婚活エルフとにゃんごとない美猫
ノースポール伯爵は帰ろうとしていたハイドランジアに、まだ聞きたいことがあると引き止めた。
「あの、お飾りの妻、というのは、何かご事情があるのですか?」
「それは」
あまり話したくない事情ではあるものの、このノースポール伯爵はなかなか慎重な男のようだった。腹を割ったほうがいいだろう。そう判断し、少年期からの女難を語って聞かせた。
「──というわけで、私は女が嫌いだ。これ以上、面倒ごとに巻き込まれないために、かりそめの結婚をする相手がほしかったのだ」
「なるほど。そういう、わけだったのですね」
そういう事情があるのならば、仕方がないと理解を示してくれた。
ノースポール伯爵も、話すことがあるらしい。
「わたくしごとではあるのですが、実は、半年後に、初めての子が生まれる予定で」
ヴィオレットは祝福してくれたが、これを機に家から出て修道院で働くと言っていたらしい。
「妻と妹の仲は良好です。しかし、その、もしかしたら、居心地が悪く思っていたのかもしれません」
それに子どもが男の子だった場合、その腕に抱くことはできない。加えて、猫になる叔母というのは普通のことではないだろう。
「ヴィオレットは、生まれてくる子どもに負い目を感じさせたくないと話していまして……」
「そうだったのか。猫に、罪はないのに」
「え?」
「いいや、なんでもない」
とにかく、重ねて悪いようにはしないと言っておく。すると、ノースポール伯爵はハイドランジアのもとに駆け寄り、手を握ってきたかと思えば床に両膝を突いて懇願した。
「お願いが、三つあるのです!」
「こういう時、たいてい一つしか願わないものだが」
「申し訳ありません!」
それは、妹を花嫁にと送り出す兄としての切実な願いであった。
「先ほどご覧になった通り、妹は気の毒な呪いがかかっていて、外出を控えていました」
子ども時代の活発なヴィオレットは、家の中で過ごすことに嫌気がさし、たびたび癇癪を起こしていたらしい。
「私達は、その怒りを受け入れることしかできませんでした」
可哀想だと思い、ヴィオレットの我儘はすべて叶えていたようだ。
「そ、それで、ヴィオレットは我儘放題に育ったので、その、この世の男性は自分の言うことをすべて聞き入れると思い込んでいます」
どうやら、ノースポール伯爵はヴィオレットを甘やかして育てたらしい。
亡くなった父親も、魔法を教える以外の我儘は叶えていたのだとか。
「……」
つまり、ハイドランジアにも同じように我儘を言ってくる可能性があるということだった。
「お願いは、ヴィオレットの我儘を、聞いていただきたいな、と」
「我儘とは、どんなことを言ってくるのだ」
「森に自生する珍しい花を摘んでこいとか、人気の劇団のトップスターのサインがほしいとか」
ノースポール伯爵はすべて叶えたようだ。
魔王を倒してこいとか、聖剣を探してこいとか、絶対に叶えられないことは言わないという。
「それで、ローダンセ公爵も、たまにでいいので、妹の我儘を聞いていただけたらと思いまして」
「なんで私があの女の言うことを聞かなければならない。使用人がいるから、使用人に頼めばいいのではないか」
「え、ええ、そうですが、一応、念のために、お伝えしておきます」
二つ目の願いは、とんでもないものだった。
「将来、ローダンセ公爵が愛人を迎えても、ヴィオレットを冷遇しないでいただきたいなと」
やっと運ばれてきた紅茶を飲んでいたら、噎せてしまった。
愛人を迎えることなど、この先一生ありえないことだ。そう言うと、ノースポール伯爵はホッとした表情を見せている。
「最後の願いは……どうか、妹を、可愛がっていただけないかと」
「は?」
「少々我儘で生意気かとは思いますが、可愛い可愛い妹なんです。どうか、お目にかけていただければなと」
以上三点がノースポール伯爵の願いだった。
「どれも、叶えるとはこの場では言えない。しかし、しかと願いは聞き入れた」
「ありがとうございます。その、まあ、暮らしていくうちに、気持ちも変わるかもしれませんし……」
それはどうだか。そんな冷ややかな反応は、喉から出る前に呑み込んだ。
ノースポール伯爵に手を握られたままとなっていたのでさっと引き抜き、今度こそ帰る。
「あの、ありがとう、ございました!」
「礼を言われるようなことは、していないが」
「いいえ。妹にとっては、最良の結婚のように思っています」
最良の結婚。そんなものなど、存在するのか。
貴族の結婚は、本人同士の気持ちは無視される。家と家の繋がりを作るための儀式だ。
そのため、さっさと子どもを作って別居状態の夫婦は珍しくない。
仲睦まじい夫婦というのは、貴族社会では稀だろう。だいたい皆、愛人を作っている。
果たして、自分達はどんな夫婦になるものか。
まったく想像がつかなかった。
ノースポール伯爵家の、肌寒く薄暗い廊下を歩きながら思う。
これは、小さな子どもが育つような環境ではないと。
とりあえず、帰ったら薪を届けさせよう。そんなことを考えていたら、玄関にたどり着く。
老執事より受け取った外套を着ていたら、タッタと小さき存在の足音が聞こえた。
『よかった! まだ、帰っていなかった!』
金の毛並みの猫──ヴィオレットが走ってやってきたのだ。
その姿は優雅で可憐。
あまりの美しさに、ハイドランジアは眩暈を起こしそうになる。
改めてみたら、ヴィオレットほどの美猫は見たことがない。
脳内は桃色であったが、口から出た言葉は実に冷たいものだった。
「なんの用事だ?」
『あの、本当に、結婚したら、わたくしに魔法を教えてくださるのよね?』
「お前のやる気次第だ」
ヴィオレットは目をキラッキラに輝かせ、尻尾をふんわりと膨らませていた。
よほど、嬉しいのだろう。
『メリー、わたくしを抱き上げて、ローダンセ公爵のもとに連れて行ってくださる? お礼とお別れの挨拶をしたいの』
メリーと呼ばれた若いメイドがヴィオレットの体を抱き、ハイドランジアのもとへと連れて行く。
背の低いメイドなので、ヴィオレットの体は随分と下のほうにあった。
『ローダンセ公爵、少し屈んでいただけるかしら?』
ヴィオレットは尊大な様子で願う。さっそく、我儘が出た。
今日だけは叶えてやろうと、言葉の通りに屈んでやった。
『本日は、お越しいただきありがとうございました。求婚していただけたことも、感謝しております』
ヴィオレットは殊勝な態度で礼を言う。その点は、意外に思った。
彼女の意外な行いは、そのあとも続いた。
『魔法を教えていただけることは、忘れないでくださいまし』
そう言ってヴィオレットは身を乗り出し、ハイドランジアの腕に前足をかけると頬にキスをした。
ふわふわの毛並みが触れる触感にハイドランジアは目を見開き、言葉を失う。
『ふふ。ごきげんよう』
尻尾を揺らしながら挨拶する猫のヴィオレットは、悔しいけれど世界一可愛かった。