オープニング
だいぶ前に書いた、唯一の長編小説です。もうだいぶ錆びついていると思うのですが、無謀にもあげてみました。
オープニング
四季家の朝は早い。長女で家長でもある春陽は、家事全般を取り仕切っていたので、家の誰よりも早起きであった。
二十四歳になる春陽は、ウエーブがかった明るい髪を長く伸ばし、知的な眼鏡と魅惑の泣きぼくろが印象的な美女である。ゆったりとした服を好んで着るからわかりにくいが、豊満で女性的なスタイルが魅力的だった。
キッチンに立つ春陽の耳に、階段を元気に駆け下りてくる音が聞こえてきた。かと思いきや、あっという間にリビングのドアが開け放たれた。
「おっはよー! 春陽姉、お弁当は?」
「おはよう、秋良ちゃん。元気なのはいいけど、もう少しお行儀よくしなさいね。はい、お弁当」
「はいはい、わかってますよ。それじゃ、いっただっきまーす!」
春陽のお小言など馬耳東風。さっさと朝ご飯を食べ始めてしまう妹に、春陽は苦笑をするしかなかった。
ご飯茶碗を豪快にかきこんでいる少女は、四季家三女の秋良である。年齢は十六歳、花もうらやむ女子高生だ。短く切り揃えた髪と健康的に日焼けした肢体が、快活な少女であることを物語っている。着ている制服は『成尾高校』という近所の公立高校のものだ。少し短めのスカートからのぞく太ももは、アスリートを彷彿とさせつつも、しなやかな女性らしさもあった。
「秋良ちゃん、今日の部活は?」
「女バスだよ。大会が近いしね、みんなやる気満々だよ。……ごちそうさまぁ、っと」」
朝ご飯をきれいに平らげると、秋良は食器をまとめてキッチンの洗い場まで持っていった。自分が使った物をきちんと片づけるというのは、四季家の数ある家訓のうちの一つである。
「それじゃ、帰りは遅くなるのね?」
「たぶんね。ご飯は先に食べてていいからさ」
テーブルの脇に置いた重そうなバッグを軽々と担ぎあげると、秋良がニカッと笑う。春陽もおっとりと微笑んだ。
「んじゃ、そゆことで。いってきます!」
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
そのまま駆け足で玄関に向かうと、秋良は颯爽とスニーカーに履きかえ、意気揚々と玄関のドアを開けた。まぶしい朝陽が自分を真正面から受け止めてくれる、はずだったのだが。
「げっ、夏凛姉……」
ばったりと鉢合わせをしたのは、四季家の次女で秋良の姉、夏凛であった。嫌そうな顔で一歩後ずさった妹に、クールな美貌を誇る姉が冷たい眼差しを向ける。
「顔をあわせるなりご挨拶だな。そんなに私と会いたくなかったのか?」
「別にそういうわけじゃないって。ほら、いきなりだったし?」
気まずさのせいもあり、秋良は卑屈に笑いながらこの場を切り抜けようと試みた。が、妹のそんな浅知恵が通用するほど、夏凛は甘くなかった。
「それで『げっ』なんて口走るのか、お前は。私には嫌がってるようにしか聞こえなかったぞ」
夏凛の追求は厳しい。絹のように艶やかな黒髪を長く伸ばし、今はそれをポニーテールに結っていた。年齢は二十歳で、モデルと見まごうばかりのスレンダーな長身の美女である。味も素っ気もないトレーニングウェア姿だが、凛々しい立ち振る舞いと相まって、その美しさは少しも損なわれていない。
「……フン。そうやって朝から説教する気? あーあ、見つからないうちにさっさと学校に行きたかったのに」
開き直ったか、秋良の態度が露骨に変わった。だがそれは忌み嫌うというより、口うるさい姉に辟易していると言った方が正しいだろう。
「説教されてると感じるのは、お前が何らかの非を抱いているせいだ。清廉潔白の身なら、変な勘ぐりなどしないはずだからな」
秋良がむくれても、夏凛は容赦しなかった。昔から口喧嘩でこの姉に勝てたことはない。勝つ自信もない。でも悔しさだけは募る一方で、それが夏凛に対してぎくしゃくした態度をとる原因となっていた。
「あー、あー! もういい結構、結構です。朝っぱらから夏凛姉のお説教なんてたくさん。学校に行くんだから、そこどいて」
耳を塞ぎ、わざとらしく大きな声をあげながら、夏凛を押し退けて通り抜ける秋良。次の瞬間、脱兎のごとく駆け出した秋良の姿は、あっという間に通りの奥に消えてしまった。
「逃げたか。……しかしあいつ、普段からあんな感じじゃないだろうな? 心配だな」
もう影も形もない秋良のことを思って、夏凛は重い溜息をついた。それでも見つめる瞳はどこか優しげだ。彼女は彼女で、ちゃんと妹のことを考えているのである。
「夏凛、また秋良ちゃんと喧嘩したの?」
その声に夏凛が振り向くと、困ったような笑顔を浮かべた春陽が、玄関まで自分を迎えに来てくれていた。おかえりなさいと言う姉に、ただいまと返事をする夏凛の表情は、先ほどまでとは打って変わって、穏やかなものである。
「喧嘩なんてしてないよ。秋良がいつものように強がってただけ」
「そう? どちらかというと、突っかかってたのは夏凛ちゃんじゃなかったかしら?」
「……もしかして聞いてたの? 姉さん」
春陽が悪戯っぽくほくそ笑んだので、夏凛は恥ずかしそうに顔を朱に染める。妹の前では凛々しい姉として振る舞う夏凛だが、姉の春陽にだけは素の表情を見せるのである。
「恥ずかしいな……全部聞かれてたなんて」
「そんなことないわよ。夏凛はお姉ちゃんとして、秋良ちゃんにしっかり向き合っているんでしょ? 私も見習わないといけないわね」
玄関のドアを閉めながら春陽が言うと、夏凛はまんざらでもなさそうに照れくさがる。昔からお姉ちゃんっ子である夏凛は、春陽に誉められるのが、何よりも嬉しかったのだ。
そんな時、ぱたぱたとのんびり二階から降りてきたのは、四季家四女の冬莉だった。ふわふわしたやわらかな髪を少し寝癖にした少女は、未だ夢見がちといった面持ちである
十四歳の冬莉は中学二年生。名門の誉れ高い『聖峰学院』に通っている。背が小さく、見た目の印象も幼いため、小学生に間違われることもしばしばであった。
「おはようございます。春陽姉さま、夏凛姉さま」
リビングに入ると、冬莉はいつものように、丁寧に姉達に挨拶をする。だが、顔を上げてすぐに、いつもと違うことに気づく。朝からあり得ない量の食事と向き合う夏凛が苦渋の表情を浮かべていた。
「あの、夏凛姉さま? これはいったい……」
「聞くな。……すべては私の迂闊さが招いたことだ」
甘んじて受ける、とでもいうように夏凛が言葉を絞り出す。これ以上深入りするべきではない、聡い末妹はそう理解すると、何も言わずに自分の席に着いた。
それからしばらく、静かな時間が流れた。そのうち春陽も食卓に着いて、みんなと一緒に朝ご飯を食べ始める。秋良が学校に出掛けたので、三人がこの場に顔を合わせていた。
「あら? そういえば、もうひとり起きてきてないわね」
「え? そうなの?」
それに気がついたのは春陽だった。すでに身支度を終えていた冬莉が時間を確認する。もはや悠長なことをしていられる時間ではなくなっていて、少女の顔色が変わった。
「わたし、起こしてくる」
「あら、いいのよ冬莉ちゃん。私が行くから」
慌てて席を立った冬莉を、春陽が留めようとするが、少女はやんわりとした微笑をみせた。夏凛はちらりと見ただけで何も言わなかった。
「すぐに戻ってくるから、春陽姉さまはゆっくりしてて」
リビングを出た冬莉は、少しどきどきしながら二階への階段を上がった。ひんやりとした空気が残る二階には、五つの部屋がある。階段を挟むように、四部屋。もうひとつは、それらを左右に臨む位置。そこが、問題の人物の部屋だった。
「……失礼しまーす」
いちおうノックをしてから、部屋の中に入る。カーテンが閉め切られた部屋は薄暗く、歩くのにも一苦労だ。足を運べば、床に落ちていた何かに触れる。そうした適度な散らかりが、生活感を感じさせてくれる。
「本当に、まだ寝てるんだ……」
ベッドの側までやって来た冬莉が、呆れ気味に溜息をついた。枕に埋もれた黒い頭は微動だにしていない。耳をすますと、微かな寝息も聞こえてくる。
どうやって起こそうか。そう思案しかけたところで、冬莉にちょっとした悪戯心が芽生える。少女の愛らしい顔に、言いようのない表情が浮かび上がった。
おとぎ話によくあるくだりである。深い眠りについてしまったお姫様を起こすために、とある王子がある行為でもって、眠りの呪縛から愛しい人を解き放つのだ。
「キス、しちゃおっかな……?」
生唾を飲みこむと、冬莉は掛け布団をそっとめくった。そこに現れたのは、ぐっすりと眠りこけた少年の寝顔だった。半開きになっている口は、まるで何かを求めているかのようだ。それに吸い込まれるように、冬莉は徐々に顔を近づかせていった。
※※※
暗い、暗い、闇の淵に閉じこめられているようだった。凍てつく寒さに体はおろか、心までもが震えている。どこを見ても深い闇が広がるばかりで、温もりの欠片も感じられない。
その中で彼は、膝を折り曲げた中に顔を埋めていた。孤独の寂しさと心細さに絶望し、自分の内から聞こえてくるおぞましい声に耳を塞ぎながら。
『殺セ、殺セ……。ソレガオ前ニ与エラレタ使命……』
『破壊シロ……。秩序ナド、弱者ガホザク、只ノ能書キニ過ぎギヌ』
『怒リヲ滾ラセロ、憎悪ヲ燃ヤセ。我ノ復讐ヲ、オ前ガ果ハタスノダ……!』
頭の中でわんわんと響く、憎しみに濡れた怨嗟の声。耳を塞いだところで、逃れることはできない。頭が痛い。心が泣き叫ぶ。もう何も考えたくない。このままこの声に従ってしまえば、楽になれるのではないか。
半ばあきらめかけた、その時だった。体の箇所に熱いものを感じて、そこに目をやる。光が当たっていた。その光は闇を貫き、光条となって降り注いでいた。顔を上げて、その元をたどっていく。天井の闇に亀裂が入っていて、そこからどんどん光が差し込んできていた。見る間に亀裂は多くなっていって、ついに割れた。
「……?」
あまりの眩しさに、彼は両手で顔を庇った。だが、光は彼に苦痛を与えなかった。体が火照らんばかりの熱さが、彼の冷え切った心をじんわりと温めてくれた。そして、いつの間にやら、やかましいぐらいに鳴り響いていた声が聞こえなくなっていた。
『おい、お前。生きてるか?』
どこか遠くから聞こえてくる男の声。目が眩んだままの状態で、視界はまだ回復していない。それでも彼は、懸命に目を見開いて、ぼやけた視界の中に男の姿を捉えた。
しばらく見上げていると、何かが顔の前まで伸びてきた。それが手だとわかったのは、男の次の言葉のおかげである。
『……つかまれよ。何も好きこのんで、ひとりでいるわけじゃないんだろう?』
男の声は優しかった。冷えきった心に差した、確かなぬくもり。心地良い何かが、彼を満たしていく。少しくすぐったいが、悪くない気分だった。
『……?』
男が何か喋っている。笑っているのかもしれない。そう思うと、何ともいえないくすぐったさを感じた。そう、それはまるで、何か柔らかい物で鼻をくすぐられているような……。
※※※
突然の違和感に、夢の世界から現実に立ち返らされた少年。寝ぼけ眼の視界いっぱいに、うっとりと目を閉じた冬莉の顔が迫る。鼻のくすぐりの正体は、少女のふわふわと長い髪の束だったのだ。
「うわあああぁぁぁっ?」
「きゃ、きゃああぁぁ?」
二色の悲鳴が部屋に響き、次いでどたばたと物音がやかましく鳴った。冬莉を押し退けるようにして起き上がった少年は、そのままバランスを崩してベッド下に転落。冬莉は布団に巻きこまれる格好になってしまった。
「いったい何がどうなって……って、冬莉ちゃん?」
「う、うう~ん……」
思いきりひっくり返された冬莉は、それはもうお年頃の少女にあるまじき痴態を晒していた。スカートがめくれ上がり、その中に隠れていたふかふかの白い三角形がご開帳となっている。少年はすっかりそれの虜になってしまった。
「もう、なんなの? さっきから騒がしいわよ。ちゃんと起こせた……の?」
間が悪いとはまさしくこのこと。階下から様子を伺いに来た春陽が、不埒な現場を目撃してしまったのだ。スカートに手を伸ばしかけた少年の、鼻の下が伸びた締まりのない顔。すべては誤解なのだが、そんな抗弁はもはや通用しない。
「……あなたは、朝から何をやっているのかしら……?」
部屋のドアに置いた手から、みしみしという心臓に悪い音が鳴っていた。血管が浮き上がった手の甲をみるに、凄まじい力がこもっているのがわかる。少年は必死の形相で命乞いをした。
「ち、違うんだ、春陽さん! これは何かの間違いで……って、ええっ? 聞く耳持たずですか? あ、ああ……! 顔が怖すぎるよ春陽さんーッ?」
四季家に落ちる雷。屋根の上に留まっていた小鳥の集団は危険を察知したかのように、いっせいに飛び立っていった。
※※※
通学路というだけあって、制服姿の少年少女の姿をちらほら見かける。時間はかなり遅くなっているが、なんとものんびりとした雰囲気である。これだったら、何もあそこまで必死に急ぐ必要はなかったかもしれない。
「いや。あの生き地獄には一秒たりとも長くいたくない。……春陽さんは本当に怖いんだって」
終始うつむきながら悲壮感を演出するこの少年は、影生栄斗という名前である。名字が違うことでわかる通り、本当の家族ではない。小さい頃、四季家に養子として迎え入れられたのが彼である。
特にこれといった特徴のない少年である。猫っ毛の髪質と、それなりに整った穏やかな顔立ちのせいで、今はやりの草食系に見られることはある。が、それを特徴とするには、印象が薄すぎた。
栄斗が通っているのは、四季秋良と同じ高校だった。公立の中の上レベルで、自由な校風だけが売りという、平和で平凡な学校である。秋良に限って言えば、もっと上の学校を狙えたのだが、うだつの上がらない栄斗に合わせたというのが実情だった。
栄斗はつまらなそうに顔を上げて、幸せが羽を生やして逃げる溜息をついた。見上げると、それなりの青空が目に入る。この青空というやつが、どうにも好きになれなかった。どちらかといえば、今にも雨が降り出しそうな重く淀んだ空の方が好きだった。
それを秋良に話したことがある。同い年の少女は、思いきり顔を怒らせながらこうのたまった。
『バッッッカじゃないの? どんより空模様が好きとかって、マジないわ! そんなだからアンタは、根暗ドロドロ男なんて言われてるのよ!』
「……根暗ドロドロ男って、そんなの秋良しか言ってないだろ」
酷い言われようだが、秋良はこれで栄斗のことを心配しているのである。積極的に人と関わろうとしない栄斗に非はある。それが自分でもわかっているから、秋良には何も言い返せないのだ。
秋良は栄斗と違って、明るく元気で学校中の人気者だった。彼女の回りには自然と人が集まり、誰も彼もが信頼の眼差しを向けている。
太陽のような存在の秋良。その光を浴びて、辛うじてその存在を表立たせる、月のような存在の栄斗。しょっちゅう喧嘩もするが、彼女のおかげで、これまでの学生生活は悪くないものであった。
「そういう意味では感謝してるけど……うん?」
呟きを終えて、急に張りつめた空気に、栄斗は敏感な反応を示した。日常から非日常に移り変わった瞬間。周囲の景色は凍りつき、人の姿がかき消えた。
「隔絶結界……誰の仕業だ?」
通学用の鞄をせめてもの備えとして、周囲を警戒する。このような仕儀を行う者に対して、そうおいそれと油断はできない。
栄斗の眉がぴくりと動く。どこからか、聞こえてくる笛の音。奏でられる旋律は美しいが、ところどころで入る不協和音が、じわじわと狂気を感じさせる。
にも関わらず、栄斗の肩から力が抜けていく。それは聞き覚えのある音色で、正直あまり会いたくない者が十八番としてる楽曲だったからである。
唯一の観客の不実な対応に、演奏者はいたく落胆したようである。曲の途中で吹奏を終えてしまうと、その人物は優雅に姿を現した。
「拍手ぐらいしてくれてもいいだろう? これでも腕には自信があるんだよ、栄斗クン」
横笛から口を離し、薄紫色のヴェール越しに薄く笑うのは、和装の青年だった。秀麗な面立ちに涼しい笑みをたたえている。青紫に塗られた唇がなんとも妖艶で、中性的な美貌を醸し出している。
「何の用だよ、葬死郎。言っておくけど、僕はお前に用なんてないぞ」
不満を隠すことなく、栄斗が冷たく突っぱねる。葬死郎という名の青年はそれにも関わらず、愉快そうにヴェールを払いのけながら、それを一笑に付す。
「そんなに邪険にすることないじゃないか。同じ影生一族の仲だろう? ……もっともキミは、ボク達とは少し違う存在だけどね」
葬死郎に意味深な笑みを向けられて、栄斗はたちまちのうちに渋面になった。栄斗が葬死郎を嫌う理由のひとつに、彼が思わせぶりな物言いを好むということがある。それをいつも上から目線で言うものだから、たまったものではなかった。
「葬死郎が一番浮いているくせに、よく言うよ」
「それは否定しないけど、キミだって相当なものだよ?」
葬死郎はほくそ笑み、栄斗はさらにむっとした。
「何だよ、それ。具体的に言ってみろよ」
「それはボクの口からは言えないな。知りたければ、自分で調べるんだね」
暖簾に腕押し。ああ言えばこう言う。栄斗は葬死郎の相手をすることに、ほとほと嫌気が差してしまった。うんざりと手を払いながら言う。
「ならもういいだろう? 僕はお前と違って忙しいんだ。さっさと結界を解いてくれ」
「学校に遅刻するのがイヤなのかい? それとも、彼女に怒られるのが怖いのかな?」
「ど、どうだっていいだろ。そんなこと、お前には関係ないじゃないか」
図星を指された栄斗は強がるも、それは完全に成功したとはいえなかった。葬死郎は薄い笑みをたたえながら、落ち着かない様子の栄斗を凝視した。その目は、一分たりとも笑っていなかった。
「生憎だけど、ボクの用件はこれからが本題なんだ。……栄斗クン。、キミは夢を見ていないか?」
「夢……だって?」
栄斗は思わずぎくりとする。それは葬死郎の真剣な表情もそうだが、夢なら今朝見たばかりだったからだ。はっきりとは思い出せないが、妙に現実味を帯びた内容だったような気がする。
「その様子だと、どうやら身に覚えはあるようだね」
葬死郎の冷ややかな声で、栄斗は我に返る。いつの間にか全身に嫌な汗をかいていた。気のせいか、呼吸も苦しいような気がする。焦点が合わない瞳が、青紫の唇が動いているのを、辛うじて知覚した。
「キミは狙われている。より正確を期するなら、キミの裡に潜む何かを、かな?」
「僕の中? どういう意味だよ、それ」
栄斗は動揺も露わに、なりふり構わず葬死郎に詰め寄った。が、彼はもうすでにヴェールで表情を隠しており、その真意を探ることはできなかった。
「自分のことだよ? なら、キミが一番よくわかっているはずだろうさ」
「おい、葬死郎?」
せせら笑いながら身を翻す葬死郎を、栄斗は慌てて呼び止めようとした。しかし、和装の美青年の動きは止まらなかった。そのまま歩み去ろうとして、半顔だけを振り向かせて言う。
「これを機会に、よく考えてみることだ。キミが何故生まれ、人としての生活を享受することができているのかをね……」
それだけを言い残し、葬死郎はもはや栄斗には目もくれず、笛を吹き鳴らしながら去っていく。追いかけようにも、足が地面に張りついて動けない栄斗は、遠くなっていく葬死郎の背中に向けて、叫ぶしかなかった。
「何か知ってるなら教えていけ! 僕にどんな秘密が隠されてるっていうんだ?」
はりぼてと化したな街の背景に、栄斗の必死だが空虚な叫びがこだまする。得体の知れない脅威に押し潰されそうになる栄斗を嘲笑うかのように、優美な笛の音はしばらく鳴りやまなかった。
※※※
「バッッッカじゃないの? なんだってまた遅刻してるわけ? アンタ、自分が置かれている立場をわかってないでしょ?」
「わ、悪かったよ。謝る、この通り謝るからさ。とりあえず僕の話を……」
「アンタの聞き苦しい言い訳なんてどうでもいいわ! あれだけ遅刻をするなって口を酸っぱくして言ってるのに、どうして同じ事を何度も何度も繰り返すの? これは重大な裏切り行為よ! 誰がアンタをこうやって学校に行かせてくれてると思ってんの? 春陽姉がどんな思いでいるのか、考えたことある?」
授業が終わるなり、前の席からわざわざ後ろの席まで大股でやってきた秋良が、栄斗の机をばんばん叩きながら、苛烈極まる怒りの口上をまくし立てる。こうなってしまっては、何を言っても馬耳東風である。
秋良の説教を聞き流しながら、栄斗は先ほどの葬死郎とのやりとりを思い返していた。葬死郎はふざけた輩だが、無用の混乱を起こすような破廉恥ではない。ということは、彼が話した内容は、かなりの真実味を帯びているということになる。
「……なあ、秋良」
「へっ? な、何よ。急に改まっちゃって」
ぽつりと呟いた栄斗に、それまで身振り手振りを交えての熱弁をふるっていた秋良が押し黙る。そして、心配そうに見つめてくる彼女の視線に背きながら、栄斗は不安を口にした。
「僕って、何者なんだろう」
「……は? 何ソレ、本気で言ってるの?」
予想していた反応と違う。秋良は明らかに腹を立てていた。栄斗は焦った。
「えと、まあ、その。割と本気で……」
秋良の顔が怖い。風向きが一気に怪しくなった。嵐の前の静けさなどという、生易しいものではない。栄斗があたふたとしているうちに、秋良の癇癪が爆発した。
「アンタは! 四季家の一員として迎えられて、今日までアタシ達と生活を共にしてきた影生栄斗でしょ? それ以上に何があるっていうの?」
修羅場再びであった。せっかく収まりかけた秋良の怒りは、あっさりと倍増しで炸裂してしまった。今までにない迫力に、クラス中が注目している。普段からこのようなやりとりが絶えない二人だったが、今回はあまりにも規格外すぎた。
だが、怒られつつも、栄斗は少しだけ安堵していた。秋良が、自分のことをちゃんと認識していて、そのことを教えてくれたからだ。おそらく、彼女にそうした考えはないだろうが、それは嬉しいことだった。。
あとはこの説教が終わるのを待つだけだが、それはまだまだ無理そうである。栄斗の受難はまだまだ続く。しょんぼりと溜息をつく栄斗であった。