第二話『狙ウ者、狙ワレル者』
一
授業の終わりを告げる鐘が、校舎全体に鳴り響く。スピーカーを通して流されるチャイムではなく、本物の鐘が鳴らされているのだ。名門と名高い、私立聖峰学院ならではの情景である。由緒ある歴史を積み重ね、全生徒に英才教育を課す名門中の名門。
その中等部二年に、四季冬莉は籍を置いていた。
「それでは、本日の授業はここまで。明日は復習の意味も兼ねて、小テストを行う。各自しっかりと勉強するように」
それだけを生徒に申し渡すと、教諭はにこりともせずに、さっさと教室から立ち去ってしまった。生徒達もめいめいに放課後の行動に移っていく。勉強以外の無駄は一切省く、聖峰学院ではありふれた光景だった。
冬莉は窓際の席で、伏し目がちに溜息をつくと、教科書やノートを鞄にしまいこむ。ワインレッドを基調としたブレザータイプの制服が大きく見えるのは、同年代の少女と比べて、冬莉が小さくて幼いからだろう。
「四季さん。ちょっといいかしら?」
その声に顔を上げると、クラスメートの女子が三人連れだって冬莉のもとにやってきていた。どことなく上から目線の物言いをされた冬莉は、やや媚びるような笑みを張りつかせながら返事をした。
「いいよ。わたしに何か用?」
「私達、これから明日の小テストに向けて、互いに問題を出し合おうと思っているの。四季さんもどうかしら?」
言うなれば勉強会のお誘いである。女の子三人組はにこにこと冬莉の返答を待っているが、冬莉は軽く困惑していた。普段から彼女たちと接点がなかった冬莉は、なぜ自分が声を掛けられたのかわからなかったのだ。そのため、冬莉は自然と断りの言葉を口にしていた。
「ごめんね。今日は早く家に帰らないといけないから……」
申しわけなく思うが、彼女たちの表情に影が差したのを、冬莉は見逃さなかった。六つの冷ややかな視線が、純真無垢な冬莉の心をずたずたに切り裂いた。
「あら、そうなの。それは残念ね。成績優秀の四季さんの力をお借りしたかったのに」
「まあ、一緒にやりたくないというのを無理に、というわけにもいきませんものね」
「私達は私達でやるとしましょう。ごめんね、四季さん。お時間を取らせてしまって」
口々にそう言いながら、三人組は冬莉から離れていった。それを見送ることしかできなかった冬莉は、辛さのあまり唇を強く噛んだ。言葉の端々から、自分のことを快く思っていないのがわかる。この広い教室で、冬莉はいつも孤独だった。
「秋良姉さまと栄斗くんは、いつも楽しそうに学校のことを話してる。でも、わたしにはそれができない……」
冬莉が聖峰学院に進学したのは、家族の総意というより、春陽の意向であった。末妹の冬莉には真っ当な人生を歩ませたいらしく、名門と名高い聖峰学院にその希望を託した格好だった。
『冬莉ちゃんには、私達にない可能性があるの。大変だと思うけど、がんばって』
大好きで、心の底から尊敬している長姉にそう言われてしまっては、冬莉も駄々をこねるわけにはいかなかった。初等部の六年間を何とか無事に過ごし、中等部の二年目に突入した今も、その思いは変わっていない。自分を取り巻く環境がひどくなったとしても、健気で気丈な四女は、家族に愛らしい笑顔を振りまきながらこう言うのである。。
「姉さま達が喜んでくれるなら、わたしがんばるよ。みんなの笑顔が大好きだから!」
気がつくと、目の前が霞んで見えていた。それが目に溜まった涙のせいだと知ると、冬莉は急いで目元を拭った。じんわりと浮かんでくる涙に腹を立てながら、何度も、何度も。
一人、また一人と教室から生徒が減っていく。ついに冬莉ひとりだけになったところで、ようやく腰を上げる。いつものことだ。夕陽になりかけのオレンジが、暗い冬莉の全身を朱に染めた。
聖峰学院の校舎は完全木造で建てられている。随所に古さを感じさせる傷みを見かけるが、手入れはしっかりと行き届いていて、未だ現役と言わんばかりの英姿である。
鉄筋コンクリートの無機的な印象と違って、ほのかな暖かみを感じさせてくれるのが木造建築の醍醐味なのだが、今の冬莉にそれを楽しむだけの余裕はない。常に目線を下に向けている冬莉は、木目の通った廊下を眺めるだけだった。
ふと楽しげな声が聞こえてきて、側の窓から中庭を見下ろした。ベンチに並んで座る男女が、楽しそうに会話をしている。冬莉はそれを、自分のことを笑っているのだと感じてしまった。やり切れない思いに駆り立てられて、冬莉はその場から逃げ出した。完全な被害妄想なのだが、それに気付く余裕さえ失っているのである。
友達がほしい。疲れたように歩きながら、泣くのを我慢しながら、冬莉は切に願った。楽しい時、寂しい時、心が泣き叫んでいる時、悩みを打ち明けることができる友達がほしかった。
「でも、これはわたしの弱さのせいなんだ。全部、わたしが悪いんだ……」
昇降口でのろのろと下駄箱から靴を取り出す。学校指定の革靴だ。これに憧れた時期が、確かにあったのだ。初めて制服一式に袖を通した時、嬉しさのあまり、呆れ気味の姉達に勇んで披露していたことを思い出してしまった。
「ダメだなぁ。わたしは泣いちゃ、ダメ、なのに。泣いちゃ……!」
足下に落とされた革靴がぐにゃりと歪んで見えた。鼻の奥がツンとなり、ほどなくして少女の涙腺は決壊した。両手で顔を覆い、必死に声を押し殺す。小さい肩を激しく奮わせて泣いた。声だけは決して出さないように。それをしたら、もう立ち直ることができないと思ったから。
「……そこにいるのって、もしかして冬莉ちゃん?」
不意に聞こえてきた不審そうな声で、冬莉の体はびくりと縮こまった。泣き顔なんて誰にも見せたくない、そう思っていた。だが自らの戒めを破って、冬莉は泣きはらした顔をそちらへと向けた。それが聞き覚えのある声だったからだ。
「愛理、ちゃん……?」
冬莉が涙に濡れた声で、ぽつりと漏らす。そこにいたのは、やはり知っている顔だった。中等部に進級した際に知り合い、とても仲良くしてくれた少女。学年が変わって、離ればなれになってしまった女の子。
倉里愛理は、優しく微笑みながら、冬莉にそっとハンカチを差し出した。
「やっぱり冬莉ちゃんだった。……はいこれ。使っていいよ」
握りしめた空色のハンカチの温かさに、冬莉は感極まった。自分より頭一つ大きい愛理が微笑んでくれている。それがすごく嬉しくて、冬莉の目から再び涙がこぼれ落ちた。次の瞬間には、愛理の胸に飛びついている自分がいた。
「冬莉ちゃん……?」
頭の上から、愛理の困惑した声が聞こえてきた。だが、ひとたび激発した感情を抑えるすべを、まだ中学生の冬莉は有していなかった。愛理は小さく笑うと、嗚咽に震える冬莉の頭を優しく撫でてやるのだった。
※※※
放課後になると、それまで憂鬱だったのが嘘のように、元気を取り戻す生徒で溢れかえる。彼らは窮屈な束縛から解放された無上の喜びを、全身で表現するのだ。
その主な例として上げられるのは、友人や恋人と過ごすひとときであったり、青春を体現するクラブ活動であったりする。制服姿で校外に出ていく者と、運動着に着替えてグラウンドや体育館に向かう者達とで、生徒達の行動は大きく分かれるのだった。
「頼んだよ、秋良!」
「オッケー、任せといて!」
パスを受けた秋良が不敵に微笑む。ゆったりとドリブルをしながら、コート内の様子をうかがう。相手チームのディフェンスと味方の動きを把握して、秋良は素早く行動に移った。
華麗なドリブルで一人を抜き去り、敵陣に切り込んでいく。それを止めようと、他の二人が必死に食らいついてきた。しかし秋良は、それさえもあっけなくやり過ごす。もう秋良を阻むものは何もない。放たれたシュートがゴールに気持ちよく吸い込まれていった。
「ナイッシュー! さっすが秋良、見ていてほれぼれしちゃうわ!」
「ねね! 頼むから正式にウチの部に入ってよ! 秋良だったら即エース間違いナシだからさ!」
興奮気味に秋良を称賛する声が、コートのあちこちから飛んでくる。それに応える秋良の顔はとびきり輝いていた。これぞ青春である。集まってきた面々とハイタッチを交わしながら、秋良は茶目っ気たっぷりに言う。
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけどね。ここは神出鬼没の美人助っ人ってことで!」
「自分で言っちゃってるし! 秋良にはかなわないなあ」
弾ける笑顔。部活動でも秋良はみんなの中心だった。体育館には他にも練習をしている部がいたが、彼らの視線も自然と秋良に向いていた。まさに太陽と呼ぶに相応しい存在感を、いかんなく発揮していた。
「さあさあ、もう一本いくよ! 時間はいくらあっても足りないんだから!」
キャプテンが音頭を取って、再びチームはゲーム形式の練習に入る。体操着とは違うウェアに袖を通し、ゼッケンを身に着けた秋良の姿は、真剣そのものだ。額に光る汗の玉と、体育館に差し込む陽差しとが反射して、きらきらと光り輝いて見えた。
「やっぱり、秋良は格好いいな。活き活きしてるのが、ここからでもわかるもんな」
体育館の入り口付近で、バスケ部の練習を眺めていたのは栄斗である。彼は制服のままで、練習には参加していない。全然若さをはつらつとさせていない、ただの見物人だった。
秋良が部活に出る時、栄斗は活動が終わるまで彼女を待つことになっていた。自主的にそうしたのではない。秋良にそうするよう半分命令された時、栄斗はとてつもなく嫌な顔をしたが、半泣きで怒る秋良にどうしても逆らえなかったのだ。
『家主の妹を置いてひとりで帰る気? それでよく居候が務まるわね?』
とてつもなくひどい言い草である。とにかく、秋良は栄斗に対してきつかった。すぐに怒るし、蹴るし、殴るし、そして泣いた。泣かれてしまうとどうしようもなくなるので、栄斗としては彼女のわがままを甘んじて受け入れるしかなかった。
「今流行のツンデレだと思えば、少しは気が楽だよな。……もっとも、秋良のデレなんて、これまで見たこともないけど」
だからといって、秋良のことを嫌いになるとか、鬱陶しく思ったりすることはない。それも含めた全てが秋良の魅力なので、栄斗は今の今まで秋良の言いつけを、愚直に守っているのであった。
戸口に背中を預けて、何となく練習風景を眺めやる。同年代の少年少女達が、一生懸命スポーツに汗を流している。これが、学生本来の正しい姿なのだろう。これに惹かれないというと嘘でなる。栄斗だって、人並みに青春を楽しみたいという願望はある。だが、今日はそういう気分ではなかった。他に考えることが山積していたからだ。
「もやついた気分が晴れない。葬死郎の奴に余計なことを吹きこまれたからだな」
と、今この場にいない者のせいにしてみるが、それで疑問が解決するわけがない。それに、日中に起きた変異は間違いようのない事実だったのだから。
あの後、倒れた栄斗はすぐに保健室に運びこまれた。一時は昏睡状態に陥っていたとのことだが、一時間ほどで意識を回復し、体調も元通りになっていた。教室に戻ると、クラスメートの心配しながらも脅えたような視線の出迎えを受けた。その中で秋良だけが心から安堵した顔をみせてくれたのが、栄斗にとって唯一の救いだった。ちなみに田沼は病院に直行したらしいが、命に別状はないらしい。それが栄斗を少しだけほっとさせた。
「あれは何だったんだろう。まるで自分が自分でなくなるような感覚だった。……こんなのは初めてだ」
深くて暗い闇の底から聞こえてくるような、邪悪でおぞましい声。あの声に煽動されると、栄斗は自制が利かなくなってしまう。それが一番恐ろしかった。影生一族である栄斗は、一般人にはない強力な力をその身に宿している。それは、日常で見せてはいけない禁忌の力であった。
思い返されるのは影生葬死郎の言葉である。あのすかした態度の青年は、明らかに何かを知っていた。それも、核心に迫る何かを。
「自分が何者なのか、か……」
当たり前すぎて、考えようとも思わないことだった。だが栄斗は、今それを真剣に考えている。突き詰めて考えていくと、自分で自分のことをわかろうなど、どだい無理な話であるように思われた。朝に秋良が怒った通り、他人が自分の存在を定義づけてくれるのではないか。
思考の迷宮に迷い込んだ栄斗は、物憂げに空を見上げた。午後の陽差しはだいぶ緩やかになり、抜けるような青空にも翳りが見え始めている。夜は近い。
体育館の中で、甲高い笛の音が鳴った。汗を流しつつも笑顔の部員達が、談笑しながら休憩をとっている。秋良もスポーツドリンクとタオルを手に、その輪の中心にいた。
秋良の笑顔を見るだけで、栄斗の心は和んだ。そのまま見ていると、秋良と目が合った。一瞬、秋良は恥ずかしそうに目を泳がせたが、すぐに照れくさそうに満面に笑顔を浮かべて、大きく手を振ってきた。栄斗が手を振り返すと、周りからはやすような声が上がって、秋良は焦ったように、なんでもないと言い出す。紅潮した顔が何とも言えない愛らしさだった。
自分にないものを秋良は持っている。そして自分が抱いている底知れぬ不安も、彼女は持っていない。羨ましくもあり、妬ましくもある。だが同時に安心する自分もいた。こんなことで悩み、苦しむのは、自分だけでたくさんだ。それがわかっただけでも、栄斗にとって収穫であった。
二
「どう? 落ち着いた?」
愛理が顔をのぞき込みながら、優しくそう聞いてくる。ここは校庭にいくつか置かれている木陰のベンチだ。木々の枝葉が日の光をやんわりと遮り、風が吹けば爽やかな清涼感をもたらしてくれた。
「ごめんね愛理ちゃん。こんなことに付き合わせちゃって……」
もう泣き止んでいた冬莉だったが、愛理にまともに顔向けできる心情ではなかった。迷惑をかけてしまったという思いと、泣いてしまってみっともないという思いが、儚げな少女を頑なにさせたのだ。
「そんな水くさいこと言わないで。私たち、友達じゃない。困ってる友達を助けるのは当たり前。冬莉ちゃんが元気になってくれたら、私も嬉しいよ」
ボーイッシュな風貌の愛理は、笑いながら冬莉の頭を何度も撫でてくれた。冬莉はそれをくすぐったそうにするが、うつむかせた顔は真っ赤である。こんなにも情けない自分に、真正面から親身に向き合ってくれる愛理のことが、たまらなく好きだったからだ。
冬莉が愛理と出会ったばかりの頃、引っ込み思案でおとなしい冬莉は、中等部の雰囲気にすぐに馴染めなかった。初等部の時以上に競争意識が高く、殺伐とした緊張感が張りつめていたせいだった。
初等部の頃に仲の良かった子達は、その空気にあっさりと順応し、冬莉に冷たくなった。いや、冬莉だけが変わることができなかったのだ。早々とクラスで孤立しかけて、中学生活を楽しみにしていた少女は暗くなった。だが、こんなくだらないことで姉達を困らせたくなかった冬莉は、何も言わずに我慢をしていた。
しかし、それにも限度があった。何しろ多感な年頃である。もう学校に行きたくない。そう思った時だった。
『四季さん、だよね? こっちにおいでよ。みんなで楽しく話してるからさ』
そう言って、周囲の輪に自分を混ぜてくれたのが愛理だった。明るくさばさばとしていて、責任感も強い愛理は、男女問わず人気と信望が厚かった。その愛理が面倒を見てくれたことで、それまでひとりだった冬莉の周りにも人が集まり、楽しい日々を送ることができたのだった。
「そっか。冬莉ちゃんがそんなことになってたなんて知らなかった。ごめんね。私も二年生になって忙しくて、冬莉ちゃんのこと気にしてあげられなかった……」
冬莉がぽつりぽつりと語った現状を聞いて、愛理の顔に苦渋と悲しみが広がる。それを見た冬莉は、慌てたように顔を強張らせると、声を大にして叫んでいた。
「愛理ちゃんは全然悪くない! 悪いのはわたし! ひとりじゃ何もできない、わたしがいけないの!」
おとなしい冬莉がみせた激情に、愛理は思わず呆気にとられてしまった、丸く見開かれた目に射抜かれた冬莉は、そこで初めて自分の言動を理解した。興奮が冷めていくにつれて、自分はどんな顔をしたらいいのかわからず、あたふたと慌てふためくしかなかった。
愛理は、そんな冬莉の可愛らしい奇行をしばらく眺めやっていたが、忍耐の糸が切れるまでにそうたいした時間を必要としなかった。
「え? え? わたし、何かおかしいこと言った? ねえ、愛理ちゃん?」
おかしさのあまり吹き出してしまった愛理を前にして、今度はおろおろとしだす冬莉。愛理は笑いすぎのあまり目に涙を浮かべながら、愛おしそうに冬莉の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「ちょ、ちょっと愛理ちゃん。恥ずかしいよぅ……」
「あはは、ごめんごめん。やっぱり冬莉ちゃんはいい子だね。お姉さん達に大事にされるのも頷けるよ」
「愛理ちゃん……」
冬莉は、愛理が一人っ子だと話してくれたことを思い出した。姉達の話をすると、決まって彼女は羨ましそうにしていた。ということは、その話をしている時の冬莉は、よほど得意げな顔をしていたのだろう。
神妙な顔で見上げてくる冬莉に笑いかけると、愛理は反動をつけてベンチから立ち上がった。そして、座ったままの冬莉に向けて手を差し出した。
「一緒に帰ろ。と言っても、校門までだけどね」
小さく舌を出しながら、茶目っ気たっぷりに言ってくれる愛理の気遣いが、冬莉にはありがたかった。友達という、小さくも大きな存在に、心癒される冬莉だった。
二人は校門まで手を繋いでいった。ちらほらと見かける生徒達の中には、奇異な目を向ける者もいたが、冬莉と愛理はそれを意にも介さなかった。親愛の情とはそういうものである。
校門を抜けたところで、愛理が申し訳なさそうに立ち止まった。冬莉も足を止め、手を繋いだまま寂しげな笑みを浮かべる。
「本当は一緒に帰りたいんだけど、塾に行かなくちゃけないんだ。明日は一緒に帰ろうね」
「うん。……今日は本当にありがとう、愛理ちゃん。わたし、がんばるよ」
「はは。がんばりすぎるのはダメだよ。私も付き合うから、一歩ずつゆっくりといこ?」
「……うん。わかった」
広がる夕陽を浴びながら、少女達は微笑み合う。別れを惜しみながら、繋いでいた手を離す。それまであった温もりがなくなってしまう。それが冬莉には辛かった。だが少女は健気にも、笑顔で別れを告げた。
「……それじゃ。また明日ね。ばいばい」
「ばいばい、愛理ちゃん。……また明日」
二人は手を振りあい、お互いに背を向けた。別々の方向に歩いていく少女達。『また明日』。それは魔法の言葉であり、違えることのない約束である。明日になれば、また愛理と会って、話をすることができる。冬莉はそれが楽しみでしょうがなかった。
だが、愛理はそうではなかった。しばらく歩いてからその足を止めると、小さくなっていく冬莉の背中を心配そうに振り返っていた。
「冬莉ちゃん、今のままだと危険かもしれない。このことは一応、報告しておくべきかな……」
そう呟いた愛理の表情は妙に大人びていて、とても中学生の少女とは思えない、深みのある表情だった。
※※※
会議は紛糾していた。かねてよりの懸案が、直江龍生の新たな報告と重なり合って、より深刻な事態を破邪の血族に想起させたからである。
御三家の三名は、それぞれの表情で沈黙している。一心は毅然と、征璽は瞑目して、龍生は状況を観察しているかのようだった。
壇の下で繰り広げられている議論は、過激の一途をたどっていた。険しい顔をした血族達は激しく意見を交わしながら、時おり気を遣うかのように四季春陽に目を向ける。春陽は目を閉じたまま、姿勢を崩すことなく、平静を保っているようにみえた。
だがそれは表面上のことに過ぎなかった。直江龍生がもたらした情報は、春陽に太い楔を打ちこんでいた。荒れ狂う感情の波を抑えるために、動じていないふりをしなければならなかった。そうしなかったら、もうとっくに春陽の感情は激発していただろう。
末席に座していた夏凛も顔を青ざめさせていた。姉の心情を真っ先に慮ったが、今の自分には何もできない。もどかしさを募らせる一方で、自分達はどう動くべきかという冷静さもあった。末席の四季一門集め、額を合わせて協議をする。春陽のためにも、今できる最善を尽くすべきだと、夏凛に強い意志が働いていた。
場内がいっそう騒がしくなってきたところで、高科一心が静かに、だが強く声を張り上げた。
「皆の者、静粛に。何か意見がある者は、挙手をして申し出よ」
その声で、場内は一瞬にして静まり返る。体を正面に向けて座り直し、御三家に正対する。各々の表情を見るに、言いたいことがある者は多く見受けられたが、実際に挙手をした者は四季春陽以外にいなかった。
「……四季殿には、何か妙案がおありか?」
高科一心は、少し間を開けてから春陽を促した。静かに立ち上がる春陽に、会場中の視線が集中する。それまでひとつの挙動もみせなかった征璽も、春陽をじっと見据える。異様な雰囲気の中で、春陽は直江龍生にのみ視線を向けた。
「先ほどの直江殿のお話、これはすべて事実でありましょうか?」
その問いに対する龍生の返答は、にべもない。
「無論。いたずらに同胞に不安を抱かせるような真似は、私の好むところではない」
「影生一族や、常世に巣くうモノどもから得た情報など、眉唾物としか思えませんね」
春陽の冷酷すぎる指摘に、場内がざわめく。無礼であるぞという声は、直江一門の者達であろう。だが、言われた当人の龍生は、そのような指摘などどこ吹く風とばかりに、涼しい笑みをたたえていた。
「これは手厳しい。ですが四季殿。此度のような潜在的な危険を持ち込んだのは、他ならぬ貴女のお父上、四季春充殿だ。それはご理解いただきたい」
父の名を出されて、春陽の柳眉は苛烈に逆立った。
「故人に対する批判は、許容できません。即時の撤回を要求いたします」
春陽の声は、まるで万年雪を思わせる冷たさだった。それまで口々に非難していた者達も、思わず口をつぐんでしまう。怒気がみなぎる姉の背中を、末席にいた夏凛が口惜しそうに見やった。
「どうやらお互いに非があったようだ。だが、私が得た情報は確かなものだ。それだけは我が身命に誓って言える。それをことさらにあげつらうことこそ、冒涜ではないかな?」
直江龍生は全く動じた様子を見せず、逆に春陽を劣勢へと追い込んだ。さすがは御三家にあって参謀と位置づけられる人物である。役者の違いに、春陽は内心で舌打ちを禁じ得なかった。
「……四季殿も直江殿も熱くなりすぎだ。今はそのようなことを論じている場合ではない。邪妖の企みをを未然に防ぐことこそ、我ら破邪の血族の大義ではないか」
その時、静かに睨み合う両者を見咎めたかのように、桐生院征璽が重い口を開いた。彼の言葉に、春陽と龍生は表情を消して黙りこむ。そのまま春陽は席に着き、、龍生は横目で征璽を一瞥した。それに取り合うことなく、征璽は再び瞑目して沈黙を保った。
座を取り持ったのは、高科一心である。
「桐生院殿の言やよし。現世を護ることこそ、我ら血族に課せられた使命。直江殿の警鐘は、十分に議論をする余地がある。建設的な意見をこそ、諸君らに求めたい」
高科一心はそう言って、眼下に居並ぶ同胞達を睥睨した。それ以上の余計な感情論はいらないということを、自らの威信によって示してみせたのだ。その甲斐あってか、彼らの顔つきに冷静さが戻った。それを認めた一心は、改めて血族達に問題を提起した。
「常世に狙われているという四季冬莉、及び四季家の賓客である影生栄斗。彼らの処遇をどうするべきかを重ねて問う。我らに与えられた時間は少ないが、その中で最善の方法を皆で模索されたい」
春陽の顔が痛痒に歪んだ。直江龍生が告げてきた驚くべき情報。それは、妹の冬莉と栄斗に関するものであった。なぜ二人が狙われるのか、肝心なことを龍生は語っていない。それがため、血族の意見も大きく二つに分かれてしまっていた。
ひとつは、二人を保護の名目で血族の手で収監すること。
もうひとつは、二人を現世の害悪と見なし、最悪の事態を迎える前に殺してしまおうということ。
どちらにしても、四季家にとって甘受できない運命が待ち受けている。当主を受け継いでからというもの、より家族を大事に、大切に想ってきた春陽の心は、悲痛のあまりに張り裂けんばかりだった。
離れに面した池が夕陽を映し、橙色に染まっている。水面はただ静かに、いつもと変わらぬ姿をたたえている。揺れ動く破邪の血族と比べると、まこと対照的であった。
※※※
「……おや? そこにいるのは、もしかして四季殿の妹御ではないかな?」
不意に横合いから声をかけられて、冬莉はびくりとした。声がした方に向き直ると、ちょうど路地から出てきたばかりの少女がクールに笑っていた。艶やかで真っ直ぐな黒髪が美しい少女。前髪は綺麗に切り揃えられ、腰まで届く長い髪は後ろで一本に縛られていた。
「やはりそうか。君のような可憐な少女は、またといないからな。そこの路地からでもわかったよ、君の存在がね」
聖峰学院中等部の制服を着た少女が、真面目な顔で冗談を言う。冬莉はどういう反応をしたらいいのか困ったが、とりあえず笑っておいた。少女の襟元のリボンは藍色で、それは彼女が三年生であることを示唆している。先輩のもとに、冬莉は早足で歩いていった。
「こんにちは、直江さん。ご無沙汰しています」
「響でいいよ。あまり姓で呼ばれるのは好きじゃないんだ。余計なしがらみを、日常生活にまで感じたくないからね」
そう言って直江響は笑った。直江という名字からわかる通り、彼女は直江龍生の娘である。生まれた瞬間に直江家を継ぐことを宿命づけられ、それに相応しくなるよう英才教育を施されて育った。まだ中学三年生であるにも関わらず、破邪法師として数多くの破邪業に参加していた。冬莉とは真逆の立場にいるのが、この直江響なのだった。
「わかりました。それじゃ、響……さんは、どうしてこんな所に?」
冬莉は少し緊張しながら、響に話しかけた。顔見知りだが、響の完璧な立ち居振る舞いが、冬莉を萎縮させるのだ。明らかに同年代の少女と比べて格の違いを見せつける響は、その雰囲気とは裏腹に穏やかな微笑を冬莉に向けた。
「私がここにいた理由か。理由なんて特にないよ。ただここに来たかっただけ。自分の気持ちに素直に従ったまでのことさ」
「は、はあ。そうなんですか……」
さらに言うと、冬莉は響の独特な会話が苦手だった。何とかと天才は紙一重と言うが、響には申し訳ないがまさにその通りだと思う。
冬莉がそのまま押し黙ってしまったのを不審に思いつつ、今度は響が冬莉に尋ねた。
「そう言う冬莉君は、この時分まで学校かい? もう夕暮れ時だ。少し時間が遅すぎやしないか?」
「それは、その……少し理由がありまして」
迷いながら説明しようとした冬莉を響が遮る。いい匂いのする手の平が、冬莉の口を塞いだ。
「静かに。……どうやら不埒な輩が、私達を標的にしたようだ」
響の表情が、緊張感と不敵さとを混合させたものに変わった。それは冬莉が初めて見る、破邪の血族の素顔だった。
響の推察通り、景色の色がひとつになり、自然の風景はただの背景へと成り下がった。変わって押し寄せるは、純然たる悪意。邪気が渦巻く隔絶結界の中に、二人の少女は囚われたのだった
三
「隔絶結界……。瞬時にこれだけの範囲を影響下に及ぼすとは、何者の仕業だ?」
響は冷静な呟きを漏らしながら、注意深く周囲の気配を探った。制服の内ポケットに手を伸ばし、その中に仕込んで置いた霊符を指先に挟みこむ。
「ひ、響さん……」
「冬莉君。気持ちはわかるが、脅えては駄目だ。邪気は生気を食らう。挫けた箇所から食らいつかれて、あっという間に蝕まれてしまうからね」
響に指摘されて、冬莉はびくつきながらもお腹に力を入れて、静かに目を閉じた。姉から以前に、困ったことが起きたらそうするように教えられたことだ。集中することで体内の生気を高め、邪気の浸食から身を守ろうというのである。冬莉は知らないことだったが、響は感心したように目を細めた。冬莉の生気の中に、未熟ながらも破邪の気を感じ取ったからであった。
とはいえ、邪気が充満する隔絶結界の中に、訓練を積んでいない生身の人間を長時間放置するのは危険だった。響は霊符と法印を駆使して、簡単だが強力な結界の中に冬莉を収めた。淡い光の膜が冬莉を包みこみ、重い不快感で表情を曇らせていた冬莉の顔に、明るさが戻った。
「この中にいれば安全だよ。あとは私に任せて、そこから動かないで」
「は、はい。響さんも、気をつけて……」
心配する冬莉の声を聞きながら、響は前に歩み出た。邪妖の気配が強まっていくのを、全身で感じた。不快でおぞましい、攻撃的な感覚。それが生気を蝕む邪気の食指であった。
「いつまでも影に隠れてないで出てくるんだ。この直江響が貴様を成敗してくれる」
響の体を守るように覆っている光。人の生気を極限まで高め、それを究極に精錬したものが、邪妖を討ち滅ぼす唯一無二の力。破邪の闘気であった。
響の挑発に応じるかのように、前方にどす黒い霧のようなものが集まりだした。凝縮されているのは、強く濃厚な邪気である。邪気は巨大な塊となって、次第に形を為していった。ついにはそれは巨大な鬼の姿となり、その一部始終を目の当たりにした冬莉の口から、か細い悲鳴が上がった。
「あ、あ、ああ……!」
それは、冬莉が初めて見た常世の邪妖。現れたのは、頭頂部に太い一本の角を生やし、顔の上半分をぎらついた一つ目で埋めた、一角眼の邪鬼だった。膨れあがった筋肉は堅牢な鎧のようで、怪力がみなぎる手には破壊的な棍棒が握りしめられていた。
「この程度の邪鬼に、このような仕儀を謀れるとは思えんが、まあいい。倒すだけのこと」
見上げんばかりの邪鬼を見据える響は、どこまでも不敵だった。その顔に恐れなど微塵もない。一角眼の邪鬼は強敵だが、負けるなどと露ほども思っていなかった。
霊符をかざし、破邪の気を解放する。金色の光がまばゆく輝き、響が邪鬼に相対する。
「破邪法師でも一対一を制することはできる。かかってくるがいい」
邪鬼が人の言葉を理解できるとは思わない。だが、自分が挑発されているということぐらいはわかるであろう。響が踏んだ通り、一角眼の邪鬼は怒気をあらわにし、咆哮を上げるとともに、横薙ぎに暴威を振るった。
それに対する響の選択肢は一択、前に出るのみ。後ろに冬莉がいる以上、引くのは論外である。姿勢を低く構えた横っ飛びで、空間そのものをこそげ取りそうな一打をかわす。
先制の一打を避けられて邪鬼はさらに逆上した。小生意気な人間に制裁を加えるべく、巨体を揺るがして振り返ろうとする。鈍い動きだ。それより早く、響は邪鬼に肉迫していた。
「『烈火刃』!」
響が発した言霊が霊符の力を解放し、指先に灯った炎が、まるで刀剣のように激しく燃え上がった。響は怯むことなく、がら空きになった邪鬼の背中から脇腹にかけてを、紅蓮の炎刃で薙ぎ払った。
『ギャオオオォォォッ?』
炎の刃が邪鬼の硬皮を斬り裂き、剥き出しになった柔い肉を灼いた。苦悶に満ちた絶叫が空間を震撼させる。響はその体を蹴って、後方に宙返りをしながら華麗な着地を決めた。そして、傷口で燃え盛る火に悶え苦しむ邪鬼の足下に、間髪入れずに霊符を放つ。
「『旋風迅』!」
霊符は一瞬のうちに風の塊と化し、それは空を穿つ旋風となった。邪鬼はその猛威によって、軽々と空中に突き上げられた。自慢の筋肉の鎧は、風と火の嵐によってずたずたにされ、本来の頑強さを失っていた。
「これで終わりだ。『雷咬破』!」
響の言霊が天に轟く。局地的な雷雲が発生し、そこから凄まじい威力の雷光がほとばしった。邪鬼を撃ち抜くだけに留まらず、地上に突きたったそれは、再度天空へと返っていった。上下からの雷撃は、猛獣の牙を思わせる迫力だった。。
空から邪鬼が落下する。巨大な地響きを立てて、ぼろくずのようになった邪鬼が地面に沈んだ。もはや戦闘能力はない。惚れ惚れするような、響の完全勝利であった。強力な法術を立て続けに三度も見舞ったのだから、当然といえば当然の結果であったが。
「ふむ。これで少しは、冬莉君の後学のためになったかな?」
邪鬼を挟んだ向こうで呆然とする冬莉を眺めやる響には、そんな冗談を口にする余裕があった。思っていた以上に、敵はたいしたことがなかった。そう思い、破邪の気を少し緩めた時だった。
『グオオオォォォ!』
「? な、なんだと。しまった……!」
響の油断を衝くかのように、倒れこんでいた邪鬼が凄絶な咆哮を放った。邪気の威圧は凄まじく、戦慄した響は身動きがとれなくなってしまった。一気に危険信号が灯り、響の全身に冷や汗が沸き上がったが、それ以上の脅威が彼女を奈落に突き落とさんとした。
満身創痍の一角眼の邪鬼が、冬莉の方を向いたのである。
「こ、こっちに来る……!?」
自分の引きつった声が、冬莉に引きつった笑いをもたらした。一角眼の邪鬼は冬莉を睨むと、崩れ落ちていく体に構うことなく、一直線に突進を仕掛けた。死をも恐れぬ覚悟がみえて、冬莉は心から震え上がった。
邪鬼の巨腕が結界を破ろうとする。邪気と破邪の闘気とが激しくぶつかり合う。ようやくにして響が体の自由を取り戻した時、邪鬼の片腕を道連れに、結界は破壊されていた。
『グヌウ……。キサマヲ、ワガアルジノモトヘ、ツレテ……イク』
邪鬼の口から聞こえてきたのは人の言葉らしきものだった。その事実と内容とに、冬莉は愕然とした。その場から逃げようとするが、恐怖で体が全く動いてくれない。そんな冬莉を嘲笑うかのように、邪鬼は残ったもう一本の腕を伸ばした。
「ダメだ、間に合わない!」
その場から遠い響は、いつもの冷静さを失っていた。法術を放つことはできるが、この状況では冬莉も巻きこんでしまう。かといって今のままだと間に合わない。自らの油断が招いた最悪の展開に、響は絶望すら感じていた。
邪鬼の手が大きく開き、冬莉に暗い影を落とす。それにつかまれそうになった瞬間、冬莉の中で何かが胎動した。魂を揺さぶるような衝撃で全身が硬直する。大きく見開かれた瞳から生気が失われ、すべての感覚を失った。
『ヨウヤクメザメタリ……ダガマダソノトキデハナイ。オマエノタマシトドウカスルソノトキマデ、ソバニイテヤロウ……』
聞こえてきたのは、世にもおぞましい声だった。冬莉は見た。自分の中から黒々としたものがせり上がってくるのを。それは脅える冬莉に絡みついて、強引に引きずりこもうとしてきた。邪悪な意思に襲われた冬莉が泣き叫ぶ。
「いやあああぁぁぁーッ?」
心の叫びは現実のものとなった。少女の絶叫が空間を圧し、邪鬼を怯ませた。冬莉の小さな体から、真っ白に輝くまばゆい光が爆発的に膨れあがった。真の恐怖が冬莉の眠っていた力を呼び起こしたのだ。
「な、何だというんだ、この力は。冬莉君は本当に人か? これではまるで……!」
生気の輝きに目を眩ませながらも、響は冬莉が起こす奇跡に愕然とした。それだけに留まらず、あの小さな少女に底知れぬものを感じていた。
『コ、コレガ……ワレラガアルジノ……モトメシ、シンナ、ル……タマシイ……!』
純粋で膨大な生気が、一角眼の邪鬼をあっという間に消滅させていく。消滅の間際、邪鬼が残した最後の言葉。だが、それは誰に聞かれることもなく、光の渦の中に消失していくのだった。
※※※
意識を失っていた冬莉が目を覚ましたのは、響の背中の上である。おぶってくれているらしく、彼女の温もりはとても温かかった。動こうにも体がだるく、とても歩けそうにない。そのまま体を預けていると、気づいた響がふんわりと笑いかけてきた。。
「よかった。どうやら気がついたみたいだね」
「すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」
「なに、構わないよ。冬莉君は軽いし、何より触り心地がいい。役得と思って、どこまでもおぶっていくさ」
響の冗談とも本気ともつかない言葉に、冬莉は顔を真っ赤にした。響から、とてもいい匂いがする。香を焚いているのだろうか。心を落ち着かせてくれるその香りに、冬莉はうっとりとした。
「ときに冬莉君。ここでひとつ、忠告をしておきたいんだが」
それまで冗談っぽかった響の口調が、不意に真剣なものに変わった。冬莉が背中の上で居住まいを正す。その内容は、やはり先ほどの事件に関することだった。
「どうやら君は狙われているようだ。今回のことは四季殿、春陽さんにだけ話しておくんだ」
「それなんですけど……どうしてわたしなんかが狙われたんでしょう?」
「それはわからないな。でも心配はいらない。春陽さんなら君をちゃんと守ってくれる」
「はい……」
冬莉の返事は暗かった。響きはそれを、冬莉が未だショックから立ち直れていないせいだと判断した。素直な性格の冬莉なら、自分の言うことに従ってくれるだろうと信じきっていた。
だが、その実冬莉は、このことは誰にも言わないでおこうと心に決めていた。春陽に話せば、確かに響の言う通り、あらゆる手段を用いて自分を守ってくれるに違いない。おそらくは、それが最善の方法なのだ。
しかしそれでは、姉の手を煩わせることになってしまう。
「姉さまは今でも大変なのに、わたしのことなんかで、これ以上大変にさせたくない」
姉は優しい。それこそ盲目的な愛情を注いでくれる。だがそれは、冬莉にとって諸刃の剣でもあった。無上の感謝を覚えると同時に、愛情を押しつけられることに鬱陶しさも感じていた。
「わたしは、もうお荷物はイヤだ。誰にも迷惑をかけず、自分で解決してみせる……!」
まさか自分の背中で、冬莉がそんな危険な考えを抱いているなど、響は知りようもなかった。破邪の血族といえど、予知能力者などではないのだ。
日が暮れて、夕陽も沈みだした。夕焼け空が暗い夜色に変わっていく。
夜が、近づいていた。