溺愛エルフと戸惑い妻
さっそく、ポメラニアンの溺愛実戦術を試そうと、脳内で作戦を考える。
溺愛実戦術は以下の通りだ。
溺愛実戦術その一、一日一回、嫁を褒める。
溺愛実戦術その二、一日一回、愛を囁く。
溺愛実戦術その三、一日一回、愛する嫁にキスをする。
その一はなんとかできそうだが、その二は酷く難しい。その二が成功したら、その三もいけるだろう。
勇気を出して、一歩前に踏み出さなければならない。
と、ここで、ヴィオレットからじっと見つめられていることに気づき、わずかにたじろいでしまう。
「旦那様、何をしにいらっしゃいましたの?」
「べ、別に、理由はなくとも、我が妻の顔を見に来ることは、悪いことではないだろう?」
声は震え、早口になってしまった。しかし、ヴィオレットは意外な理由だったのか、目を見開いてハイドランジアを凝視している。
その視線に、色っぽさは欠片もない。
それはまるで、珍しい虫を発見したような、そんな眼差しだった。
どうしてこうなったのだと、心の中で頭を抱える。
しかしまだ、心が折れてはいない。もう一歩、前に踏み出すのだ。
「して、何を勉強している?」
「光魔法の運用について、独自の解釈を加えつつ、勉強していますの」
「そうか。読んでも構わないか?」
「ええ、間違っているところもあるかもしれませんが」
どれどれと学習帳を覗き込んだら、魔法書に書かれている魔法式がびっしりと写されていた。
写すだけではなく、独自の解釈と応用についても書かれている。
ハイドランジアは学習帳を手に取り、文字を指先で追った。
すらすらと読み進めていたが、ある箇所から指先の動きが遅くなる。
「あの、何か間違いでもありましたの?」
「これは──すごい!!」
「え?」
「研究者が解明できなかった魔法式を、解いているではないか!」
「そ、そうですの?」
「ここを読め。この部分は、今まで誰も気づかなかった」
「そちらは、古代の光魔法の、節約術の応用から引用したもので」
「なんだ、その本は」
「お父様の書斎にあったものですわ」
題名を聞いたが、ハイドランジアは読んだことのない書物だった。
おそらく、自費出版の魔法書なのだろう。
「なるほど。一見関係ないように思える書物に、そのような発見があったとは!」
ハイドランジアは夢中になって、ヴィオレットが書いた文章を読み続ける。
「これらの応用が生かされたら、夜の街はさらに明るくなるかもしれない」
街には、魔石灯と呼ばれる魔法の灯りが点されている。
夜明けから夕方までの間に魔力を集め、夜の明かりとして使うという仕組みだが、あまり明るくないというのが難点なのだ。
もしも、ヴィオレットが考えた応用が使えたら、少ない魔力で魔石灯を明るくできる。
「素晴らしい論文だ」
手放しに褒めると、ヴィオレットは頬を染め恥ずかしそうにしていた。
「引用した部分も多いですし、わたくしが考えたところはごく一部ですけれど……」
「いいや、今までそれに誰も気づけなかったのだ。誇っていい」
「あ、ありがとうございます」
「詳しい話を聞かせてくれ」
ハイドランジアはヴィオレットの手を取り、長椅子のほうへと誘う。
膝に学習帳を置き、ヴィオレットを隣に座らせた。
「これは、どういう仕組みなのだ?」
「それは──」
ヴィオレットが書いたものに、ハイドランジアが補足を加える。
だんだんと、魔法のイメージが固まってきた。
三時間後──魔石灯の光力向上の魔法式が完成した。
バーベナが茶を持ってきたのにも気づかないほど、互いに集中していたようだ。スノウワイトも、いつの間にかいなくなっている。
そんなことよりもと、完成したばかりの魔法を試してみることにした。
ヴィオレットが文字を指先で追い、ハイドランジアが読み上げる。
テーブルの上にあった手持ち式の魔石灯は、強い光を放った。
新しい光魔法の魔法式は大成功である。
「旦那様! やりましたわ!」
ヴィオレットがあまりにも嬉しそうに言うので、ハイドランジアが喜びを抱擁で表した。
そして、耳元で囁く。
「ヴィオレット、お前は、最高の妻だ!」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレットはぎゅっと身を強張らせる。
抱擁が突然過ぎたのか。
離れようとしたが、今度はヴィオレットがハイドランジアの背中に腕を回した。
どうやら、抱擁は問題ないようだった。
今だけは素直に、気持ちを伝える。
「このように、やりがいと喜びを感じることは、久々だ」
「わ、わたくしも、嬉しく、思います」
「そうか」
ヴィオレットは回した腕に、力を込めた。
ここで、ハイドランジアは我に返る。
抱き合ったあと、どういうタイミングで離れたらいいのかと。
今この瞬間、興奮して忘れていたハイドランジアの五感が戻ってくる。
ヴィオレットは香しく、柔らかで、声は可憐で見目も美しい。もしや、口に含めば甘いのか。
このような疑問さえ浮かぶほどの、良い女だ。
そんなヴィオレットを抱きしめた状態で、今度はハイドランジアが体を強張らせた。
ぎこちない動きで離れると、ヴィオレットは潤んだ目でハイドランジアを見上げていた。
ここで、気づく。自然と、妻を褒め、愛を囁く溺愛実戦術を実行していたのだ。
ヴィオレットはうっとりとした表情で、ハイドランジアを見上げている。
溺愛実戦術その三、一日一回、愛する嫁にキスをする、を実行すべきときではないのか。
ハイドランジアはヴィオレットの頬へ手を伸ばし、手の甲で撫でた。
額を撫でた猫が目を窄めるように、ヴィオレットは気持ちよさそうな表情となる。
もちろん、小動物に嫌われるハイドランジアは、そのような表情にさせたことはない。
バーベナに懐いていた猫が、撫でられている時に見たのである。
ヴィオレットは、ハイドランジアに気を許している。
キスをしても、問題ないだろう。
そっと近づき、頬に唇を寄せる。
触れる前に、一瞬動きを止めた。嫌ならば、ここで押し返すだろう。
しかし、ヴィオレットはハイドランジアの上着を強く握っただけだった。
嫌ではないのだろう。
そう思って、頬にキスをした。
触れたヴィオレットの頬は、薔薇色に染まっていく。
「旦那様……」
それは、懇願のように聞こえた。
今度は、唇にキスを。
そう思い、頬を両手で包み込む。
正面から覗き込んだヴィオレットの瞳は、濡れていた。
そして、唇にキスをしたが──触感に違和感を覚える。
『んにゃ?』
「む?」
ヴィオレットは、猫の姿になっていた。
『な、なな、なんでですの!?』
それは、ハイドランジアも聞きたいと思った。




