… Sunday …
そいつの舌はとんでもなかった。
… Sunday …
「ごめん、俺、いま留守にしてるんだ。外でテスト勉強してるから……」
五月も終わりに近付き、大学は中間試験を控えている。簿記に泣きをあげた轟のために集合して救済活動に励んでいると、千歳の携帯が鳴り出した。
ワンルームに複数の人間がいる時、そこにプライバシーはない。玄関から部屋に続く廊下は片方がキッチン、片方がバスルームになっている。そこへ出たところで、電話の会話くらいは左耳が不自由なわたしにだって聞こえてしまう。
千歳はわたしが住んでいるこのアパートの一〇三号室の住人で、アジア的ハンサム……と言っていいと思うのだが、憎らしいことばかり平気で言うのでそんな褒め言葉を口にしてやる気は全く起きない。しかしその他大勢の女の子に対してはえらく優しいらしく、一〇三号室を訪ねる通い妻が絶えたことがない。その通い妻たちをただの女友達としか思ってないのが、こいつの罪なところだ。
外で勉強ったって、このわたしの部屋から千歳の部屋までは廊下と階段を合わせて五十歩もかからずに帰れる。どうやら年上のOL通い妻に来てもらいたくないようだ。
「破綻したみたいね」
言うと顎にシャープペンのお尻を当てて嘆息していた轟は、ノートを凝視したままおざなりに頷いた。それどころじゃないらしい。
轟はハーフかと思うような高い身長と綺麗な顔立ちをしているのだが、その実、酒といえばビールと焼酎、愛車は古いアコードという庶民派だったりする。ファミレスの厨房バイトをしているのもあって、同じ大学、同じ学部、同じアパート住人としてつるんでいるわたしたち三人の主夫的存在である。
その役割分担からしても、千歳がわたしを女の子扱いしないのも分かる気がしてしまうのだけれど。
轟が精算表を書くのを監視していたわたしは、声を潜めて囁いた。
「ねえ轟、次の通い妻で賭けようか! わたしが負けたら、期末もみっちり簿記教えてあげる」
空白行と睨めっこしていた轟は、それを聞くとすごい勢いで顔を上げた。
「ほんとですか! じゃあ僕は、同学年の身近な子に賭けます」
やたらと即答だ。
(……何か密かな情報でも掴んでるんじゃないだろうなー)
「じゃあ、わたしは……年下ね! 年上に懲りて年下に走るってことで」
「デートじゃないってば……だから来てくれても会えないんだ、ごめんね」
その後もなんだかんだと難癖をつけられていたのか、十分以上経ってから千歳は戻ってきた。参ったな、とはっきり顔に書いてある。
「例の年上の通い妻に困ってんの?」
千歳はラグに胡坐をかき、どこまで読んだかとテキストをなぞりながら額を掻いた。いつもの愛想のいい笑顔には、何となく元気が無い。
「こないだ、迫られちゃったんですよ……だから通い妻じゃありませんってば。どちらかと言えば、押しかけ女房?」
「どっちにしたって、奥さんじゃん」
「……あ」
珍しくやり込めてやった。彼女になりたくてなれずに泣いた歴代の通い妻たちに代わって、仕返しだ。
「彼女いるとか、言っちゃえばいいのに」
「そういう嘘つくの、嫌いなんです」
妙なところで真っ直ぐなヤツ。
「俺、一人で来た子を部屋にあげるの、もうよそうと思ってるんですよ」
珍しく真面目な顔で真面目なことを言う。どういう風の吹き回しだろう。年上通い妻と試験勉強で疲れてんのかな。
「じゃあわたしも千歳の部屋には入れないわけね」
別に上がりこむ用事なんて滅多にないから、問題ない。
「ひろさんは別です」
こいつがにっこりする時は、大抵腹に一物隠しているのだ。
「女の子と思ってないから、とか言いたいんでしょ」
「…………」
図星だったんじゃないだろうか。千歳の顔から笑みが逃げ去ると、隣で轟が吹き出した。それを見て千歳はうんざりしたような拗ねたような顔をして、テキストを押しやる。
「ひろさん、鈍感だって言われたことありません?」
ある。
「よく言われたー。何で知ってんの?」
「聞いたか、轟。しゃあしゃあと過去形を使ったぞ」
消しゴムは、千歳の額にクリーンヒットした。
「ひろさん、シカケ品って」
話しかけられてようやく、ぼんやりしていたことに気付いた。見ると轟は原価計算における仕掛品の評価法について、算式を前に眉間に皺を寄せている。
「シカケ……あーそれは必殺シリーズだよねーあの時の殺し道具ってったら、針だったか……」
「……轟、シカカリ品って読め。それよりひろさんが飽きてるぞ、晩メシにしよーぜ」
仕掛品にふりがな振ってる時点で、気が重くなってきた。通い妻の賭けに負けるわけにはいかなさそうだ……。
「あのー。冷蔵庫の中、何もないんですけど……」
我らが主夫、轟はすらりと高い背を折り曲げてわたしの冷蔵庫を覗き込み、まるでそれが自分のミスであるかのように申し訳なさそうに申告した。
「失礼ね。目薬くらい入ってるでしょ」
「目薬は食いもんじゃありません」
そんなこと、千歳に突っ込まれなくても分かっちゃいるけど。
「酒に入れて酔わせる人だっているらしいじゃない」
「あ、それねえ、迷信ですよ。昔は確かに麻酔作用のある成分が目薬に使われたことはあるみたいですけどー……」
轟の実家はその界隈で知らない者はいないというほどの大病院で、お姉さん二人とその旦那たちも医療関係者らしい。医者はもう充分だからおまえは経営をやってこいと言われてこの大学に来たらしいのだが、轟に経営のセンスがあるのかどうかはものすごく疑問だ。
……だからと言って医者に向いているとも思えないけれど何にせよ、そんな環境のためかその手の雑学をよく知っていたりする。
「酔わせたかったらアルコール度の高い酒を、吸収の早いスポーツドリンクなんかで割った方が楽なんじゃないかと……」
やたらと風通しのいい庫内に溜息を送り込みながら、轟はさりげなく危ないことを言う。その台詞を聞いて、千歳と目が合った。お互いに、いつか飲ませて酔い潰してやろうと企んだらしい。千歳も見透かしたように生意気な笑顔になった。
「で、冷蔵庫の中まで男らしいひろさん、食費に困ってるんですか」
「絹さんがいけないんでしょ!」
絹さんとは、ずばりわたしの守護霊である。いつも気難しい顔をした曾祖母だが、これがまた厄介な人だ。出てくる時は時間も場所も考えないし、一方的に話してはさっさと消える傍若無人ぶりだ。
以前に住んでいたアパートに怪談騒ぎを起こして引っ越す羽目に陥っただけでも迷惑だったのに、こないだはいきなり未熟な霊を守護霊見習いとして連れてきて、わたしに面倒を押し付けた。その理由が霊界での自分の立場を良くしようという自分勝手なものなんだから呆れる。助けてもらっていることといえば、たまに当たりクジで生活費を援助してくれるくらいか。
でもそれには全く見合わない苦労をさせられたわたしは、二度と見習いを連れてこないように、毎日のように絹さんの嫌いな牛乳やらコーラやら粒あん大福やら青汁やらを仏壇に供えていた。その費用が意外とかさばった結果、しわ寄せが自分の食費に来ることを痛感していたところだった。
男二人はそれぞれの部屋から食材を持ち寄ってくれた。
「ごめんね、来月仕送りしてもらったら、ちゃんと利子つけて返すから……」
二人に向けて同じことを言っているのに轟は首を横に、千歳は縦に振りながら「十日に一割で」と言う。こいつは本当に利子を要求しそうだ。
「バイト先に来てくれたらタダで大盛り出しますよー。厨房バイトなんだからそれくらい出来ます」
轟の申し出は有難いけど、一人でファミレスの大盛りメニューを平らげている姿なんて想像するだけで寂しいからやめておこう。
「ひろさんって、俺のバイト先には一度も来てくれてないですよねー」
そう言われてみれば轟がバイトしているファミレスには何度も行ったけど、千歳がいるバーには行ったことがない。
「家で飲めるアマレットを、その何倍もの値段出して飲みに行く理由なんてないもん」
専攻柄、価格の決定する仕組みや利益率については知っているつもりだが、つねづねモノを定価で買うのは馬鹿らしいと思っている。こんな火の出そうな家計下ではなおさらだ。
「働く俺の勇姿を一目見ようなんて気持ちは……」
「あっ轟、新しいふきんそっちに……」
ないんですね、という恨めしそうな呟きが聞こえたような聞こえなかったような。
「いる。絶対いる……」
白飯に生卵、そこまでは良かった。しかしその上にマヨネーズを絞って唐辛子を振り始めたところで、わたしは自分に何が起きたかを悟った。
午後いっぱい簿記に浸かって頭のエネルギーが切れ、ぼうっとしたままご飯を用意していた。何をしてるのか気付いた時にはもう、ご飯茶碗がクリーム色と赤にこってりと覆われていた。
「うわっ、ひろさん何やってんですか?」
わたしの手元に視線を落とした千歳は、卵かけご飯にしてはおかしな組み合わせに呻いた。
「不思議なトッピングですね……」
おかずを炒め終えて台所でエプロンを畳んでいた轟も、首を伸ばしてご飯茶碗を見ると複雑な顔をする。
「絹さんめ、強硬手段に出たな」
一人暮らしの女子大生の部屋に仏壇があるとわかると、大抵の友達は驚いて言葉に詰まる。小さくてモダンなデザインのものなのだが、そこに自分の食費を切り詰めてまで調達した青汁が供えてあったら、やっぱり引かれる。そんな光景に慣れっこなのは轟と千歳だけだ。
……慣れちゃいけないんじゃないか、とふと彼らが心配になる時もあるが。
その仏壇を睨むと、そこから海老茶の和服を着た絹さんが、例の般若の顔でのしのしと歩いて出てきた。
わたしの目線が位牌から中空へと移動したことでその出現を悟ったのであろう、触らぬ神にとばかりに轟と千歳は揃ってこそこそと部屋の隅へ避難を始める。
ご飯茶碗を突き出すと、その異様な色を一瞥した絹さんのヘの字口の角度はますます鋭くなった。
「こんなエグいもの食べようとしてるのは誰? 絹さん、味覚音痴なヤツを勝手に見習いにつけたでしょ!」
霊というのは供物を通して飲食したりするのだが、守護霊の場合は嗜好や性格が守っている人間側に反映されて、その人が食べることで満足していたりすることもある。実際に陣というヤンキーが見習いに付いた時は、とうに禁煙していたはずの煙草を吸いたくて仕方なかった。
だから自分には有り得ない嗜好が急に出てきたことで、見習いがついたことに気付いたわけだ。
『エグいだってー、ひどいなあ、もう』
ヘの字口がご開帳する前に、拗ねたような少年の声が聞こえた。
『ぼく料理研究家を目指してたりするんだから、傷ついちゃうよー? あ、でももう死んじゃったからなれないけどさっ、あはは』
(こいつか、味覚音痴は……)
絹さんの小柄な背中の後ろからひょいと出てきたのは、栗色の髪をくるくると元気に跳ねさせている少年だった。色白で、どこぞのアイドル軍団に紛れていそうな、ちょっと可愛い男の子といった風情だ。
何処かで見覚えのあるいかにも私立くさいブレザーの制服は少し余裕があって、まだ身体に馴染んでいない感じだ。恐らくこの四月に高校生になったばかりだったのだろう。
轟を見ていると思うのだが、金持ちの子息令嬢にはおっとりと天真爛漫な人が多い。万が一でもどうにかなるだろうと楽観的でいられる土台があるおかげじゃないだろうか。何の苦労もなくとは言わないけれど、やはり温室で育った人というのは雰囲気で分かるものだ。
少年はそんな、いかにも金持ち坊ちゃんな呑気な笑顔を見せている。わたしと絹さんの喧嘩をとりなそうとしてとぼけているのではなくて、どうやら単に自分の話をしているから首を突っ込んで来たという様子である。
場の空気を読めない人間を相手にする時の虚しい疲労感に襲われながらも、一言くらい叱ってやらねばと気を奮い立たせた。
「高血圧の人に引導渡しちゃうようなコレステロールばりばりのご飯で何が料理研究家よ! マヨネーズって半分は卵黄なんだから、卵にマヨネーズってトマトにケチャップかけてるようなものだよ?」
『へえ、そうなんだー!』
こんな状況下でなければ天使みたいと言って触りたくなるようなくるくる髪をした少年は、純粋に驚いている……というか、感動さえしているようだった。
マヨネーズの原材料も知らずに料理研究家になりたいとか抜かすのか、こいつは。
「しかも炊きたてご飯に載せるか、それを……」
少年は、えー、と不服そうに唇を尖らせた。
『だって今、和洋折衷がアバンギャルドなんだよー?』
前衛的なら、敵に弾薬庫が尽きるまで弾を浴びせてくれと言いたい。こいつの場合、それが農家の方々のためだと思う。
(めまいがしてきた……)
『わあ、かっこいいお兄さんだね。シロの彼氏?』
脱力しているわたしには全く気付きもしない様子で、少年は嬉々として轟を観察し始めていた。
「あのね、ひろです。絹さんの真似してシロって呼ばないで、江戸っ子で発音が混ざってるだけなんだから。それに轟は友達、彼氏じゃありません」
轟と千歳は霊を見ることは出来ないけれど、存在は信じてくれている。その霊とわたしとの話題に登場してしまったことを察した轟は、あからさまにビクリと肩を震わせてきょろきょろした。
『かっこいいんだけど、んー、もうちょっと胸筋あるほうがいいんじゃない?』
……質問しておいて、答えを聞く気がないらしい。少年は満面の笑顔で轟にちょろちょろとまとわりついている。
「ひ、ひろさん……何か、寒気するんですけど……」
轟はわたしの視線の先に霊がいることを知っている。向けられ続けれている視線のせいだろう、轟の腕には鳥肌が立っていた。
(霊に遊ばれてるよ、なんて言わない方がいいんだよね、やっぱり)
天使の髪をした少年は、怯えている轟の様子などお構いなしに至近距離でその顔を覗いている。
『この人、料理うまいんだね。ぼく、そういう人好きだなあ』
(……まさか)
舐めるようにじっとりしたその視線に、嫌な予感が襲った。
『じゃあ、こっちの人は? こっちがシロの彼氏?』
少年の興味はあっという間に千歳にも飛び火したようだ。
「ひろだって言ってるでしょ! 千歳も彼氏じゃなくて友達、それも悪友!」
「あ、ひどいなーひろさん。こんなに尽くしてるのに」
千歳は抗議したけれど、轟と同様に話題にされてびびっているようだ。おどける笑顔が硬い。
『うわあ、何かセクシーだね、この人。どきどきしちゃうな』
(まさかまさか……)
疑惑にちらちらと火がつき始めたところで、少年は決定的なことを言ってくれた。幽霊少年は轟と千歳の間に座ってそれぞれに腕を絡めながら、あの天使みたいに無邪気な笑顔で聞いてきた。
『ねえシロ、お兄さんたちに聞いてよ。年下は好きですかって』
『……あんた、ゲイなの?』
『わかった、見習いさせてあげるから! とっととそこから離れなさいっ! 絹さん、こいつを引っぺがして……』
二人の貞操のためだ。観念して絹さんを振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
(くそ……最初からわたしの意向なんて聞く気がなかったんだな。明日はホット青汁ミルクにしてやる)
が、すでにそんな余裕資金はないことを思い出す。深く溜息をついて向き直ると、見習い少年の不満顔が待ち受けていた。
『えー、見習い? するの? お化けには学校も試験もないんじゃなかったの? 鬼太郎の嘘つき。死んだら天国で遊んで暮らせると思ってたのに、神父さまも嘘つきだあ』
……頭痛までしてきた気がする。
「あのね、あんたが見習いさせられる原因になった心残りなんかをさっさと話してくれれば、すぐ終わるわよ。こっちも来週から試験なんだから、ちゃっちゃと片付けちゃいたいし」
(二人が見習い君にそっち方面の操を奪われちゃっても困るし)
前見習い・陣は無口で出不精で態度が悪くて、見習いの理由や原因はこっちで推測してやるしかなかった。でもこれだけ人懐っこくておしゃべりなら、わたしが動き回らなくてもすぐ話がわかって解決しそうだ。
『そりゃあ、ぼくにも色々あるけどー……』
それまでずっとにこにこしていた見習い君が、初めて表情を曇らせた。そこにはまだ幼さが残っていて、初対面でいきなりこっちの都合で怒ってばかりいたのが急に申し訳なくなった。
「あの、ひろさん。ごはん、もうひとつ持ってきましょうか……」
部屋の遠い対角線上から轟に聞かれて、食事中だったことを思い出す。三人と霊一人でお昼ご飯を頂きながら話すことにした。と言っても、轟と千歳は押し黙ってわたしの様子を窺っているだけだが。
当然、卵マヨネーズ唐辛子ご飯は見習い少年に押し付けた。
「色々あるなら、成仏しなきゃいいのに」
『だって、お迎えに来たお兄さんがすっごくカッコ良かったんだよー』
語尾にピンクのハートマークが付いてきそうな口調で、少年はにっこり笑う。
「そんな理由で軽々しく成仏すんなっ!」
もう、耳鳴りまでしてきた。霊界ってこんなんでちゃんと機能してるのか、甚だ不安になってくる。
「あのね、あんた……あ、名前なんなの」
『ユキ。トモにノリでユキ』
「んな説明でわかるかっ!」
ドンと拳でローテーブルを叩くと、茶碗と一緒に轟と千歳も飛び上がった。わたしをイラつかせた張本人だけが、けろりとした顔をしている。
『あ、シロは漢字苦手?』
あんたの日本語に問題があるんだ、と言い返す気力も失せる。
「轟、お酒! ビールでも焼酎でもいいからお酒ちょうだいっ」
怒鳴ると、轟は部屋にすっとんで行った。
「ひろさんが飲む気だ、チャーンス」
またカクテルの試飲をさせるつもりなんだろう、千歳もお酒を取りに行ったらしい。
「あのう、ひろさん。簿記が途中ってこと、出来れば忘れないで下さいねー……」
はらはらした様子で念を押す轟の手から缶ビールをひったくって、一気にあおった。
千歳のカクテル大会も始まって、その日は案の定、簿記どころじゃなくなった。