#4
「これは……なんの妖怪だ?」
「落っこちたにしては目立った外傷は無いな。こっちのスーツケースも無傷だ。レアメタル使用部位だけでも頂戴しよう……」
誰かが首筋に触れる。気管を軽く塞がれるような感覚で、私はゆっくりと意識を取り戻した。
「おいおいおいおい脈がある。生きてるぞコイツ。なんだよ折角良い稼ぎになると思ったのに」
「となると、今度は俺たちがこの娘に同情する番だな。落ちてきたんだろ。じゃあもうここで暮らすしかない。上の暮らしとここでの暮らしは天と地ほどの差があるからな、耐えられるかどうか」
微かに目を開けると、自走式の掃除ロボットが二台、地面に倒れた私を覗き込むようにして立っていた。建物に住み込んでゴミ掃除などを請け負っている狐者異達だ。
「……まあともあれ、ゴミじゃないなら俺たちの管轄外だ。じゃあな姉ちゃん、夜盗には気をつけなよ」
後ろ姿を目で追おうと思い、首をもたげようと力を入れたが、全身に激痛が走るのでやめた。なんとか身体をねじらせ、少し時間をかけて壁にもたれかかる。路地裏の一角で呼吸を整えていると、聴き慣れた声が頭上より降る。
「マイカぁ、死んだか?」
視線の先では、遥か上空から美龍がこちらに向かって一直線に舞い降りてきた。
「馬鹿言わないで、この程度で、死ぬものですか。でも骨は折れたみたい……」
「地上何百メートルだ、こりゃ。まさか落ちる日が来るとはなァ」
二人で天を仰ぐ。そこには、空を埋め尽くさんばかりに伸びるビルの群れ。先ほどまで私達が暮らしていた街が、そこには広がっていた。
「居住区域なら落下防止用のネットがあるが、まさか商業区域には未設置だとは知らなかった。クレーム入れなきゃな」
「それも含めてすべて自己責任の街よ、ここは。とはいえ下層に関しては治安も含めて、あんまり良い評判は聞かなかったもの。出来れば来たくは無かったわ」
途端に自身の声が大声に感じられ、息を潜める。路地を抜けた先の通りでは、薄汚れた機械たちが緩慢に動き回っていた。どの機械も感じられる意志が希薄で、ただ目的もなく、漫然と闊歩しているようにも見える。よく目を凝らしてみれば、その中には先ほどの狐者異のように、何かしらの目的を持ち、忙しなく動き回っている個体も存在はした。あれは怪異化しているのだろう。
「なんだか気味が悪い。おいマイカ、俺なら空を飛べる。さっさと上層に戻ろうぜ、ほら立てるか……」
美龍が部分的に実体化する。一瞬の実体化なら大した作業ではないらしいが、持続して実体を保つのはエネルギー消費が激しい行為であるらしく、彼は滅多に実体化しようとしない。だが今回は特別のようだ。私も首肯で返事をすると、痛む胸をかばいながら、なんとか美龍におぶさる。
「全く酷い目に遭ったな。おい帰るぞ」
美龍はゆっくりと上昇していく。落ちていくときは全く気付かなかったが、昇っていきながら上空から見渡すと、眼前に広がっていく下層の生活ぶりを、この目に入れることができた。
そこは、大きなスラム街だった。上層から、風に舞って様々なものが落下していく。それらを拾い集め、選別し、販売し、それによって社会が回っているのだ。ちょうどたった今落下してきた私自身のように。
目に留まる機械はどれも旧型モデルばかり。それも廃棄処分や生産放棄となったものが数多く見受けられる。それらの大半が無秩序に動き回り、かつてプログラミングされた通り、意味もなく同じ行動を繰り返し続けているのだ。それらの殆どが掃除かそれに準ずる用途のロボットだからか、落ちているゴミの類は瞬時に『清掃』されていっている。
「落下したゴミが勝手に消えてったってよりかは、下は下で独立したサイクルが存在していたって訳ね」
「生産の方は上層任せのようだがな。ここは言わば、名前を持たない機械の墓場というわけだ。サイクルと言っても、消費しかできない行き止まりだ」
機械の見た目自体はさほど上層の者たちと変わらない。だが彼らのほとんどには、社会全体から与えられた『名前』が無いのだ。名前が無いということはつまり、社会における役割が存在しないということを意味する。メンテナンス用の機械もいるのだろう、彼らのほとんどは稼働してはいる。だが役割を担う怪異では無い。そこが上層と下層の社会の、根本的な違いであった。
「……当たり前だけどさ、下は下の生活がちゃんとあったんだね。今まで注意を向けたことも無かった」
「そりゃそうだ。お前も服を何着か風に持ってかれたことあっただろ。あれなんかも今頃、誰かの大切な財産になってるって訳だ。ま、拾った相手が怪異であればの話だが」
さておき、と美龍は言葉を区切って話題を変えた。
「さっきマイカを突き飛ばしたヤツ、あいつの顔、お前見たか?」
美龍に掴まる私の指先に、自然に力が籠る。訊かれたくない話題に、身体は敏感に反応していた。
「……見えなかった」
「嘘だな。俺とお前は何年間付き合ってきたと思ってるんだ。誤魔化そうってったってそうはいかない」
「ちょっとだけ見えたわ…………でもきっと見間違えよ、そうに決まってるわ」
「言い訳をするなよマイカ。お前の五感はヒトのそれから大きく強化されてる。眼には自信があるんだろう」
美龍の厳しい追及を受けて、おぶさった私は無言になる。お互い無言のまま飛行を続けていたが、やがて大気の中に雨の気配を嗅ぎ取った美龍は、一旦近くの廃ビルの一室で雨宿りをすることを提案した。ぶっきらぼうになりながらも、私はそれを承諾した。風邪をひくのは御免だ。ちょうど目の前に窓が開いている部屋があり、そこのベランダに着地することにした。ずいぶんと昔に棄てられたアパートのようだった。
二人で屋内に入ると、ちょうど堰を切ったように雨が降り始めた。全ての汚れを洗い流してくれそうな雨の音だけが無機質な部屋の中に反響する。
「雨が降ったのをよく覚えてる」
私はぽつり、と口を開いた。美龍は黙って聞いてくれている。なんとなく、話す気になったのだ。
「貴方と出会う前の日にね、今日みたいな大雨が」
私たちは目を合わせようとはしない。それでも私が語り始めたのは、お互いが今までずっと避けてきた話題だった。私が美龍を食べる前の話。私があれほどまでに飢えて、あの砂浜にいたその経緯を。
私は忌み子だった。否、忌み子にされたのだ。私が生きた時代は、のちの区分における平安時代の中頃。世は末法の時代だと皆が悲観していた頃であった。不作に不漁が続いた私の村は、その村が背負うべき厄を特定の誰かに押し付けることで、コミュニティを存続させようとした。つまり、生贄である。
「はじめはね、私が閉じ込められていた蔵に、兄さんがこっそり食べ物を持ってきてくれたの。でもすぐにバレちゃって、兄さんは処刑された」
「殺されたのか?」
「ううん。でも、村のすぐそばにね、洞穴があったの。こわい神様がすんでるから、子供はもちろん、大人だって近づいちゃダメっていう暗い暗い穴。面白がって探検に行った子供達はみんな帰ってこなかったから、みんな本物のカミサマがいるって怖がって、入り口に建てた祠に、毎日みんなで拝みにいくのが村の風習だった」
「そこに……放り込まれたのか」
そうよ。とマイカは小さく頷く。
「私の閉じ込められていた蔵は高台にあって、明かり取りから、ちょうどその祠が見えるの。お祈りを済ませた兄さんが、大人たちに引きずられて、洞穴の暗闇に押し込まれるところを、私はこの目で見た」
「そのあと順番に、私の家族は全員あの洞穴に入れられた。忌み子は殺す。忌み子を産んだ家も、神への供物に捧げる、ってことね」
兄だけではない。父も母も、自分と瓜二つだった妹さえも暗がりの中に吸い込まれ、そして二度と出てこなかった。
「でもね。縁者は途絶え、飢えに飢え、『死』が目前に迫るのを感じていたある日、奇跡が起こったのよ」
蔵に、雷が落ちたのだ。
高台にあったからだろうか。万一逃げ出したとき、すぐに見つけ出せるよう、あたりの木々をほとんど切り倒していたからだろうか。
木製の蔵には、もちろんすぐに火が回った。だが幸運はまだ続いた。叩きつけるように降っていた豪雨のおかげもあってか、私は焼死することなく、蔵から出ることが出来たのだ。
だが私には、もう帰るべき家は無かった。
「村にはもういられない。どうせなら海を見て死にたいなって思ってさ、ちょうど夜明けだったから、日の昇る光景でも見て死んで終おうかしらなんて考えて、そうしたら……」
見つけたのだ。将来相棒となる、お気楽な人魚の死体を。
「お前落ちる時、『兄さん』って言ってたよな。ありゃあ……」
私はそこで、初めて美龍の方を見た。彼はいつもと変わらない表情で、まっすぐと私を見ていた。彼はあの時の私のか細い声をちゃんと聞いていたのだ。彼には屋上にいた相手が誰なのか、私の言葉から、薄々勘付いていたということだ。
「突き飛ばされる瞬間にね、ちらっとだけだけど顔が見えたの。もう何千年も経ってるけど、あの顔は間違いなく兄さんだった。それに、声だってそっくりだった。私が驚きで固まっちゃうくらいには記憶の通り」
「そっくりさんって可能性はないのか? 例えば……『全く同じ姿をした怪異』ってことなら、ドッペルゲンガーって可能性も」
「あり得ないわ。いつから死んだはずの兄さんが、裏社会の殺害リストに入れられているのよ」
ドッペルゲンガーとは、自分と瓜二つの姿をした怪異である。発祥である西洋だけでなく、ここ日本でも数々の目撃例が報告されていた。
現在では、光学迷彩と空間投影の機能を持った二足歩行のアンドロイドたちが、ドッペルゲンガーの名を冠している。本来は遠隔地とのコミュニケーションを想定し、特定の外見を投影する介護用として開発されたものだったが、ハッキングされたものが裏社会に多く出回り、主に暗殺用などで再運用されているのだ。暗殺対象の姿を投影し、自分と同じ容姿のものを執拗に追い回すその姿はまさしく、『出会ったら死ぬもう一人の自分』そのものだろう。ともかく……
「何千年も前に死んだはずの兄さんが裏社会で目をつけられている可能性よりは、本人がまだ生きているだけ可能性の方がまだ大きい」
かつて自分をかばってくれた兄が、よもや自分を殺すはずがないという訳か……。
美龍の呟きに、私は無言をもって返事とした。
「だが……一つ忠告をしておく。たとえあの男がお前の兄でも、たとえ今後なにが起こっても、故郷への憧憬に心の奥まで支配されるなよ。何千年間も押し殺してきた感情だ。肥大した感情に呑み込まれる人間ほど、見ていて愚かなものはないからな」
あの男は間違いなく、お前を墜落死させようとしたんだから。
美龍は最後まで言い切ることは無かったが、その意図は十分伝わっていた。再び、二人の間に無言の時間が訪れる。
「美龍はさ、どうしてあの砂浜に打ち上げられていたの?」
今度は美龍があの日の記憶を掘り返す番だ、と言わんばかりに、私は美龍に話を振った。
「さあな。死ぬ直前の記憶はすっぽり抜け落ちてる」
「誤魔化してるでしょ。私が折角打ち明けたんだから、貴方もちゃんと言いなさいよ」
「無理なものは無理だ。頭でも打てば思い出すかもしれんが、生憎俺は幽霊なもんで」
「「実体化すれば良いのでは」」
直後、私と美龍の声が重なる。
「……なんて言わないわよ。疲れちゃうんでしょ、あれ」
ここら辺で引き際だろう。私はそこで諦めて、降参と言わんばかりに手をひらひらさせる。別に相棒の死の真相を知ったところで、私の身がどうなるものでも無いのだ。お互い気が合った仲間であると言う事実だけで、今は充分だと判断したに過ぎない。
「雨も止んだわ。私の傷もだいぶ良くなったし、そろそろ行きますか」
マイカはもう一度美龍の肩に掴まる。半透明の人魚は雨上がりの湿った空気を吸い込みながら、ただまっすぐ天空を目指して、どんどんと上昇していった。
「警告、警告、規定高度を上回る飛行物体を確認。輪廻脱走者を感知しました。警備システム《三頭犬》を起動します」
突如、私の目に赤いスポットライトが当たった。思わず顔を背ける。片手で光を遮って辺りを見渡す。同時に流れた無機質な警告音が、周辺のビルに設置されたスピーカーから鳴り響いている。
「ケルベロスだと……入る者は拒まず出る者を許さずってか!?」
驚くことに、警備システムが生きていたのだ。しかも伝承と機能のベストマッチ。ぴったりなネーミングである。極限状態から妙に納得しながらも周りを見渡せば、三方向から小型の誘導ミサイルが、こちらに向かって飛んできていた。
「やばいやばい美龍、避けなきゃ落とされるわ」
「お前なら死にはしない……筈だけど一応」
彼は急旋回して下降する。ミサイルは着弾の寸前で目標を見失い、互いに激突した。
「きゃっ……」
凄まじい爆風と熱気が包み込む。
美龍も空中での移動制御を失い、二人で再び、揃って下層へと落下していった。身体は近くにあった廃ビルの一室へと吹き飛ばされ、窓ガラスを突き破って転がりこんだ。埃をかぶった家具をなぎ倒し、そこでようやく止まった。
「痛たたたた……美龍、大丈夫?」
「俺は一度死んでるから痛くはない……があれだな。爆風で身体の制御が出来なくなるってのは、結構恐怖感に煽られる」
「耐火性能の高い服で良かったわ。危うく全身裸になるところだった」
私はお気に入りの帽子に付いた埃を払うとかぶり直し、スーツケースの持ち手を握り直す。これらを紛失しなかったのは奇跡とさえ言えるだろう。
「おねえちゃんたち……誰?」
声が聞こえる。私はハッとして顔を上げた。美龍も声の主に気付いたようだ。こればかりは驚いて目を見開いている。
部屋には先客がいたのだ。しかし彼は、そして私は、それ自体に驚いたのではない。
私の目の前には一人の少女が立っていた。そしてその姿は、まごうことなき生身の人間であった。