ふにふにエルフとぬか喜びな嫁
幸い、今日は休日だった。だからこそ、精神干渉魔法をヴィオレットに試したわけだが。
着替えを終えたヴィオレットは、ハイドランジアと話がしたいとやってきた。
しかし、唇をぎゅっと嚙みしめ、なかなか話し始めそうにない。
その間に、ハイドランジアは考える。
なぜ、ハイドランジアに触れても彼女は猫化しなかったのか。
偶然だったのか。それとも、恐怖の対象でなくなったのか。
そうだとしたら──。
「あの」
「!?」
思考に没頭し過ぎていたようだ。ゴホン! と咳払いし、話を聞く姿勢を取った。
「わたくし、記憶が戻りましたの」
「記憶、か?」
「ええ。十年前、あの悪徳商人に殺されそうになった時の記憶が」
「……」
ハイドランジアが魔法を使った影響だろう。申し訳なく思う。
「わたくし、ナイフで襲われて、怖くなって──咄嗟に、猫の妖精に助けを求めましたの」
「猫の、妖精……」
それは、ハイドランジアが咄嗟に言った嘘である。もちろん、ヴィオレットは気づいていない。
「助けを求めたら、自然と猫の姿になっていまして──。やはり、猫化は呪いではなく、わたくしが恐ろしいと思うと、猫の姿を取って自らを守ろうとしていたのかと」
「そうか」
トリトマ・セシリアの記憶がぼんやりとあったために、男性すべてに恐怖心を抱くという結果になっていたのかもしれない。ヴィオレットは今までの猫化にそう結論付ける。
「もう一度、あなたに触れてよろしい?」
「それは、構わない」
「ありがとうございます」
ヴィオレットは勢いよく立ち上がり、ぎこちない動きでハイドランジアのもとへと歩み寄る。
長椅子の端から手を伸ばすが、指先は届かない。
「隣に座ればよかろう」
「え、ええ。そう、ですわね」
ヴィオレットは人が一人座れそうなほどの距離を取り、優雅に腰かける。
そして、意を決したようにハイドランジアの耳へと手を伸ばした。
むぎゅっと、エルフの長い耳に触れる。
「うっ!」
「あら、ごめんなさい」
痛かったのか。そう問われ、首を横に振る。
「な、なぜ、耳に触れた?」
「エルフのお耳を、触って見たくて。興味がありましたの」
「……」
エルフの耳は遠くの音を聞き、気配を察する。人のそれよりも敏感なのだ。
まさか、鷲掴みをされるとは想定もしていなかった。
仕返しだとばかりに、ハイドランジアはヴィオレットの耳に手を伸ばす。
抵抗する様子がなかったので、ヴィオレットの耳に優しく触れた。
エルフの耳とは違い、丸みがあって不思議な触り心地だった。
ふにふにと触れて行くうちに、ヴィオレットの耳がだんだん真っ赤に染まっていく。
人の耳も敏感なのか。
ヴィオレットに聞こうとしたら、彼女の顔全体が赤くなっていることに気づく。
「どうした?」
「な、なぜ、わたくしの耳にも触れましたの?」
「いや……好奇心からだ」
「ごめんなさい。耳に触れたあと、あなたが驚いた理由を、たった今理解しましたわ」
他人の耳に触れるという行為はしてはいけない。してもいいとしたら、それは
双方が親密な関係にある場合のみだ。
「私とお前は夫婦だろう。親密ではないのか?」
「そ、それは……そうですけれど」
耳飾りを吊るす耳たぶは柔らかいと聞く。どのような触り心地なのか、ハイドランジアは気になっていたのだ。
「耳たぶを触ってみたい」
「い、イヤですわ」
「なぜ?」
「なぜと聞かれましても」
そもそも、なぜ耳を触り合っているのか。しばし考え、話がズレていたことに気づく。
「ふむ。異性に触れても、触れられても、猫化はしないようだな」
「そう、ですわね」
やっと、ヴィオレットは猫化を克服できたようだ。
「これで、お出かけができるようになりますのね!」
「好きなところに、出かけるといい。どこに行きたい?」
「わたくし、書店に行きたいと思っておりまして」
本を扱う商人を屋敷に招くことはできるが、持ってくる量には限りがある。
「読み切れないほどの本の中から、偶然目に付いた本を選んでみたくて」
「そうか」
それは、今までヴィオレットがしたくてもできなかったことだ。書店でも図書館でも、好きな時に行けばいい。
「しかし、お前が狙われていることに変りはない。だから、外出時は私と一緒だ」
「ええ」
ヴィオレットは大きな一歩を踏み出した。
ここで、家令のヘリオトロープが茶を持ってくる。
仲良く並んで座る夫婦を見て、一瞬不思議そうな表情を浮かべていた。
「奥様には、ミルクティーを」
「そこにおいてくださる?」
そう言って示した手と、茶器を差し出すヘリオトロープの手が微かに触れてしまう。
瞬間、ヴィオレットの前に魔法陣が浮かび──彼女は猫化した。
『へ!?』
「も、申し訳ございません!」
慌てるヘリオトロープを、ハイドランジアは下がらせた。
再び二人きりとなった部屋で、双方頭上に疑問符を浮かべていた。
『わ、わたくし、また、猫化をしてしまいましたわ』
「みたいだな」
おろおろするヴィオレットを眺める。
金の毛並みを持つヴィオレットは愛らしい。
ただ、人の姿のヴィオレットも同じく愛らしい。
ハイドランジアの心は大きく変化していた。
一方、ヴィオレットはわずかな変化だった。
ハイドランジアが触れた時のみ、猫化しないということのみ。他の異性相手だと猫化してしまう。
「どうしてこうなった?」
そんなハイドランジアの問いに答えられる者は、この場にはいなかった。