早起きエルフと婚姻届け
庭から鳥のさえずりが聞こえ、カーテンの隙間から太陽の光が差し込む。
婚約者ヴィオレットを迎えた初めての朝だ。
『オハヨウ、七代目!』
『オハヨウ、七代目サン!』
『オハヨウ、七代目クン!』
「おはよう」
今日も、目覚めた途端に妖精に挨拶される。
手のひら大の小さな妖精は、金の短い巻き毛に美少年の姿をした蝶の翰を持つ世話焼き妖精だ。
ハイドランジアが生まれた時より、お世話している。
古くから、ローダンセ公爵家に仕える使役妖精だ。
妖精の一人が歌いだすと、小さな水滴と石鹸の泡が浮かび洗顔してくれる。水滴は口の中にも侵入し、薄荷の香りがする泡もあとに続く。口の中が泡でいっぱいになったのと同時に、歯ブラシが差し込まれた。小さいころは鼻で息をすることを知らずに、何度も溺れそうになる。慣れるまでずいぶんと時間を要した。
別の妖精はナイフを握って、顎を丁寧に剃ってくれた。
一人が寝間着のボタンを外す間に、あとの二人がアイロンのかかったシャツを持ってくる。
脱がされた寝間着と入れ替わるように、シャツが肩に乗せられた。袖を通すと、ボタンを閉じてくれた。
シャツにアスコットタイを巻き、スティックピンで留める。上からネイビーブルーの胴衣を纏った。
黒いズボンを穿いて、ピカピカに磨かれた長靴を履く。せっせと紐を穴に通し、結んでくれるのも妖精だ。
続いて、銀の髪に柑橘の香りがする精油が垂らされ、丁寧に梳られる。
今日は国王の謁見があるので、長い髪は三つ編みに編んでくれた。完成した三つ編みは、胸の前から垂らす。
以上で朝の身支度は完了である。これに魔法師団の外套を着たら、いつでも出勤できる状態だ。
『七代目、カッコイイヨ!』
『七代目サン、イケテル!』
『七代目クン、サイコウ!』
世話焼き妖精は拍手をしつつ、身支度の完成度を絶賛した。
ハイドランジアは尊大な態度で、「ごくろうだった」と返す。
そろそろ朝食の時間なので、食堂へ転移した。
広い長方形の食卓には、今までハイドランジア一人分の食事しか用意されなかった。
しかし、目の前にもう一つ、皿とカトラリーが用意されている。ヴィオレットの分だ。
給仕が引いた椅子に腰かけながら、ヴィオレットは来ないだろうと予想する。
昨晩の物言いでは、顔も見たくないような勢いだった。
しかし──その予想は外れる。
ヴィオレットは、ポメラニアンを胸に抱いた姿で現れたのだ。
どうやら呪いは一晩のうちに解けたようで、人の姿で現れる。
首まで詰まった生成り色のモーニング・ドレスを纏い、髪は両サイドから三つ編みにして、ハーフアップにしていた。
身支度はバーベナがしたのだろう。薄く施した化粧はヴィオレットの美しさを際立たせている。
濃い化粧を止め、流行りのドレスを着せただけで、ヴィオレットの印象は大きく異なった。
色気がタダ漏れの淫魔から、清楚で楚々とした美しい女性へと変貌している。
やはり、女性とは末恐ろしい存在だ。ハイドランジアはそう思いながら、朝の挨拶をする。
「おはよう、婚約者殿」
「おはようございます。誘拐犯さん」
ヴィオレットは、朝からツンとした態度だった。それも無理はない。昨日の晩、無理矢理ノースポール伯爵家から連れ出したのだから。
申し訳ないと思っていたが、今は謝るつもりはなかった。
「それにしても、あなたは、とんでもないことを、してくれましたわ」
「とんでもない、とは?」
「そ、それは」
しどろもどろと、話し始める。
朝、ヴィオレットが目覚めると一糸まとわぬ姿だった。それはいつものことだったが、いつもと違うことがあった。
唯一、身に着けているものがあったのだが──。
「なんのことだ?」
「しらばっくれないでいただけます? あなたが首に巻いた赤いリボンのことですわ!」
「ああ……」
リボンが解けないのは、猫の姿の時だけだと思っていたらしい。しかし、人の姿になってもリボンは解けなかった。
つまり、ヴィオレットは首にリボンだけを巻いただけの姿で目覚めたのだ。
「人のサイズにも対応している、古代の英知が詰まったリボンだ。大事にするように」
「なっ!」
「ちなみに、色も変えられる」
「……」
リボンについて文句を続けていたが、それよりも彼女が胸に抱いている犬が気になる。
「なぜ、ポメラニアンを抱いている?」
「この子は、食堂の近くで会いましたの。可愛らしいワンちゃんを飼っていますのね」
「可愛らしい、ね」
見た目は小型犬でコロコロしていて可愛いが、中身は何千年と生きる大精霊である。話し声は中年オヤジのようで、人とあまり関わりたがらない。
だが、ヴィオレットには触れることを許しているようだ。
先ほどから、頭を撫でられている。
家令のヘリオトロープがポメラニアンを受け取ろうとしたら、ポメラニアンは伸ばされた手を回避するようにヴィオレットの胸から飛び出した。
「この通り、あれは人には懐かん」
「そうでしたのね。大人しかったから、人懐っこい子だとばかり」
内心、「何が、特別にもふもふを許してやるだ」と思う。そういえば、ポメラニアンはハイドランジアの亡き母とも仲が良好だったという話も聞いたことがあった。
女好きの可能性が浮上した。
ポメラニアンが大精霊だというのは、現在ハイドランジアしか知らない。皆、普通の犬だと思っている。
ヴィオレットにも言うつもりはなかった。
「いい加減、座らないか。スープが冷める」
「言われなくとも、座らせていただきます」
給仕の引いた椅子に腰かけ、手始めとばかりにハイドランジアを睨みつけた。
「眉間に皺ばかり寄せていると、そのような面になってしまうぞ」
「あなたが、眉間に皺を寄せたくなるようなことばかりするから──」
茶が運ばれると、ヴィオレットは唇を閉ざす。
以降、大人しく食事をし始めた。一応、礼儀はわきまえているようで、その点は評価した。
カボチャのポタージュに、焼きたてのパン、半熟に茹でられた卵に、カリカリのベーコン。
いつもの朝食であるものの、今日はヴィオレットがいる。
物言わぬ彼女は美しく、黙っているならば一緒にいるのも悪くもないとハイドランジアは思った──が、そんなひと時もすぐに終わった。
「今日、陛下に婚姻届けを提出する。署名をしてくれ」
ヘリオトロープが銀盆の上に置かれた婚姻届けを、ヴィオレットの前に置いた。
そこにはすでにノースポール伯爵家の家紋印が押され、当主の署名が書かれてある。
あとは、ヴィオレットが名前を記入するだけになっていた。
「なっ……これは!」
「すぐに出勤しなければならない。早急に頼む」
「わ、わたくしは、あなたと結婚するつもりなど、これっぽっちもありませんわ」
「奇遇だな。私も、お前と結婚したくはないが、事情が事情だから仕方がないのだ」
「な、なんですって!」
ヴィオレットは食卓をバン! と叩き、立ち上がる。食堂から去ろうとしたので、ハイドランジアは大股で歩きヴィオレットの肩を掴んだ。
『ん──にゃ!?』
ヴィオレットの姿は、美しい娘のものから猫の姿へと変化する。
ハイドランジアはヴィオレットを抱き上げ、食卓へと近づいた。
ジタバタと暴れていたが、力で押さえた。出勤時間はもう迫っている。ゆっくりしている暇はないのだ。
「ヘリオトロープ、朱肉を用意しろ」
「はっ!」
食卓の上に置かれた朱肉に、ヴィオレットの肉球を押し当てる。
『な、何をなさいますの?』
「署名代わりだ」
『や、止めて! わたくしは、あなたと結婚なんか──』
ペタンと、婚姻届けにヴィオレットの肉球を押した。これで、婚姻届けは完全なものとなる。
手を放すとヴィオレットはハイドランジアの胸から離れていった。しかし、次の瞬間には目の前に跳んでくる。
『その婚姻届けを、渡しなさい!!』
「ヴィオレット嬢、すまんな」
そう言ってハイドランジアは転移魔法を展開させ、瞬く間に姿を消した。
ヴィオレットの伸ばされた手が、婚姻届けに行きつくことはなかった。