第五十四話 賭け
それはテラリアが四十九階層に到達する、ほんの十分ほど前の話。
脅威のスピードでダンジョンを突破したテラリアは、もう既に四十一階層に足を踏み入れていた。
にもかかわらず、闘技場にモンスターの影はない。
ただ、闘技場の真上に広がる空、太陽の真横に、分厚い雲がいくつも浮かんでいた。
ダンジョンでも雨は降るのだろうかと、小さな疑問を沸き立たせる、そんな分厚い雲。
「ねえ、テラリア。少し賭けをしてみないかい?」
『賭け、ですか』
魔王の代わりに彼女に相対するのは道化。笑顔で固定されたマスクを被っているが、声色から察するに少し、焦っているらしかった。
これはテラリアの知らない事だが、シルバ達はもう既にエステリカの迷宮最後のボス、初代魔王タルテと激突し、現在異空間をさまよっている最中である。タルテが根負けして魔法を取り消すのも時間の問題だ。
もしシルバ達が勝利したのなら、この後にはビッグイベントが待っている。そこにテラリアが入ってくるのは、道化としては少々面白くない。
そもそも、本来ならテラリアはもっと早く、二日足らずでこのダンジョンを踏破して、シルバ、サナ、テラリアの三者間にわだかまりを残していたはずだったのだ。道化はそれをコアルームで菓子でも楽しみながら見ていたはずだった。
道化の予想外のことだった。
まさか、テラリアが墓地エリアで足止めをくらうなんて。
まさか、人間を大量虐殺した奴が”お化けが苦手”などとぬかすなんて!
仕方がないので、道化はこうしてテラリアに「賭け」を持ちかけているのである。
残り時間が、心許ない。
「そう、賭けさ。いや、実はね、このエリアはボスラッシュのために造ったんだけど、サナちゃんがボスを撃破しちゃったせいで今は何もいないんだ。どこかから連れてくるのもめんどくさいんだよね~」
嘘だ。
本当は即時で復活させられる。ダンジョンのモンスターはDPで簡単に生み出す事が出来るため、補充はいつでも可能だ。
大精霊は世界全体に魔力を循環させるため、必ず依代を持っている。それは世界にまたとない宝石だったり、ただ単に巨大なだけの大木だったりするのだが、それに付随して大精霊たちに与えられるのが、依代を守るためのダンジョンだ。
当然テラリアも例に漏れずダンジョンを所有しているため、気づかれる可能性は無きにしも非ずだが、気まぐれな彼女の事だ。きっとろくに運営をしていないに違いない。
道化の予想は当たったようで、テラリアに疑うそぶりは見られない。
「そこでね、これは君にとっても良い話なんだけど、条件付きでサナちゃんのところに直接、転移してみない?」
『へえ、いいですね。条件次第ですが』
食いついた。彼女のシルバに対する執着を考えると、それに大した意外性はない。
これで、道化が描いたシナリオを修正できる。
道化はマスクの裏で邪悪な笑みを浮かべながら、契約魔法を構築しつつ、条件を提示した。
「なに、簡単な話だよ。条件は僕と君の間で、賭けをする事。内容は――」
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
闘技場。
その中央で、魔王タルテは「ああ、お花畑が見えるッス……。あ、おばあちゃーん」とうわ言のように呟いており、その元凶はサナの頭にへばりついている。可愛いかわいい精霊ちゃんだ。
なんでここにテラリアがいるのか。
シルバにはわからなかった。
最近の精霊は魔王を吹き飛ばせるほど強いのか。
シルバには知る由もない。
なぜテラリアはサナの頭に抱き着いて、話しかけているのか。
シルバには理解できない。
『? あれ、聞こえてますか~?』
反応が無いことを怪訝に思ったのか、テラリアはサナの顔の真ん前に回り込み、ふわりとホバリングする。
ここでようやく、テラリアがサナを自分と勘違いしているのが、シルバにも理解できた。
シルバという文字通り「目」を通じてサナにも見えているであろう精霊の姿が、困惑で揺れた。
シルバは思ってもみない再会に、未だ思考を凍結させたままである。
しばし無言のまま時間が流れる。
最初に口を開いたのは、この場で一番関係のないはずのサナだった。
「あなた、誰?」
『……』
ある意味当然ともいえるサナの一言。
テラリアは虚を突かれて呆然とするが、すぐに立ち直って、
『あはは。さすがにそれはちょっとひどいですよ。あんまりですよ。女の子になっちゃったから、照れてるんでしょ? 大丈夫。笑ったりしませんから。ほら、あなたの精霊テラリアちゃんですよ』
テラリアはいつか一緒に旅をした時のように、ニコニコと笑っていた。
小さな小さな少女は手を後ろで組み、空中をテケテケ歩いている。
時折顔が少しだけ歪むが、それでも笑っていたのだ。
「だから、誰? 私はあなたを知らない」
精霊と妖精だけが持つと言われる、ガラス細工のように透き通った羽が、彼女の心中を表すようにしゅんと沈む。
シルバは何も言わない。言う事が出来ない。
もし応えてしまったら? きっと楽しい生活が待っているんだろう。
だが、サナにはどう説明する?
彼女はまだシルバの事を自分の魔眼から派生した意識でしかないと思っている。
大昔の人間が目玉に転生して、自分の眼に寄生しているなんて夢にも思っていないだろう。
そんな彼女に”この人は前世の知り合いです”なんて言ったらどうなるか想像できない。
想像できないから、怖い。
そして、もしサナとシルバが決別するようなことがあれば、サナは独りだ。
強くなっても、継母を追い出すことはできない。彼女はサナを陥れたが、記憶を見た限りではサナの父を心から愛しているようにも見えた。
継母は邪魔なのだ。愛する男と、自分以外の女との愛の結晶が。
彼女を排せば、サナの父が悲しむ。だから、何もできない。戻れない。
貴族のお嬢様として生きてきたサナが、公爵家という居場所と肩書を失ってしまったら、行く当てなんてないだろう。世界中のどこにも、居場所なんてないのだろう。サナは確かに変わったが、世間知らずのままだ。
それに、シルバは誓ったのだ。サナだけでも幸せにすると。
もちろん、ずっと隠し通すなんて真似はしない。いつかは打ち明けるつもりだ。
しかし、それは今じゃない。
テラリアも、いつまでも過去に縛られてはいけないだろう。
新しい契約者を見つけて、自由を謳歌すればいい。
それがお互いのためなのだから。
『……そう、ですか』
悲しそうに下を向くテラリア。
と思いきや、パッと顔を上げて、清々しい笑みを浮かべた。
『サナさん、どうやら人違いだったみたいです。申し訳ありませんでした』
テラリアが諦めたちょうどそのとき、太陽に差し掛かった雲が、闘技場に影を差した。
一瞬だけ視界が暗転し、瞳孔が網膜に入る光を調節する。
再びシルバの瞳に映りこんだテラリアは、きょとんとした顔をしていた。
なぜか、サナの右目、シルバの本体を食い入るように見つめている。
次の瞬間、喜色満面になって、萎れ気味だった羽をぴこんと跳ね上げた。
ばれた?
なぜ?
どこで?
シルバに考える暇も与えず、テラリアは再びサナの顔にダイブする。
そこには全く敵意がこもっていないので、サナの反応が遅れた。
魔力だけを通さない結界はテラリアの体を簡単に素通りさせ、ふんわりやわらかいボディーが肉薄する――!
「はい、そこまで。賭けは僕の勝ちだ」
接触の寸前の声。
シルバ達の文字通り目と鼻の先で、テラリアは不本意そうに、不自然に停止した。
何か重大な事を思い出した顔をして、考えること数秒。
先程までとは一転、親の敵でも見るような目で、声のしたほうを睨みつける。
「おぉっと。そんな目で睨まないでほしいな。双方の合意の結果でしょ?」
『何処がっ……! あなたは最初から答えを知っていた!』
「でも、勝ちは勝ちだ。賭けの内容はこう。
”サナ・グランハートがテラリアのことを知っていれば、テラリアの勝利。二人揃ってダンジョンから脱出する。知らなければ、道化の勝利。テラリアのみダンジョンから脱出する”
ね? 僕の勝ちでしょ? それじゃあ、ばいばーい」
言うが早いか、テラリアの体のサイズに合わせた小さな転移陣が現れた。
彼女の速度なら転移を回避することは容易いが、契約魔法の強制力が働き、抵抗の邪魔をする。
『ぐぅっ……!』
一瞬の躊躇い。
テラリアは一切の抵抗をやめて、シルバのほうに向き直った。
転移陣の輝きが増す。
残された時間で彼女のとった行動は、抵抗でも、道化への糾弾でもなかった。
ただ一言、
半ば確信をもって、
『また、会いましょう』
笑った。
フッと、静かに転移が行われる。
微かな残像だけが残って、それもすぐに消えた。
シルバの願ったとおりに、テラリアはサナに殆ど干渉することなく去った。
これがお互いのために、一番良い結果のはずだ。
しかしどうにも、なんともいえない苛ただしさが後を引いている。
完全に静寂となったのは、体感で十秒。実際は二秒。
「くっくくく……。あっははははははははっ、あははははぁっ、はひ、はははははははははははは!!」
二秒空けて、道化が狂ったように笑い出した。
いたずらが成功した少年のように、あるいは他人の不幸を嗤う幼子のように、声を上げて爆笑する。
ひどく不快で、耳障りな声だった。
「いやぁ、面白いものが観れたねぇ。一時はどうなることかと思ったけど、余興としては十分だよ。有耶無耶になっちゃったけど、君たちの勝ちってことで。じゃあ、ダンジョン踏破者さんにご褒美をあげないとね」
道化はひとしきり笑った後、そう告げて転移陣を出現させた。
そのまま自分も転移していく。
サナもそれに倣って転移陣に足を踏み入れるが、
『シルバ、あの小さな生き物は、なに?』
高速会話が可能な念話で話しかけてきた。
道化がこの場におらず、万に一つも盗聴される心配のないこの瞬間を狙ったのだろう。
『……知らねえ奴だ。本人(?)も言ってた通り、人違いだったんじゃねえか?』
サナは一瞬だけ、考えをめぐらせた。
『そう。ならいい』
刹那の会話が終了し、視界が切り替わる。
少しばかりどこかが痛む感覚を振り切って、シルバはこれからどうするかを考え始めた。
哀れな魔王タルテのことなど、すっかり忘れていた。




