お誘いエルフと応じる嫁
猫が隠れていると思ったのに、ハイドランジアを見つけてしまった。
夫婦はしばし見つめ合い、気まずい時間を過ごす。
なんと声をかけたらいいものか。
言葉を選んでいたら、脳内にポメラニアンの声が聞こえた。
(にゃあと鳴け)
「は?」
(にゃあと鳴けと言っておる)
(ポメラニアン……お前、どうして脳内に直接語りかけることができるのだ?)
(大精霊であるからな。それよりも、お主は嫁に恥をかかせる気か? 猫と勘違いされたのだから、にゃあと可愛らしく返せばいいのだ)
「んなわけあるか!」
「だ、旦那様?」
「!」
突然大声をあげたので、ヴィオレットを驚かせてしまったようだ。
さらに気まずい雰囲気となる。
「あの……旦那様、そこで何をしていますの?」
「掃除の邪魔になると思い、庭にやってきただけだ」
「お仕事は?」
「休みになった」
ヴィオレットの質問攻撃は続く。
「いつから、いらっしゃいましたの?」
「少し前からだ」
「ま、まさか、わたくしの、練習を、見ていたのではありませんよね?」
「み、見ていない!」
そう叫んだ瞬間、ヴィオレットの頬は真っ赤に染まる。
否定の仕方がわざとらしく、見ていたと言っているようなものだったのだろう。
羞恥のあまり顔を扇で隠したヴィオレットに代わり、今度はバーベナが話しかけてくる。
「あの、早退とは珍しいですね。何かあったのですか?」
観劇に誘うタイミングは今しかないと思い、ハイドランジアは立ち上がる。
ヴィオレットの前に近づき、懐から取り出したチケットを差し出した。
「我が妻ヴィオレットよ。マグノリア殿下より、本日上演される、この舞台を観に行くよう命じられた」
「え!?」
ヴィオレットは扇をずらし、チケットに視線を落とす。
「ま、まあ! これは、『女公爵の婿取り奮闘記』ではございませんか!」
原作の大ファンで、子どもの頃何度も父親に連れて行くように懇願していたらしい。
だが、父シランは一度として頷くことはなかったようだ。
舞台が再演されるたびに、ヴィオレットは悔しい思いを募らせていたのだとか。
「お父様は人混みだから絶対ダメだって、おっしゃって……」
「安心しろ。これは特別桟敷席で、出入り口は裏手にある人の少ないところだ」
「で、でしたら、わたくしが行っても、いいということですの?」
「ああ、問題ない」
「旦那様が、連れて行ってくださるのですね」
「そうだと言っている」
チケットを手に取ったヴィオレットは、突然ポロポロと涙を流す。
「なっ、お前、なぜ、泣く?」
「う、嬉しくって……」
猫化の呪いにかかってからというもの、外出は禁じられていたと聞いた。
好奇心旺盛な性格のヴィオレットにとって、辛い日々だっただろう。
「い、一生の、思い出に、いたします」
そう言って、ヴィオレットはチケットを胸に抱きしめる。
「観劇は、今日が最初で最後ではない」
「え?」
「可能であれば、桟敷席を入手してこよう」
「ほ、本当ですの?」
「まあ、別に観劇でなくてもいい。ピクニックや遠乗りであれば、行くことも可能だ」
「だ、旦那様、ありがとうございます!」
膝を深く折って、淑女の礼を取る。
このように感謝されたことのないハイドランジアは、気恥ずかしくなってヴィオレットから視線を逸らした。
◇◇◇
夜、ハイドランジアとヴィオレットは正装姿となる。
ハイドランジアは前髪を上げ、長い髪を三つ編みにする。黒燕尾姿に、ステッキを手に持った。
ヴィオレットは編んだ三つ編みを王冠のように頭に巻き付け、薔薇のピンで留める髪型を作る。ドレスは胸元の開いた、緋色の物を選んだようだ。
完璧な貴婦人姿のヴィオレットを、エスコートしようかと手を差し伸べたが、触れる寸前で猫化について思いだす。
「ああ──すまない」
「いいえ、よろしくってよ」
触れてしまえば、ヴィオレットは猫の姿になってしまう。
今日は絶対に猫化をさせてはならない。ハイドランジアはいつも以上に気を付ける。
ポメラニアンとスノウワイトはバーベナと共に留守番だ。尻尾を振って、見送りしてくれる。
準備が整ったので、王立歌劇場であるエトワール座に馬車で向かった。
ヴィオレットは田舎からやってきた社交界デビュー前の少女のように、窓の外の景色を覗き込んでいる。
「しばらく見ないうちに、王都の街並みも変わっていますのね」
「まあ、そうだな」
ここ十年で新しく建った礼拝堂や、改装のあった王立図書館を紹介した。ヴィオレットは嬉しそうに、ハイドランジアの案内を聞いている。
「あ、王立魔法道具店も看板と外観が変わっていますわ!」
「あそこは、オーナーが変わったのだ」
「そうですのね」
詳しく説明すると──代々魔法道具屋を営んでいたとある一家が、金儲けを目論むようになり粗悪品が市場に流れるようになった。
魔道具の劣化と売り上げの急激な増加に気づき、一家を摘発したのはハイドランジアである。
その辺の話は夢がないため、黙っておいた。
エトワール座は古の時代の神殿を改装し、造り変えた劇場である。
見上げるほど高い円柱が支えるのは、四大属性を模した彫刻がなされた屋根だ。精霊信仰がなされていた時代の、遺物である。
白亜の建物は、夜間は巨大な魔石灯で照らされ、美しく暗闇の中に浮かんでいた。
「綺麗……」
ヴィオレットは胸に手を当て、感激しきっている。
エトワール座に向かう道のりだけでも、満足しているようだ。