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第六話『ソレゾレノ遍路』


「うおおおぉぉぉ!」

 雄叫びを上げながら、九蓋の太刀の強撃を浴びせる。得物でそれを防ごうとした邪鬼が、得物ごと真っ二つに両断された。そのまま流れるような身のこなしで、次々と敵をなぎ倒していく夏凛の姿は、さながら戦場に吹き荒れる嵐のようである。

 夏凛はひたすら戦い続けていた。それも、たったひとりで。

 突然、背後の地面が轟音とともに突き上げられた。そこから現れたのは、蒼い肌を硬質に光らせる剛角の邪鬼である。邪鬼が巨大な腕撃を夏凛に振り下ろす。

 鈍い破壊音が大地を打ち砕いた。が、夏凛の姿はそこにはない。すでに空中の人となっていた夏凛は、邪鬼の脳天目がけて九蓋を叩きこんだ。剛角蒼鬼は全貌を現すこともなく、その戦闘能力を失った。

 空を切り裂く羽音に夏凛は反応した。九蓋を腰だめに構え、破邪の気を収束する。空から飛来した黒翼獣に、引き絞った一撃を見舞った。

「失せろ! 薄汚い邪気の権化どもが!」

 光の斬撃は空を走り、大挙して押し寄せようとした黒翼獣を消滅させた。夏凛はその後も攻撃の手を緩めず、上空で展開しようとしていた黒の大群は、斬光の連波で一掃された。

 足場にしていた邪鬼の姿が、ぼろぼろと崩れていく。地上に降り立った夏凛は、すぐに強力な邪気の発現を感じ取った。邪風穴の主が痺れを切らしたのであろう。

「何者が相手だろうと、私は決して退かない。破邪剣士の矜持を見せてやるぞ」

 自らを鼓舞するように言い放ち、前方で渦巻く邪気に正対する。肩で息をする夏凛は、連戦に次ぐ連戦で疲労の極にあった。それでも戦い続けていたのは、死なせてしまった仲間の無念に報いるためだった。

 油断なく相手の出方をうかがっていた夏凛だったが、不意に繰り出された攻撃に、寸前まで反応できなかった。横っ飛びで何とか難を逃れたものの、強気の表情からは余裕が失われていた。

「鋭く、速い攻撃だ。こいつは、今までの相手とは格が違う!」

 戦慄する夏凛を尻目に、奥の壁を打ち砕いた数条の黒き螺旋が引き戻される。その先にいたのは、大蛇を下半身にした醜悪な老婆であった。頭が蠢いているのは、髪の毛の一本一本が蛇だからである。恐るべき妖魔の出現に、夏凛は愕然とした。

「ゴルゴーラだと?」

 妖魔ゴルゴーラは、生きた毒蛇の髪の毛を自在に操るだけでなく、強力な妖術も得意としている。並み居る邪鬼妖魔の中でも上位に位置づけられており、一対一で対戦するには分が悪すぎる相手だった。

 ゴルゴーラが、まるで地面を滑るかのように突進してきた。体勢を崩されていた夏凛は先手を取られてしまう。夏凛の戦技は積極的な攻勢に特化しており、防御は不得手だった。

「……強い!」

 凝縮された邪気による拳打の衝撃は凄まじい。防御に向かない九蓋ではなく、小太刀で応戦するが、ほとばしる邪気が夏凛を少しずつ痛めつけていく。

 このままではやられる。夏凛は多少の危険は覚悟の上で、強引に反撃を試みた。守勢のままでは勝ち目がない。勝機を見出すために、勇気と気力を振りしぼり必要があった。

 夏凛が反撃に転じたことで、ゴルゴーラの猛攻にわずかな翳りがみえた。夏凛も防御の意識が薄くなり、被弾の割合が高くなった。ここは我慢時であった。

 この膠着状態を嫌ったのは、ゴルゴーラであった。夏凛の切り返しをこうるさげに跳ね返して大振りの一撃、長い爪をかき鳴らしながら、強烈な突き出しを繰り出した。

 これこそ、夏凛が待ちに待った瞬間だった。

「見えたぞ!」

 凶手を受け流し、その余勢を駆って大きく後方に飛びすさる。間髪入れずにゴルゴーラの追撃が降り注いだ。黒き螺旋の雨を避けつつ、夏凛はゴルゴーラに斬りこんだ。

 気合一閃。抜きはなった斬撃が、ゴルゴーラの生きた髪の毛をまとめて斬り払う。苦痛に顔を歪める妖魔から目を離すことなく、夏凛はさらに踏みこむ。しっかりと溜めこんだ一撃をお見舞いしようとした矢先だった。

「うっ? ……バカな。まだ残っていたというのか?」

 右の脇腹を抉った痛撃で、夏凛の動きが止まった。視界が霞み、倒れるところをすんでのところで堪える。忌々しげに見やると、切断したゴルゴーラの髪の束が脇腹に食らいついていた。

 その機を逃さず、ゴルゴーラが迫り来た。節くれ立った手が夏凛の喉元を握りしめる。邪悪に笑いながら、邪気が凝縮された掌を夏凛の胸に押しつけた。

「……っ、がはッ?」

 邪気の解放と相まった掌打の衝撃は強烈だった。夏凛の身体は軽々と吹き飛ばされ、受け身を取ることもできない。塀を突き破り、誰もいない民家の居間を破壊する。ゴルゴーラはあっさりと自分の髪の毛を修復すると、倒れこんだ夏凛に向けてそれを放った。冷たく滑った蛇のロープが、苦悶する夏凛を巻き取ってしまう。

 夏凛を手の届く距離まで引き寄せると、ゴルゴーラは醜悪な顔を近づけた。勝ち誇っているのだろう。夏凛は浅薄な敵に、至近距離で破邪の気を爆発させた。金色の光が爆ぜ、妖魔の頭部を灼いた。

『ギャアアアァァァッ!』

 壮絶な悲鳴をあげてのけぞるゴルゴーラ。髪の毛の戒めから解かれた夏凛だったが、地面に崩れ落ちてしまう。先ほどの攻撃で力のほとんどを使い尽くしてしまったのだ。

 祈るような気持ちで、仁王立ちのままでいるゴルゴーラを睨む夏凛。だが、祈りは通じなかった。妖魔の赤黒く焼けた顔面は、激しい憤怒に燃えていた。対する夏凛は、立ち向かう気力さえ失いつつあった。

 その後は一方的な展開だった。防御さえままならず、生きたサンドバッグのようにぼろぼろにされる夏凛。額が割れ、口から血反吐を撒き散らし、全身が悲鳴をあげる。

 ゴルゴーラが夏凛を蹴り飛ばす。宙に浮きあがってから地面に落ちた夏凛は、そのまま動くことができなかった。体に力が入らない。視界が霞む。遠のいていく意識の中で、死の恐怖が鎌首をもたげていた。

「これしきの……ことで。私、は……まだ……!」

 夏凛はかっと目を見開き、迫り来るゴルゴーラに強い眼光を浴びせた。大きく息を吸って、肘で支えながら上体を起こす。せめてもの意地だった。その時夏凛の脳裏に浮かんでいたのは、自分を庇うために命を落とした、倉尾の勇姿だった。

「あなたがそうであったように、私も最後まであきらめない……。死の瞬間まで、破邪の血族らしくあってみせる」

 ゴルゴーラが、手の届くすぐ近くまでやって来た。その拳に、邪気が結集していくのがわかる。最後の一撃を本気で打ちこもうとしているようだ。敵が肩で息をしているのは、相当な深手を負っているからなのか、怒り狂うあまりなのか、それともその両方なのだろうか。

 いよいよ最後か。いくら強がってみせても、無い袖は振りようがない。夏凛の頭にふとよぎったのは、楽しげな家族の光景だった。

 姉は悲しむだろうか。秋良はあれで泣き虫だから、冬莉と一緒に泣いてくれるだろう。栄斗は、どうだろう。そもそも自分は、あの一見頼りなげな少年のことをどう思っていたのだろう。

 諦観が夏凛から急速に意識を奪い去っていく。ゴルゴーラの攻撃が間近に迫ってきた頃、夏凛は意識を失った。直前に、何かが風を切るような音を耳に残して。


※※※


 間一髪というところで間に合った。腕を吹き飛ばされた妖魔が悶え苦しむ様を確認して、男は冷静に重い息をついた。あと少しでも遅れていたら、破邪の血族は貴重な人材を失うところだった。

「しかし無茶をする。あれではまるで死に急いでいるようなものだ。……何かあったとしか思えん」

 抜いた剣をそのままに、男はゆっくりと夏凛の元に歩み寄った。武威『白雷』は常世にあって、燦然と輝く真白さである。その存在だけで邪妖を圧する破邪剣士、桐生院征璽であった。

 征璽もまた夏凛と同じく、邪風穴を徹底的に潰して回っていた。一人で行動しているのだが、疲れている様子は全く感じられない。夏凛と同じか、それ以上の戦果を上げているにも関わらず、だ。

 近づいてくる征璽に、ゴルゴーラは威嚇めいた唸り声をあげるが、一瞥されただけでその威勢は鳴りを潜めてしまった。征璽は敵に興味を示すことなく、倒れている夏凛の容態をうかがった。ひどい怪我だが、死に至るほどではない。征璽の頬がわずかに緩んだ。

「……よく鍛えている証拠だ。この案件が片づいたら、出稽古の数を増やしてもらうよう、春陽に頭を下げるしかないな」

 征璽は霊符を取り出すと、簡単な治癒術を夏凛に施した。応急措置程度でしかないが、体力のある夏凛ならば、じゅうぶん回復の役に立つだろう。

 そこではじめて、征璽は所在なげに立ち尽くしていたゴルゴーラに目を向けた。侮蔑と嘲りをたっぷりとまぶした表情は、いっそ天晴れというものだった。

「どうした。意気揚々としていられるのは、疲れきった手負いの相手だけか。だとしたら興醒めも甚だしいというものだ」

 征璽の言葉には絶対の自信が込められている。ゴルゴーラは屈辱に顔を憤怒で赤くさせたが、それは虚勢のようにも見える。明らかに、征璽に恐れをなしていた。

「せいぜい、俺の戦意を損なわないことだ。戦いを挑むからには、全力でかかってこい」

 征璽の静かな挑発に、ゴルゴーラは乗った。いや、乗せられたというべきか。人間風情にこけにされたことが、妖魔の自尊心をいたく傷つけたのだろう。

『キシャアアアァァァ! ヒトフゼイガ、ナマイキイイィィ!」

 己を奮い立たせるかのように、ゴルゴーラが吠えた。そして、捨て身になったかのように征璽に襲いかかる。それを冷たい眼差しで見やる征璽は、ゆらりと剣を水平に構えた。じっくりと引きつけて狙いを定め、交錯の瞬間を待つ。

 ゴルゴーラの全力をこめた腕撃が繰り出される。それに呼応して、征璽も動いた。

 何かが光ったようにしか見えなかった。それだけ征璽の動きは速かった。桐生院家に伝わる破邪の名剣は、寸分の狙いも違わず、妖魔ゴルゴーラの額を刺し貫いていた。

「『穿牙・合咬』……。終わりだ」

 顔色をひとつも変えることなく、征璽が勝利を宣言する。ゴルゴーラに破邪の気が流し込まれ、まばゆい光が炸裂した。邪風穴を形成していた邪気が、破邪の気によって浄化されていく。

 またひとつ、常世の忌まわしき魔手が潰えた瞬間であった。



『おねえちゃん、ひとりじゃこわくてねむれないの。いっしょにねてくれる?』

 泣きべそをかきながら、その日の夜も枕を抱えて、姉の部屋に向かう。姉はもうベッドに入っていたが、妹が部屋の前で所在なげにしているのを見ると、わざわざ起きて招き入れてきてくれた。

『うん、いいよ。お姉ちゃんといっしょにねよ』

 姉がそう言って頭を撫でてくれたので、妹は嬉しそうに顔を輝かせた。二人は手を繋ぎながらベッドに上がると、そのまま一緒にひとつの布団の中にくるまった。

『……あったかい』

『そうだね。あったかいね。夏凛ちゃんが来てくれたから、お姉ちゃんもすごくあったかくなったよ』

 姉が優しく微笑みながら、夏凛のことを抱きしめる。

『わたしも……おねえちゃんといるとあったかくなる。ぽかぽかして、きもちいいの』

『そうなの? 夏凛ちゃんはあまえんぼうさんだね。でもそこがすごくかわいい』

 姉はいつも手放しで夏凛のことを褒めてくれた。褒められるたびに、夏凛の頬はりんごみたいに真っ赤になる。そして幸せな気分になるのだ。

『でも、いつもお姉ちゃんとでいいの? お母さんは?』

『……おかあさんは、秋良といつもいっしょだから。でもわたしにはおねえちゃんがいるから、それでいいの』

 夏凛は少し寂しくなって、姉のパジャマの裾をつかんだ。本当は、母親とも一緒に寝たかった。けれど、母は生まれたばかりの秋良の面倒をみなければならなくて、夏凛にあまり構ってあげることができなかったのだ。

『……ねえ、夏凛ちゃん? お姉ちゃんのこと、好き?』

『ふぇ? な、なあに、いきなり』

『いいからいいから。お姉ちゃんのこと好きかな?』

 顔を赤くしてしどろもどろの夏凛を、姉はそのまま黙って見つめる。夏凛は胸がどきどきして苦しかったが、正直に自分の気持ちを告げた。

『……すき、だよ。だいすき』

『そっか! お姉ちゃんもねえ、夏凛ちゃんのことがだいすきだよ!』

 お互いに告白して見つめ合って、二人の間に自然に笑いがこみ上げてきた。だがもう夜なので、あまり大きな声を出さないようにして笑う。ひとしきり笑ったあと、姉が少し恥ずかしそうに言ってきた。

『だからね。夏凛ちゃんがなにかにこまってたら、お姉ちゃんがぜったいにたすけてあげる。だいすきな夏凛ちゃんのためだったら、お姉ちゃんなんでもするからね』

 にっこりと笑いながら、こつんとおでこを夏凛のおでこに合わせる。それは、姉の思いやりだった。まだ母恋しい年頃なのに、素直に母に甘えられない夏凛を思って、そんなことを言ってくれたのだ。

 夏凛は嬉しかった。そしてこうも思った。こんなに素敵な姉が自分の姉でいてくれて、本当に良かった、と。

『わたしも……わたしもおねえちゃんがこまってたら、たすける。わたし、いっしょうけんめいおねえちゃんのためにがんばるよ』

『ほんと? うれしいなあ。ねえ夏凛ちゃん。わたしたちって、すごくなかよしさんだよね!』

『うん……!』

 ベッドの中でくすくすと笑い合った後、四季家の姉妹は自然に小指を絡め合った。そして、約束の言葉を交わした。熱い吐息とともに。高鳴る鼓動を感じながら。

『それじゃあ、約束。わたしたちは、どんなことがあっても、ふたりでたすけあって、家族のためにがんばります』

『なにがあっても……』

『ぜったいに。……あと、わたしたちは、ずっとなかよしでいます!』

 いつまで経っても色褪せることのない約束。その夜を境に、夏凛は強くなりたいと願い、そのために努力を重ねた。

 いつか自分がそうしてもらったように。優しくて大好きな姉を守るために。


※※※


 雨の音が遠くに聞こえていた。ぼうっとした感覚が夏凛の頭にもやがかっていた。

「……夢か」

 急速に意識が冴え渡り、勢いよく半身を跳ね上げた。次いで全身に走る激痛。顔を歪めるも大事には至っていないようだ。それに安堵しつつ、周囲の状況をつぶさに確認する。

「あの時、意識を失って……。それからどうなった?」

 夏凛がいたのは、どこかの公園にある休憩所だった。木造の憩いの場で、円周にベンチが置かれていて、中心には丸テーブルがあった。そのベンチに寝かされていたようである。誰かに助けられたという事実に間違いはないようだ。

「まさか……姉さんが?」

 思わずそう口にするが、それはあり得ないことだった。春陽は午後には出掛けると言っていた。だがそうなると、誰が自分を助けてくれたのだろう。夏凛は訝しんだ。

 久しぶりに眺める現世の光景は、雨降りとはいえ美しかった。常世の淀んだ空気と違って、清浄な自然の香りが優しい。それを胸一杯に吸い込むだけで、生気を回復できた。

 背後に人の気配を感じた夏凛が、はっとして振り返る。やって来たのは、コンビニの袋を携えた桐生院征璽だった。

「き、桐生院殿? なぜ、こんなところに……」

 まさかの御大の登場に、夏凛が二の句も告げないでいると、征璽は無愛想な顔のままベンチに腰を下ろした。彼はいつも通り、冷静だった。

「目が醒めたか。簡単だが治癒術を施しておいた。すぐに動けるようになるだろう」

「……」

「それと食料だ。口に合うかどうかわからんが、食うといい」

「……」

「どうした? さっきから黙ったままだな。まだ辛いのなら、無理せず寝ていろ」

「……いや、そうではなくて」

 何も言わない夏凛を征璽は不審に思ったが、夏凛だって何も好きでそうしていたわけではなかった。どうしても聞きたいことがあったのだが、それを尋ねていいものか、迷っていたのだ。

 あまりにも純粋な視線を征璽が向けてきて、夏凛もこれ以上は黙っていられなくなった。少し気が引けたが、思い切って疑問を問い質すことにしたのである。

「その……まさかその格好で、コンビニで買い物をしてきたのですか?」

 征璽の表情筋はぴくりとも動かなかった。夏凛が指摘する通り、征璽は武威を着用したままである。それも目が覚めるような純白で、市井の日常の風景には凄まじく目立つ。いわゆるコスプレと間違えられても仕方がない格好だった。

「当然だ。これしか持ち合わせがないのでな。まさか裸で買い物というわけにはいくまい」

「……そう、ですか。それなら、いいです、もう」

 征璽は本気だった。夏凛は疲れたように呻くと、もうそれ以上何も言わなかった。そんな夏凛を、征璽はあくまで真面目な顔で見やっていた。

 征璽が購入してきたのは、そのいでたちとは裏腹に無難な物だった。サンドイッチやおにぎり、お茶や水のボトルが並ぶ。だが異質な物もあるにはあった。数種類の缶詰とサイダーのボトルが何とも浮いていた。

「さあ食え。気にするな。俺の奢りだ」

 夏凛が気にしているのはそこではなかったが、買ってきてくれた本人が勧めてくれるのだから、それに従うしかない。とりあえずおにぎりの包みとお茶のボトルに手を伸ばす。征璽も食事がまだだったのか、同じくおにぎりと缶詰、そしてサイダーを手元に寄せた。

「……」

「どうした?」

「いえ、なんでも……」

 夏凛は気にすることもやめて、無心でおにぎりを口に運んだ。対面する征璽も、無言でで食事を摂った。唯一、サイダーを口に運んだ時だけ、ほっとしたような表情を浮かべたのが印象的だった。

「缶詰、お好きなんですか?」

「好きとは違うな。家で食うことがないから、ここで食うだけの話だ。……こういうことに、女房は口うるさくてな」

 缶詰の魚の煮付けを食べながら、征璽が溜息をつく。さしもの桐生院征璽といえど、愛する妻には勝てないのだ。それがおかしくて、夏凛はの表情は自然と柔らかくなった。

 雨が音色を奏でている。いつから雨が降り出したのだろう。雨足はまだ弱かったが、空の様子を見るに、すぐに降り止むことはないだろう。少し視線を遠くに向けると、公園沿いの道を歩く、学校帰りの小学生の姿が見えた。彼らは色とりどりの傘を差して、楽しそうに何か話しながら歩いていた。夏凛はそこに、かつての自分と春陽の姿を重ねていた。

「……いい光景だな」

「そうですね。かけがえのないものです」

 ぽつりと呟いた征璽に、夏凛も同じように言葉を返す。そして思い出した。諫早と倉尾の死、そして残される彼らの家族のことを。かけがえのない存在を失った家族達は、どんな思いでこれからを生きていくのだろう。

 それを思うと、いたたまれなくなる。沈んだ表情を浮かべる夏凛に、征璽は当たり前のことのように言った。

「破邪業に生きる者達は、常に死と隣り合わせだ。本人はもちろん、その家族も覚悟はできている。……それはお前もそうだろう」

 征璽の語り口は木訥としていた。それが彼の地なのだが、今の夏凛にはそれがありがたかった。感情的でないぶん、言葉の一つ一つが身に染みていくようだった。

「戦場で起きたことだ。誰にも罪はない。……俺の妻も、産まれたばかりの子も理解してくれるはずだ」

 征璽は立ち上がると、ポケットから煙草を取り出し、それを上手そうに吸った。その背中を見て、夏凛は思った。彼はきっと、自分よりもずっと多く、こういう経験をしてきたのだろう。だからといって、人の死を軽視しているわけではない。逆にそれを正面から受け止めて、忘れることなく生きてきたのだ。

「死者は何も言わない。俺達も何の言葉もかけられない。だとしたら、生きている俺達は行動で示すべきだ。死に急がずにな」

 征璽の言葉を重く受け止めて、夏凛はペットボトルのお茶を一気に飲み干す。何か、吹っ切れた気がしていた。かつては父も、征璽と同じように誰かをこうして慰めたことがあったのだろう。そして、慰められたこともあったに違いない。その経験を積めたことは、夏凛にとって今後の財産になるだろう。

「桐生院殿。今回のご恩は決して忘れません」

 しかつめらしく夏凛が頭を下げると、征璽は半分だけ顔を傾けながら空とぼける。

「何のことかわからんな」

「構いません。私が勝手にそう思うだけですから」

 夏凛がみせた笑みに、征璽は満足そうであった。つまりは、目論見が当たったということなのだろう。破邪の血族の中で最強の剣士は、どこまでも食えない男であった。

「行くか」

「はい……!」

 雨が降りしきる中、再び戦いに赴く二人の影。夏凛の眼差しに、もはや迷いはない。姉との約束を守るため。破邪の血族の使命を全うするため。何より、自分のために戦うだけだった。



 秋良が意識を回復したのは、どこかの医療施設のベッドの上だった。なぜそれがわかったかというと、視界に見えるものが、かつての母の病室と雰囲気が同じだったからだ。

 起きようとするも、両手両足が動かない。ベルトのような物でベッドに固定されていた。尋常でない状況なのは間違いない。秋良は押し寄せる不安の波に押し潰されそうだった。

「栄斗のやつ……あんな風にいなくなっちゃうなんて、勝手すぎるよ」

栄斗があの巨大な怪物に変貌を遂げたのは、間違いのない事実であった。そして破邪の血族を一瞬にして葬った、圧倒的な力。それからは、確かな意思の力が感じられた。

 栄斗に何があったのかはわからない。彼は昨日から様子がおかしかったが、よくよく考えてみれば、小さい頃、父が四季家に連れてきた時点で、すでにおかしかったのだ。

 いずれにせよ、栄斗は苦しんでいる。秋良達に迷惑をかけたくないがために、自ら姿をくらませた。栄斗はそういう奴だった。何でも自分で抱え込み、自分だけでそれを解決しようとするのだ。

 秋良は、それが栄斗の悪癖だと何度も怒った。彼はそのたび、すまなそうに謝ったが、今回ばかりは笑って許してやれそうになかった。

「そもそも、なんで何も言わずに逃げたワケ? それって、アタシ達のこと全然まったく信用してないってことじゃない。……なんか、すごくイライラしてきたぞ」

 栄斗への想いは、そっくりそのまま秋良を衝き動かす怒りに変換された。少女の中で生気が熱く燃え上がると、それは破邪の気となって猛り狂った。こうなると、体を縛りつける拘束具など、児戯に等しかった。

「アンタが逃げたって、アタシは絶対に捕まえてやる。それで、はっきりと答えを聞きだしてやるんだから……!」

 強烈な怒りに打ち震える秋良の全身が、破邪の気の金色に覆われる。凄まじい放出の余波で、室内が激しく振動していた。窓ガラスが今にも割れそうな勢いで、がたがたと音を立てる。体内に秘めた力が全開になるのを待って、秋良は思いきり体を跳ね上げた。

「覚悟しておきなさいよ! バカ栄斗おおぉぉ!」

 恋する乙女の魂の咆哮。ベルトをいとも簡単に引きちぎると、ベッドの上で仁王立ちとなった。解放された破邪の気が、部屋の中を破壊した。窓ガラスが一枚残らず砕け散り、粉々になった破片は雨によってはるか地上に落ちていった。

『何事だ? おい、中の様子がおかしいぞ!』

 ドアの向こうからくぐもった声が聞こえてきた。焦ったような野太い声に、秋良は緊張した。おそらく、部屋の外いる連中が自分をここに運び込んだのだろう。学校での状況を考えるに、彼らの正体は破邪の血族に違いない。

「捕まるわけにはいかないよね。アタシは栄斗に会わなくちゃいけないんだから」

 今となっては、秋良にとっても破邪の血族は敵という認識だった。となると、選択肢は一つしかない。ここから逃げて、栄斗を探し出すのだ。

 出口は二つ。部屋のドアと、割れた窓の外だ。秋良は迷わず窓の外に飛び出した。そして、そこに広がるに、思わず目を丸くする。足が竦んだのは恥ではあるまい。この部屋と地上との距離は、あまりにも遠すぎた。

「そうか。ここって聖峰病院だったんだ。やたらと大きな建物だと思ってたけど、やっぱり相当なものねー」

 変なところで感心する秋良だったが、そんなにのんびりともしていられない。爆発の衝撃でドアが変形したのか、こじ開けるのに時間がかかっているものの、連中がここに殺到するのは時間の問題だろう。

「落ちないように気をつけないとね。表側は人目につきそうだから、裏手に回ろう。確か、病院の裏は山だったはず。部活のロードワークで、この辺のリサーチは完璧なんだから」

 思いのほか足場が狭い桟を伝うように走り抜け、秋良は病院の裏側に回りこんだ。思った通り、雨濡れの山の景色がそこには広がっていた。姿をくらますのに、これ以上の好条件はないだろう。ただ、問題がひとつだけあった。

「それにしても、ちょっと高すぎだよね……ここ」

『おい、こっちだ! 絶対に逃がすなよ! 特にマスコミには目も触れさせるな!』

 そんな声が建物の中から聞こえてきて、秋良は少しの猶予もないことを悟った。迷っている時間もない。遠すぎる地上を見下ろすと全身が総毛立つが、もうそんなことは言っていられない。

「……よーし。やってやろうじゃない。アイキャンフライ精神を見せてやる!」

 大きく息を吸い込んだ秋良は、それをそのまま腹に溜めこんで、足場を力強く蹴った。意味のない叫び声とともに、秋良は雨が降りしきる空に舞った。一瞬の浮遊感のあと、抗いようのない重力によって、地上へと落下していく。

「ひ、ひ、ひいいいぃぃぃーッ!?」

 着せられていた薄緑色の貫頭衣が、ばたばたと激しく音を鳴らす。地面に向かって真っ逆さまの直滑降は、想像していた以上にスリリングだった。


※※※


 裏手の山を通る道路端に車を停めて、そこにいらいらと寄りかかっている女がいた。タンクトップシャツの上にジャケットを羽織り、ぴったりとしたジーンズを穿いた、スタイルの良い女性である。キャップを明るめの癖っ毛の上に載せ、豊かに盛り上がった胸の前にはデジタルカメラがぶら下がっていた。

「もうっ。目の前に特ダネが転がってるっていうのに、指をくわえて見ているしかないなんて」

 憤懣やるかたなしとばかりに、赤のルージュの唇をへの時に曲げる。彼女はフリーのジャーナリストとして活動しており、世界の不思議を暴くことに強い使命感を持っていた。世間の裏に隠れている破邪の血族に、並々ならぬ興味を抱き、その分野の第一人者という自負も勝手に抱くという、少し変わった人間だった。

「それにしたって、門前払いはないわよ。聖峰病院なんて、破邪の血族の関連施設といっても過言じゃないわ。情報の隠匿なんて、許せない」

 彼女がおかんむりなのは、聖峰病院の取材許可を、けんもほろろに突っぱねられたからだった。その前にも、怪物騒ぎのあった高校に顔を出したが、簡単に締め出されてしまった。連戦連敗が彼女のプライドを傷つけたのだった。

 本来ならそこで泣き寝入りするしかないのだが、捨てる神あれば拾う神ありというやつで、知り合いに特ダネをつかむチャンスを与えられた。編集長に大口を叩いて出てきた手前、それにすがるしかなかったのだが。

「宗ちゃんのことだから、何か考えがあってのことだと思うんだけど。本当にここに人が来るのかなあ? いっそのこと、空から何か降ってこないかしら」

 彼女のそれは予見ではなく、願望だった。降っているのは雨ばかりで、それも忌々しかったのだろう。傘の間から空を見上げた彼女は、ぽかんと口を開いた。

「ちょっと待って。あれって……」

 病院の建物から落ちてきた何か。それはみるみるうちに大きくなって、ど派手な地響きとともに、彼女の前に着地した。膝をクッションにして衝撃を殺し、どこも怪我をしていない緑の貫頭衣の少女。四季秋良だった。

「……ウソ。本当になっちゃった」

 秋良は、さすがにすぐに立ち上がることができなかったが、歯を食いしばって体を起こすと、すぐにそこから駆け出そうとした。

「ちょ、ちょっと待った! あなた、四季秋良さんよね?」

 と、その前をすかさず全身で塞ぐ彼女。秋良はそれに驚いたものの、不審そうに女を見やった。

「……なんでアタシのこと知ってるの?」

「ああ、やっぱり! 宗ちゃんの言葉を信じてよかった。それじゃ早く乗って」

 秋良の質問には取り合わず、女はにんまりと笑いながら、目を白黒とさせる秋良を助手席に押し込んだ。そして、自身もさっさと車に乗り込んだ。

「な、なんなのこれ? お姉さん、もしかしてアタシを誘拐する気?」

「んー、半分ハズレで半分アタリってとこ。そんなことより、早くシートベルト締めて。どうせ追われてるとかそんなとこでしょ」

 彼女の言う通り、ルームミラーに小さな黒だかりが見えていた。秋良を追ってきたに違いない。運転席に座った女は車のエンジンをかけると、思いきりアクセルを踏み込んだ。

「さあ、思いっきり飛ばすわよ! しっかりつかまってなさい!」

「ええっ? アタシには何が何だかって、うわわ?」

 宣言通り、車は凄まじい急発進を見せて、あっという間にその場から飛び出していった。黒服達が大挙して押し寄せてきたのは、その直後である。ルームミラーで背後の様子を見て、秋良はほっと溜息をついた。

「さあ、ってと。まずは秋良ちゃんの服を調達してあげないとね。花も恥じらう女子高生が、いつまでもそのままってわけにはいかないものね」

 楽しそうに車を走らせながら、女が笑う。秋良は直感で彼女が悪い人間でないことを悟ったが、わからないことだらけだった。疑問をひとつひとつ解決していく必要があった。

「あの、ところでお姉さんは何者なの?」

「ああ。まだ自己紹介もしてなかったね。え~と……はい、名刺」

 運転しながら差し出された名刺を受け取り、それに視線を落とす。

「フリーライターの『深見新ふかみあらた』さん……?」

「そうよ。あなた達、破邪の血族に多大な興味を持っている善良な一般市民よ。で、あなたに会うように指示してきた人も、破邪の血族」

「……誰ですか、それ?」

 車が付き当たりをほとんど減速せずに左折した。このままこの道を行くと大通りに出るはずである。危険すぎる運転に声も出ない秋良の疑問に、深見が答える。

「日佐谷宗四郎っていう人よ。秋良ちゃんは知らないんじゃないかな? あなたを案内するように言われてるのよ。……大好きな栄斗君に会いたいんでしょ?」

「なんでそれを……!?」

 ぎょっとする秋良に深見は笑ってみせると、さらにアクセルを踏み込んだ。

「話せば少し長くなるのよ。続きは道中でゆっくりとしてあげるわ。とにかく、よろしくね。秋良ちゃん」

見た目は大人なのに、にっこり笑うと少女っぽさが瑞々しい深見に、秋良はただ頷くことしかできなかった。だがこれで、栄斗に会える可能性が高くなった。希望の光が見えたような気がして、秋良はじんわりとした喜びに目を潤ませるのだった。


※※※


 暗く、深いまどろみから目が覚めたようだった。自分が何か柔らかい物の上にいるのがわかる。だが全身が悲鳴をあげていた。中でも、心がすごく痛かった。

 ゆっくりと体を起こす。すると、かけられていた毛布が中途半端に体に引っかかった。着ていたのは制服ではなかった。いつの間にか白無垢を着ていた自分に、少女はぼやけた意識の中で驚く。

 あれから何があったのだろう。思い出そうとすると頭痛が激しくなる。まるで思い出すことを拒否しているかのようだ。やがて意識が明確になりだした。

「……ここ、どこだろう?」

 四季冬莉は自分がいる場所を見回して、ぽつりと呟いた。広く感じられたが、どうやら個人の部屋らしい。冬莉がいるのはベッドの上で、他には机や椅子、本棚や衣装棚など、綺麗に整頓されていた。

 ふと、冬莉の目がベッドの脇に置かれていた小物類に向けられた。基本的に装飾のない部屋だったが、そこだけは妙に色づいて見えた。小さな人形やぬいぐるみ、可愛らしいアクセサリーが並ぶ中、一枚の写真立てがあった。見ると、それには一人の青年と一人の少女が写っていた。青年は困ったような顔をして、女の子は嬉しそうに微笑んでいるのが印象的だった。

「あれ? これって……」

 少女の方に見覚えがあった冬莉は、少し考え込んだ。見たところ、まだ小学生の彼女の顔は、それ以上に凛々しさを感じさせた。この雰囲気は、どこかで感じたことがある。そう、ついさっきまで、確かに感じていた。

 その時突然、部屋のドアが開いた。冬莉はびくっとして、そちらのほうを見やる。入ってきたのは、綺麗に成長した写真の中の女の子だった。

「目が覚めたようだね、冬莉君。よかった、安心したよ」

「響……さん?」

 お盆にコップと水差しを載せてやってきたのは、直江響だった。困惑を浮かべる冬莉を、彼女はなぜか深刻な面持ちで見下ろしている。冬莉が何かを言う前に、響とは違う声が部屋の中に聞こえてきた。

「やあ、驚かせてすまないね。……ようやく会うことができたよ、四季家のご令嬢、冬莉君」

 響が道を開けると、そこにやって来たのは、破邪の装束に身を包んだ壮年の男だった。細長の面が柔和そうな笑みを浮かべているが、冬莉はそれに安堵を覚えなかった。抱いたのは言いしれぬ恐怖と、底知れぬ不快感だった。

 男、直江龍生は笑った。脅える冬莉をその瞳に捉えて笑ったのである。

「さあ、儀式の始まりだ。すべての因縁に決着を着けるため、君にはその礎になってもらう……!」

 龍生が冬莉に法術をかける。強い催眠が冬莉を再び眠りにつかせる。術を解かない限り、少女が再び目を覚ますことはないだろう。龍生は冬莉の身体をその腕に抱くと、そのまま部屋を出ていった。

「もはや一刻の猶予もない。高科殿は動いてくれるだろうか。たとえそうなったところで、私は父上のために戦わなければならない。……四季殿」

 残された響が、重く沈んだ表情で顔を俯かせる。その視線が、さっきまで冬莉が見ていた写真立てに向いた。その時だけ、少女の表情は安らいだようだった。

「宗四郎。私にはもうわからないんだ。父上が正しいのか、四季殿のお考えの方が正しいのか。……君ならどうする?」

 写真の中の青年は、相変わらず困った顔をしたままで、答えてくれない。だがきっと、彼ならこう言うのだろう。硬い表情に決意をにじませながら、それを呟いた。

「……なるようにしかならない、か」

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