#2
「あの爺さんの予言が外れたことなんて、今まであったか?」
帰宅後。家事労働に戻った私に、美龍が話しかける。
「私も記憶する限り、無いわ。というか、そもそも外れない妖怪でしょ、老靴は」
食器を洗いながら、声と指先が震えているのは冷たい水道水のせいだと自分に言い聞かせる。今まで何度も死にそうな目に会ってきたじゃないか。いまさら予言一つ言い渡されたくらいで、何を狼狽える必要があるのだろうか。何度も頭の中で、無心に唱え続ける。
だが心のどこかでは、今回ばかりは例外だと判っていた。老靴が死相を視る能力は本物であると、私は誰よりも痛感しているからだ。
彼は『靴を食べる』消費者としてだけではなく、『死期を告げる』一種の生産者として、この社会のサイクルの一部を担っている。月に一人か二人かの頻度で、老靴は、この地区に住む死が近い者の名を私に告げる。それを私は伝令し、告げられた者は細々と終活を始めるのだ。その行為を私は幾度となく行ってきた。この街の、死の伝令役として。
彼らがその時どれほど健康そうに見えても、その後すぐに何らかの要因で死を迎え、予言は実現されてしまう。彼の視る死は不可避であり、かつ誰がどうこう出来る問題ではない。
「ねぇ、美龍……」
水道の水を止め、振り返る。宙に浮いてこちらを見つめる相棒に、私はこれまで幾度となく投げかけてきた問いを繰り返した。
「私、本当に不死身なんだよね」
またか、と呆れたように美龍が呟く声が、今度は珍しく、不快に耳にへばりついた。
「八百比丘尼伝説、もう一度最初から話してやろうか?」
「それは結構。耳にタコができるほど聞いたわ」
八百比丘尼伝説とは、人魚の肉を食べ、八百年生きたと伝えられる尼僧にまつわる伝説だ。人魚の肉の不老不死ばなしの定番で、私の故郷にも似たような話が伝わっているほどポピュラーでもある。
故郷。忌まわしい記憶の詰まった土地である。あそこから逃げ出した私は、今ではかの比丘尼を遥かに超え、八千歳を過ぎようかという年齢になってしまった。八百と八千では、文字通り桁が違う。
「そう考えると、八百比丘尼伝説じゃなくてマイカ伝説に改名した方が、ご利益が上がる気もするよね人魚の肉」
効能は八百年の騒ぎではなかったのだ。
「却下だ。そもそもそのマイカ伝説とやら、語り継ぐヒトが居ないだろ。語り手あっての伝承だ。鶏より先に卵が存在してどうする」
それに不老不死の証明なんて、と面倒そうに美龍は続ける。
「これまで何度煮られても焼かれても、斬られても撃たれても刺されても殴られてもお前は死ななかったじゃないか。今更何を怖がる」
西洋を旅した時には、魔女の烙印を押され火刑に処されたことだってある。世の中想定し得るほとんど全ての死の淵に立った自負はあるけど、その度になんとか生き延びてきた。とはいえ−−−−−−
「今回は……別よ。老靴の予言は、逆説的に死を確約するわ」
対象の死期が近いから、老靴は死の予言を下すわけではない。むしろ、彼が死を視てしまうことで、死はその者に歩み寄ると言い換えても良い。
「……不老不死だって逆説的に死を回避するぞ。なんといっても、不死は呪いだからな」
たしかに美龍の言う通りでもある。死なない者が不老不死の称号を得る訳ではない。不死になったからこそ、その者は死ぬことはないのだ。物事には順序がある。
だがそれを上回る呪いであるならともすれば……と、最後にいわくありげに付け足した彼の言葉が、嫌に耳にへばりついた。
「誰かが不老不死の呪を上回る怨嗟を込めて、お前にまじないをかけたのかもな」
「それは……非科学的よ」
そう、迷信の類だ。強い感情がカタチを得て相手に害をなすなど、非科学的にも程がある。私は美龍の言葉を一蹴し、また皿洗いに戻った。
「マイカおま……それ……仮にも本物の妖怪の肉を食った人の台詞じゃ無え」
却説、呪とは−−−−−−それは一般には、他人に害なす霊的な行為とされる。だが科学技術が進んだ今その名は、極めて広く流通している護身用品に付与されている。
生物、非生物を問わず中核を為す感覚−−−−−−特に聴覚に作用する護身アイテムの需要は大きく、結果種類も多い。超高周波の音波送信によるサブリミナル効果や、相手の不快感を煽るインフラサウンドやホワイトノイズの人工的な送信など、科学的にもある程度理にかなった不審者の撃退効果が望めるのだ。
だが現在では、生産ラインのストップに伴い多くが製造中止であり、流通するほとんどは模造品など胡散臭いものばかり。その効力に信憑性は極めて薄いというところまで、古代における呪術と同じである。そして、中にはごくわずか、本当に効力を発揮するものも少なからず存在しているということも……。
もし私の死の予言が呪い由来だとすれば、思い当たる節はいくらでもある。私は八方美人が売りの仲介業者ではあるが、数少ないヒトであるということが災いし、ヒトを喰らう妖怪たちから貴重な食糧として執拗に狙われているのも、もちろんその一つだ。
「マイカは俺の肉を喰ったんだ。喰われる覚悟ぐらいしておくんだな」
「あんた宿主の一大事かもしれないって時に、なに呑気なこと言ってるのよ……」
殺す者は殺される覚悟を持つべき云々の話と同じ括りにされては堪らない。こちらは極限状態で美龍を食したのだ。人喰い妖怪が極限状態ならまだしも、嗜好品として喰われるのは納得がいかない。
「まぁ今焦ってもしょうがないサ。ひとまず戸締りと不審者には気をつけて−−−−−−」
すると、言ったそばから訪問者用のベルがけたたましく鳴り響き、美龍の言葉は途中で遮られた。私は表情を固めたままフェイスタオルで手についた水気を拭うと、足音を立てないようにゆっくりとキッチンを離れ、ドアスコープに顔を近づける。美龍でさえも息を潜め、薄い扉の向こう側に神経を集中させている。
スコープを覗き込むと、そこには不可解な光景が広がっていた。視界が真っ黒に塗り潰されて、何も見えないのだ。何かが、ドアスコープに覆い被さっている。
誰が。いや、何が。私は扉に耳を張り付け、微かな音も聞き漏らすまいと息を殺す。
だが果たして、扉の向こうからは、意外な知人の声がした。
「−−−−−−−やァマイカちゃん、死ぬんだって? 大変だねェ」
美龍に負けず劣らずお気楽な男性の声。聞き覚えのあるその声色は、今朝も出会った、付喪神商人の百神に違いない。だが美龍も、そして私も、緊迫した表情を崩そうとはしない。
(……おいマイカ、居留守を使うぞ)
美龍が声を潜めて、扉から視線を外す。
(声帯変換など珍しい話じゃない。それに、たとえ相手が本物の百神だとしても、また面倒な話に付き合う羽目になるのは御免だ)
「厄介者扱いとは心外だよ美龍君。さておきキミの発声原理は特殊だから、いくら声量を抑えても、特注の音叉が共鳴するンだ。僕には居留守は通じない」
なるほど、たしかに扉の向こうから、僅かにきぃぃと金属音が聞こえる。美龍は小さく舌打ちをすると、苛立たしげに声を上げた。
「本物だ。バレちゃ仕方ない、通すか」
私は小さく頷いて、扉の鍵を外す。ゆっくりとドアノブを回して開け放つと、そこにはやはり、百神が立っていた。ドアスコープに映っていたのは彼の顔にかかった布だったようだ。距離が近い。
「用心深いのは良いことだよ。なにせキミは、これまで自分が独り身の女性であるということに対して警戒心が無さすぎたからね」
俺もいるぞー、と後ろからぶっきらぼうな声が聞こえたが、無視して百神に非礼を詫びる。距離が近い。
「疑ってごめんなさい」
「いいや謝ることじゃない。用心は、しすぎるということはないからね。特に僕たち、ヒトにとっては」
彼の言葉に私は小さく頷き、気を取り直して中に招き入れた。
**
「必死と不死どちらが優先されるか、か。難しい議題だね」
相反する二条件の同時成立。それはまさに、矛盾の逸話そのものである。どんな盾をも突き通す矛と、どんな矛も通さない盾。必ず死に至らしめる呪いと、どんな死を乗り越える生命力。どちらにせよ、ヒトの身には耐え難い呪いである。
「百神はどう思う?」
ソファに座り込んだ百神には直接視線を向けずに、私はティーカップに紅茶を注ぎながら意見を請うた。美龍はといえば、何をするわけでもなく、ふてくされたのかキッチンの上に浮かんでいる。
「古くから卓上遊戯には、受動優先の法則というものがあってね」
百神は甘党である。今となっては貴重品となった砂糖の塊を、情報料の代わりにいくつも琥珀色の液体に落とすと、彼はゆっくりとかき混ぜながら応えた。私たちはお互いこの街の住人を相手に商売しているため、こうやって情報を売り買いし合う。
「……つまり先例に基けば、不死が優ると考えて然るべきだ。とはいえどんな規則にも例外は存在する以上、今回がそうでないという確たる保証は無いのも事実。それはキミも知っている通り、老靴の死の予言は絶対とされているからだ」
そこで一旦口を閉じると、彼は黙って紅茶をすすった。百神はたとえ食事中でも、目元から下を覆う白布を外さない。
「その不死が、たとえ機械改造由来でも?」
私は百神の首元に、意味ありげな視線を向ける。白い布の奥に見え隠れする喉仏。鈍い金属光沢を、白く透き通った肌の中に見つけた。
「僕の話は……どうだって良いじゃないか」
彼は私の視線に気付くと、誤魔化すように首元を押さえる。
百神は、改造人間と呼ばれるカテゴリに属する者である。ヒトをベースに生体組織を機械部位に置き換え、老衰や病気を克服したとされる者たちだ。かつてヒトの多くはこの手術を受け、来るべき終末へ備えた。
だがしかし、絶対安全と謳われていた機械化にも多くの副作用もあった事が発覚するのは、世界人口のうちおよそ4分の1が手術を受けた後だった。自壊を誘発するコンピュータウイルス〈黒死病〉の蔓延や、搭載された補助AIによる神経系統の『乗っ取り』などによって、ほとんどが廃棄処分となったのだ。記憶や自我を保つ者は、どんどんと数を減らしていった。
百神はその中の、数少ない生き残りの一人である。様々なウイルスを乗り越え、とうとう自分の機械パーツを生体脳の管理下に置くことに成功した彼は、部品交換さえ怠らなければ理論上、死ぬことは無い。
「僕だって、雷に撃たれればきっと死を迎えるさ。一応、最低限の記憶情報はバックアップをとってあるけど、それも消去されちゃおしまいだ」
そこまで来ると、もう機械が本体みたいなモンだよな、と皮肉交じりに美龍が呟く。百神はそんな美龍をじろりと睨むと、こほん、と咳を立てて続けた。
「どこかの誰かと違って、自由に動けるのは便利だけどね。四六時中淑女にくっついていないといけないなんて、デリカシーの欠片も無い」
「まぁまぁまぁまぁまぁ、美龍のおかげで私はここにいるわけでもあるし……」
二人の間に口論の火種を見つけた私は慌てて、間に入って取り持つ。もちろんお互い本気で喧嘩しようとしているわけではないと判ってはいるが、なにかと喧嘩したがる彼らを放っておくわけにもいかない。
「美龍も口が悪い」
「九割が人工なのは本当だろう」
「もう、しつこい」
知人とはいえ、彼は来客である。相応の敬意を持って接するのが礼儀だろう。私がたしなめると、ちぇッと口を尖らせ、減らず口の幽霊は口を閉じた。その様子を見て、百神は空になったカップをソーサーに置く。かちゃり、と陶器の声が響いた。
「……幸いにして、一割は人間性が残存しているのでね」
「ごめんなさいね百神。まったく、美龍は大人気ないんだから……」
「そこが彼の良いところでもあるのだけど。まわりくどい論理を依り代にして、不安定に稼働する妖怪ばかりのこのご時世だ。歯に衣着せぬ物言いは嫌いじゃない」
そしてそれこそが、彼が他の妖怪と一線を画す点だと思うけどね。
百神はそう締めくくると、手元のスーツケースを私の方に転がした。水浅葱色が目を惹く、大型のトロリーバッグである。ボディの真ん中には小さな円形の窓が付いている。
「これが今日ここを訪れた理由だ。もしかしたら、キミにかけられた呪に対して、なにか僕にできることがあるかもしれないと思ってね。本当に身の危険を感じた時に使うと良い」
握ったキャリーハンドルは氷のように冷たい。鮮やかな色合いとは対照的に、その無機質さが、どこか棺桶を連想させる箱。
「否、違うよマイカちゃん。これは箱というより、むしろ匣だ」
百神は深く腰掛け直すと、自分に言い聞かせるように繰り返した。私を見つめる黒の瞳が、キラキラと輝いている。彼の中でスイッチが入った合図だ。
「通常僕たちは、箱を単なる荷物を入れる籠として使う。なにかをどこかへ運ぶための置き場所として、一時的に箱に入れる。それに対して、中に物を入れて保管する用途で用いる匣は違う。そう、匣だ。この密閉された幾何学の空間は、安寧と平穏をもたらしてくれる。それは閉塞感からではなく、母の子宮に通ずる安心感ゆえの停滞。生物だって美しい数式の上に成り立っている以上、胎内への回帰はヒトの根源的な到達目標とさえ言い切っても良いだろう。匣は物を入れる為の道具であり、物を包み込む新たな世界そのものでもあるのさ。さしずめこの匣は、所有者であるキミを取り巻く新たな世界というわけだ……」
「……ほら始まった」
それみたことかと美龍がじとっとした目線をこちらに向け、深いため息をついた。
「お前が責任取れよ」
百神はいつもは寡黙だが、商売道具について話す時に限り、多少の論理の飛躍を無視して持論を展開する悪い癖があるのだ。長い時には1時間にも及ぶ彼の演説の聞き役は、結局いつも私や美龍が担う事になる。それもよろず屋の仕事と言わんばかりに。
彼の話はいつも生命倫理に帰着する。美龍は只の浪漫主義者だと切り棄てるが、それはおそらく、私たち元真人間が失った人肌への恋しさの裏返しなのだ……と私は勝手に思っている。
「……わかってるわよ美龍」
私はふぅ、と小さく息を吐き、未だ目を瞑り誰へとなく話し続けている百神に声をかけた。
「あー、百神?」
「だからこそ匣はヒトだけでなく妖怪たちの生活に…………ッと。なんだいマイカちゃん、質問?」
「……ありがと。このスーツケースは大事にするね」
話を早く切り上げて欲しい半分、本当に感謝の意半分だった。百神は少し意表を突かれたような顔をしていたが、やがてゆっくりと、満足げに頷いた。
「その通りだ。有効に使ってくれ給え。耐久性も抜群だ。君が手から離さない限り、これが壊れることは無いと断言しよう」
彼はわざとっぽく私と美龍にウインクすると、思い出したようにポケットから封筒を取り出した。
「ああ、それともう一つ。僕の元に届いていた手紙だが、これはおそらく君宛てなんじゃないかと思ってね」
彼が差し出したのは茶封筒だった。表にも裏にも、差出人や宛名は書かれていない。
「語り手が変われば民話伝承は細やかに変化する。いわば、一種の生き物にも近いということを覚えておくべきだ。妖怪による不死という、伝説を基盤に生きているキミは特にね」
封筒を私に手渡すと、彼はその言葉を最後の置き土産にして、颯爽と帰っていった。先ほどまで賑やかだった部屋が、一瞬にして元の静けさを取り戻す。
「……なんて書いてあったんだ?」
美龍がすぅっと近づいて来て、私から紙を取り上げた。私は抵抗する事なく、彼にも紙面を見せた。
「真人間だった頃の、私の残滓よ」
茶封筒の中には、一枚の紙が入っていた。そこに癖のある手書きで綴られていたのは、忘れかけていた私の過去。もう誰も覚えていない筈の、数少ない私の人間性。思い出すまいと蓋をしていた記憶が溢れ出すには、まだ少し早い気もする。でも、それでも−−−−−−。
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『舞夏へ。
明朝、丸ノ内ビルディング最屋上に来てくれ』