#6
「こ、ここは……」
私が次に見た光景は、玄関から見た自室であった。まるで、ちょっとした外出から戻ってきたところであるかのように、見慣れた玄関に立っていた。
「早く上がれよ」
既に部屋に入って空中を漂っている美龍の声に素直に従い、私は靴を脱いで部屋に上がった。セキエンちゃんは裸足であったことに、その時私は初めて気付いた。無意識にタンスを探すと、驚くべきことに、私の記憶通りの場所にあった。家具の配置から小物の並びに至るまで寸分違わず、そこはマイカの自室に間違いなかった。戸惑いながらも靴下を探し、彼女に履かせる。
「ここは百神から受け取ったスーツケースの中だ。どんなもん作ってんだよアイツ。ストーカーってレベルじゃねえぞ」
私はハッとして玄関へ駆け寄り、扉の覗き窓から外の様子を伺う。そうだ、私達は追われていたのだった。それがいきなり私的空間に迷い込み、一瞬頭が混乱していたのだった。窓の向こうを覗き込むと、先程の人面牛を含む何体かの異形が、あてもなく辺りを彷徨っていた。急に振り向いた人面牛と一瞬目があったような気がした私は反射的に飛び退き、慌てて鍵をかける。すると外側でも、スーツケースの鍵が音を立ててしまったようだった。
「ひとまず……安全のようだ。ひとまず落ち着いて、アイツが諦めていなくなるまで待つか」
「ねぇねぇマイカ、あのお牛さんなぁに??」
「セキエンちゃんあのね、あれは……」
「あれはアツユだ。到底信じられないが」
美龍が遮るように口を開く。
「アツユ。漢字は忘れた。昔、チュウカがまだシンと呼ばれていた頃、とある書物に記されていた妖怪だ」
「私が生まれる前の話ね。中国妖怪か……美龍あなた、面識ある?」
「いーや、あの時代俺もシンにいたこともあったが、いかんせん俺は海の妖だからな。川の怪異であるアツユとは面識がなかった。ともかくアツユはその後、記載されていた『山海経』という書物が全て消失し、その存在を知る者がいなくなってからは存在ごと消えた。妖怪ってもんはみんなそういうものさ。ニンゲンという第三者の観測がなければ存在すら確立できない」
「でもこのビルにはいたわ。下層には絶滅したはずの妖怪がいるってこと?」
「違う。マイカお前も見ただろう。あれははじめ、間違いなくただの合成獣だった。『妖怪ですらない過去の遺物』に過ぎなかったんだ。それが突然、アツユという名の妖怪に変化した。正確に表現するならば、アツユの伝承になぞらえるように、アイツの身体が変化していった」
身体が真っ赤に変色し、胴体が馬から牛になる。突然変異というよりかはむしろ、彼が言う通り存在を上書きされたかのような変化であった。
私は固唾を飲んで、不安からまた覗き窓を覗く。人面牛は−−−−−−アツユは、まだしつこくあたりをうろついている。
「一体どうして……」
「知るか。妖怪の発生ッてのはあんな突然起こるものじゃ無い。お前も知っている通り、機械たちがその社会的な役割を周囲に承認されることではじめて名前が与えられ、その後長い時間をかけて、次第にその名に存在自体が寄っていく。それが現代における妖怪だ。だがあのアツユ、あの発生はまさしく……」
かつての妖怪そのものだ、と締め括った彼の声にも、不安の色は見え隠れしていた。鍋が突然狸になったり、嫁が突然鶴になったり、かつての怪異はどれもその素早さによって人々を驚かせてきた。名前という固定化された役割を演じることを求められた機械たちの、安定した行動原理を、かつての怪異と同列に並べることはできない。
「オマエ、さっき何をした」
言葉に詰まったままの私を他所に、表情を変えずに美龍が指差した先は、セキエンちゃんであった。幼い少女は彼の眼に見つめられ、ひッ、と身を縮ませる。咄嗟にかばったマイカの後ろに隠れ、怖がるように美龍を睨んだ。
「セキエンちゃんは関係ないでしょ」
「違うなマイカ、関係ならある。その娘の名の持つ意味を漸く思い出した。セキエン、オマエの行動には重みがあるんだ」
「わ、わたしは……ただ、見ただけよ」
「見た、か。それでセキエンは、あれを何だと思ったんだ?」
「さいしょはお馬さん……だと思ったんだけど、痩せたお牛さんみたいだなーって。ねえお魚さん、目が怖いよ」
「お魚じゃなくてメイロンだ。そして俺の目は怖くない。別にオマエが悪いわけじゃないからな」
「ちょっと待って美龍」
頭に手を当てて考えを整理する。思考がだんだんと言葉に結びついていくのを感じながら、私は口を挟む。
「私にも分かったかも。つまり、セキエンちゃんは、『絶対的な観測者』の役割を果たしている、ということかしら」
短く頷く美龍は、セキエンちゃんから目を離して言葉を繋げた。
「その思春期男子のようなネーミングセンスは置いておいて、概ねその解釈で正しいんじゃないだろうか、というのが俺の予想だ。セキエンにとって未知のものは、観測し、理解するという極めて単純な作業を通して、その存在が上書きされた。ちょうど俺の身体が、セキエンによって『幽霊』ではなく『魚』と定義されている間、実体化の解除が出来なくなってしまうのもそれで説明がつく。セキエンの観測が怪異の存在そのものを上書きし得る……これを仮説とするならば」
美龍はそこで一旦言葉を区切り、セキエンちゃんに近づく。
「実験して観測すればいい。なぁセキエン、怒ってないから聞いてくれ。俺な、実は幽霊なんだ」
「魚のお兄ちゃんが、ユーレイ?」
彼女がそう口にした途端、彼の身体が半透明化した。自由意志で実体化を解除できるようになったらしい。マイカと美龍は互いに目を合わせ、そして頷く。先ほどのキマイラも、セキエンちゃんによって『馬かもしれない牛』と曖昧な認識をされてしまった瞬間にその存在が固定化され、顔は赤子のまま、牛の身体、馬の脚を持つ怪異に−−−−−−アツユへとその姿を変えられたのだ。
「それでマイカ、セキエンという音の響きに聞き覚えはないか」
「さぁ……私も貴方ほどじゃないけど結構な年月を生きてるから、何度かそういう名前の人間と交流を持ったことがあるかもしれないけど」
「いや、俺たちとは直接面識はない者だ。鳥山石燕という名の画家を覚えていないか。江戸時代、妖怪画なんかを好んで描いていた男だが」
美龍が旧型のパソコンの電源を立ち上げ、データベースを検索する。情報が転送され、マイカ携帯のホログラム端末に、壮年の男を描いた掛け軸が表示された。マイカがその男の存在を思い出すのと、それを覗き込んだセキエンが声を上げるのは同時であった。
「この人、叔父さんにそっくり!」
「……ビンゴだな。だがこれが何を意味するのか……それはまだ推測の域を出ないが」
美龍はふわりと移動し、扉にもたれかかるようにして腕を組む。
「兎も角俺たちは上を目指すのみだ。このスーツケースも居心地は良いが、いつまでもここにいちゃ仕事ができない」
「上って……どうやって戻るのよ。《三頭犬》だっけ、さっきの警備システムがあるんだから、さっきみたいに飛んで戻るのは現実的じゃ無いわ。私たちは無事でも、下手すればセキエンちゃんが死んじゃう。それに……」
上層から下層へ行く方法は無い。それが常識だ。ならば逆も真であり、下層から上層へ行く方法も無い。
「マイカ、お前はその歳になっても人間らしく合理的に考えるのが好きで、それがお前の良いところでもある。だが忘れるな、ここは魑魅魍魎が跋扈するあやかしの街。ならば時には、非現実的な可能性も考慮する癖をつけるべきだとは思わんか?」
美龍がさらにもう一つ画像ファイルを送信する。展開すると、それは黄色いポスター紙面であった。これには私にも見覚えがあった。昨日見かけた、新興宗教の名前が印刷されたものである。
「それがさっきのエントランスにも貼ってあった。上層と下層に一貫して存在する組織なら、物理空間だって一貫して所有していると考えて良い」
「クラフティアン…………」
私の視線はホログラムの中のゴチック体の一点に注がれていた。そこに帰還の可能性があるのかもしれないのだ。特定の信仰も信条も持たない私は、だがしかしその七文字に漠然とした不安感を覚えていた。得体の知れない組織に介入することに対してでも、宗教に対する先入観からでもない。ただ単純に、その音の響きに、その存在そのものに、形容し難い印象を受けたのだった。さしあたってその感情を、不安と呼ぶことにしたのだ。
「…………ねえマイカ、その歳って、何歳なの?」
「余計な事を訊かなくて良いの」
**
アツユが眼の前を去ってくれないことには、マイカ達はスーツケースの中から出るという決断を下すことはできなかった。しかも彷徨いている怪異はアツユだけでは無いのだ。その他ヒトを喰う怪異、ヒトに害なす怪異の類もまとめていなくなってくれないことには、迂闊に行動できない。
「とはいえ埒があかねえ。そもそも下層にいるロボットの中にも、ヒトに危害を加えたって理由で廃棄された機種も少なくないはずだ。ここを無事に出たからって、トーキョースカイツリーまで五体満足で到着できる保証はない」
「どうするよ。この子だけスーツケースの中に残して私たちだけ外に出る、とか」
「俺は反対だ。そもそもこの部屋仕組みすら意味不明だが、百神の凝り性を考えるに、ここに置いてある食器や一部の家具も同じく付喪神だ。普通のヒトの娘なら気にする必要はないが、セキエンなら話は別だ。うっかり別の怪異として『認識』してしまったが最後、ここがそいつの霊安室になる可能性は十分にある」
「じゃあ美龍がお守りをしなよ」
「御免だね。そのうち俺の存在が人魚の幽霊じゃなくて、深き者かなんかになり果てそうだ」
では、どうしようもないではないか。美龍が実体化してスーツケースを抱えたままスカイツリーまで飛んでいくのは、彼の体力を考えても現実的じゃない。
「……となると方法はひとつだ。周りがセキエンをヒトだと認識できなければ良い」
「そこら中にカメラアイや声紋認証機器があるのよ、全部誤魔化すなんて無理よ」
ヒトはなんでもネットにつなげたがり、なんにでもカメラを設置したがり、なんにでもマイクを設置したがった。その結果がこの有り様だ。カタチこそ違えど、AIを搭載して擬似知性を身につけた機械達は性能面ではヒトとさして変わらないとさえ言える。その点ではここの通りはかつてのスクランブル交差点やら大通りやらと大した違いはない。ただ通行人が、有機物から無機物に変わっただけだ。
その中を、通行人の誰にも見られずに−−−−−−認識されずに目的地まで歩くことができるか。答えは考えるまでもなく否である。
ここに捨てられた機械達がセキエンちゃんを《来訪者》だと認識してしまったが最後、その情報は周辺の機器全てに共有されてしまう。
先程私が落下した時、私の身体を最初に発見したのは狐者異だった。彼らは腐肉を喰らうものだったから運が良かったものの、これが例えば一反木綿となった自律洗浄布だったら話は別だったのだ。彼らのような妖怪が情報を同期し、襲いかかってくるかもしれない。
ちなみに自律洗浄布とは、汚れを自動で発見し掃除してくれる便利な布製ロボットのことだ。販売後すぐに致命的な欠陥が発見され、すぐさま廃棄処分が決定したが、その使い勝手の良さから粗悪品が大量に出回ったため、今でも上層で多く使用されている。その欠陥とは、一度風に舞い上がってしまった洗浄布は自らの仕事を自動で再定義し、近くの機械の排気口に無差別に巻きついて塞いだり、私達のように呼吸を行う者達の喉を締めたりするようになるというもの。
安全面が致命的過ぎである。現在あの布が、一反木綿と呼ばれている理由がよくわかる。丁度良い妖怪がいたものである。
「なにも誤魔化す必要なんて無いさ。マイカ、お前がウブメになれば良い」
木を隠すなら森の中ってね。と悪戯っぽく笑いながら、突拍子もないことを言い出した美龍の顔を私は唖然として見つめた。そして同時に、何千年も共に生きてきた相棒が、自分の想像以上に頭が回ることを今、思い知ったのだ。私は正確に、彼の真意を理解した。
「美龍、あんた……天才ね」