お触りエルフと跳び上がる嫁
キスをしようとしたら、ヴィオレットは猫化してしまった。
いったいどういうことなのか。
まさか、恐怖を覚えたからなのか。だとしたら、申し訳ない。
ハイドランジアは立ち上がり、後ずさる。
『ち、違いますのよ!』
「違う、とは?」
『あ、あなたが恐ろしくて、猫化をしたわけではありません!』
ヴィオレットは猫の足でたしたしと長椅子を叩き、隣に座るように主張する。
「隣に、座ってもいいのか?」
『いいといっていますの』
ハイドランジアはゆっくりと長椅子に近づき、そっと腰かけた。
「……」
『……』
しばし、沈黙の時間を過ごす。
非常に気まずい雰囲気だった。
ハイドランジアはすっかり冷えた紅茶を飲み、顔を顰める。
『バーベナに、新しいお茶を淹れるよう、お願いしましょうか?』
「いや、いい」
温めるだけならば、自分でもできる。
ハイドランジアは火魔法を使って、手の中の茶を温めた。
しかし、想定外の結果となる。
ぼこぼこと沸騰し、カップにヒビが入った。
「熱っ!」
『まあまあ、大丈夫ですの?』
アツアツになったカップを、慌ててテーブルに置く。同時に、カップは二つに割れて、紅茶は零れた。
今度は、手を冷やさなければ。
ハイドランジアは早口で呪文を詠唱し、水魔法で水球を作り出す。その中に手を突っ込んで冷やした。
数分冷やし、水球から手を引く。赤みは完全に引いていた。
「……」
『……』
魔法の制御は難しい。魔法をかける対象が小さなものだと、余計に困難になる。
ハイドランジアは身を以て実感していた。
「おいしい紅茶を淹れることは、魔法を使う以上に繊細な技術を要する」
『ええ、わたくしも、そう思いますわ』
「使用人は、大事にしなければならない」
『それも、同感です』
「思うように、いかないな」
『わたくしも、同じことを考えておりました』
意見が合ったところで、元の話題に戻る。
『わたくし、こんな身でありながら、結婚すると聞いて、いろいろ覚悟はしておりましたの』
もしかしたら、子どもを産むように言われるかもしれない。
それ以外にも、妻の務めは山のようにある。
『慈善活動をしたり、家に来たお客様をもてなしたり、使用人達を労うパーティーを開催したり』
その中に、夫となる人と手を繋いだり、キスをしたりと、接触する可能性も頭の片隅にあったようだ。
「女としての感情は二の次として、結婚したからには、すべて受け入れるつもりだったと」
『ええ。最初は、そう思っていました』
けれど、ハイドランジアの人となりを知り、理解を深めるようになって、本当の妻として役目を果たしたいと思うようになったのだという。
『先ほどだって、わたくしの考えたことを評価してくださったことも、とても嬉しくて……。だから、決して、キスが嫌で猫化したわけではありませんので』
「わかった」
ヴィオレットはその幼少期に、トリトマ・セシリアに殺されそうになった。
その記憶がなくなり、すべての男性に恐怖を抱くようになった結果、猫化をしてその身を守るようになったのだ。
記憶が戻ったとはいえ、男性への不信感がすべてなくなったわけではないだろう。
ハイドランジアは唇へのキスを反省する。
今日はまず、頬へのキスだけに止めておくべきだったのだ。
と、反省したものの、依然として気まずい雰囲気は続く。
『あ、あの、旦那様?』
「なんだ?」
『お詫びといってはなんですが……』
ヴィオレットはもじもじと、恥ずかしそうにしている。
『旦那様は、猫がお好きだとおっしゃっていましたよね?』
「まあ、犬よりは好ましいと思っているだけだが」
『ええ。それで、その、よろしかったら、わたくしを撫でてみますか?』
「は?」
『バーベナから、話を聞いたのです。猫に触れたくても、怖がられて逃げられていたということを』
「……」
即座にバーベナめ! と思ったが、ふと、魅力的な提案が聞こえたような気がした。
「今さっき、撫でてもいいと言ったか?」
『え、ええ。旦那様が、わたくしを撫でたいのであれば……』
「頼む、撫でさせてくれ」
『よろしくってよ』
ヴィオレットはピンと背筋を伸ばし、撫でてもらう姿勢を取った。
ハイドランジアはがっつかないよう、ゆっくりと手を伸ばす。
まず、毛足の長い背中に指先を埋めた。
やはり、ヴィオレットの毛の触り心地は最高である。
触れた手を、ゆっくり、ゆっくりと動かしていった。
『ん……』
「力が、強かったか?」
『い、いえ。このように、触れられることに、慣れておりませんので』
「そうか。嫌だったら、すぐに言ってくれ」
『ええ』
これで、ヴィオレットが嫌だというまで撫でることができる。
触れる際はそっと、優しく。
自らに言い聞かせ、今度は指先で額を掻く。
猫はここを撫でられるのが好きだと、以前バーベナが言っていたのだ。
ヴィオレットは気持ちよかったのか、ごろごろと喉を鳴らしている。
尻尾は楽しげに、ゆらゆらと揺れていた。
頬に触れ、顎の下を撫でる。ヴィオレットは心地よさげに、目を細めていた。
ハイドランジアはヴィオレットを持ち上げ、膝の上に乗せて撫でた。
もふもふ、もふもふとヴィオレットの毛並みを堪能する。
最後に、抱き上げて仰向けにし、腹を撫でようとしたが──。
『きゃあ!』
「ん?」
ヴィオレットはびくりと体を震わせ、ハイドランジアの膝から跳び下りた。
「どうした?」
『さ、先ほどの体勢は、い、いやらしい、ですわ!!』
「……」
一瞬、よくわからなかったが、人間に置き換えるとたしかにいやらしい。
「すまなかった」
ハイドランジアは素直に謝った。




