少年エルフと十年前の契約
あれは十年前──ハイドランジアが度重なる女難にうんざりしていた時の話である。
王城で行われる夜会の最中、迫りくる女性たちを掻い潜って誰もいない廊下を一人歩いていた。
そんな中で、魔法師団の事務局の前で地面に膝を突き、何かを懇願している者の姿を捉える。
茶髪に白髪を生やし、頬がこけるほど痩せている骨と皮しかないような細身の中年男性であった。
黒い外套に、双頭の竜の紋章を付けているのは魔法師団の団員の証だ。
あの場でいったい何をしているのか。騒ぎに耳を傾ける。
「すみません、少しだけでいいんです! どうか、お願いいたします!」
「こんな時間に来ても、責任者はいない! 帰れ!」
いったい何を揉めているのか。暇つぶしにハイドランジアは首を突っ込むことにした。
どうかしたのかと尋ねると、エルフの耳を見てローダンセ公爵家の者だと察した事務官が姿勢を正す。そして、直立不動で報告した。
「この者が、禁書室の本を閲覧したいと申しております! しかし、責任者がいない上に、彼、シラン・フォン・ノースポール卿は第五魔法師で、禁書の閲覧権がありません!」
魔法師団には魔力量と能力に基づいた階級がある。
まず、現代ではハイドランジアのみが冠する第一魔法師。初代と彼のみが唯一許された、絶対的な魔力と魔法の才能を持つ者の証だ。
四大魔法と転移魔法、精霊魔法に妖精魔法と、さまざまな魔法を取得することが条件にある。
次に、ハイドランジアの父であり現公爵であるアスターと他十名が冠する、第二魔法師。
五十名しかいない第三魔法師、その他の魔法使いが冠する、第四魔法師、第五魔法師などで魔法師団は構成されている。
シランという男は第五魔法師。通常、禁書室の書物は第二魔法師以上しか閲覧を許されていない。
「閲覧理由は?」
「それが、いくら聞いても答えないのです」
「なるほどな」
ちょうど、姿を隠す場所を探していたハイドランジアはシランを問い詰めようと思い、事務局横の客間を借りることにした。
客間へ連れ込んだシランは、顔面蒼白でガタガタと震えている。いったい、何があったというのか。
「おい」
「ひ、ひゃい!!」
シランは四十くらいか。父親と同じくらいの年齢なのに、おどおどしていて落ち着きがない。どうしてこうなったのかと、不思議に思う。
「私が誰か、知っているか?」
「あ、は、はい! ハイドランジア・フォン・ローダンセ公爵家の、第一魔法師様で、ございます」
「結構」
一応、思考はまともなようだ。以前、父親に「お前の魔力は敏感な者を委縮させる。どうしようもない問題だから、態度だけは柔らかくしておけ」と言われたことがあった。
態度の柔らかさとは、どうやってするものか。十六歳という年若いハイドランジアには分からない。
「それで、お前はなぜ、禁書室の本を閲覧したいと主張していた?」
「あ……そ、それは……い、言えません」
「そうか。だったら帰れ。今すぐに」
「そ、そんな!」
シランは立ち上がり、ハイドランジアの前で平伏した。
「どうか、どうか、お情けをください。禁書の本を、悪用するわけではないのです!」
「だったらなぜ、言わない?」
「言えないのです!!」
シランの表情は必死だった。
悪用するわけではないが、禁書の用途は言えない。そんな主張をする事情は、まったく想像できなかった。
「お願いいたします! ローダンセ閣下!」
「私の名で禁書の閲覧を許し、お前が事件でも起こしたら困るだろうが」
「閣下を困らせるような事態には、絶対に、いたしません」
「だったらなぜ、理由を言わんのだ」
「言えないのです。これだけは、絶対に」
「……」
ため息を一つ落とし、ハイドランジアは立ち上がる。客間から出て行こうとしたら、シランは腰に抱き着き引き止めた。
「ローダンセ閣下!!」
「ええい、放せ!」
「どうか、どうか、お願いいたします!」
シランはポロポロと、泣き出した。あまりにも、情けない姿である。
彼が悪事を働くようには思えない。お人よしに見えた。しかし、理由を聞かないと、禁書を閲覧させるわけにはいかない。
「で、でしたら、わたくしめに、呪いをおかけください!! 悪さをしたら、死ぬ呪いを!!」
「お前は……」
そこまでして閲覧したい禁書はなんなのか。それも、言えないという。
「呪ってください、閣下!」
「物騒なことを言うな」
「どうか、どうか……」
シランの肩を押すと、あっさりと離れる。そのあとは、流れるような動作で床に額を付けていた。
「お前は、自尊心というものがないのか」
「この願いを叶えていただけるのならば、なんだってします」
その言葉に、ハイドランジアは食いつく。
「お前、なんでもすると言ったな?」
「は、はい」
「娘はいるか?」
「……」
シランの目は零れそうなほどに見開かれる。ガタガタと震えだし、分かりやすいほどの動揺を見せていた。
「む、娘だけは、娘だけはご勘弁を!」
「違う。そうではない」
「そうではない、とは?」
「娘はいくつだ?」
「十歳です」
「ちょうどいいな」
ハイドランジアはある取引を持ちかける。
「私は、お前の娘と婚約する。ただし、これは婚姻を申し込む者達を、牽制する材料である」
「じ、実際に、結婚するわけでは、ないのですか?」
「まあ、そうだ」
そう言うと、シランは明らかにホッとしていた。その点は、些かムッとしてしまう。
「お前、娘を結婚させない気か?」
「い、いいえ! 娘は、その、体が……」
「体? 病弱なのか?」
「え? ……え、ええ、そう、ですね。社交界デビューは、とてもできないかと」
「だったら、余計に都合がよい」
ハイドランジアの婚約者になることで、女同士の諍いに巻き込まれることもないだろう。
「ただ、お前に呪いはかけさせてもらう。信用していないからな」
「そ、それは、はい」
「あと、娘を差し出す契約書も書いてもらう」
「はい」
ハイドランジアは事務局から紙とペンを持ち出し、その場で書かせた。
シランはさらさらと、娘とハイドランジアの結婚を約束する文章を認める。
「娘の名は、ヴィオレット、か」
「は、はい。妻に似て、たいそう美しい娘でして」
「美しい娘には、興味がない」
「さ、さようでございますか」
シランはハイドランジアの素っ気ない言葉に落胆せず、むしろホッとしているようだった。
社交界の誰もが、競ってローダンセ公爵家と関係を持とうとしているのに、シランは変り者だ。
「こちらで、よろしいでしょうか?」
「ああ。今から、私とヴィオレット・フォン・ノースポールは婚約関係とする」
「はい、よろしくお願いいたします」
次に、呪いを授ける。
「呪いの発動条件は、魔法で悪事を行うことに限定するが、問題ないな?」
「はい、もちろんです」
それは、禁書にある魔法を使う以外にも、呪いは適用されるという意味である。シランは問題ないと頷いた。
「では、始めるぞ」
「心構えはできております」
パチンと指を鳴らすと、何もないところから魔法陣が浮かび上がる。中心から、水晶杖が出現した。それを掴んで、床に打ち付ける。
呪術は詠唱から荒々しい。何度も杖を地面に打ち付け、最後に呪う者を杖の先端で叩く。
「──うっ!」
杖で叩かれたシランは、額を押さえて床に転がった。体をくの字に折り曲げ、顔全体に脂汗を浮かべている。
十分ほど悶え苦しんでいたが、落ち着きを取り戻すと立ち上がり、禁書室へ行くと言った。
◇◇◇
以上が、十年前の話である。
「その後、私は彼を禁書室へ連れて行き、禁書を読ませた」
そんな事情があり、ハイドランジアとヴィオレット・フォン・ノースポールは婚約関係にあると主張する。
マグノリア王子はポカンとしていた。
「どうした?」
「いや、その契約書って有効なのでしょうか?」
「もちろん、有効だ。ヴィオレット・フォン・ノースポールが独身であれば」
「独身なのですか?」
「知らん」
「……」
マグノリア王子は盛大なため息をついた。額を指先で押さえ、ヤレヤレと首を横に振っている。
「で、どうするのですか?」
「ヴィオレット・フォン・ノースポールのもとに行って……可能であれば結婚する」
「え?」
ヴィオレットは病弱で、結婚に向かないとシランが言っていたような気がする。ならば、ハイドランジアの結婚相手としてこれ以上ふさわしい女性はいないように思えた。
「契約結婚というやつだ」
「それで、いいのですか?」
「いいも何も、日常生活に支障をきたすほど結婚話が舞い込んできて困っているんだ。この事態をどうにかするには、結婚するしかないだろう」
話は以上と言って切り上げ、ハイドランジアはマグノリア王子との面会を強制的に終了させた。