出勤エルフと出勤猫
転移後、ヴィオレットを横目で見る。特に顔色は悪くなく、クインスのように転移魔法酔いはしていないようだ。
「私の傍を、離れないように」
「にゃあ!」
「……」
ヴィオレットは完璧に、自分を猫だと思っている。
通常、幻術は自分がかかっていると聞かされたら耐性ができる。彼女がこんなにも耐性がないとは思わなかった。
しかし、それも仕方がない。誰だって、弱点はある。
副官のクインスだって転移魔法酔いをするものの、水系魔法を使わせたら魔法師団一だ。
ハイドランジアだって、苦手な魔法がある。
それは、飛行魔法だ。というより、高所恐怖症なのだ。そのため、移動は転移魔法しか使わない。
魔法使いは童話のように、箒や絨毯に乗って移動することを好む者もいる。だが、ハイドランジアからしてみたら狂気の沙汰だ。
視線をヴィオレットに移す。興味津々とばかりに、執務室を見ていた。
「ヴィオレット、そこの一人がけの椅子に大人しく座っておけ」
「にゃ」
猫のように返事をするヴィオレットを、不本意ながら可愛いと思ってしまう。
人の姿なのに、「にゃあ」と言うせいで可愛く愛らしく見える。
別に、ヴィオレットが可愛いわけではない。猫が可愛いのだ。
そんなことを考えているうちに、クインスがやってきた。
「閣下、おはようございます」
「おはよう」
昨晩は寝不足だったのか朝に弱いのか、ゆったりとした動きでクインスがやってくる。
勤務時間であれば注意するが、まだ始業前だ。そのため、大目に見ている。
「あ、あの猫ちゃんが、閣下の使い魔ですね!」
昨日、クインスにも使い魔を職場に連れてくると話していたのだ。目敏い彼はすぐに気づいた。
幻術だとまったくバレていないようで、笑顔でヴィオレットのもとに近づいていく。
「うわあ、毛並みがよくて、可愛い猫だなあ!」
クインスがヴィオレットへ手を伸ばした瞬間、ハイドランジアは叫んだ。
「それに触れるな!!」
「へ?」
執務机を叩いて立ち上がり、大股でクインスとヴィオレット間に割って入った。
ジロリとクインスを見下ろすと、委縮しきったようになる。
「あ、う……すみません。ま、魔眼を、弱めていただけますか?」
「!」
いつの間にか、瞳に魔力を宿した状態でクインスを睨んでいたようだ。
魔眼ではないのだが、他に真似できる者がいないためクインスは魔眼と呼んでいる。
魔力を宿したひと睨みは、対象の動きを止め緊張状態にすることが可能だ。
無意識のうちに出てしまったのは、初めてである。
魔眼を解くと、クインスは膝から頽れた。
「すまなかった」
「いえ、大事な猫ちゃんですもんね。俺なんかが、触って良いわけなかったんです」
「いや、そこまで大事なわけでは……」
ただ、クインスがヴィオレットに触れるのは、なんとなくイヤだったのだ。たとえ相手が猫の姿に見えていても、触れるのはヴィオレット自身である。
その後、気まずい雰囲気のまま、朝礼を始めた。
クインスが出て行ったあと、ふーっと溜息を落とした。
ヴィオレットを見ると、椅子の手すりに両手を重ねたものを枕代わりに、ウトウトとまどろんでいた。
幻術では見た目だけでなく、中身までも猫のようになってしまうのか。
しかし実に、幸せそうな寝顔である。
昨日、夜遅くまで魔法を教えたので、睡眠時間が短くなってしまったのかもしれない。
これからは、注意しなければ。
昼になり、食事がローダンセ公爵家より運ばれてきた。やってきたのはバーベナである。
「奥様は猫のままなんですね」
「ああ」
「あらあら、気持ちよさそうにお眠りになって」
バーべナには、猫が丸まって眠っているように見えているらしい。
「それにしても、うふふ」
「なんだ?」
「上着を貸して差し上げるとは、お優しいなと」
「風邪を引いたら、私のせいにされるだろうが」
「そういうことにしておきます」
ヴィオレットが眠っていたおかげで、仕事が捗ったと話を逸らす。
「起きていたらいろいろ言うだろうから、今日の猫化は都合がいい」
「またまた、心にもないことをおっしゃって」
「……」
ジロリと睨んだら、バーベナはペロリと舌を出して一礼する。そして、「奥様をよろしくお願いいたします」という言葉を残して帰っていった。
「おい、ヴィオレット」
「!」
名を呼ぶと、ヴィオレットは目を覚ました。背伸びをしながら欠伸をし、眦に涙を浮かべている。
寝起きのヴィオレットは、どこか艶めかしい雰囲気である。見てはいけないもののような気がして、ハイドランジアはそっと目を逸らしながら話しかけた。
「バーベナが昼食を持ってきた」
籠の中には、パンと串焼き肉が入っている。二本用意された水筒はスープと紅茶だろう。ヴィオレットの分は、一口で食べられる小さなサンドイッチが入っていた。
手招きすると、ヴィオレットは嬉しそうにやってきた。
昼食の時間だけは魔法を解いてやらなければ。そう思い、手袋を外してヴィオレットのほうへ椅子ごと向いた。
幻術を解く印を結ぼうとしたら、想定外の事態となる。
ヴィオレットが、ハイドランジアの膝に座ったのだ。
彼女のかぐわしい花のような香りが鼻腔をかすめ、思考が停止する。
「なっ!?」
どういうつもりなんだと問いかけても、ヴィオレットは「にゃあ」としか言わない。
ヴィオレットの縦巻きにしたふわふわの金髪が、ハイドランジアの頬を撫でる。
猫の毛並みと同じくらい、柔らかかった。
我慢できず、そっと触れてみる。
ヴィオレットは文句を言わずに、黙って膝の上に座っていた。
猫ではないのに、どうして触れたくなったのか。
ヴィオレットの香りにやられてしまったのか。ハイドランジアは考えるが、分からない。
腰に腕を回して抱き寄せ、遠慮なく撫でる。
途中、触れる手にヴィオレットの指先が絡んできた。
すべすべとした、なめらかな肌である。
肉球ではないのに、ずっと触っていたいほど手触りがいい。
手を握ると、ヴィオレットも握り返してくる。
じんわりと、胸の中に温かなものが広がった。
ここでふと、ハイドランジアは我に返る。
「猫化の呪いが、発動していない、だと!?」