余裕がないエルフと、邪竜召喚
塔の外へと繋がる扉は、鍵がかかっていた。
「ヴィー、私から離れろ」
「え? ええ」
ヴィオレットが離れたことを確認すると、ハイドランジアは渾身の蹴りを塔の扉へ入れた。一発で、扉は開く。
「ハイドランジア様……魔法は使わないのですね」
「足に、強化の魔法を使ったぞ。生身だったら、怪我をしている」
「な、なるほど」
『あやつは、涼しい顔をしていて、脳みそには筋肉がぎっしり詰まっているぞよ』
「ポメラニアン、何か言ったか?」
『なんにも』
ここで楽しく会話をしている場合ではない。先を急がなければ。
「では、行くぞ。何があるかわからぬから、慎重に」
「承知いたしました」
『わかっているぞよ』
「ヴィー、この先、何が起きても、取り乱さず、毅然としているのだぞ」
「ええ」
一歩外に出ると、すさまじい強風を肌で感じる。
階段は塔に巻きつくようにあり、幅は狭く手すりも何もない。足を踏み外したら、そのまま落下する。
小さなポメラニアンは強風に煽られ、必死にふんばっていた。
『ぬううううん!』
「……」
ハイドランジアは無言でポメラニアンを抱き、階段を上がっていく。
『まさか、お前の胸に抱かれる日がくるとは……』
「介護だ。気にするな。それに、ポメラニアンよりも竜の卵が心配だ」
『なんだと!?』
若干緊張感のない会話を交わしつつも、頂上まで辿り着く。
ポメラニアンを地面に下ろし、邪悪な魔法を発動させていた人物と対峙する。
そこにいたのは──エゼール家の魔法使いだった。
地面に魔法陣を描き、四方に生贄となる人を四名、手足を縛って口を塞いだ状態で転がしていた。意識はあるようで、ハイドランジアに向かって涙を流しながら何かを訴えている。
よくよく見たら、それらの人物は国王を殺そうと画策していた大臣らだった。おそらく、口封じのために囚われ、生贄にされようとしているのだろう。
彼らは別に助けなくてもいいのか。そんな考えすら脳裏を過っていた。
「……やはり、来たか」
「お前は、何をしようとしているのだ?」
「魔法医の権威を示すための、邪竜召喚だ」
「意味がわからない」
「竜が万能の妙薬であることなど、知っているだろうが」
「そういう意味ではない。お前の行動のすべてが理解不能だと言っているのだ」
驚くべきことに、邪竜を召喚したあと、薬の材料にするというのだ。
竜の転生体だったヴィオレットも、そのように利用するつもりだったのか。
考えただけで、ゾッとする所業だ。
「もう、遅い。召喚術は、完成しつつある」
「それはどうだろうか?」
ハイドランジアは水晶杖を魔法陣の線上に強く打ち付けた。
一人前の魔法使いになった際、父親から譲り受けた杖である。
二代にわたって貯めた魔力が込められていた。それを、召喚術の妨害に使う。
「愚かなことを! 完成間近の術の妨害は、不可能だ!」
そう、通常ならば、不可能である。
完成しかけている魔法式は、爆弾と同じ。下手に触れると、自身の魔力が暴走して、体の組織を破壊する。
自殺のような行為なのだ。
しかし、ハイドランジアは妨害できる自信があった。
それを可能とする魔力が、あるからだ。
バチンと、魔法陣が爆ぜる。
同時に、ハイドランジアの杖を持つ手に衝撃が走った。
「──ッ!」
手のひらが裂け、血が杖を伝って地面に滴る。
「ハイドランジア様!」
「ヴィー、動かず、そこにいろ!」
近づく気配を感じたので、警告しておく。
この事態に、ヴィオレットを巻き込むわけにはいかなかった。
想定していたことだが、魔法の妨害は大きな衝撃を伴う。
ハイドランジアの内なる魔力は、火が付いたように燃え滾っていた。
今、まさに、死神の鎌が首に擡げられているような状況なのだ。
そんな状況でも、ハイドランジアは邪竜召喚の魔法式を解き、術式を破綻させる。
同時に、エゼール家の魔法使いは、魔法式を再構築させていた。
追いつかれたら、邪竜召喚は完成してしまう。
なんとしても、妨害を成功させなければならない。
喉から何かがせり上がり、咳き込む。口の中に、血の味が広がった。
もう一度咳をすると、今度は大量の血を吐きだした。
「ハイドランジア様!」
『今近づいてはならぬ! お主の体が、散り散りになるぞ!』
ポメラニアンを連れてきて正解だ。生意気なヴィオレットも、大精霊の言うことは聞く。飛び出してくることもないだろう。
こんな時に、人の心配をするなど、らしくないとハイドランジアは思った。
思えば、結婚してから想定外の連続だった。
猫化の呪いを受けた妻は、最初は反発ばかりしていた。しかし、自分の好きなことには素直で、魔法を習う時は常に嬉しそうだった。
そんな妻が猫の姿でなくても可愛いと思っていたのは、いったいいつからだったか。
今では、ヴィオレットなしの生活は考えられないとまで思っている。
結婚してよかった。
ハイドランジアは心からそう思う。
一つ、後悔といえば、手を出さなかったことだろう。
キスはいろいろと理由を付けてたくさんしたが。
家のことは、分家に任せればいい。
魔法師団は、クインスがなんとかしてくれる。きっと。
ヴィオレットも、一人ではない。
ポメラニアンが、スノウワイトが、そして、まだ見ぬ竜がいる。
実家に帰れば、家族もいるのだ。
何も、心配いらない。
だから、ハイドランジアは邪竜召喚の妨害に全力を尽くした。
ブチブチと、ハイドランジアの中にある何かが壊れていくのを感じていた。
それに伴い、召喚の魔法式もどんどん崩れていく。
最初に目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、感覚もわからなくなった。
立っているかも、座っているかも謎だ。
自身の犠牲と引き換えに、ハイドランジアは邪竜召喚を阻もうとしたが──邪竜召喚の魔法式は完成してしまった。




