからず呆けていた。
「……これだから、嫌いなんだ」
嫌い、と発した瞬間に痛みを抑えるようにそのお方は右手で胸の中心を押さえ付けた。浅く息を繰り返し苦しそうにしていたが暫くして深い息を吐き出してからヴェルメリオに向き合った。
「……良いですか、あなたが死んでいいのは、あなたが死にたいと思ったときだけだ」
その時はそうなのかと思っただけだった。
「はい。わかりました、智の神よ」
「その名で呼ぶなッ!」
青筋を立てて、両の目が神々しく赤く輝いている。
「申し訳ありません」
「今後それを口に出すことを一切ゆるさぬ。……私の事はセイケンとでも呼ぶがよい」
「はい、その通りに。セイケン様」
それは智の神からもたらされた天命だったのだ。
ヴェルメリオはその天命を果たすために生まれたものだ。自分自身が死にたいと思ったときに死ぬ、それ以外では死ぬことはできない。だが、ヴェルメリオは死にたいと思うことがなかった。それは厳密に言えば、『死にたいと思う気持ちが分からなかった』のだ。かと言ってそれは生きたいという事でもなかった。ただ、死ぬ事がゆるされていないから生き続けていただけだった。
おおよその人は百年前後で死を迎え、魔力が多いものは三百年、稀に五百年ほど生きる者もいるという。ヴェルメリオは百年程の周期で姿や名前を変えて人の社会で生活を続けていた。あるときは旅人、あるときは孤児、貴族、兵士、王族、騎士……ヴェルメリオは人をいつも見ていた。人の側でその生と死を見ていた。
人とはどういう暮らしをしているのか、感情とは何なのか、全ては天命のため。『死にたいと思う』ためにはどうすればいいのか知るためであった。
そうしているうちにつまらないという目をしているのに希望を探しているような生の煌めきに出会ったのだった。