09-B
フォルネルを出ておよそ5時間。
空を染めていた朱色が、黒色に負けていく。間もなく日没だ。
途中で何度か休憩を入れつつ歩を進めていた私たちは今、暗い森の中。
茂りに茂った木々の葉が、私たちが歩く道を照らすわずかな光すら、遮っている。
「ねぇ、ティナ」
私にぴったり身を寄せて歩くアイヴィーが、不安げな声を漏らす。
「ん?」
「ファミリア、いるのかな」
まぁ、不安になるのも当然か。
ほとんど闇に閉ざされた森の中は、不気味なほどに静まり返っている。
そして私たちは、街を出てから一度も奴らと遭遇していない。
いつ出会うのか。いつ襲われるのか。
その不安が、恐怖をどんどんかき立てていくんだ。
「私から離れないでよ?」
「離れるわけないじゃん!」
私の服の袖を掴むアイヴィーの手は、少し震えている。
「!」
足を止める。
「な、なになに? どうしたの、ティナ」
「しっ。静かにして」
人差し指を立てて言うと、アイヴィーは手のひらで口を塞いだ。
その目が、忙しなく周囲を見渡す。
私も同様に、辺りに視線を走らせる。
……何かが、聞こえた気がした。
いや、ファミリアではないかもしれない。ただ、森の小動物か虫が、動いただけかもしれない。
でも、視覚がほとんど闇に染められている今、聴覚が異常に敏感になっている。
少しの物音でも、心臓が跳ねる。
「――!」
ひときわ大きな音。草をかき分ける音か、それとも枯れ葉を踏みしめる音か。
そんなのはどっちでもいい。
いや、どちらの音も伴っていたのかもしれない。
「ティ、ティナ……」
「……」
音のした方、その薄闇の中に蠢く影。私たちが向かう先の道の上に、何かが出てきた。
身体は、かなり大きい。
そしてそれは、ひと目で森の動物ではないことがわかる何か。
……とうとう出てきたな。
黒の中に光る2つの黄色。それは、目。
不気味な輝きが、そいつが夜行性であることを伝えてくる。
どんな姿をしているのかはよく見えない。見えないけど、そいつの目が私たちに向けられていて、威嚇のような唸り声を浴びせかけられていれば、嫌でも理解できる。
……こいつが、今から私たちを襲うつもりなのだということを。
「走って! アイヴィーさん!」
「――えっ?」
叫ぶと共に、戸惑うアイヴィーの腕を掴んで駆け出す。
駆ける先は、私たちが進んできた方向。つまり、来た道を戻っているんだ。
なぜかって? そんなの逃げるために決まってる。
進行方向に敵が現れて、しかもこんな真っ暗闇の森の中ときたら、そんなの逃げるしかない。引き返すしか無い!
敵が何体いるのかもわからないし、暗闇の中では、夜行性であろうあいつの方が有利なのは明白。
迎え撃つにしても、とにかく森の外まで、開けた場所まで行かないと……!
少しでも、相手の有利な条件を減らすことを考えないと……!
後ろを振り返らずとも、奴が追ってきているのは足音でわかる。
……近い。結構速いぞ? 私に腕を掴まれて走るアイヴィーを一瞥。
……駄目だ。これ以上走る速度を上げたら、彼女はついてこられない。
今ですら、辛そうな呼吸音を漏らしながら走っている。おそらく、これが彼女の限界速度だ。
どうする?
ここで足を止めて、奴を迎撃するか?
いや、駄目だ。危険すぎる。
相手の姿も力量もわからないのに、倒せる気になっているのはマズイ。
どんな奴なのかわからないんだ。せめて、姿を確認しないと……!
「頑張って、アイヴィーさん! あと少し! あと少しだから!」
「も、無理っ! もう無理ぃ! 死ぬっ! 死んじゃうぅっ!」
確かに、もう何百メートルもの距離を、速度を落とさずに走っている。
普段走り慣れていない人なら、呼吸が苦しくなっても仕方ない。
でも、駄目だ。止まるわけにはいかない!
とにかく走って! 頑張って! アイヴィー!
さらに走り続け、とうとう森の闇が途切れる場所が見えてきた。
あと少し。
そう思った次の瞬間――
「――!」
何かが、私たちの頭上を飛び越える。そしてそれは、森の出口の光を浴びかけた私たちの前に下り立った。
慌てて足を止め、呼吸を荒らげているアイヴィーを身体の後ろへ隠す。
私たちより先に、日の光の残滓を浴びたそいつの姿が、明らかになる。
……猫? いや、そんな可愛いものじゃない。
猫は猫でも、ネコ科の、猫より大きくて猫より危ない動物。
それは、この国にはいない動物だ。
図鑑などの絵でしか見たことのない、あいつ。
なんて言ったっけ……。
……そうだ、虎だ。
顔に独特な模様、身体に縞模様を持つ、獰猛な肉食獣。
その虎の顔が、そこにあった。
けれど、身体は人間に近い。二足歩行だ。
そう。過去三度戦ったアサルトウルフのような、動物の頭部と人間の身体という組み合わせ。
アサルトウルフは、筋骨隆々な男性的な肉体をしているけれど、こいつは、どちらかといえば女性的な身体つきをしているように思える。
胸の膨らみがあるし、アサルトウルフほど逞しくはない。全体的に曲線が多く、しなやかな感じだ。
でも、アサルトウルフよりは身体が大きい。
その身体を覆う体毛は白く、森の外を吹く風になびいている。
そいつの佇まいに、思わず、一瞬だけだけど、綺麗だなと感じてしまった。
「木の後ろに隠れてて」
アイヴィーがくっついたままじゃ、戦いづらい。
それにこいつは、ここに来るまでに戦ったどのファミリアとも違う雰囲気を纏っている。
……きっと、こいつは強い。そんな気がする。
私の様子に何を感じ取ったか、アイヴィーは特に戸惑いの言葉も残さずに、私から離れる。
「これ、持ってて」
敵から目を離さずに、肩にかけていたバッグをアイヴィーに渡す。
バッグを無言で受け取ったアイヴィーは、近くの木の後ろへと移動した。
それを確認しつつ、剣を抜く。
……ほかに気配も音も無い。こいつだけか?
1体なら、……いや、まだこいつを侮れるだけの根拠を手に入れてはいない。
気を抜くな。
虎型ファミリアは、剣を抜くという敵対行動を見せた私に対し、しかし泰然としている。
その双眸に宿る光も、冷め切っているように見えた。
どうして、そんなに落ち着き払ってる?
まさか、私たちを襲う気は無いとか、そんなことは……
「――!」
なかった。
突如、地を蹴って駆け出す虎。とんでもない速度で私へと肉薄し、私の倍くらいの太さの腕を伸ばしてきた。
人間のものと同じ形の大きな手。その五本の指から伸びる鋭い爪が、迫る。
しかし、その速度は目にも留まらぬほどではない。
繰り出された攻撃をかいくぐり、一歩で懐へ。そして剣を振れば……って、あれ?
私の剣は、なんの手応えもなく、その場の空を斬った。
避けたっ?
「!」
一瞬、私がいる場所が影に覆われる。
上を見れば、すでに私の上を飛び越えた虎の尻尾が残るのみ。
直後、背後で着地の音。
「――!」
次いで、重い衝撃が右側頭部を揺らす。
「かっ……」
何が起きた? その思考も、ブレて消えそうになる。
「ぐっ……ふっ……!」
気付けば、私の身体は地面を転がっていた。
……蹴られた?
それを理解した時には、すでに敵の姿は眼前だ。
「――がっ」
直後、左腕から衝撃が広がり、妙な感覚を味わう。
……浮いてる?
蹴り上げられたのか!
側頭部で爆発した衝撃によって、まだ意識がぐらぐらしている中、それだけは理解できた。
そして、身体が落下していく感覚。
このまま地面に激突するのかと、血が冷えていくのを感じた直後――
「――!」
腹部にめりこむ、何か。
見開いた目が、白い拳を見る。
その後は、もう何がどうなったのかはわからなかった。
繰り返される衝撃と激痛。地面を何度も跳ね転がっていたことを理解したのは、顔面から地面に激突し、ようやく回転が止まった後だった。
「あ……ぐ……」
身体を起こそうにも、手足に力が入らない。お腹も痛い……。
……なんて力だ。
いや、力だけじゃない。身のこなしもかなりのものだ。
少なくとも、私よりは確実に優れている。
マズイ。マズイぞ。
このままじゃ負ける……。
殺される……。
「こ……の……」
歯を食い縛り、無理矢理身体を動かす。
「!」
影。顔を上げずとも、そいつがすでにそこにいることはわかる。
このまま、こんなところで殺されるわけにはいかない!
迫る何かの気配に合わせ、手足をバネにしてその場を離れる。
直後、大きな足が空を斬った。また蹴り上げるつもりだったのか。
……こいつ、私をおもちゃにしてるんだ。
そう確信すると共に、怒りが湧き出してくる。
馬鹿にするなよ……!
手足の力が若干戻り、どうにか立ち上がるところまではいけた。
剣を構えた時、つーっと、鼻から何かが垂れる感覚。……鼻血か?
そんなものに構っている暇は無い。
「うっ」
予備動作もほとんど無しに繰り出される拳。身体ごと横へ動かして、どうにか回避に成功。
直後、もう一方の拳が顎を狙って振り上げられる。
それを身体を後ろに引いて躱しつつ、剣を振る。
切っ先が、私の顎を狙った左腕を撫でた。鮮血が、白い体毛を汚す。
しかし、そいつは怯まない。
返す刀で刺突を繰り出すけど、無駄の無い動きで躱され、その軽やかな動きのまま踏み込んでくる。
踏み込まれた分後ろへ跳び、剣を振り下ろす。
その攻撃を、直前で足を止めて素早く身を捩って避ける虎。
「――なっ」
そいつは剣を握る私の右腕をガシッと掴み、そこを起点に飛翔。
それに対処しようと動くよりも早く、後頭部に衝撃。あまりの威力に身体が吹き飛び、地面に叩きつけられた。
「ぐ……ぁ……」
頭がさらにぐらぐらして、視界が回る。口の中に、血の味が広がっていく。
……強い。完全に遊ばれてる。
でも、このまま殺されるわけには……!
私が殺されれば、次はアイヴィーが狙われるのは間違いない。
戦う力の無い彼女が、生き残る術は無い。
「く……あぁ……」
動かない身体を必死に動かし、立ち上がる。……よし。剣は手放してないな。
剣を構える。その時には、すでに虎は目の前に立っていた。
一気に決められるくせに、あくまで私をいたぶるつもりのようだ。
繰り出される拳を、躱す、躱す。
下手に踏み込めばやられる。とにかく、隙を作らないと……。
でも、あまり悠長なことはしていられない。
すでに日は沈み、残された陽光はわずか。完全に夜闇に閉ざされれば、勝ち目は無くなる。
早く、なんとかしないと……!
いや、焦っちゃ駄目だ。
敵の動きを、よく見るんだ。攻撃を、躱せ、躱せ、躱せ!
こいつの体術は、確かに凄い。身体能力は相当高い。
だけど、攻撃は躱せる。冷静になって集中してさえいれば、避けるだけならどうということはない。
……奴の動きに慣れてきたというのもあるだろう。
けど、変だな。
私の身体には、かなりのダメージが蓄積しているはず。
特に頭部は、下手をすれば死んでいてもおかしくないくらいの蹴りを二度も食らったんだ。
なのに、私は気絶すらしていない。意識も、割りとはっきりしている。
これも、シャノンとの稽古のおかげか?
……などと考える余裕が、なぜかある。
怒涛の勢いで打ち込まれる拳や蹴りを、同じだけの速度で躱し続ける私。
見据えるは、虎の顔。
見える。わかる。こいつが次にどう攻撃してくるのか。どう動けばそれを躱せるのか。
行ける。――行くぞ!
剣を握る手に力を込め、前に踏み出す。
直後繰り出された拳を躱し、さらに大きく前へ。
そして、虎の胴にぴったりくっつくくらいにまで接近し、即座に剣を振る。
手応えは、……あった!
濃さを増していく夜空へ、虎の悲鳴が上がる。
そいつの右横腹から潜り込んだ刀身は、半ばまで斬り進んだところで外へ出された。
反対側に辿り着く前に、大きく後ろへ跳ばれたからだ。
刀身が、宙に血の線を描く。熱い飛沫が、顔に振りかかる。
虎は牙を剥き出しにして顔を歪め、手で腹の傷を押さえている。腹の白も手の白も、流れ出る赤に染め上げられていく。
悲鳴混じりの咆哮が、大気を揺らす。……傷はかなり深いようだ。
剣を構え、呼吸を整える。
そこでようやく、全身の痛みを思い出した。
頭が痛い。首も、腕も、足も、とにかく全身が痛い。重い。気を抜けば、この場で膝を折ってしまいそうだ。
……駄目だ。気を引き締めろ。
おそらく、次が最後だ。お互いに、最後の攻撃になる。
いや、決める。
私が、勝つ!
敵も同じように考えたのかはわからない。
だけど私たちは、同時に地を蹴った。見る間に、間合いが詰まる。
「――!」
全力で剣を振ろうとした瞬間、そいつは速度を上げた。
それ以上近付いたら、私の剣をまともに食らうぞ?
一体、どういうつもり――
――そしてそいつは、ようやくその武器を使った。




