萌え萌えエルフと命名
卵からひょっこり顔を出したのは、白い毛並みに黒い縞模様のある子猫だった。
割れた卵を帽子のように被り、下半身も卵から出さないまま船のようにゆらゆらと揺れていた。
「猫、だ」
『ええ、猫ですわ』
ヴィオレットが相槌を打つ。
幻獣は猫だった。その事実が、ハイドランジアの脳内で反芻される。
『うみゃ!』
ハイドランジアは、一瞬思考停止した。猫の幻獣の姿が、あまりにも可愛いかったからだ。立ち上がると、くらりと眩暈が起きてしまう。
膝を突き、床に手を突いてその姿を確認した。すると、あまりにも近かったからか、鼻先を引っ掻かれてしまう。
『みゃっ!』
「うっ!」
ハイドランジアを引っ掻いたことにより、猫科幻獣はバランスを崩してころりと転がる。
『あらあら』
ヴィオレットは近寄って、半身が卵の殻にハマったままになっていた猫科幻獣の首根っこに噛みついて引っ張った。殻の帽子も外してやる。
猫が猫の世話をしている。それは、ハイドランジアにとって夢のような光景であった。
猫科幻獣は、ヴィオレットの半身よりも小さい。目もまだ完全に見えていないのか、しょぼしょぼさせている。
床に下ろしたら、よちよちと歩いてヴィオレットの腹部に身を寄せていた。
眠たいのか、ウトウトしだしている。
「ずっと、見ていられる」
『何か、いいましたか?』
「いや、何でもない」
『あと、鼻から血が垂れていますけれど』
「大した傷ではない」
『わたくしには、鼻血のように見えますが?』
「!?」
指摘されて気づく。鼻血を垂らしていることに。
どうやら、猫の幻獣を前にして興奮してしまったようだ。
魔法で止血し、ついでに鼻先のひっかき傷も治しておいた。
『大丈夫ですの?』
「まあ、心配はいらない」
本心を言えば大丈夫ではない。生涯、このように猫に囲まれたことなどなかったからだ。平常心を保つのも、難しい状態である。
『それにしても、驚きましたわ。普通の猫にしか見えないこの生き物が、幻獣だなんて』
「たぶん、これは……山猫? いや、山猫にしたら、尻尾が細いな。それに、模様が違う」
山猫は最大でも体長一メトル半ほどの、真っ白い体毛に斑柄を持つ猫科幻獣だ。雪国に生息し、花の蜜を好む。長く太い尻尾と、人懐っこさが最大の特徴だ。
一方、卵から孵った猫科幻獣は縦縞模様で、尻尾の特徴も山猫とは異なる。
「確か、猫科幻獣の資料があったはずだ。マリウス・リヒテンベルガーの、『幻獣は我が生涯』の第七巻」
本の著者名と題名を呟くと、本棚から抜けてハイドランジアの手元へとやってくる。
椅子に腰かけ本を開くと、ヴィオレットは手すりに乗って本を覗き込む──が。
『みゃあ! みゃあ!』
『あら、やだ』
猫科幻獣が、ヴィオレットに置いて行かれたと鳴いている。
「離れがたいようだな」
『仕方がない子ですわね』
ヴィオレットは床に下りる。すると、猫科幻獣はよちよちとやってきた。
嬉しそうに身を寄せ、『みゃあ』と鳴いている。
『これ、刷り込みみたいなものですの?』
「さあ、どうだか。この世の全ての幻獣の生態が、明らかにされているわけではないからな」
今分かることは、猫科幻獣はヴィオレットには懐き、ハイドランジアには冷たい態度を取るということ。
やはり、猫科生物からは好かれないようだ。
本の頁を捲っていると、縦縞の猫科幻獣についての記述を発見する。
「あった。この生き物は、大白虎と、いうらしい。体長二メトル前後まで成長するようだ」
『そ、そんなに大きな猫ですの? 猫の姿の時は踏み潰されてしまいそう』
「そのようなことはしないだろう」
大白虎はヴィオレットを母親のように慕っているように見えている。
ハイドランジアは羨ましくて、ギリッと奥歯を噛みしめていた。
「幻獣とは、契約を結ばなければならないようだ。さすれば、使い魔として使役できる」
『あなたは、使い魔はいませんの?』
「私は別に、必要としていない」
使い魔は製薬をさせたり、手紙を運んだり、森に素材集めに行かせたり。こまごまとした仕事を頼む。ハイドランジアは職場に行けば部下が大勢いるし、家には使用人がいる。
使い魔を必要としない、稀なる環境に身を置いていた。
しかし、使い魔と契約していない最大の理由は、彼の大きな魔力にある。
「私の魔力が大きすぎるが故に、小さき生き物たちは近寄ろうとしないのだ」
『魔力が大きいと、影響がありますの?』
「ある。魔力の波動を受けると、大抵の者は具合が悪くなるのだ」
ローダンセ公爵家の屋敷内は結界を張ってある。それでも、魔力耐性のない者は具合を悪くしていた。
魔法師団の副官クインスは、出会ったばかりのころハイドランジアに近づくたびに吐いていた。
「遠巻きにいる分にはほぼ影響はない。ただ、一メトル以内に近づいたら、息苦しいと言われる」
『でも、わたくしは平気でしたわ』
「そうだったな」
だからうっかり、魔防効果のある結婚指輪を渡しそびれていたのだ。
「お前は、耐魔力と魔防が高いのかもしれん。潜在的な魔力も、かなりあるのだろう」
『お父様は、そんなことおっしゃっていませんでしたけれど』
「そうか」
ヴィオレット本人についても、何かワケアリな気がしてならない。
しかし、そんなことよりも重要なことがあった。
大白虎との契約についてだ。
「して、どうする?」
『まあ、わたくしに懐いていますし、ポメラニアンの遊び相手になりそうですから、契約いたします』
ヴィオレットは日中、ポメラニアンと過ごしているようだ。大精霊と気づかず、普通の犬として接しているらしい。
ポメラニアンを崇める精霊術師が知ったら、悲鳴をあげるような状況だろう。
『あなたは、よろしいの?』
「何がだ?」
『だって、この子、二メトル以上になるかもしれないのでしょう?』
猫科幻獣大白虎がいることに関して、まったく問題ではない。むしろ、大歓迎だった。
猫の妻と、幻獣な猫との暮らしなど、楽園のようなものだろう。
正直なところ、小躍りするほど嬉しい。
しかし、心境と言葉は異なるものだった。
「幻獣を傍に置いて損をすることはない。だから、好きにするように」
『ありがとう』
ハイドランジアはヴィオレットに、幻獣との契約方法を教える。
「まず一つ目は、血を与えることによって強制契約させるもの。次に、名前を与えて契約させること。最後に、心を通わせ、契約を持ちかけることの三つだ」
その中でヴィオレットが選んだのは、大白虎に契約するかどうか尋ねるものだった。
もしも拒否したら、ハイドランジアが血の契約を行おうと考えていたが──。
『みゃあ!』
大白虎はすぐに、ヴィオレットとの契約に応じた。その瞬間、魔法陣が浮かび、パチンと音を鳴らして霧散した。
『これで、契約完了ですの?』
「みたいだな」
大白虎は嬉しそうに、ヴィオレットに頬擦りしていた。
頬擦りするほうも、されるほうも、どちらも羨ましい。大白虎と猫の姿の妻が可愛すぎて、危うく本日二回目の鼻血を噴きそうになった。
鼻を押さえて耐える。
『どうかしましたの?』
「いや、なんでもない。それよりも、名前はどうするのだ?」
『あなたが決めてくださる?』
「なぜ、私が? お前の幻獣だろう?」
そう問いかけたら、思いがけない言葉が返ってきた。
『この子を、わたくし達の子として育てようと思いまして。子の命名をするのは、父親の役目でしょう?』
「!?」
大白虎の、父親になれる。夢のような話に、頭の中で祝福の鐘がカランカランと音を鳴らしているような気がした。
「で、では、一晩考えて」
『名前がなかったら困るので、今、三秒で決めていただけます?』
「は?」
無茶ぶりだったが、ハイドランジアは一生懸命考える。
ちなみに、大白虎は雌らしい。
『いきますわよ。い~ち、に~い』
「…………」
『さん!』
「スノウワイト」
異国語で、『白』という意味である。三秒しかなかったので、単純な名前しか浮かんでこなかった。
ちらりとヴィオレットを見ると、目を細めて尻尾を振っている。
眼差しや尻尾の動きだけでは、どう思っているか分からない。
「スノウワイト、でいいのか?」
『ええ、よい名前ですわ』
どうやら、気に入ったようだ。
ヴィオレットがスノウワイトと呼びかけると、返事をするように『みゃあ』と鳴いた。
そんなわけで、思いがけず夫婦に第一子が誕生した瞬間であった。