第九話 マニュアル通りに
居間でカレーを待っていると、リエナが何やらもじもじとしながら話しかけてくる。
「ねえ、シルバ。今日で私たちが出会って十年目よね」
「ああ。そうだな。懐かしい」
今日はリエナがフェート家にきて十年目。それ故にカミラはせっせと皆大好きなカレーを作成中だ。
「ほら、私たち婚約者でしょ? もっとこう……それらしい事してもいいんじゃない?」
「? 何が言いたいんだ?」
シルバに問われ、リエナの顔が紅潮する。
「いや、だから、その……なんでもない!」
リエナは見た目年齢に左右されているのか、大層な初心である。
そのほかにも、菓子を好んだり、駄々をこねたりと、精神年齢の割に行動が幼いことがある。
そのため、シルバに想いを伝えられていない。
二人は一応婚約者ではあるが、親が決めたものであるし、シルバはリエナを少し小さい姉としか見ていない。おまけにシルバは十六才になったら旅に出るつもりだ。これはリエナも知っている。
『大切な姉』
それがシルバの認識であり、婚約など、旅に出ればうやむやになってしまう。
だから、シルバはリエナに親愛の情しか抱いていないのである。
リエナは、どうしてもこの状況を打破したかった。
しかし、十年前に助けられてから一度も、それを成すことはできていない。
「おまたせ~。カレーライスでーす」
テンションの高い声でカミナが入ってくる。鍋つかみが装着された手は鍋の取っ手をしっかりと掴んでいた。
「母上、いつもありがとうございます」
注)シルバである。
「カミラさん、手伝いますよ」
リエナは気を紛らわすように黙々と食器を運んでいく。
楕円形の皿の左側にご飯をよそい、右側にカレーをかけて、皿の手前にスプーンを置く。
よそから来たリエナを気遣い、フェート家の制限はかなり緩和された。もともとシルバの教育のためにやっていたらしかったので、いずれはそうなっていたようだが。
なんにせよ、カレーは美味いし、スプーンは便利。それだけだ。
「「「いただきます」」」
久しぶりに食べるカレーは、とても、とても甘かった。
「なんでカレーが甘いんだよ……」
シルバの部屋。ベッドの上に寝転がり、苦しそうに腹をさすりながら、シルバはそう呟いた。
湯あみを済ませ浴衣に着替えてあるので、あとは瞑想をして眠るだけだ。
暑さ対策に魔法で部屋を冷やしてあるので、室内はいたって快適である。
「仕方ないでしょ、カミラさん甘いもの好きなんだから」
「うおっ!?」
不意打ちで帰ってきた返事に、シルバは跳ね起きる。
すぐ横に、リエナの端正な顔立ちがあった。
視線を下に向けると、胸元がはだけた寝巻が見える。体型にしては豊満な胸が、はだけた胸元から自己の存在を主張していた。
シルバはその光景にドキリとする。
本当に近頃のリエナの成長速度は凄まじい。下手したらシルバよりも速いんじゃないだろうか。
「なんだ、リエナか。どうした、そんなだらしない格好で」
「暑くて眠れないの。シルバの部屋は涼しいじゃん?」
「いくら暑いからってその服装はねえだろ。誘ってんのか?」
「……」
少し冗談めかして言ってみたが、反応は帰ってこなかった。
「誘ってるって言ったら?」
「な!?」
「冗談」
リエナはにこりと笑うと、長く伸ばした赤い髪を耳にかける。
「でも、シルバなら誘ってもいいかな」
「え?」
「なんでもない。それじゃあね」
それだけ言うと、リエナは部屋を出て行った。
あっけにとられたシルバだけが、ポツン、と残される。
「なんだったんだ……」
顔が少し熱い。
リエナは自室に戻るなり、一冊の本を手に取った。
『男のオトし方』
表紙にでかでかと表記されたその本の端部には、大量の付箋が貼り付いている。
今晩カミラに手渡されたそれを、慣れない手つきでめくっていく。
「……うん、マニュアル通りね」
確認と同時に、リエナの脳裏に自分の行いが再生される。
「~~ッ」
白い肌が見る見るうちに赤く染まり、そのままベッドに倒れこむ。
「……はずかしい」
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
『敵の出現を確認! 本家作戦室へ集合せよ! 繰り返す、作戦室へ集合せよ!』
どこからともなく響いた大声に、シルバは慌てて飛び起きる。
睡眠から復帰しつつある頭でも、辛うじて今の声が妖術の念話によるものだと気付けた。
本家まで念話を飛ばしてきたということは、それだけ緊急だということだ。
魔物の発生などとは比べ物にならない何かが起こっている。
素早く着替え、母屋の隣にある離れへと向かう。
離れとは名ばかりの建物は、作戦室として再利用されているのだ。
「シルバ!」
「こっちだ!」
同じく部屋を出ていたリエナと合流し、離れに入る。
案の上、妖狐族や不死鳥族、竜族など、有力な獣人の長が集まっていた。
「ああ、ちょうどよかった。シルバ、此方に来なさい」
ガルアに呼ばれて、そばまで歩いていく。
「同胞たちよ、すでに知っている者もいると思うが、せがれのシルバだ。今日が初陣になる。こやつには中央で暴れさせてやりたいのだが、どうだ?」
ガルアはそう言いながら、周囲を見渡す。
皆不敵な笑みを浮かべ、シルバを歓迎していた。
「よし! それでは戦の概要を説明する!」
ガルアがそう言うと、セレイヌがガルアに円筒に丸められた紙を手渡す。
ガルアによってテーブルの上に広げられたそれは、地図のようだった。
海に囲まれた大陸を大きな谷が縦断し、左側に人間の絵が、右側に獣人の絵が描かれている。
谷の一部に、赤いバッテンが記されていた。
「諸君にはこれを見てほしい」
ガルアは赤いバッテンを指さす。
「ここから人間が侵入した」
馬鹿な、と誰かがもらした。
無理もない。普通、あれほど広く深い渓谷を越えるのは不可能である。
「奴らは魔法で我々の目を欺きながら大橋を建設し、そこを通って進軍してきた。その数は五十万。こちらの兵力は現時点で二万。援軍を考慮しても五万だ。これ以上は民に大きな負担がかかる」
ガルアは今一度視線を巡らせる。圧倒的な戦力差でも、怖気づいたものはいない。
「だが、どうせなら、二万(俺たち)で五十万(人間)を全滅させようじゃないか。
休戦協定を破り、欲にまみれて進軍してきた人間共から同胞を守ろうではないか」
ガルアは己の獲物である太刀を掲げた。離れの天井すれすれまで持ち上がった刀身が、灯りのオレンジを反射する。
獣人たちもそれに倣い、各々の獲物を掲げる。
一応シルバも空気を読み、握りこぶしを掲げた。
「開戦だ」
「「「「おお!」」」」
所変わって大谷前。荒野を人間軍が進軍してくる様を、シルバは陰鬱な気分で見つめていた。
「さすがに、口頭で聞くのと実際に見るのは違うな」
あの後作戦を決めることもなく、敵の位置を確認するだけで解散してしまった。
種族ごとに役割は決まっているそうで、妖狐族の場合、人に紛れて妖術で撹乱するのがそれにあたる。
リエナは人間にトラウマを抱いていることを考慮され、空からの爆撃をするそうだ。
リエナ以外の不死鳥たちは最前線で戦うらしく、人間軍の手前の岩に待ち伏せている。
ドゴオオン、と、人間軍の前方が炸裂した。
始まったらしい。
鬼族が攻めたあたりで、人間が十メートルほど上に吹き飛び、重力によって頭から大地へと飛び込む。
妖狐族の担当区で、兵士の数人が幻覚でも見ているように味方に切りかかり、その兵士をきった人間も操られるようにほかの兵に襲い掛かる。
上空から獄炎を撃ち出しまくっているのは、おそらくリエナだろう。不死鳥族特有の炎翼が、羽ばたく度に火の粉を撒いている。
シルバも仕事をしようと、腰かけていた岩から立ち上がった。
「おお、出陣ですか、シルバ様」
急遽配属された部下が期待の眼差しで見つめてくる。
年はシルバと同年代くらい、同じ妖狐族である。
シルバは手を軽く上げて答えると、計算を始めた。
「五十万を二万でつぶすわけだから……一人当たり大体二十五人。二万の中のほとんどが幻獣種以外の弱い種族だから、幻獣種のノルマは一人二百人ってとこか。俺の場合は次期族長という付加価値もついて四百人だな」
シルバはそう結論付けると、今にも突撃しようとしている騎兵部隊に目を向け、自らの左目に指を刺し入れた。
そして、残った右目で騎兵部隊を凝視しながら、えぐり出した左目を握りつぶす。
異変はすぐに表れた。
騎士の一人が落馬し、後続の馬に踏み潰される。
一人、また一人と脱落者は増えていき、最後尾の騎士だけが地面でのたうっているのみとなった。
「シルバ様、何をしたんですか?」
部下が聞いてくる。
「呪術だよ。五感を狂わせた。しばらくは何もできなくなる」
「呪術!? なんですか、それ。聞いたことありませんけど」
「父上が書庫から指南書を出してきたんだ。これはさすがにお前にはできないだろう、ってな。できたけど」
シルバはそう言って、リザレクションで目を再生させる。
「おおー。それも呪術ですか。便利そうですね」
「…………ああ。そうだ」
人間の使う魔法です、と言うわけにもいかず、適当にごまかしておく。
「じゃあ、次行こう」
シルバは、後衛の魔法部隊へと人差し指を向けた。