悪役エルフとにゃんごとない喧嘩
ヴィオレットはハイドランジアのもとに駆け寄り、手を振り上げて叩いた。
頬に触れた瞬間、猫の姿となる。同時に、鋭い痛みが走った。爪で引っ掻かれてしまったのだ。
集中力が途切れ、ノースポール伯爵にかけた自白魔法が解ける。
『お兄様!!』
ノースポール伯爵は青白い表情のまま、近づく妹ヴィオレットを強く睨んだ。
「お、お前は、は、話を盗み聞きしていた上に、公爵様に危害を、加えるなんて!」
『だって、お兄様が辛そうになさっていたから!』
「こ、こんな苦しみなど、一瞬だけだ」
『でも……!』
「いいから下がるんだ。お前に聞かせる話では、ない」
ヴィオレットにはトリトマ・セルシアとの関係は、話していなかったようだ。
だから、彼女は扉の向こうから盗み聞きしていたのだろう。
「お前は、取り返しのつかないことを、してくれた! この結婚を逃したら、二度と、嫁になど行けないというのに」
『別に、構いませんわ! お兄様を苦しめるお方になんか、嫁ぎません!』
よほど怒っているのか、ヴィオレットはハイドランジアを振り返り、鋭く見つめながら言ってきた。
猫の姿で睨んでも、迫力に欠けることには気づいていないようだが。
『結婚なんてしなくても、優しいお兄様がいて、お義姉様がいて……わたくしは、十分幸せですわ。別に、このままでも──』
そんな主張をするヴィオレットの言葉を制すように、ハイドランジアは口を挟む。
「綺麗ごとを言うのは構わないが、金はどんどん奪われているのだろう?」
『そ、そうですの? お兄様?』
「……」
やはり、事情を話すつもりはないようだ。
父親シランの名誉を守るために、ここまでするのは愚かなことだろう。
シランはもう死んだ。悪徳商人の脅しなど屈する必要などないのに、なぜ頑なに金を払い続けているのか。
「公爵様……わ、私には、死んでも守らなければならないものがあります」
「それは、誰かの名誉か?」
「いいえ!」
シランのために、言われるがまま金を払い続けているのではないようだ。
他に、理由があると。
『お兄様、それはいったい──』
「言えない。これだけは、言えないんだよ……」
これ以上、話を聞きだそうとしても無駄だろう。
ノースポール伯爵は自白魔法にも屈せず、妹の問いかけにも答えなかった。
相当、頑固な人物のようだ。
ハイドランジアは無言で立ち上がり、踵を返す。
「公爵……あの、妹の持参金はありませんが……け、結婚を、してくれますよね?」
『お兄様、この期に及んで何をおっしゃっていますの!? わたくし、このお方とは、結婚いたしません!!』
「こうは言っていますが、本心じゃないんです。あなたに魔法を習うことを、毎日、楽しみにしていまして」
『ぜんぜん、ぜんぜん楽しみではありませんわ!!』
ヴィオレットは、兄の言葉に反論する。
『お兄様を苦しめるお方なんて、最低最悪ですわ! 大嫌い!』
振り返ると、ヴィオレットは全身の毛を逆立たせて怒っていた。しかし、ハイドランジアの頬の爪傷に気づくと、その勢いはしぼんでいく。
大人しくなった隙に、ハイドランジアはヴィオレットへ接近した。
そして、首根っこを掴んで持ち上げる。
目線を同じにした瞬間、ハイドランジアはニヤリと微笑んだ。その瞬間、ヴィオレットの美しい毛並みがぶわりと膨らむ。
『なっ──! は、放しなさい! わたくしに触れるなんて、絶対に赦さないんだから!』
威勢よく叫ぶものの、声は上擦り、体は緊張からピンと伸びていた。
「ごちゃごちゃとうるさい娘だ」
『あなたが変なことをするので、いろいろ言うのです!』
「結婚は、予定通り行う」
「は? じ、持参金もありませんのに?」
「別に、ノースポール伯爵家の小鳥の涙のようなささやかな持参金など、まったくあてにしていない」
『な、なんですって!?』
またしても、ヴィオレットは爪で引っ掻こうと手を動かすが、ハイドランジアには届かなかった。
『ちょっと、いつまでわたくしを、子猫みたいに持っていますの?』
「子猫だから、仕方がないだろう?」
『わたくしが、子猫ですって?』
「キイキイ喚くだけの、子猫に違いないだろう?」
『~~~~!!』
ジタバタと手足を動かして抵抗しようとしていたが、猫の姿では無意味だった。
引っ掻かれた頬はズキズキと痛んでいたが、可愛らしい抵抗に頬が緩む。
『何ですの? ニヤニヤと笑って』
「……」
可愛いからに決まっているだろう。そんなことは死んでも口にしない。
『とにかく! わたくしは、あなたのことが大大大大っ嫌いなんだか──』
「今日はこのまま、ヴィオレット嬢を連れて帰る。婚姻の書類は今晩のうちに書いて、明日提出しよう」
『はあぁぁ!?』
さすれば、ハイドランジアとヴィオレットは正式な夫婦となる。
『な、なぜ、そんなに急に──』
「お飾りの妻が、一刻も早く必要だからだ」
『お飾りの、妻、ですって?』
「そうだ。気づいていなかったのか? その猫の姿で、公爵家の女主人が務まるとでも?」
『!?』
ショックからか、ヴィオレットは手足をぶらんとさせて大人しくなる。
少々、言い過ぎてしまったか。
しかし、嫌な予感がしたのだ。早く、ヴィオレットをここから連れ出したほうがいいと、説明できないなんらかの感覚が危ないと警鐘を鳴らしていた。
「そんなわけで、妹は貰うぞ」
「は、はい! どうぞよろしくお願いいたします!」
『お兄様!』
ヴィオレットがそう叫んだのと同時に、ハイドランジアは転移魔法を発動させる。
景色が一回転し、ローダンセ公爵家の私室に戻ってきた。
床に着地したヴィオレットは、ハイドランジアに向かって威嚇する。
『こんなの、誘拐と同じですわ!! 実家に、帰らせていただきます!!』
そう言って勢いよく飛び出していったが、扉を開くことができずにうろうろしていた。
その隙に、ハイドランジアは魔法でヴィオレットにリボンを巻く。
『な、これは、なんですの?』
「逃走防止の魔法をかけたリボンだ。これでお前は、ここから出ることができない」
ヴィオレットは牙を剥きだしにして叫んだ。
『この、変態っ!!』