傍観エルフとシランの凶行
それから先の出来事は、悲惨なものだった。
シランは寝台の上の子猫を見て、信じがたいと呟く。
それも、無理はないだろう。娘が突然猫の姿になったのだから。
寝台や机の下、チェストの中やクローゼットなど、ヴィオレットがいないかシランは探し回る。
どこにもいなかったので、彼は使用人にヴィオレットを探すように命じた。
再び、シランは寝台の上に眠る子猫を見る。震える声でヴィオレットのはずはないと呟いた。
その後ろ姿は、この世の絶望を背負ったかのよう。悲痛の一言であった。
ここは、ヴィオレットの記憶の中の世界である。
意識を失っている中で、なぜハイドランジアは周囲の様子を見ることができるのか。
そんな疑問はさておき、シランの様子の傍観を続けた。
使用人より、ヴィオレットはどこにもいないと告げられる。
ここで、彼の纏う空気が一変した。
シランは使用人に向かって、そんなはずはないと怒鳴り散らし、再度探すよう命じた。
まったくもって、らしくない。
シランはふらふらと、寝台に近づく。枕に突き刺さったナイフを見て、頭を抱え嗚咽を漏らした。
娘を危険な目に遭わせてしまった。それに対する罪悪感から、涙しているように見える。
もう、ヴィオレットの猫化を受け入れる他ないのだろう。
ナイフを引き抜いたかと思えば──トリトマ・セシリアのもとにしゃがみ込む。
シランの瞳に、狂気の色が浮かび上がった。彼はとんでもない行動に出る。
手にしたナイフを振り上げ、心臓目がけて振り下ろした。
しかし、刃が胸に触れる前に、廊下から声がかかった。再度ヴィオレットを捜しにいった使用人の声だった。
彼はシランに報告する。ヴィオレットはどこにもいない、と。
シランは慟哭する。
深い嘆きと、悲しみと、怒りと。ありとあらゆる負の感情が入り混じった叫びである。
その後、彼は驚くべき行動に出た。
意識のないトリトマ・セシリアを、滅多刺しにしはじめたのだ。
腹部にナイフを突き刺し、傷口から血が弧を描くように噴き出る。
血が、寝室の絨毯を赤く染めていった。
まさか、暴行は後頭部を殴るだけではなかったとは。
それだけ、娘に危害を加えた者への怒りが大きいことはわかるのだが、その様子はあまりにも一方的で激しすぎる。
このままでは、回復魔法を施しても元の状態に戻すことは難しいだろう。
そんな中、真っ赤に手を染めるシランを、止める者が現れた。
『人間、そろそろ、止めよ。死んでしまう』
栗色の毛並みに、小さな体、つぶらな瞳を持つ獣の姿をした大精霊──ポメラニアンであった。
『お前の奇跡の力をもってすれば、この男は元の状態に戻すことができるだろう』
「だ、大精霊、様!」
シランは血に濡れた姿で、ポメラニアンに縋る。
「む、娘が、娘が、猫の姿に! きっと、この男と関係ある魔法使いが娘を呪っているんです! どうか、どうか助けてください!」
『ならぬ。叶えられる願いは、一つだけだと言ったであろう』
「そ、そんな!」
『お主がすべきことは、娘の呪いを解くことではない。そこの男の傷を回復させることだ』
「……」
『さあ、早く! このままでは、お主の大事な者達を、殺人者の家族にしてしまうぞよ!』
シランは目を見開き、わなわなと震える。
そして、這いつくばるようにしてトリトマ・セシリアのもとへと戻った。
シランに刺されたトリトマ・セシリアは、虫の息のように思えた。
この状態から完治させるには、第一魔法師レベルの回復魔法の遣い手でなければ難しい。
第五魔法師であるシランには、小さな傷一つ塞ぐので精一杯だろう。
しかし、ハイドランジアは奇跡の力を目にする。
トリトマ・セシリアの周囲に真っ赤な魔法陣が浮かび上がった。見たこともないような、邪悪な赤色である。
傷口から血がぼこぼこと沸騰するように滾っていた。そして、その傷は綺麗に塞がっていく。
これは、回復魔法ではない。
──違背治癒。
自らの命を削り、対象を癒す禁術だ。
魔力を変換させて回復させる魔法と違い、術者の命を脅かす可能性が高い魔法なので禁止されているのだ。
シランは汗だくとなって、トリトマ・セシリアの怪我を癒す。
『それでよい』
そんな呟きを残し、ポメラニアンは消えていった。
「だ、大精霊様! 大精霊様! ああ……なんてことだ……!」
シランとポメラニアンは、いったいどういう関係なのか。
わからない。
ハイドランジアは奥歯を噛みしめる。
「うう……!」
ここで、トリトマ・セシリアが目覚めた。すぐさま起き上がったが、絨毯に滴る血の量を見てぎょっとしていた。
後頭部の傷口を確認するが、綺麗に塞がっている。
しかし、いくら治癒させたからといって、暴行を加えた事実が消えるわけではない。
当然、トリトマ・セシリアはシランを責めた。
シランは然るべき場所へ行き、罪はすべて償うという。
しかし、一晩待つようにと願った。それから、ヴィオレットの猫化についても言わないようにと。
ここで、トリトマ・セシリアはシランの願いを叶える条件として、ヴィオレットとの婚約を条件に出した。
もちろん、それだけは勘弁してくれと、シランは額を床につけながら乞う。
それが呑めないのであれば、金を支払ってもらう。
シランはトリトマ・セシリアの条件に、重々しく頷いた。
そのあと、シランはヴィオレットの呪いを解くため、魔法師団の禁書室へと走ったのだろう。そして──ハイドランジアと出会い、契約を結んだ。
シランが亡くなった理由は、おそらく病気でもハイドランジアの呪いでもない。
違背治癒を使ったことによる、衰弱死だろう。
突然、景色が歪む。
精神干渉魔法が解けてしまったようだ。
光の粒に包まれ、ハイドランジアはもとの世界へと戻っていく。
◇◇◇
『──目が、覚めたか』
ハイドランジアを覗き込むのは、大精霊ポメラニアンであった。