お出かけエルフとワクワクしている嫁
エトワール座のエントランスホールにある、大理石でできた螺旋階段は有名だ。
加えて水晶を使ったシャンデリアは、魔石灯の光を受けてきらびやかな輝きで客を出迎える。
一方、裏口からの入場は地味だ。
劇場の警備員が立ち扉を開いてくれるが、内部の通路は薄暗く華美な物はいっさいない。
「貴賓専用通路だというので、煌びやかなのだろうと予想していましたわ」
「ここを通る者は、大理石の階段も、豪奢なシャンデリアも家にあるのだろう」
劇場にある華美な内装は、客に非日常を楽しんでもらうものである。
そのため、常日頃から華美な暮らしをしている者達にとっては必要ないものなのだ。
「たしかに、ローダンセ公爵家には、大理石の階段も水晶のシャンデリアもありますわね」
「もう、見飽きているだろう?」
「いいえ、毎日美しいと思っていますわ」
「じきに、飽きる」
まっすぐ歩いていると、すぐに特別桟敷席に到着する。重厚な扉を、劇場のドアマンが開いてくれる。
特別桟敷席はそこまで広くない。閉塞感はなく、落ち着いた雰囲気で過ごしやすい究極の広さを再現しているように思える。
中には長椅子と、小さな円卓が置かれている。
円卓の上には、冷やされたワインとデカンタ、ワイングラスが用意されていた。
使用人を連れることができるほど広くはない。そのため、劇場の係員に頼めば給仕してくれる。
エスコートはできないので、手で示して座るように勧めた。
ヴィオレットは頬を赤く染め、実に嬉しそうに席につく。続いて、ハイドランジアも椅子に腰かけた。
ヴィオレットをちらりと横目で見る。
青い瞳はローダンセ公爵家にあるシャンデリアよりも、キラキラと輝いていた。
「はあ、夢みたい……!!」
特別桟敷席は楽団が演奏する、オーケストラ・ピットの隣に位置している。
迫力のある演奏と舞台を間近で見ることができる、一番の特等席なのだ。
「憧れの舞台を今から見られるなんて、こんなに素晴らしい日は他にありませんわ」
「マグノリア殿下のおかげだ」
「そうですけれど、旦那様のおかげでもありますわ」
「なぜだ? 私は何もしていないが」
ヴィオレットは赤くなっていた頬をさらに紅潮させ、顔を伏せながら話し始める。
「実はわたくし、一度だけ、エトワール座に足を運ぼうとした時がありますの」
それは、十五歳の時の話だった。
当時、どうしても行きたいと、泣きながら訴えていたのだ。
十歳の時から観劇したかった『女公爵の婿取り奮闘記』の再演が決定したことは、特別に珍しい話ではない。二、三年を周期に再演されている作品だからだ。
理由は他にあった。
「実は、原作は舞台のポスターを見てから読み始めましたの」
商人が持ってきたポスターの主演女優の美しさに、ヴィオレットは焦がれるような憧れを抱いていた。
その女優は五年間、『女公爵の婿取り奮闘記』の主人公を演じ、五年後の公演で劇団を退団した。
「その、女優の退団公演だったから、どうしても観たかったのか?」
「ええ」
しかし、父シランは許さなかった。兄ロジーも同様である。
退団公演に行けないと分かり、ヴィオレットは瞼が腫れて開かなくなるほど泣いた。
落ち込みようはすさまじく、食事も喉が通らなくなってしまう。
気の毒に思ったロジーは、ヴィオレットが望んでいたサインを必死になって駆けずり回り、入手することに成功した。
「けれど、お兄様がもらってきたサインは、女公爵のお相手役の俳優のもので──」
まだ子どもだったヴィオレットは、喜ぶことができなかったらしい。
「過去最高に意気消沈したわたくしを、執事のオーキッドが気の毒に思ったのでしょう。チケットを、取ってくださり、お父様とお兄様には内緒で行ってくるようにと言ってくれましたの」
馬車を用意し、傍付きのメイドを雇って、ヴィオレットはエトワール座に行くことになった。
「とても嬉しくて、当日は楽しみで仕方がありませんでした。けれど──」
ヴィオレットは屋敷の裏手に用意された馬車に、乗ることはできなかった。
「道行く人、散歩をする犬、大きな馬が引いた馬車。それらを見ていたら、足が石像になったように動かなくなってしまって」
結局、その日はエトワール座に行くことはできなかった。
そのことを不思議に思い、何度か外出を試みるが結果は同じ。
なぜ、外にでることができなかったのか。これも、呪いなのか。
今まで分からないままだったようだ。
「今日、呪いでもなんでもないということが、分かりましたわ。わたくしは単純に、外の世界を恐ろしく思っていたのでしょう」
「だが、今日はこうして来られたではないか」
「それは、旦那様が一緒だからですわ」
ヴィオレットは胸に手を当て、感謝の言葉を口にする。
「旦那様、エトワール座に連れてきてくださり、ありがとうございました」
「……別に、大したことではない」
柔らかく微笑むヴィオレットを見続けることができず、照れ隠しに懐から懐中時計を取り出して蓋を指先で弾いた。
「開演まで、三十分か。必要な物があれば、係員に言っておけ」
「──あ!」
「どうした?」
「パンフレットと、それから……」
「パンフレットと、それから何が必要なのだ?」
「いえ、やっぱりよろしくってよ」
「はっきり言え。次の機会はいつになるか分からん」
「……」
ヴィオレットはもじもじしながら、欲しい物を言った。
「二十周年限定グッズである歴代主演女優のポストカードセットと、猫のロッサの数量限定の置物と、劇場限定の新作短編集を……」
劇場の係員を呼ぶ鐘に手をかけたが、ヴィオレットに待ったをかけられる。
「他の人には言わないでくださいまし!」
「なぜだ?」
「は、恥ずかしいので……」
なぜ、恥ずかしがる必要があるのか。ハイドランジアは首を傾げる。
「あの、別に、ものすごく必要なわけではありませんので」
「……」
腕を組んで息をはいていたら、またしても脳内にポメラニアンの声が聞こえた。
(買いにいけ……お主が、売店へ走り……妻のために『げんていぐっず』とやらを、買いに行くのだ)
(お前はまた、直接脳内に!)
ポメラニアンはここにはいない。遠い場所から、二人の様子を覗き見ているのだろう。
それはあまり面白いことではない。
(勝手に私の私生活を覗くな!)
(お主も、妻をそうやって監視していただろうが)
(……)
ポメラニアンのその返しに、ぐうの音も出てこなかった。
ハイドランジアも、ヴィオレットに対し水晶を使って似たようなことをしていた。
最低最悪の行為だったと、心の中で反省する。
(覗き行為を申し訳ないと感じるならば、売店へ走るのだ)
(買いに行く。行くから、もう私を覗くな)
(分かった、分かった)
なんとも怪しいものである。周囲を見回し、ポメラニアンの魔力を発見したのでナイフで切った。
「どうかしましたの?」
「……なんでもない」
ハイドランジアは瞬時に腹を括る。
ヴィオレットの望む品を、売店まで買いに行くことに決めた。
ハイドランジア・フォン・ローダンセ。
二十六歳にして、初めてのお使いである。