第八話『過去ノ精算、ソシテ……』
①
四季春充という男は、破邪の血族の中にあって相当な変わり者だった。当主が段取りを組んだ縁談をあっさりと破棄して、一般人の香澄と結婚してしまったのが極めつけだった。普通の家庭を築きたいという思いが強かったのだろう。娘ばかりが三人生まれた時は、さすがにがっかりとこぼしたものだ。
『俺の夢は、息子と朝まで酒を飲み交わしながら、女の口説き方を叩きこむことだったんだけどなぁ……。この様子だとそれは叶いそうもないな』
春充はそう残念そうに見せていたが、実際はそれほどまんざらでもなかったのを憶えている。自分が結婚して、娘を授かった際は、いやに嬉しそうに祝福してくれた。
『お前も俺と同じ運命をたどりそうだな。娘の門出を祝う寂しい親父同士、仲良くやろうじゃないか』
その頃、破邪の血族の頂点に君臨していたのは、高科、桐生院、直江、橘の『四天王』だったが、橘が血族から除名されるという一大事件が起こり、血族の結束に大きな乱れが生じた。残った三家は、力の均衡が失われた組織を立て直すことに躍起になったが、足並みが上手く揃わず、事態は遅々として進もうとしなかった。
そこで頭角を現したのが、四季春充率いる四季家一門だった。彼らは上部組織から下部組織に至るまで、見事に統率してみせた。四季春充は、人の信頼や信用を集める能力に長けていたようだった。
『俺にはこれぐらいのことしかできんよ。後の事はお前さん達に任せるさ』
そう言って春充は、四天王に名を連ねることを頑なに拒否し、もともとの四季家勢力以外は全て御三家に預けてしまった。これには誰しもが驚いた。その時の理由を、一度だけ聞いてみたことがある。その時の春充の返答は、極めて庶民的なものだった。
『ただでさえ多忙なのに、これで四天王なんかになってみろ。家族と過ごす時間がなくなっちまう。血族の宿命も重要だが、俺には家族が第一なんだよ。それだけのことさ』
そう言って照れくさそうに笑った春充の顔が、今も目に焼きついて離れない。馬鹿な奴だと思いながらも、彼を羨ましいと思っている自分がいるのもまた事実だった。
新体制で動き出そうとしたその頃、常世側で大きな動きがあった。それは、現世で起こった破邪の血族の混乱に乗じたものだった。永らく常世にて勢力を拡大してきた『漆黒の虎狼』が、大規模な侵略攻勢を仕掛けてきたのだ。
血族は全力を挙げてこれを迎え撃った。これまでにないほどの、激しい戦いが繰り広げられた。たくさんの死傷者を生み、現世にも多大な悪影響を及ぼした。天変地異や人災の増発、常世の邪気が現世の生気を蝕んでいった。
受け身の体勢では戦線を支えきれないと判断した血族側は、思い切った反攻作戦に打って出た。少数の限られた精鋭でもって常世に攻め込み、漆黒の虎狼を討ち取ってしまうという、無謀としか思えない作戦だった。一発逆転を狙った賭のようなものだ。
当然、そんな危険極まる作戦に乗る者など、そうそう現れはしない。立案した御三家ですら、疑心暗鬼な計画だったのだから無理もない。強制指名もやむなしかと後悔した矢先、ある家が手を挙げた。四季家だった。
『それしか方法がないっていうなら、やってやるさ。他に来たい奴だけ一緒に来てくれ。たとえ無理だったとしても、奴等を牽制するぐらいの役は果たせるはずだからな』
結局、作戦への参加を決めたのは、四季家とそれに類する家だけだった。出立間際、春充は力強く笑って強がったものだ。
『別に、死ぬために行くわけじゃない。それに、ほらこれ、見てくれよ。娘達が作ってくれたお手製のお守りだ。これがあれば、俺は絶対に生きて帰れる』
そう言って春充は、左手薬指の結婚指輪を光らせつつ、稚拙なこども字で綴られたお守りを掲げてみせた。
四季春充によって編成された部隊は、無事に常世への侵入を果たした。その間、現世ではこれ以上の戦禍を及ぼさないために、御三家を中心とした徹底防戦が展開された。この時の死闘で、主だった破邪剣士や破邪法師の大半を失うことになったが、あの時はそんなことを考える余裕などなかった。ただひたすら、戦い続ける毎日だった。
ある時、不意に常世側の侵攻がぱったりと収まった。戦いに赴いた血族達が、思わず面食らうほどの静けさが還ってきていた。その原因はわかっていた。四季春充が自らの役目を果たし、漆黒の虎狼を討ち取ったのだ。
御三家をはじめ、破邪の血族は、春充を英雄として迎え入れようとした。しかし、現世に帰参したのが、たったの二名だったこと。さらに生き残ったもう一人は血族の人間ではなく、幼い少年だったことが、沸いた熱気を冷ましてしまった。
『この子は俺が預かる。絶対に俺がまともに育ててやる。だから何も言わないでくれ』
御三家に対しての説明も、終始それで一貫した。春充は、この件に関しては頑なだった。何度も査問が行われたが、彼はついに一言も明かさなかった。
一度だけ、ひどく酒に酔った春充が漏らしたことがあった。
『俺の夢が叶うかもしれん。……俺が無事に、アイツが何事もなく成長したら、だが……』
四季春充は焦っているようだった。事実、彼は変わってしまった。
あれだけ大事に思ってきた家族達のもとに帰ることが少なくなった。自分を痛めつけるかのように破邪業に身をやつし、日々を過ごした。それまでの彼の行動を思えば、考えられないことだ。
重ねて強く詰問をしたら、彼はようやく重い口を開いてくれた。おそらく、もう潮時と観念したのだろう。
『俺の命はもう長くない。常世での戦いで、邪気に蝕まれてな。これがその証拠さ』
そう言って服を脱いだ壮大の体は、どす黒く変色していた。いや、それだけならまだいい。ところどころが変異していて、それはまるで邪鬼妖魔を思わせるものだった。驚愕のあまり声も出せないでいると、春充はさらに衝撃の事実を告げた。
『栄斗は漆黒の虎狼の血肉を持って生まれた、第二の邪妖の主だ。そして俺が浴びた邪気は奴の魂そのもの。……今度生まれる俺の子に、それが宿ることになるだろう』
春充は事実のみを淡々と、包み隠さず話してくれた。彼の無念はいかばかりであったろう。邪気の影響のせいで愛する家族の元から去らねばならず、さらに重い枷をこれから生まれてくる子供に押しつけてしまったのだから。
『いつかはわからないが、漆黒の虎狼は間違いなく復活する。奴の妄執は尋常じゃない。それに深く関わるのは、栄斗と俺の子だ。……もしその時がきたら、お前の手で彼らを助けてやってくれ。もう俺には頼むことしかできない。……頼む!』
春充は泣いていた。悔しさと悲しさが入り交じった、悲痛の涙だった。その時誓ったのだ。友の願いは、必ずやこの手で成し遂げてみせる、と。
数年後、春充は破邪業の任に就いている途中で邪気に食われ、倒れた。報せを受けて駆けつけた時には、彼はもう虫の息だった。黒々とした邪気に冒され、もはや人としての形を為していなかった春充は、最後に笑ってくれた。
『……あとは頼んだぜ、親友。……みんな、すま……ない……』
それが四季春充の最後の言葉だった。このことは絶対に知られてはならない。周りには、恐怖に顔を青ざめさせた血族の者が何名かいた。血走った目で彼らを睨みながら、法術を編み出した。そして、訃報が発せられた。
四季春充は破邪業の任にて非業の死を遂げた。共に行動していた者も皆同じく、彼らは真の強者であり、愛すべき友であった、と。
春充の肉体は跡形も残らなかった。法術でせめてもの浄化を行えたのが、唯一の慰めだった。現世の一部になることができて、彼も本望であるはずだろう。
だが、悲しみに暮れる家族達に真実を告げることはできなかった。
それからの四季家の迷走は、目を覆いたくなるものだった。春充の妻である香澄が当主代理に収まったと聞いた時は、あまりの衝撃で胸が張り裂けそうだった。破邪の血族の激務に耐えられるわけがない。危惧した通り、彼女は間もなく病に倒れてしまった。
彼女が倒れた時、葬儀の時にも顔を出すことができなかったのは、春充が大切にしてきたものを見殺しにしてしまったという、罪の意識のせいだった。
それからは、徹底的な非情さを己に課した。これ以上の辛苦、悲哀を耐えるために、たとえ自分を偽ることになっても、そうするしかなかったからだ。
そしてついにその時がやってきた。常世側で大きな動きがあることをつかみ、かねてより温めていた計画を実行することに決めた。あえて常世側にこちらの情報を流し、標的を定めさせる。常世の邪気の影響を受けたせいで、あの少年は目論見通りに覚醒を果たした。邪妖の主の魂を受け継いだ少女も自分の手の裡にある。すべては計画通りだった。
覚醒を果たしたばかりで未熟な漆黒の虎狼に、邪妖の主の魂を送り込む。漆黒の虎狼が甦ったとしても、それは完全ではない。そこを血族が一斉にかかれば、今度こそ存在を消滅させることができる。亡き親友の無念を晴らすことができるのだ。それだけを考えて、彼は今日まで生きてきたのだから。
だが計画は、皮肉なことに、親友である春充の家族の絆によって制された。
『俺の家族は最高だからな。女ばかりで強すぎるのが難点だが、俺の人生で最大の宝物だよ』
生前の春充がしきりにそう言っては、嬉しそうに笑っていたのを思い出した。最後の最後まで家族を案じていた彼。いかなる時も父を、母を忘れることがなかった娘達。その絆に、自分の器の小ささを思い知らされたのだ……。
※※※
「……お父さん。そんなことが、あったなんて……!」
龍生の告白を聞き終えた春陽は、流れ落ちる涙を拭おうともしなかった。自分は何も知らなかった。家に帰ってこない父を恨みもしたし、悩みを打ち明けてくれない母に腹を立てたりもした。
自分は何も知らない子供だったのだ。目の前のことばかりにとらわれて、両親の想いに背いていたのだ。自分勝手な愛情を押しつけて、大切な家族を強引に縛りつけていた。その事実に、春陽は号泣した。
「姉さん……泣かないで、姉さん。お願いだから……!」
姉に寄り添う夏凛もまた泣いていた。両親が自分達家族を誇りに思っていてくれたことは嬉しかった。けれど、それだけで終わるのではなく、苦労も分かち合いたかった。優しくて偉大な父と、もっともっと触れあいたかった。
四季家の姉妹が泣き崩れる様を、征璽は目に焼きつけるように見つめていた。口にくわえていた煙草の根本まで灰になって、ぼろりと崩れて地面に落下していく。さしもの征璽も、事の真相を聞かされて呆然となっていた。
「四季殿がそのような重荷を背負っていたとは。……できることなら、もっと話をさせていただきたかった」
「当時、まだ私達は家の子弟に過ぎなかった。四季殿に対して、私は間違った認識を持っていたようだ。……権威に胡座をかいていただけだな。まったく」
一心は自らを責めるように呟くと、四季の姉妹のもとに歩み寄っていった。これから自分達が為すべき事を考えながら。
響は父親の元で、そっとその手を握っていた。少女の凛々とした瞳が涙で濡れている。父は確かに間違ったことをしていたのだろう。だがそれは私利私欲の為ではなかった。ひたすら愚直に、親友と交わした誓いを果たそうとしただけだったのだ。
「父上。響は、誰がなんと言おうと、父上のお味方をいたします。誓って。……それだけは信じてください」
「……ああ。すまない。すまなかった、響」
ひどく長かった一日がようやく終わろうとしている。空は完全に晴れ、月がやわらかな光を地上に送り届けてくれていた。
だがまだすべてが終わったわけではない。龍生の計画が潰えただけで、邪妖の主の復讐劇はまだ続いているのだ。しかし、それにも決着をつける時がきた。十数年前から続いてきた禍根を断ち、終幕を迎えるために。
破邪の血族達に新たな結束が求められている。そしてその鍵を握っているのは、四季家の家族による絆であった。
②
「おかえりなさい。栄斗くん、秋良姉さま!」
家に帰ってきた栄斗と秋良を迎えてくれたのは、家族の明るい笑顔だった。満面の笑顔の冬莉を中心に、春陽と夏凛はそれぞれ意味合いの違う笑みを浮かべていた。
「おかえりなさい。二人とも無事に帰ってきてくれて、本当によかった……!」
「ま、まあ、今日ぐらいは、遅い帰りでも許してやる。……おかえり。よく帰ってきたな」
春陽は感極まったのか目に涙を溜め、夏凛は照れ隠しのためかそっぽを向いてしまった。三者三様の仕草に栄斗達はおかしくなってしまい、二人で顔を見合わせると、我慢できずに吹き出してしまった。
「ほら! 二人とも早く! こっちに来て」
冬莉が、まだ靴も脱ぎかけの二人の手を取って、家の中へと導いていく。おとなしい末妹の積極的な行動に、栄斗らは面食らうも、ぐいぐいと引っ張られていく。長くもない廊下を走り抜けた先は、いつものリビングだった。冬莉がドアをいっぱいに開け放つ。その先に広がったのは、いつもと違う光景だった。
「これは……いったい何をしようっていうんだ?」
真っ先に目についたのは、部屋の中がきらびやかに装飾されていたことである。パーティーか何かをしようとでもいうのか、至るところにぴかぴかとした飾りがつけられている。さらに、すでに食卓は、たくさんの料理で賑やかとなっていた。春陽お手製による、贅を尽くした料理の数々である。
「うわ、すごいご馳走。本当にパーティーでもしようっていうのかな?」
それらを唖然として見やりながら、秋良が呟く。ふと、隣で栄斗が口をあんぐりと開けているのに気づき、秋良は不審に思いながら彼の硬直した視線を追った。そして、彼女もまた同じように惚けてしまった。
リビングの奥、テレビとソファが置かれたリラクゼーションルームに、旧知の顔が揃っていたからである。その顔ぶれは栄斗達にとって、あまりにも豪華すぎるものだった。
「夜分遅くにすまないが、お邪魔させてもらっているよ。春陽さんが誘ってくれたのでね。私達がここにいても構わないだろうか?」
律儀にソファから立ち上がり、会釈とともにそう言ってきたのは破邪の御三家筆頭、高科一心であった。その隣で、ちらりとこちらに視線を投げかけてきたのは桐生院征璽。彼らに対面するように座っていたのは、直江龍生、響親子であった。
立ち尽くしたまま何も言えないでいる栄斗の裾を、冬莉がくいくいと引っ張ってきた。
「春陽姉さまも夏凛姉さまもいいって言ってたよ。わたしもみんなと一緒がいいな。そのほうがきっと楽しいもの。……栄斗くんは、どうなの?」
愛らしい顔を不安そうに曇らせた冬莉に言われて、栄斗はようやく我に返ることができた。いつの間にか、背後には春陽と夏凛もやって来ていた。三人の視線を受けた栄斗は、秋良の方を向いた。秋良は何か言いたげだったが、努めて表情を消すと、ごく穏やかに言った。
「栄斗の判断にまかせる。……栄斗がいいっていうなら、アタシもそれに従うよ。何の後腐れもなくね」
言外に、自分達にしてきた仕打ちを許すと、秋良は言うのだった。そう理解した栄斗の答えは、ひとつしかない。四姉妹に向けて頷くと、栄斗は客人達に丁寧に頭を下げた。
「僕達はあなたがたを歓迎します。どうかごゆっくりとおくつろぎください」
栄斗のその挨拶で、場に張りつめていた緊張感が霧散した。そこで春陽が家長らしく、家族達に号令をかけた。
「さあ、四季家主催によるパーティーの始まりよ。みんな手伝ってくれるわね?」
姉の言葉に、栄斗を含めた妹達は、笑顔で応えるのだった。
パーティー会場に全員が集まって、和気あいあいとした雰囲気に和んだ。春陽は料理の仕上げを行い、夏凛が慣れない手つきでそれを手伝っている。冬莉は響を誘い、コップや小皿、飲み物などの準備を率先して行った。一心と龍生はそれらを微笑ましく眺め、征璽は黙然としながらも、それなりに楽しそうであった。
「……あのさ。アタシ達はここに座って、何もしないままでいいのかな?」
落ち着かなそうに栄斗に言ったのは秋良である。それもそのはず、彼らは上座に座らされ、完全な主賓扱いとなっていたからだ。手伝おうと腰を浮かしかけると、すぐさま春陽が押しとどめにくるので、不本意だがそれに従うしかなかった。
「まあいいんじゃないかな? みんな楽しそうだし。これでいいんだよ」
「そうかなあ。……でも、栄斗が言うからそうなんだろうね」
秋良がうっとりと微笑むので、栄斗は少しむずがゆい気分になった。だからといって公衆の面前で抱き寄せるわけにはいかないので、テーブルの下でそっと秋良の手に触れる。秋良は一瞬びくりとしながらも、その手を強く握り返した。それに気づいたのは征璽だけだった。
「青春、だな……」
その慨嘆は、周囲の喧噪と玄関の呼び鈴の音とで、誰の耳にも入らなかった。来客の報せに、冬莉がぱたぱたとスリッパを鳴らしながら玄関に向かった。その後を春陽が追いかける。ややあって戻ってきた時、その人数は三人に増えていた。恐縮した様子で現れたのは、ついさっきまで栄斗達と行動を共にしていた日佐谷宗四郎だった。
「やあやあすみませんね。急にお邪魔しちゃって……って、ええ? な、なんだって兄上がここにいるんだ?」
高科一心を見るなり、宗四郎は派手に取り乱した。さらに居並ぶ面々に唖然呆然としたが、響が顔を赤らめて見てくるのに対しては、げんなりと肩を落ちこませた。
「ずいぶんと久しぶりだな、宗四郎。ここでこうしてお前に会えたのも道理だ。今後についてゆっくりと話そうじゃないか」
一心は興奮を抑えているようだったが、言葉の端々から、嬉しさが滲み出ているのがわかる。宗四郎はリビングの手前で腰を引かせていたが、後ろに回った夏凛に背中を強く押され、なし崩し的に会場の虜となるのだった。
すごく嫌そうな顔で側を通りかかった宗四郎を、栄斗が止めた。耳元に小声で素早く問い質す。
「どうして家に来たんですか。深見さんと一緒だったはずでしょ?」
「家に帰って即行、あの肉食獣に襲いかかられた。アイツが呼び出しを食らったおかげで何とか助かった。少しでも遅かったら今頃……。考えただけでゾッとするぜ。お前も女の扱いには気をつけろよ。少しでも隙を見せたら、つけ込まれるからな」
うす寒そうにうそぶいて、宗四郎は招かれるがまま一心の隣に腰を下ろした。すると、その脇にちょこんと響が席を移動してきた。その時の直江龍生の顔は、完全に娘を思う父親のそれであった。
「よかった。宗四郎に会えて、私は嬉しいよ」
「ああそうかいオレはそんなでもないけどなハハハ」
「……宗四郎。今日はいっぱい、二人で話をしような」
熱っぽい口調ですり寄る響とは裏腹に、そらぞらしい棒読みで応対する宗四郎の温度差は激しい。会話自体が成立していないのだが、響にとっては宗四郎と一緒にいられるだけで満足のようだった。
「むう。これはいかがしたものかな。高科殿と外戚関係を結ぶのは、今後の血族の力関係に影響してきそうだが」
愛娘の様子を心配そうに伺いながら、直江家当主としての悩みにも苦しむ龍生。一心はそんな彼に顔を向けると、冗談めかしながら言った。
「そんな心配は無用ですよ。今の宗四郎は高科家とは何の関係もない。我が家とは何の縁故も生まれません。……もっとも、将来的にどうなるかはわかりかねますが」
その言葉に、龍生はなおさら深く考え込んでしまった。父親がそんな風に思い煩っていることなど露知らず、響は宗四郎にべったりとくっつきながら、恋する乙女の眼差しを向けるのであった。
ほどなくして、パーティーの準備は完了した。全員のグラスにそれぞれの飲み物がたゆたっている。代表して春陽が席を立ち、なみなみと注がれた酒杯を高々と掲げながら宣誓した。
「それでは僭越ながら。今日という日を祝して……乾杯!」
『乾杯!』
打ち鳴らされたガラスの音は、さながら福音であった。静かに始まった宴は、次第に熱を帯びていった。最初にあった堅苦しい空気は熱気によって溶け消えて、早々と無礼講の様相を呈するのだった。
それは、彼らにとって心休まる時間だった。破邪の血族としての立場を忘れ、現世に生きる人として、楽しみを享受している。束の間の寸劇に過ぎないのかもしれないが、それだけでも充分だった。
邪風穴はある時を境に、ぱったりと出現が途絶えていた。栄斗が邪妖の主を切り離すことに成功し、その影響に脅かされなくなったことが起因していた。邪気の根源がなければ、いかに常世に救う邪鬼妖魔であろうと、現世にはいっさいの手出しはできないのだ。
そして、栄斗と冬莉に関する処分も決まった。彼らは御三家預かりの身分となり、来るべき作戦の中核としての活躍を期待されることになった。二人ともそのことはしっかりと認識しており、それに挑む覚悟もできていた。
作戦の決行は明日。それを知らされた全員の顔がぐっと引き締まる。ただひとりを除いては、であったが。
「なんだよ。それじゃこれは祝いとかじゃなくて、最後の晩餐みたいなものじゃないか」
少し酒が回った宗四郎が憤慨するも、一心は涼しげな顔でそれを受け流した。ちなみに彼は下戸である。龍生と征璽はそれぞれ日本酒をちびちびと嗜んでいた。
「そうならないために、我々はこうしてここに集まったのだ。お前ももちろん参加するんだからな」
「……特別手当は出る?」
「お前はここにきてそれか。本当に俗物に成り下がったな、宗四郎」
「うるせー! 綺麗な嫁さんと愛娘に恵まれたリア充の征璽サンに、オレの絶望人生がわかってたまるか!」
「……宗四郎君。君が本気ならば、私は響との縁談を本気で考えないでもないぞ」
「ち、父上? ななな、何を急にそのような!?」
「あら、宗四郎君もてもてね。お姉さん、ちょっと羨ましいわ」
「深見新さんっていう人とも、それっぽい感じだったよ」
「アンタら、そういう余計な情報はいらないから! あと春陽の姐さんは変に姉貴ぶんな!」
「ということは、宗四郎さんは二股をかけてるってこと? うふふ。不潔ですね!」
「……冬莉ちゃんの天使のような笑顔で言われると、ダメージでかいんだよなあ」
「なんだ栄斗。お前にもそういう経験があるのか? 言っておくが、妹を泣かせるような真似をしたら、私は容赦せんぞ」
「栄斗……アタシ、信じてるから。裏切ったら殺すけど」
「宗四郎。私もお前を信じていいのか? 裏切ったら天誅を下すまでだが」
笑顔で凄む秋良にたじたじとなる栄斗。宗四郎も直江親娘ににじり寄られて精彩を欠いた。
『な、なんで……なんでこうなるんだーッ?』
男達の哀れな叫びがこだまする。宴もたけなわ。束の間の休息に、破邪の血族達は心身を癒し、鋭気を養うのだった。
※※※
風呂から上がり、ようやくさっぱりすることができた栄斗は、ベランダに出て冷たい夜風に当たっていた。以前に比べて肌寒さは薄れたような気がする。じきに暑い夏の季節がやってくるのだろう。
「栄斗、ここにいたんだ」
夜空を見上げる栄斗のもとに、秋良がやってきた。振り返ると、栄斗は湯上がりの少女に微笑んだ。
「秋良。……まだ寝てなかったんだ」
「うん。ね、隣いい?」
栄斗が頷くと、秋良はぴったりと栄斗に寄り添った。お風呂上がりのいい香りがした。肩にそっと手を回すと、ちょっと恥ずかしそうに見上げてくる。
月明かりに照らされながら、二人は重なった。淡い光に浮かび上がる少年少女の姿は、どこか眩しく見えた。
「……こういうのって、なんかいいね」
「そうだね。僕もそう思う。……秋良さ。髪の毛もう少し伸ばしてみない?」
「どうして?」
「僕が好きだから、じゃ理由にならないかな?」
「……ばか」
こつん、と額を栄斗の胸に当てる秋良。幸せそうに抱き合う二人の絆は、決して揺らぐことはないだろう。長い紆余曲折を経たぶん、これからをゆっくり築き上げていけばいい。父も母も、それをこそ望んでいるに違いないから。
秋良との逢瀬を終えた栄斗は自室に戻った。今日という長い一日の終わりが見えて、全身が脱力しているのがわかった。
宴もたけなわとなり、客人達ははそれぞれ四季邸を辞した。宗四郎は散々渋ったが、一心の強い勧めに折れる格好で、六年ぶりとなる高科邸に帰っていったのだった。
四季家のみんなも、疲れきった身体を癒すために、自室に引き取った。本当に色々なことがあった日だった。話をかいつまんで聞いただけでも、これからの人生を大きく左右することが立て続けに起こったようだ。そして、それを帰結させる時が近づいている。
「明日、か。……常世での決戦。もう一人の自分との戦い」
ベッドに寝転び、深く静かに目を閉じる。漆黒の虎狼と決別した栄斗に、あの忌まわしい声は聞こえてこない。だが、獰猛な唸り声は常世で叫ばれているのだ。それを完全に消滅させなければ、栄斗が起こした奇跡は完結しない。
それは簡単なことではない。しかし絶対にやらねばならなかった。
「どうぞ?」
ドアがノックされたことに栄斗は驚き、慌ててドアの前まで駆け寄った。ドアを開けてやると、部屋の前に遠慮がちに立っていたのは、かわいいパジャマ姿の冬莉だった。。
「ごめんね栄斗くん。もう寝てた?」
「いや、少し考え事ごとをしててね。冬莉ちゃんはどうしたの?」
栄斗が聞くと、冬莉は恥ずかしそうに顔を伏せた。冬莉は四季姉妹の中で、一番女の子らしい女の子だ。つい最近まで子供にしか見えなかったのに、中学生になった途端、随所に女の色気を感じさせることがあり、栄斗を悩ませることが多々あった。
「……栄斗くんと一緒に寝たいなって、そう思ったの。だめ、かな?」
さしずめ、この時の冬莉がそうだった。顔を恥ずかしさでは真っ赤にして、胸を抱きながら上目遣いで見上げてくる冬莉。まさかの展開に栄斗は返答に窮したが、末妹の願いを無下にするような外道ではない。
「いいよ。こっちにおいで、冬莉ちゃん」
優しく快諾すると、冬莉はふにゃりと顔をほころばせ、喜びを露わにした。先に冬莉をベッドに寝かせると、部屋の明かりを消してから、栄斗もベッドに入りこむ。暗闇が下りた部屋の中で、少年と少女の息づかいだけが聞こえていた。
「あったかいね、栄斗くん」
「うん。あったかいよ。あと、冬莉ちゃんからすごくいい匂いがする」
栄斗が冗談めかして言ったのは、多分に照れ隠しのためだった。いくら兄妹のように接していたといっても、結局のところ、血は繋がっていないのだ。
栄斗は、冬莉が照れて小さくなるのを期待していた。が、返ってきた反応は、それとは全く別のものだった。
「栄斗くんからは、秋良姉さまの匂いがするね。……秋良姉さまと栄斗くん、お付き合いすることになったんでしょ」
その言葉には、寂しいという一言では言い表すことができない、冬莉の鬱屈した感情が濃密に込められていた。栄斗は金槌で脳天を打ち抜かれたかのように、頭の中が真っ白になった。
冬莉が自分に好意をもってくれているのは、何となくわかっていた。いつも栄斗と秋良の後を追いかけては、一緒に遊んでいた冬莉。今思えば、その時から栄斗は秋良のことしか見ていなかったのだろう。秋良という強い太陽の前に、冬莉という月は霞んでしまった。少女の儚い想いに向かい合うことなく、終わらせてしまったのだ。
「ねえ。答えて、栄斗くん。秋良姉さまと、そうなんでしょ?」
重ねて聞いてきた冬莉に、栄斗は真実を告げることを迷った。大好きな妹を悲しませたくなかった。だがこのまま何も言わずにいるのは、冬莉に対して最大の侮辱だと思い直した。
「……うん。僕と秋良は、付き合うことになったよ。お互いに、愛してるから」
一言ずつ思いを込めて、栄斗は冬莉に告白した。冬莉から、しばらく何も聞こえなくなった。重い沈黙に、栄斗の胸も苦しくなる。だが、その静寂を破ったのは、他ならぬ冬莉だった。
「やっぱり。だと思ったんだ。家に帰ってきた時から、すごく親密な感じがしたもん。よかったね、栄斗くん」
冬莉の口から流れてきたのは、純粋な祝福の言葉だった。笑い声も混じっていて、それが栄斗に肩すかしをくらわせた。気にしすぎだったのかもしれない、そう栄斗がほっとした時だった。
「でもね。わたしも栄斗くんのことが好きなの。今も昔も一方通行だけど、愛してるんだよ……」
冬莉はずっと我慢していたのだ。栄斗への想いを。秋良が栄斗のことを好きなことは、子供心にもわかっていた。だから自分は何もできなかった。姉の幸せを横取りしようなど、心優しい妹にできるはずもなかった。
「わたしは栄斗くんが好き。でも、秋良姉さまのことも同じくらい好き。春陽姉さまも夏凛姉さまも、みんなみんな大好きなの。だから、だから……!」
いつの間にか、冬莉は栄斗に抱きついていた。感極まった冬莉の声は、いつしか泣き声に変わっていた。冬莉を全身で感じながらも、栄斗は全く動くことができなかった。ひとつを得ればひとつを失う。それは当たり前のことだ。しかし、どちらもたいへん魅力的で、かつ大切なものとくれば、容易に取捨選択できるわけもない。
冬莉がこちらを見上げているのがわかって、栄斗は真っ直ぐに顔を向かい合わせた。目が慣れてきて、暗闇が薄闇程度になっていた。目にきらりと光るものを浮かべながら、少女は笑った。
「今夜だけは、わたしのわがままを許して。……わたしだけの存在でいてください……」
それは恋に破れた冬莉の、精いっぱいの意地だった。鼻をすすりながら涙声で訴える冬莉に、栄斗は胸が熱くなった。気がつくと、その小さな背中を強く抱きしめていた。
「ごめん、冬莉ちゃん。……でも、ありがとう。僕達は、これからも仲良くしていけるはずだよ。だってそうだろ。僕らは家族なんだから」
冬莉の告白に応える栄斗。それは必ずしも、少女が望んだ答えではなかったが、自分の想いに決着を着ける決定打となった。大人の階段を一歩のぼった冬莉は、万感の思いをこめながら、栄斗を強く抱きしめ返した。
「うん……! ありがとう、栄斗くん。ずっと、ずっと仲良しでいてね……お兄ちゃん」
静かに夜が更けていく。激しい動乱が続いた日中を思えば、それはまるで、嘘か幻のとくである。人々は実に久方ぶりに、心からの休息を得ることができた。
しかし、限られた者だけが知っていた。それは嵐の前の静けさに過ぎないのだということを。常世と現世の未来をかけた戦いに挑む破邪の血族は、明日に備えて鋭気を養っていた。過去との決別を果たすため、今を生き抜く希望を見出すため、自らの命を完全燃焼させるために。
晴れ渡った夜空に、真円の月が煌々と座した。明るい月明かりが、抱き合いながら眠る栄斗と冬莉を照覧した。二人の寝顔はとても安らかであり、切っては切れない絆を感じさせるのだった。
③
朝が来た。これまでにない、穏やかな朝であった。すっきりとした気分で目を覚ました栄斗は、隣で眠る冬莉を起こさないよう、静かにベッドから起き上がった。
部屋を出るが、二階は静けさに包まれていた。どうやら早く起きすぎたようだ。緊張と興奮とが栄斗を逸らせたのであろう。ひっそり閑とした中で、栄斗は軽く苦笑いをした。
階段を下りていくと、リビングから人の気配を感じた。ドアを開けると、キッチンで朝食の支度をしている春陽と目が合った。長姉がとてもやわらかに微笑んでくる。
「おはよう、栄斗くん。いつもお寝坊さんなのに、今朝はずいぶんと早いのね。雨でも降るのかしら」
「それはちょっとひどいんじゃないかな? おはよう、春陽さん。僕だってたまには早起きぐらいするさ」
「たまにじゃなくて、毎日そうしてもらえると助かるわね~」
「はいはい、わかってますって。善処します」
二人は軽く冗談を交わしながら、ごく自然に笑い合った。今までみたいな、相手に合わせようという不自然さは微塵もない。そのことに栄斗はひそかに感動していた。ようやく家族の一員になれたのだという誇りが、少年に絶対の自信を植えつけているようである。
気がつくと、春陽がじっと栄斗のことを見つめている。絶世の美女に違いない春陽に凝視されるのは、とても気恥ずかしい。羞恥に耐えかねた栄斗は、照れ隠しの意味もこめておどけてみせた。
「どうしたの春陽さん。僕の顔に何か付いてる? それとも、僕があまりにもいい男すぎて、惚れちゃったとか?」
言いながら、さすがにふざけすぎたと反省しかける栄斗だったが、春陽の反応はそうまんざらでもなさそうだった。逆にそれが、栄斗を余計に混乱させた。
「うん。そうかも。……栄斗くん、大人になったわね。お姉さんはすごく嬉しいわ」
「そ、そうかな? いつもとほとんど変わらないと思いますけど……」
栄斗は半信半疑に自分のことをじろじろと眺め回すが、やはり特に変わったところはない。栄斗の仕草に吹き出した春陽は、おかしそうに手を横に振った。
「見た目じゃないわよ。何というか雰囲気がね、そっくりなのよ。栄斗くんと……お父さんが」
春陽の表情が感慨めいたものに変わる。嬉しそうで、それでいて寂しそうな笑み。春陽の想いのほとんどを占めていたのは、父春充だった。それが栄斗によって、記憶という名の思い出と化そうとしている。その現実と向き合うには、たくさんの時間が必要だった。「僕が父さんに似てる? 本当かな」
「ええ。とっても。……それにお父さん、今きっとすごく喜んでいるわよ」
「え? なんでですか?」
栄斗が反問すると、春陽は今度こそ心からの笑みを浮かべた。大人の色香に少女っぽいかぐわしさが加わって、それは豪奢な宝石もかくやという輝きを放った。
「栄斗くんが、初めてお父さんのことを、お父さんって呼んでくれたからよ」
栄斗は、はっ、となった。あまりにも自然すぎてわからなかったが、確かに父を父と呼んだのだ。そして思った。父が存命のうちにそれができていたら、今とは違う運命を歩むことができたかもしれない、と。
「……そうね。今の栄斗くんになら、託すことができそうだわ」
春陽の香りを間近で感じた。栄斗が葛藤しているうちに、春陽はすぐ側にまでやってきていたのだ。見上げる春陽の顔に、迷いは一切なかった。
「栄斗くん、ちょっとだけ私に付き合ってもらえる?」
玄関から庭にまわり、奥まった方に入っていく。ここは普段、足を踏み入れない場所だった。四季家の庭は広い。幼い頃はここを無限の遊び場としたものだが、一カ所だけ近づいてはいけないと注意された場所があった。
「ここは……倉ですか?」
「そうよ。先祖伝来のね。ここに四季家の全てが奉ぜられているといっても過言ではないわ」
古びているが、立派な造りで堂々とした倉の鍵を開ける春陽。その横顔は神妙で、緊張しているように見えた。栄斗は今一度、倉を見上げた。資格無き者は一歩も足を踏み入れさせない、そんな明確な意思表示が息づいているように思えて、栄斗は恐れ入った。
「開いたわ。さ、入りましょう。くれぐれも、粗相のないようにね」
重々しい音を立てて開いた鉄門扉をくぐり、栄斗は春陽に続いて倉の中に入った。入った瞬間、身が引き締まる思いがした。内部は綺麗に整頓されており、様々な道具が敷き詰まっていた。天窓から注ぐ光の帯に、輝く粒子が舞っている。厳かな雰囲気に、栄斗は思わず息をのんだ。
「……すごいですね。なんだか圧倒されます」
「私も初めて入った時は、今の栄斗くんと同じような感覚だったわ。でも、臆することはないわよ。こうしてここにいられることが、ご先祖様にお認めいただけたということになるから」
栄斗の感嘆に応えながら、春陽は倉の一番奥に安納されていた、ひと抱えほどもある漆塗りの箱を恭しく手に取った。そしてそれを、栄斗の前に置いた。
「これは……?」
栄斗が聞くも、春陽は目で、開けるように促してきた。それに従い、縛られていた紐を解き、ぴたりと閉じられていた蓋をそっと開く。その中に納められていたのは、きらびやかな衣服、破邪剣士が身に着ける武威であった。
取り上げた武威を愛おしそうに抱いてから、春陽が栄斗に告げた。
「これは、お父さんが生前身に着けていた武威『絢爛』よ。四季家の当主のみが着用を許される、四季家の家宝。これを栄斗くん、あなたに預けるわ」
現当主四季春陽を介して、先代当主四季春充の遺志が宿った武威が、栄斗の手に渡る。『絢爛』に触れた瞬間、全身に強烈な電流が走ったような衝撃があった。亡き父の魂に直に触れている感覚だった。栄斗は、落ち着いた風貌の中で、静かな興奮に震えていた。
「『絢爛』が、僕を認めてくれた……」
「それだけじゃないわ。これが四季家に伝わる破邪神霊剣『四聖天破』。……さあ、着てみせてちょうだい」
春陽に託された四季家の魂。その重さは、常人の考えが及ぶところではない。栄斗はその重圧に押し潰されそうになりながらも、想いに応えようという責任感を同時に強く抱いていた。
「こんなことで弱音を吐いていたら、父さんに呆れられてしまう。僕じゃまだ全然不足だろうけど、いつか四季家を継ぐために、やってみせる……!」
栄斗の強い決意をその横顔に見た春陽は、自分がしたことは間違いではなかったと確信して、安堵が入り交じった羨望の眼差しで見やるのだった。
※※※
武威に身を通した栄斗の姿は、正直、あまり似合っていなかった。本人もそれを自覚しているのか、少し困り顔である。だが栄斗はまだ若い。これから先いくつもの試練を乗り越えて、いつの日か必ずや威風堂々たる姿を見せつけてくれるだろう。
「何事もまずは形から、とも言うしな。今は馬子にも衣装だろうが、私が徹底的に鍛えて、『絢爛』が似合うようにしてやろう」
真顔で身も蓋もないことを言ったのは、夏凛である。武威『陽炎』と破邪剣『九蓋』を携えている。栄斗を見る目つきが少し柔らかくなったのは、気のせいではあるまい。彼女もまた姉と同じく、父に似る栄斗に無意識のうちに心酔をしていたのだ。
「夏凛ちゃん。しごきはほどほどにしてね。でないと、秋良ちゃんが本気で怒っちゃうわよ?」
秋良をちらりと見ながら、春陽が悪戯っぽく微笑む。法威『宵桜』を艶やかに着こなしているが、昨日のような冷酷さは全く感じられない。柔和だが芯の強さが感じられる彼女の姿が、本来あるべき四季春陽なのだろう。
「な、なんで春陽姉が知ってるの? アタシ、まだ誰にも言ってないのに。……さては栄斗、アンタ軽々しく喋ったんじゃないでしょうね?」
栄斗との関係を指摘された秋良は動揺するも、すぐに怒りの矛先を栄斗に向けた。顔を真っ赤にした秋良は武威『颯風』を身に着けている。ライトジャケットにショートパンツという軽快な様式だが、額に巻いた鉢金が意志の強さを感じさせる。腰には二刀振りの破邪剣『天刃・地刀』が静かな迫力を秘めていた。
「ぼ、僕は口を滑らせてないよ。言ったのだって、せいぜい冬莉ちゃんぐらいだし……って、あ」
「やっ・ぱ・り・言・って・ん・じゃ・な・い・の・よ~!」
「あっ。く、首はやめて本当にお願いそれ死ぬ死んじゃうから」
首を締め掛けられた栄斗を救ったのは、法威『憐華』の裾をたなびかせた冬莉だった。神社の巫女を思わせる清純さで、頭には精緻を極めた細工の髪飾りを付けている。
「秋良姉さま落ち着いて。栄斗くんと秋良姉さまの関係なんて、火を見るより明らかなんだから。春陽姉さま達もそうよね?」
「えっ? ウソ、絶対にバレない自信があったのに」
冬莉の言葉にあっけらかんと頷く姉達を、秋良は愕然と見やった。それをうろんな目で見返したのは夏凛である。
「お前のどこからそんな自信が沸いて出てくるんだ。人前であれだけいちゃついていれば、誰だってわかるに決まってる」
「そうねえ。夏凛ちゃんがわかるぐらいだから、あなたたち相当なものよ。子供ができて学生結婚、なんていうのは、お姉ちゃん許しませんからね」
「なっ……? けっ、けっこ……」
湯気が出るぐらい顔が真っ赤になった秋良を見た栄斗は、彼氏らしく彼女を助けようという義憤に駆られた。
「そんなにからかわないでよ。それに僕達、付き合ってるといっても、まだキスをしただけで、肝心のセッ……」
「アンタは赤裸々に何でもかんでも話そうとするんじゃないッ!」
援護射撃どころか、核地雷を踏み掛けた愚かな彼氏を、秋良は右の拳でたちまちのうちにノックアウトに沈めるのだった。
※※※
「おっ。やっと来たな……って、栄斗。お前、なんでそんなにげっそりしてるんだ?」
直江邸の門前で暇を飽かせていた宗四郎は、不審な目を四季家の面々に向けた。彼を囲む四姉妹の表情は複雑で、特に秋良の怒りは凄まじいものがあった。それで宗四郎はすぐにピンときたようだ。うなだれる栄斗の肩に手を置くと、彼は達観したようにあらぬ方を見やり、真に迫って言うのだった。
「男と女なんてのはそんなもんだ。痛み、傷つき、苦しめられて。そうやって男は大人の階段を上がっていくんだぜ。……地獄へようこそ。愛しき我が同胞よ」
大仰な言いぐさだが笑えない。栄斗は全然笑えなかった。宗四郎の言う通り、地獄を見てきたばかりだから、無理もない。これから先、いったいどれだけの困難が待ち構えているのだろう。それを思うと、暗澹とした思いに沈むしかなかった。
「そ、そういえば、久しぶりの実家はどうだったの、宗四郎くん。歓迎してもらえた?」
男二人の間に漂うしょっぱい雰囲気を晴らすべく、春陽はそれを取りなすような明るい声を出した。かなり強引ではあったが、効果はあった。普通の顔に戻った宗四郎が答える。
「ああ、家の皆は歓迎してくれたよ。もっとも兄上達は微妙な感じだったけどね。無理もないとは思ったけど、居心地は悪くなかった。たまには家に帰るのもいいかもな」
話ながら一行は歩き出し、直江邸へと足を進める。もっとも、そこで止めておけばいいのに、宗四郎は蛇足を口にした。
「何よりタダ飯、タダ風呂、タダ寝ができる。こんな好条件、めったにないからな」
四季家の面々が、笑う宗四郎を見下げ果てた顔で見やったのは、言うまでもない。
「これで全員集まったな。それでは本作戦の概要を説明する」
通された広間で、高科一心と直江龍生とが、作戦の段取りを皆に告げた。
狙いは漆黒の虎狼、邪妖の主のみである。その大任を担うは四季一族。他の者は、彼らの露払いに専念する。その役を与えられるのは、桐生院征璽、日佐谷宗四郎、直江響の三名である。
まずは直江龍生が話の口火を切った。
「常世と現世を繋ぐ風穴。これは冬莉君と私で作り出す。冬莉君の中には、まだ邪妖の魂が残っているから、すでに栄斗君から分離している本体の位置を特定できるはずだ。それを私が制御して、風穴を直接中枢部へと繋ぐ。できるね? 冬莉君」
皆の視線が冬莉に集中する。だがそれは心配の類のものではない。確かな信頼を感じ取った冬莉は決然と頷いてみせた。それを受けて、高科一心が話の後を継いだ。
「私は現世に残り、血族の戦力を最大限に展開させる。風穴を開くということは、常世の邪気を現世に流し込むも同じ。その被害を最小限に食い止めるため、全力を尽くす」
高科一心は、すでに破邪の血族に総動員を促し、街の各所に配置を行っていた。今は静けさの中にあるが、彼らの表情には緊張が走っている。これまでにない、苛烈な戦いが始まることを知っていたからだった。
「風穴の維持は、半日が限度だろう。常世の邪気の脅威もそうだが、我々の力もそこまでが限界だ。だが、それまでは君達の帰りを信じて待ち続ける」
その言葉に父親の覚悟を見た響は、気遣わしげに表情を曇らせた。父は亡き親友の思いを踏みにじろうとしていた自身を恥じるあまり、死に場所を求めているように見えたからだ。そして、娘の危惧は当たっていたのである。
「半日が勝負だ。それを過ぎれば、俺達は常世に取り残され、邪気として未来永劫漂うことになるだろう。これに挑むには相応の覚悟が必要だ」
それまで黙っていた征璽が、作戦に参加する者達の意思確認を行った。だが、それは誰の目にも明らかだった。一人として、弱気を見せる顔はなかった。宗四郎がいつもの調子で軽口を叩いた。
「ああ、チョロいもんだ。まあ問題は、ラスボスを相手にする連中だけどな。なんせ経験が足りない顔がずらり、だからな」
宗四郎の安っぽい挑発に、夏凛が不敵に応じた。
「あまり私達をなめないでもらおうか。与えられた役は、絶対にやり遂げてみせる」
そう言って睨み合う二人を、春陽が穏やかになだめる。
「ほらほら、ふたりとも喧嘩しないの。みんなで協力すれば、できないことなんてないわ。そのために私達は集まったんだから」
夏凛の腕を引く春陽に対して、響はそっと宗四郎の手を取った。
「宗四郎のフォローは私がする。冬莉君も無理はしないようにな」
嫌そうな顔をする宗四郎を無視しながら言う響に、冬莉は微笑んだ。
「はい。わたしには姉さま達と栄斗くんがいてくれるから。……愛理ちゃんの想いのためにも」
そっと取り出したのは、借りたまま返すことができなかった、空色のハンカチだった。冬莉はそれを愛理の形見として、肌身離さず持っていようと決めた。どんなことがあっても、大好きな親友がすぐ側で見守ってくれるような気がしたから。
そんな妹を、秋良が後ろから愛おしそうに抱きしめた。栄斗も優しく微笑みながら、妹の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうだよ。アタシ達にはみんながついてる。泣いて笑って、力を合わせて、心を繋ぎ合わせて戦う仲間がね」
「絶対に勝って、みんなで帰ろう。かつて父さんが辿った道を、僕達で征旅するんだ。全てを終わらせるために。……父さんの想いを形にするために」
栄斗が結んだその一言で、全員の結束がなった。異なる想いがひとつに束ねられ、より大きな力となる。彼らは顔を合わせあった。確かな信頼感のもと、笑みがこぼれる。
それは『絆』という、人の心が起こした、揺らぐことのない奇跡だった。