#3
現代の九龍城とも言うべき巨大スラム、トーキョーを一望できる唯一の建物が丸ノ内ビルである。
土地に建物が密集したこの地では、居住者の増加に対応するべく、今でも多くのビルが増築を繰り返している。建築基準などをまるで無視し、背比べのように上へ上へ、または地下へ地下へと居住区域を増やしていった結果、最も天高くまで辿り着いたのが丸ノ内ビルであった。
現在、その高さは500メートルにも及んでいるらしい。いつ倒壊してもおかしくない、虚構の城。
「マイカ……舞、夏。そういえばお前、そんな漢字だったな」
だが手紙の文面の中で、最も重要なのは丸ノ内ビルではないのだ。今や個体を識別する以外に意味を持たない筈の名前。知る者は皆死んだ筈の私の名前が、ここに書かれているのが問題なのだ。
「これは私宛ての手紙で間違いないわ。でも一体……」
一体誰が。続く言葉は省略された。何度見返しても、裏には文字一つ書かれていない。
「……気味が悪いな。俺はこの手紙、無視した方が良いと思う」
美龍は珍しく私の目をはっきりと見つめて、一言一言確かめるように呟いた。
「絶命の予言だってある。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を過ごすべきだ」
私は彼から目を逸らし、手紙に刻まれた文字に目を滑らせていた。舞夏、舞夏、舞夏、舞夏、舞夏。何千年も前、私を私の名で呼んだ様々な人の声が、頭の中で少しノイズ混じりに再生される。母の声はどんな風だったか。父の声は。友人の声は。
だがしかし、どれだけ記憶を研ぎ澄ましても、声にかかる雑音が晴れることはなかった。私の耳の中で、母や父や友人達は、もう完全に死んでいるのだ。
でも、驚いたことに、兄の声だけは鮮明に覚えていた。彼は慈愛に満ちた目で、私の頭を撫でてよくこう言ったのを思い出す。
『舞夏はいつも元気いっぱいだから、夏の妖精様の生まれ変わりだな』
『ようせいさま……?』
ナツのようせいさま。まだ幼かった私は、その呼び名を非常に気に入っていた。春の暖かな陽射しでぼんやりと目を覚まし、夏に朗らかに舞い、秋になれば紅葉の布団で眠りに入って、また春が訪れるのを待つ。なんと魅力的で、詩的で美しい世界だろうか。私はその言葉を聞きたくて、彼の側でいつもニコニコしていた。
突如、回想の情景が切り替わる。激しい雷雨の中、ずぶ濡れの兄が突き飛ばされ、薄暗い洞窟の奥へ奥へと追いやられていく。兄は泥だらけになった腕を伸ばすが、高台から見つめる私はその手を掴めない。私はここに。この肌寒い蔵に、縛り付けられている−−−−−−。
「マイカ、おーいマイカ」
美龍が私を呼ぶ声で我に返った。蓋をした筈の記憶を頭から振り払うと、どこか心配そうな表情を浮かべ、私を見つめる半透明の美青年が目に入った。美龍の顔の中に、つい兄の面影を探してしまう私がいた。
「ぼんやりするなんてお前らしくないぞ。楽観主義が俺とお前の数少ない共通点だ」
「……そうね」
私は自分の頭を軽く叩いた。脳内を占拠していた弱気をなんとか振り払う。
マイカ。
マイカ。そう私を呼ぶ美龍の声は、いつもと変わらない。彼の言う通り、この街の私はマイカである。お気楽な人魚を引き連れた、これまたお気楽なよろず屋のヒト。舞夏としての私とは、忌まわしい記憶の詰まった故郷の村と共に、とうの昔に決別したのだ。
でも、この世界のどこか片隅にでも、私を私の名で呼んでくれる場所があるならば。等身大の私を見てくれる人がいるなら、きっとそれは、私を舞夏と呼んでくれる人なのかもしれない。
「ねぇ美龍…………私、明日ここに行こうと思う」
「……マイカ、お前……」
「このタイミングなんだもの。美龍の言う通り、この差出人と死の予言はきっと無関係じゃない」
「だったらッ」
「だからこそよ。だからこそ、行かなきゃ。私は自分の意志で貴方を食べて不死になった。もし私が本当に死ぬなら、最期まで自分の人生に責任を持ちたい」
私が目を逸らしているのに気付いた彼は、何か言いたげな顔をしていたが、やがて納得したように目を瞑った。
**
今朝は一段と風が強い。キャペリンが飛ばないようしっかりと手で押さえつけながら、私は歩道橋の上を歩いていた。昨晩百神から貰ったスーツケースを引きずり、キャスターが音もなく滑る。持ち上げて運ぶには大きいため階段を避け、結果として少し回り道になっているが、もちろん目的地は丸ノ内ビルディング、通称丸ビルの最上階だ。
「具体的な時間は書いていないんだ。そんなに焦る必要も無いだろう」
美龍はまだ眠そうにあくびをしている。私は昨晩、全く寝付けなかったというのに。
「早いに越したことはないでしょ。それに……」
それに、今の私はこの好奇心を抑えられないのだ。はるか昔に捨てた私の名前を送りつけてきたのは誰なのか。どうやって知ったのか。今までどこにいて、なぜ今になって送ってきたのか。
永遠の生を苦痛に感じたことはないが、退屈に感じたことなら多々ある。私の周りにいるのは、ある意味では死を超越した妖怪たちだ。彼らとの生活に不満があるわけではないが、決まったサイクルをひたすら回し続けるだけのこの生活に、少しばかり退屈していたのだ。人間の社会は移ろいやすいが、役割が明確に振り分けられている妖怪の社会は単調だ。
だからこそ、老靴から死を告げられた時、実は私は、少しだけ高揚していたのだ。全身を駆け巡る予感に、一種の期待ともいうべき興奮を見出していた。
ただ、死にたいわけでは決してない。その興奮は死への恐怖の裏返し。憂いはふとした瞬間に脳を占拠し、私の心臓の拍動を容赦なく速めるのだ。
「……その好奇心。たとえお前が猫又でも火車でも、容易く屠る狂犬だぞ」
彼の忠告に少しドキッとしたが、結局返事は返さぬまま、私は無言で歩調を少し速めた。猫又も火車も猫の妖怪だ。私は猫ではない。彼らよりは、たぶんもう少し慎重に生きている。
**
私が屋上に着いたのは、朝の六時を少し過ぎたあたり。コンクリート製の床は小綺麗で、空調設備や避雷針があることさえ除けば、ただのだだっ広い空間だった。どうやら今は、増築工事は為されていないようだ。足元に少し砂が残っているところを見ると、今朝の清掃はまだのようだ。
それにしても、天候に恵まれたのは幸運だった。高度が高いこともあってか、遮られることのない太陽が、燦々と降り注いで私の顔に帽子で影を作る。風は相変わらず随分と強いが、まるで心に残ったほんの少しの不安を吹き飛ばしてくれる気がして心地は良かった。
「周囲に人影は無い。どうやら俺たちの方が早かったみたいだ」
少し先を行っていた美龍が戻ってきて状況を伝えてくれた。私たち以外には、人間も妖怪もいないようだ。私は張り詰めていた緊張が少しだけ緩み、ほぅ、と息を吐き出した。
屋上に柵は無い。そもそも設ける必要がないからだ。自殺志願者の飛び降りを気にする民衆はもういないからだ。死にたければ死ねばいい。混沌という名の新たな秩序は、私たちに自由を強制したのだ。
端に立って下を覗き込んでいると、美龍がおもむろに話しかけてきた。
「なぁマイカ。この街、お前は綺麗だと思うか?」
言葉を受け、言われるがままに顔を上げる。見渡す限り、乱雑に生えた建物の森が見えた。その建物一つ一つに妖怪たちの奇妙な生活があり、それぞれにドラマがある。統制された管理社会も嫌いではないが、私はこういう雑多さに愛着を持っていた。かつての人間の社会は不明瞭さを悪とみなしていたが、曖昧さの中にこそ生まれる賑やかさにも、若干の心地よさがあるのも事実だ。
俺は少し苦手だが、と美龍は言った。
「俺の生きていた頃はもう少し、いや随分とさっぱりしていたからな。妖怪の数も少なかったし、複雑に噛み合う歯車の社会ってよりかは、空回りして海流を作る社会だった」
そっちの方が気楽だった、と締めくくる彼の声色は少し寂しそうで、私ははっとして彼の方を振り返った。美龍の表情はいつもと変わらないようにも見えたが、眼下の街に注がれた視線は、そこにかつてあった田園風景を見ていたようにも思えた。夜の闇の向こうに怪異を見出していた、遠い遠い過去を。
その時、海は彼の王国だった。でもここは海沿いの街だというのに、ビルに邪魔されて海は見えない。
「……それにしても、海流とは貴方らしい喩えね」
海流。かつての妖怪とは、まさしく海流のようなものだった。直接姿は見えず、だがしかし周りに影響を及ぼす。時にモノを運び、時に恵みをもたらし、そして時に壊す。
美龍−−−−−−人魚もそのうちの一人なのだ。海を愛し、海に愛された魔性。科学技術ではなく、人々の心の隙間を依り代に産み落とされた、海のヒト。
「今の妖怪も『妖怪』であることには変わりないが、俺としてはあまり親近感は湧かん。嫌いというわけじゃ無いが……」
完全に同種では無い。その点において、彼は生き残った最古で最後の妖怪とも言えるだろう。私と同じ、独りぼっち。
否、百神がいるだけ私の方がマシか。改めて街並みに視線を戻す。今日も一日、この街は終末の続きを歩んでいくのだ。
−−−−−−−−−−−ザッ。
突如、背後から砂利を踏む音が聞こえた。美龍は物体にも干渉できるが、彼は宙に浮いている。私は微動だにしていない。つまり、その足音の主は第三者−−−−−−−。
「舞夏」
私が捨てた私の名が、背後から聞こえる。識別番号としての「マイカ」ではない。かつて真人間だった頃の私の名前が、数百年ぶりに他人の喉を通じて発せられた。
「誰だお前ッ……!」
美龍が振り返り、威嚇する。だが私の首は動かない。恐怖よりも何よりも、驚きが思考を支配していたからだ。私の耳に飛び込んできたその言葉は、いやに懐かしく脳内に響き渡った。その声色、その言葉は−−−−−−−。
次の瞬間、背中に強い衝撃を感じる。別の事に気を取られていたこともあってか、屋上の淵に立つ私は簡単にバランスを崩してしまった。時間の流れが、極端に遅く感じられる。
腕を振ってバランスを取ろうとするも間に合わない。咄嗟に美龍が私に手を伸ばしたが、その掌を、私は掴み損ねてしまう。重心がぶれ、私の体は完全にバランスを崩した。
時間は無慈悲に、でも確実に動き出す。その結果は俯瞰からの落下。太陽の熱で蝋が溶け、青銅の翼が剥がれたイカロスを思い出す。常人なら即死するであろう高さ。不死である私なら大丈夫な筈だ。
その時、風に煽られ回転する私の全身を、はっきりとした死への恐怖が駆け巡った。老靴の予言はまさか、この墜落のことでは無いだろうか。死なないはずの私は、何かの間違いで、ここで死んでしまうのではないだろうか。顔から、どんどんと血の気が引いていく。
終末の街の、その底へ。
なす術もなく、私はただ堕ちた。その姿はさながら、大空で翼を失った鳥のようだった。
**
地表に叩きつけられる。鋭い衝撃が全身を駆け巡った。私は朦朧としながらも、それでも腕を真っ直ぐに伸ばす。届かんと願うのは、つい先ほどまで私がいたビル、その屋上。
「兄……さん」
自分の声すら遠のいていく。意識が、途絶える。