#1
肉を、喰った。
その時、その肉が一体何なのかを考えようともしなかった事が、私の人生最大の過ちとなった。ただいつもは死骸を啄んでいる海鳥達が、それに限って近寄らないことには少しばかり疑問を持ちながら、それでも私の中で飢餓感が勝ったのだ。
浜辺に打ち上げられている以上、魚か何かだろう。もしかしたら鯨の子供かもしれないが、ともかく寄生虫には当たらないようにと願いながら、念入りに噛んだ記憶がある。
砂浜に横たわったそれは、私が見つけた時には既に、頭を失くしていた。対照的に首から下は比較的綺麗で、だからこそ食そうと思い至ったのだ。身体はすらっとしていて、腕など特に細く、五本の指も華奢。
腕。
そう、あの時私は気付くべきだったのだ。あの死骸には間違いなく、指があり、腕があった。魚のようでいて、その節々にヒトのような特徴を兼ね備えていたのだ。常人なら直ぐに気付いただろう。しかし何度も繰り返すが、私は極限状態だったのだ。注意力は散漫だった。
肉は少し淡白な味で、ほんの少し海の香りがした。
私が人魚の肉を喰ったのは、こういう経緯だ。
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「なぁマイカ、海行こう」
呼び声を無視し、私は一心に、台所に溜まった食器を洗っていた。ずぼらな性格が災いしてか、一人分の皿は塔のように積み重なっている。水が冷たい。自慢のグレー髪は短めなわりに、こういう時には邪魔である。もともとは黒髪だったが、いつだったかに思い付きで染めて、それ以降なんとなく戻していない。
「マイカ、なァ聞いてる?」
「嫌よ。冬の海になんて絶対行きたくないし、今月はまだ仕事が残ってるわ」
私はため息混じりに水を切り、食器棚の戸を開ける。背中から、そうは言ってもサと不服そうな彼の声が聞こえた。
「泳がぬ人魚はただのヒトだぞ」
彼はその半透明の中性的な顔を不服そうに歪めながら、空中でくるりと回転し、尻尾をぱたぱたと振った。そう、彼とは人ではない。更に言うなれば、生きてすらいない。彼は、人魚の霊なのだ。
偶然とはいえ、私は人魚の肉を食した。それによって私の身体には、二つの変化が生じた。一つは地元に古くから伝わる昔話のように、肉体の老いが止まったことだ。
周りには大層気味悪がられたが、十八という若さを保てることは、なにかと都合が良かった。私の過去を知る者は今や皆死んだし、新しい人生を切り出すには十分だったのだ。
二つめが、彼である。肉を食べた直後、食い荒らした死体から、鼻筋の通った美青年の顔が、水面から顔を出すように浮かび上がったのだ。私も自分の容姿にはある程度自信があったが、こちらを見つめる彼は、遥かに美形だった。
驚くべき事はまだ起こった。続いてぬるりと出てきた首から下にはなんと、先ほどまで私が貪っていた、腕の生えた魚の身体がくっついていたのだ。
人魚だ。私がその事実に気付き、宙に浮かび上がったその姿に見惚れていると、それは興味深げに私の顔をじっと見つめ、やがてこう口を開いた。
『こんにちは嬢ちゃん。キミは肉と一緒に、俺の魂まで喰らったようだね。半ば強引だが、新しい魂の器としてこれからよろしく。俺は−−−−』
幸い彼は、死体を食い荒らした私を呪うこともなく、私の魂は彼に押し出されることなく、共存するに至った。偉い学者様の話によると、害のない憑き物の一種だとかなんとか。ともかく結果として、彼は私のそばをふらふらと漂う幽霊となったのだ。
私たち自身も、未だに仕組みを理解しているわけではない。私はため息をつくと、不思議な因縁で結ばれた彼の名を呼んだ。皿洗いの残りは、帰ってからだ。
「美龍、仕事行くよ」
美しい龍と書いて、メイロン。それが彼の名前である。
私はオリーブ色のトレンチコートをきつく体に巻きつけ、今や愛用の品となった拾い物のキャペリンを被りこむ。扉を開けるとすぐに、冷たい空気が肺に満ちた。
**
私たちの住まいは、かつてトーキョーと呼ばれた地に作られたスラムの一画にある。林立する高層ビル同士は無数の連絡橋と階段で結ばれ、違法増築を繰り返した部屋一つ一つには、私のように複雑な事情を抱えた者たちが多く棲みついている。
「……今日の最初の仕事は、靴十足の納品ね。宛先は老靴」
私は螺旋階段を登りながら、先日家に届いた依頼書の束に目を通した。
なぜ私が靴の配達などしているのか。それはひとえに、私が『仲介業者』だからである。
「またあの爺さんか」
美龍は眠そうにあくびをする。
「靴は主食だもんなァ。あれでよく腹が膨れる」
「文句言わない。主食ニンゲン、なんてのが相手より百倍気がラクよ」
老靴とは、この地区に住む妖怪の一人だ。
妖怪といっても、比喩としての妖怪ではない。昔話に出てくる、あの妖怪だ。まぁ人魚が実在していた以上、妖怪も存在していてもおかしい話ではあるまい。
だが、世界中で栄華を極めた蛇蝎磨羯、魑魅魍魎の数々は科学文明の進歩に追われるように姿を消し、西暦にして2000年ごろになると、その存在は最早、伝説のものとなった。
だが、歴史は変わったのだ。
「……進歩しすぎたテクノロジーも考えものよね、はいご苦労さん」
私は錆びついた階段をつま先で弄りながら、ドローンから今朝の新聞を受け取った。美龍が私のポーチから小銭を取り出し、料金箱の中に落とす。カラン、と硬貨が底に当たる音が響いた。
妖怪たちは、復活した。とめどない進歩を続ける科学技術に対する民衆の『未知』や『無知』、『不信感』は、鉄の塊や科学の産物に、もう一度怪異の名を授けたのだ。
歯車式の龍、解剖学者の愚行で産まれた合成獣、過剰投薬により甦った水落鬼や産鬼、天候衛星と接続した人造動物《魃》など。
妖怪たちは機械の肉を受け、もう一度この世界に産まれ落ちた。
だが彼らは自分の意志を持つとはいえ、その多くは元は機械である。機械である以上、人に使役されることを前提としてプログラムされている。だがそれは仕えるべきヒトの激減により困難になり、妖怪たちは互いに助け合うのを余儀なくされた。このままでは、命令系統などに問題が多く発生する。
そこで『元』人間の私は妖怪たちの仲介業者として、彼らの生活を回すのに一役買っている。いわば、よろず屋である。
ヒトは絶滅寸前だが、ゼロではない。ヒトを嫌っていたり主食にしている妖怪もこの世界には数多く、決して楽な仕事では無い。
栄華を極めたヒトの世は既に壊れた。その文明の残滓は、全く別の者たちが引き継いだのだ。
−−−−西暦9413年。天下は、妖の世である
「こういうのなんていうっけ……電脳社会? 」
「黙示録の後日談、だ。残念ながら、最近はそもそもマトモな活字にお目にかかれる機会さえ少ないがな」
新聞は全部写真だしね、と私はため息混じりに相槌を打った。長く生きすぎた私たちの暇つぶしは、しばらくの間は読書だったのだ。互いに考察を話し合う程度には、私たちは本に凝っていた。私の好物は推理で、彼は幻想文学。一時期は共同執筆などもしていたが、ようやく仕上げた本を死海に落としてしまい、それ以来筆をとっていない。
「創作活動なんて、金と時間と心に余裕が無いと出来たもんじゃないわ。今のヒトにそれを求めるのは酷ね」
「その通り。まぁ、一部の妖怪……例えば文車妖妃たちなんかは、未だにせっせと本を書いているらしいがな。大方辞書の類いだろ」
そのジャンルは専門外である。
私はざっと新聞に目を通した。特にこれといって目立つ事件も起きていないようだ。私は無造作に新聞を掴むと、階段の外に放り投げた。
トーキョーの地表は大きなごみ箱の役割を果たしており、物を投げ捨てても、何故か積もることはない。とはいえ地表には何があるのか、と問われれば、対して知りたくもないというのが答えである。
ふと、手元に残った一枚のチラシが目を引いた。新聞に挟まっていたうちの一枚だろうか、黄色ベースの紙に、大きくゴシック体で『クラフティアン』の文字がプリントされている。
「これは文学とは言わないぞ」
美龍がチラシを覗き込み、吐き捨てるように呟いた。成る程。確かにこれは単語である。
「クラフティアン。たしか、最近流行ってる宗教団体ね。トーキョースカイツリーのてっぺんに本部があるって」
お客の誰かが言っていた。
「そりゃまた目立つな。あの塔はそんなに増築してない筈だし、あそこなら下層にも行けるんじゃないの?」
「馬鹿言わないでよ、そんなことあるわけないじゃない」
私は呆れながら、黄色のチラシも放り捨てた。上空500mから、鮮やかな黄色が、風に吹かれて舞い落ちていくのを目で追いかける。
トーキョーの街は、大きく二つの階層に分かれている。地表を含む、かつて作られた街並みである下層と、人類衰退後、その屋上にどんどんと違法増築されいていった上層の二つである。生活のサイクルは上層だけで完結しているため、私がここに住むようになった頃には既に、下層−上層間の移動は不可能となっていた。移動できるかどうかは些末な問題で、そもそもする必要すらない。
「……下層に興味があるのかい、マイカちゃん」
私の名を呼ぶ声がした。驚いて振り返るとそこには、巨大な鞄を背負った青年の姿。美龍に負けず劣らず整った目元が、笑みをたたえてまっすぐ私を見つめていた。目元から下はといえば、真っ白な布で覆っている。誰も彼の素顔を見たことはない。
「あら、おはよう百神」
「おはよう。今日も君は美しいね」
「ありがと。そう、丁度良かったわ。お世辞はその辺にして、頼みがあるのよ。靴を十足ほど用立ててほしくて」
百神の口八丁はいつものことである。彼はいいとも、と気前よく笑い、鞄に括り付けていた靴の入った袋を掴むと、ためらいなく差し出した。
「知ってたの?」
「頃合いだからね。あの爺さんはきっちり2週間で靴を食べきる」
話を聞きながら、美龍が気怠そうに袋を受け取る。私は礼を述べると、代金を彼に手渡した。
「……まいどありッと。さて、何か見ていくかい? 新たな付喪神も仕入れてある」
彼は商売人の目に戻ると、目にも留まらぬ速さで、狭い階段の上に器用に品物を並べていった。歯車がむき出しになった茶釜や水筒の割れ目から、ぎょろっとした目玉がこちらを見据えている。付喪神だ。
百神は付喪神の商人なのだ。付喪、つまり九十九とは、百という完成まで一歩足りないという意味である。百に届かなかった九十九たちを売り捌く彼は、付喪神たちを超越した存在と言えるだろう。それゆえ、彼は百を名乗るのだ。
「いや、食器類は間に合ってる。また今度ね」
私は彼に一礼し、その場を後にした。なにせ食器は溢れている。これ以上増やすわけにはいかないのだ。
私は老靴の店の前で立ち止まると、帽子を脱いで暖簾をくぐった。店といっても、路地に隣接する壁を取っ払った、住宅の一室である。部屋の中は薄暗く、世界中から集められた靴が所狭しと並べられている。老靴はその名の通り、靴屋を経営しているのだ。靴を流通させ、彼はそのサイクルに一消費者として、もう一度介入する。
部屋の奥に目を凝らせば、車椅子のシルエットが辛うじて見えた。くだんのご贔屓様である。
だがその影の主は、私が元気よく挨拶しようとした瞬間、遮るように腕を上げた。そして人差し指をぴんと伸ばし、はっきりと、こう告げたのである。
「……マイカ、お前さんに……死が見える」
暗がりに浮かぶ老靴のシワの寄った顔に、はっきりと浮かぶ困惑の表情。
「…………え?」
老靴の指は、間違いなく私を指していた。不老不死であるはずの、私を。
「ええええええええ!?」
思わず叫んだ私の声が、トーキョーの空に響き渡る。
−−−−−−老靴は、靴を食べることで死期を予言する妖怪である。だが、しかし。
「ま、そういうこともあるんじゃない?」
目を丸くした私とは対照的に、お気楽な人魚は隣で眠そうにあくびをした。