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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い一号 ―陣―
6/39

… Thursday …

… Thursday …


「あ、ごめん。今日は用事があるんだ」

 翔太くん宅を再訪するつもりで、轟と千歳からの夕飯のお誘いを断った。お誘いと言っても今回のように餃子の場合、包み係として狩り出されるわけだが。

 一日の講義が終わった解放感か、伸びをしていた轟はその返事に意外そうに振り返った。

「合コンですかー」

 轟の声にほっとしたような、触れていいのか窺うような気配が感じられた。

(そういえばこの二人って、わたしは陣が好きだったと誤解してるんだったっけ)

 好きだった男の事故現場にお参りをして、気持ちの整理をつけたと思ってるのかな。あるいはお参りをした三日後に合コンに繰り出すような薄情女と思われているのか……。前者であって欲しい。

「ううん」

「じゃあデート?」

 千歳もわざとらしいような明るい声を出しているようだった。

(それにしてもこの二人、わたしが出掛けるとしたら合コンかデートしかないと思ってるのか……?)

 確かに女友達とウィンドウショッピングやお茶なんて、苦手だから滅多にしないけど。

「ううん」

 二人は同意を求め合うように顔を見合わせている。疑いの視線を感じて、友達と食事だとでもごまかせば良かったと思っても、すでに遅かった。

「……まさか渡瀬橋に行くんじゃないですよね?」

「ん、んー……」

 ぐいと覗き込んでくる千歳の目をさりげなくよけると、轟のまじまじとした瞳に迎えられてしまった。

「ひろさん……目が泳いでますね」

「んー……」

 言葉を濁したまま校舎から夕焼けの中へ逃げようとしたら、進路を並んでブロックされた。

「何で言ってくれないんですかー」

 轟は怒るというより拗ねているようだ。

「だって……」

「当たり屋かもしれないのに、変に騒いで危ない目に遭ったらどうすんですか!」

 千歳は心配するというより怒っている。

「でも、ちょっと話をしてもらいに行くだけで……」

「こないだのことは、僕たちが悪かったです。だからって一人で行かなくても」

 轟にいじけたような顔をされると、いたいけな子犬をいじめたような気になってくる。

「でもほら、あんまり付き合わせても……」

「もしもし、店長? すみません俺、今日ちょっと遅れますんで……」

 わたしを睨みながら、千歳はすでにバイト先に電話を入れていた。同行はもう断りきれない感じだ。

「あ、ありがとう……お願いします」

 引きそうにないと諦めて御礼を言うと、轟は照れたように笑って頷いた。

「はい? いえ今回は修羅場じゃないですよ。お客の女の子ってわけでも……いえ店長、マジですって」

 ……千歳が普段、どんな理由で遅刻してるのかは聞かないでおこう。



 渡瀬橋へ向かう車中で、顛末を話した。

 絹さんと守護霊見習いの話は相変わらず伏せておいて、バンダナさんと話している時に初めて陣の霊に会ったことにした。その陣が呼んだように翔太くんが現れたこと。陣が事故当時に乗っていたのは悪趣味と噂の黄色いヤンキー車でなく、おうちの高級車だったこと。事故原因は運転ミスでなく、翔太くんをよけようとしたのではないかということ。

「下手って噂を打ち消してプライドが満足したら、陣も成仏できると思うの……」

 面倒だから、陣にはまだ成仏してないことになってもらった。

 わたしは陣が好きだという勝手な誤解は、ここで効果を発揮したらしい。しんみりと呟いてみせると、二人はもう当たり屋を刺激するなとは言い出さなかった。

(こういう演技は出来るのに、面と向かって心配されてる時に嘘をつくのは下手なのよね……)

 心の中で、二人にゴメンと頭を下げた。

 翔太くんのお父さんに会って、陣の事故に翔太くん父子が関わっていたのかどうかを確認する。関わっていたのなら、それをバンダナさんに話してもらえるように頼む。

「それだけのつもりだったんだけど」

 路駐して翔太くんの住んでいた市営住宅四号棟へと、薄暗闇に沈む道を行く。歩きながら目的を説明すると、まずは溜息が返ってきた。

「それだけって……女の子が単身、犯罪者かもしれない男の部屋にあがりこむ気だったんですか」

 女の子らしくとか女の自覚はとか、千歳の小言は耳タコである。思わずうんざりしたのが顔に出たのか、千歳はわざわざわたしの腕を掴んで注意を引いた。

「ひろさんは、性別で言えば女の子なんですよ!」

 性別で言えば、は余計だ。

「危なくなったらすぐに引き返す、ってことでお願いしますね」

 轟に心配そうな真顔で念を押されて素直に頷きながら、四号棟を見上げて気を引き締めた。



 アロハにパンチパーマでも出てくるかと思っていたら、おどおどした気弱そうなのがドアを開けた。

 三十五歳くらいの、へたったポロシャツにしわくちゃのチノパンをはいた翔太くんのお父さんは、しおれたナスみたいな顔でわたしたちを眺めた。白いものが混ざり始めている髪はぼさぼさで、目は充血している。

「あ、昨日、花を下さった方でしたか……留守でどうも……」

 ぼそぼそ言いながら頭を下げられ、わたしはすっかり気が抜けてしまった。

(当たり屋かもしれないなんて考えたの、間違いだったのかな……)

 翔太くんの事故から、まだ四十九日経っていない。何となく傾いた台に白い布を掛けた急ごしらえの祭壇の上に、白木の位牌と遺骨、遺影がちんまりと並んでいた。仏壇を用意できるのか心配になるくらい部屋の中にはモノが無くて、あるとしても部屋の主同様にくたびれていた。比べればわたしの部屋は豪華とさえ言える。

 慌てて片付けたちゃぶ台の上にあったのは、履歴書のように見えた。当たり屋疑惑はますます揺らいでくる。

 お焼香している間、翔太くんのお父さんは自分の部屋でないかのように落ち着かない様子で、畳の上に小さくなって正座していた。

「あのう、翔太とどこで……」

 そう聞かれるのは無理もない。小学生の男の子に、いきなり大学生三人が揃って手を合わせに来たのだ。

 わたしたちはお互い、どうしようかと視線で話し合った。むしろいかにもなヤクザっぽい人の方が、話が切り出しやすいというものだ。昨日のおばさんの言うとおりギャンブル好きだとしても、翔太くんの死に気落ちしているらしいパパ相手に当たり屋嫌疑をかけるのは非常に申し訳ない。

 でも、陣のことを思って何とか気を奮い立たせ、良心の痛みには気付かない振りをすることにした。

「実はわたしの恋人も、半年前にあの現場で亡くなりまして」

 空振りに終わるかという期待とも不安ともつかぬ思いで、道々考えてきた嘘を話し出す。

 が、そう言った途端に翔太くんのお父さんは頬と背筋を強張らせ、膝の上の拳を握った。動揺に血走った目が、右へ左へ忙しく泳ぎ回っている。

「そ、それはその……それはお気の毒なことで……」

(うわあ、ビンゴがこんなに嬉しくないのも珍しいわ……)

 悔しいやら悲しいやら情けないやら、何だか色々と泣けてきてハンカチで目頭を押さえる。

「病院に駆けつけた時、彼は遺言のように言いました。男の子が飛び出して来たんだ、って」

 陣は搬送先の病院で亡くなっているから、誰かに何かを言い残したかもしれないというのは充分可能性のあることだ。翔太くんのお父さんは、見るのも可哀相なくらいに震え出した。

「結局は目撃者なしで片付けられてしまったんですが、わたしはどうしても気になって仕方なかったんです。そうしましたら、こちらの翔太くんがつい最近、同じ場所で亡くなったと聞いて」

 真っ青な顔で、額には汗が浮かんでいる。翔太くんのお父さんの様子を見ながら、わたしの胸の奥にはふつふつと怒りが湧いてきた。

(この男は、陣を死なせておきながら黙って暮らしていたんだ……)

「それも飛び出しだって言うじゃないですか。わたしは必死で付近のお宅を回って、半年前の事故の目撃者を探し出したんです! この写真を持って!」

 坊主頭くんから一枚もらっておいた翔太くんの写真を突きつけたが、翔太くんのお父さんはそれを確認する勇気もないようだった。わたしは怒りのあまり立ち上がって、彼を上から、正面から怒鳴りつけた。

「飛び出した理由なんて聞きたくもありません。でも、陣の仲間に話してもらいたいんです。あの事故が起きたのは、陣が翔太くんをよけようとしたからだ、って」



「話す?」

 弾かれたように振り仰いだ翔太くんのお父さんは、顔に絶望的な表情を張りつけていた。

「知りません。翔太じゃありません!」

 冷や汗が飛んできそうな勢いで首を振るそのあまりの必死さが、嘘をついている証明のように思えた。態度では明らかに自白しているのに、まだごまかそうとするのが癪に障った。

「でも目撃者がいるんですよ。あなたが違うと言うのなら、その人に警察で証言してもらうだけのことです」

 そんなことをする気はなかったし、そもそも目撃者がいるなんて嘘なんだから証言してもらいようがない。でも翔太くんのお父さんには効き目があった。愕然と目を見開く彼の顔色は今や、青よりも白に近い。

(この人は、陣の死の沈黙を利用してた)

 わたしの怒りは熱い赤から冷たい青に変わっていった。感情をぶつけて場を滅茶苦茶にするより、冷静に話して目的を達成するのが陣への供養だと自らに言い聞かす。腰を下ろして、出来るだけ静かに話そうとした。

「名前を出す必要はありません。ただ、男の子が飛び出して、それをよけようとして事故が起きたんだってことだけ証明できればいいんです。それを話してくれるだけでいいんです。事故の法的な責任を問うつもりなんて、全然な……」

 いきなり翔太くんのお父さんはすごい勢いで立ち上がると、ちゃぶ台の上にあったキーらしきものを引っ掴んで部屋を飛び出した。

「ちょっと!」

 ポロシャツの裾を掴もうとした手は、虚しく空を掻いた。逃亡犯は転げるようにしてドアの外へと消えた。

「待ちなさいよ、このアホンダラ! 話を聞けーっ!」

 弔問だからと思ってパンプスを履いてきたのを後悔しながらドアを飛び出し、廊下を走って階段を駆け下りる。

 火事場の馬鹿力と言うけれど、人間、切羽詰ると走るのも早くなるのだろうか。現役大学生が三人で追いかけても、翔太くんのお父さんとの距離は縮まらなかった。

 まず煙草の影響か、団地を抜けないうちに早々と轟が脱落する。

「轟、車取ってきて!」

 犯人は団地前のゆるい坂道を折れて、フェンスに囲まれた駐車場に入った。乗る前に捕まえようと、千歳と並んで必死に走ったのに間に合わなかった。

「ひろさん、危ない!」

 千歳はわたしの腕を引っ張って、並んだ車の隙間に避難させた。だけど翔太くんのお父さんの乗っている薄汚れた黒いツードアは、幸いわたしたちを轢く気はなかったらしい。猛然と土煙をあげて、闇の降りてきた表の道路へと飛び出していった。

「逃げるな! 勝負しろーっ」

 パンプスの片方を脱いでツードアに投げつけようとするわたしを、慌てて千歳が止める。

「ひろさん、勝負って……話し合いじゃないんですか」

 そこへタイミングよく轟のアコードが急停止する。飛び乗るわたしと千歳がドアを締め切らないうちに、アコードは発進した。

 住宅地の狭い道路を、ツードアはおろおろと逃げ回る。ツードアが自転車や歩行者と接触しそうになるたび、わたしは身をすくめた。

「な、なんか……マズかったかなあ。わたし、刺激しちゃった?」

 後部座席から運転席と助手席の間に乗り出していた千歳は、ツードアのテールランプをじっと睨んでいる。

「うーん、まあ……もう少し穏便に説得する余地はあったと思いますね」

(キレると暴走するタイプだってわかってたら、怒鳴ったりしなかったのに……)

 なんて思っても後の祭りである。

「しょうがないですよ。俺だって、もし好きな子を事故で死なせた犯人にシラを切られたら、殴り倒しますって!」

 ……そういえば、好きということになってるんだった。

 千歳が怒りまくっているのがわかった。誤解だとバラしたら、怒って損したなどとこっぴどく叱られそうである。このままそういうことにしてしまおうかと思った時、横Gに身体が振られて叩かれるようにドアに押し付けられた。

(なっ……何なの、今の?)

 轟らしからぬスピードでの右折にびっくりして運転席を振り返ると、そこにいたのは……陣だった。



 座っているのは確かに轟なんだけれど、そこに陣の透けた身体が重なるようにハンドルを握っている。

『陣! 何やってんのよ、こんなとこで!』

 思わず口にしそうになるのを必死に押し留めて、脳内で叫んだ。轟を乗っ取った陣は答えずに、鷹のような眼で逃走するツードアを睨みつけている。アコードのエンジンは、轟が運転する時とは別物のように唸っていた。アクセルを踏み抜きそうな急加速に、乗り出していた千歳が後部座席に吹っ飛ぶ。

「轟? おまえまで熱くなるなよ、事故ったらどうし……」

「うわわっ、陣、近い! 近いってば!」

 あっという間に、アコードとツードアの車間はゼロになっていた。コン、とバンパーの当たる軽い衝撃に、翔太くんのお父さんが引きつった顔で振り返るのがライトに照らし出された。

『やめてよ、どうする気なのよーっ!』

 頭の中で絶叫しても、陣には届いていないようだった。陣はアコードがツードアに牽引されているのかと錯覚するほどの執拗さで、翔太くんのお父さんを追尾し始める。ツードアが減速して右折しようとすると、ゴンゴンとあおって結局直進させた。

(……事故らせるつもりじゃないみたい……何か目的があるのかも)

「やめろよ、轟!」

 呆気に取られていた千歳がようやく座席から這い出してきて、後ろから轟の肩を揺すった。轟、いや轟に憑依した陣はそれを気にも留めずにツードアのテールランプを追い回している。車は高級住宅地に入っていった。

 そんな様子を見ていた千歳の厳しい顔から、徐々に力が抜けていくのがわかった。困惑の瞳がおずおずとわたしを見る。

「ひろさん、さっき……陣、って言いましたか?」

 ……言ったような気がする。

「あのう、ちょっと怖いことを聞いてみてもいいですか……?」

 わたしはもう止めるのを諦めて、陣に任せることにした。この状況じゃ、翔太くんのお父さんだけじゃなくて、わたしも逃げるに逃げられない。

 一方通行の裏道同士の交差点で、陣はツードアの左後ろの側面にアコードの鼻先を当てた。

「聞きたいならね」

 ツードアの後輪が滑って、強制的に左折させられている。アメリカのポリスのカーチェイスみたいな手際だ。そんな芸当が轟に出来るわけないという事実が、千歳に信じられない可能性を信じる気にさせたらしい。

「いえ、聞きたくないです……」

 ささっと轟から手を離し、千歳はわたしの後ろに移動した。

 二台は一方通行の坂道を逆走しながら下っていく。突き当りを、陣はまたも強制的に左折させた。

「あれっ、この道って……」

 わたしが座っている助手席のシートにしがみついていた千歳が、頭のすぐ後ろで呟くのが聞こえた。言われて、右側のぽっかりと暗い空間が海であることに気付く。

「ひろさん、これ事故現場に向かってますよ!」

 千歳が言った瞬間、陣はあろうことか対向車線に乗り入れた。

「うわーっ、やめてっ、陣のバカあああああっ!」

 思わず叫んだがアコードは止まるどころかものすごい加速をして、翔太くんのお父さんの車を抜いていく。助手席のわたしと翔太くんのお父さんの距離は、正味五十センチもなかったと思う。

 それ以上見開いたら目玉が落ちてくるんじゃないかと思うほどの驚愕の表情で、お父さんがわたしたちを見ていた。この様子では運転してるのが轟じゃなくて陣と知ったら、ショック死しそうだ。

「きゃーっ、車、来てるってば!」

 激しいクラクションを鳴らす対向車のヘッドライトが、視界をぐいんと右へ流れていった。クラクションにもドップラー効果があるんだとわかったけれど、そんなこと知っても嬉しくとも何ともない。むしろ知りたくない。

 間一髪でツードアの前に割り込むと、陣は翔太くんのお父さんを振り返りながら、耳が割れそうな大声で叫んだ。

「バカ野郎、さっさと拾ってけ!」

(えっ……?)

 はっとして気付くとそこはもう、あの事故現場だった。初心者のわたしにもはっきりわかってしまうほどのオーバースピードで、二台はカーブに突っ込んでいく。

「ひろさん、危ないっ!」

 千歳の両腕が後ろから助手席のシートを回りこんで、わたしの肩を抱いた。けれど鼓膜を裂くような急ブレーキ音と共に、わたしの身体はその腕をすり抜けていく。

 スローモーションを見ているようで、その主役が自分であるという実感はなく、恐怖も驚きもどこか彼方へ飛んでいた。

 音の無い衝撃波に突き飛ばされるようにしてわたしの背はシートを離れ、肩は千歳の腕から滑り出る。

(あ……シートベルト……!)

 アコードの助手席のシートベルトは壊れている。わたしをシートに繋ぎ止めるものはもう何も無くて、身体全体がふわりと浮くのがわかった。フロントガラスがゆっくりと近付いてくる。その向こうに、やけに新しいガードレールと真っ黒な海が待ち構えていた。

 ぎゅっと眼を瞑った瞬間、ガラスの砕ける音がした。



 色素を蝕まれたような、かすんだオレンジ。

 どこかで見覚えのあるその色で視界が埋まっているのは何故だろうと思った。

(死後の世界ってオレンジなのかな……)

 ぼんやりしていると、そのオレンジにいきなり押しやられた。

『バーカ、起きろ』

「へっ?」

 我に返ると、車は止まっていた。ヘッドライトにあの切り取られたように一部分だけ白いガードレールと、その足許にちんまり置かれたピースの箱が照らされている。フロントガラスにはひび一つ入っていない。

 恐る恐る自分を見下ろすと、何事もなかったように助手席におさまっているのがわかった。どきどきしながら痛覚を確かめたが、別段怪我をしているということもなさそうだ。

 あの急停止で、シートベルトなくして無事でいられるわけがない。

(抱きとめてくれた……?)

 視界がオレンジだったのは、轟を離れてわたしを抱きとめてくれた陣のシャツだったのかと気付いた。

「ひろさん! ひろさん!」

 後部座席から半身を乗り出してきた千歳が、わたしの肩を揺する。見たこともないような真剣な表情だ。

「あ、ごめん……大丈夫みたい……」

「ほんとですか? 怪我してませんか?」

 わたしの言葉が信じられないらしく、暗い車内に目を凝らしてわたしの手足を確認しているようだ。そういえば、千歳が後ろから腕を回してくれたんだっけ。

「うん、ありがとう。ほんとに大丈夫。轟は……?」

 見ると、轟はぼうっと焦点の合わない目でシートに埋もれていた。声を掛けても寝ぼけているみたいに、あやふやな返事しか返ってこない。頭でも打ったかと思ったけど、きちんとシートベルトを締めていたおかげか、怪我はないようだ。

(陣に身体使われて、消耗しちゃったんだろうな)

 その時やっと、翔太くんのお父さんのことを思い出した。

 アコードを降りてみると、後方で黒のツードアが海側のガードレールを引っかくように衝突していた。バンパーが外れ、右のヘッドライトが砕けてガラスが散乱している。

 一瞬ひやりとしたが、翔太くんのお父さんは自力でもぞもぞ運転席から降りてきた。ハンドルにでもぶつけたか、鼻血が出ているようだったけれど、それ以外に大きな怪我はないようだ。

 ほっとして声を掛けようとした時、その眼がわたしたちでない方向に対してまじまじと見開かれているのに気付く。酸素に飢えた金魚のようにぱくぱくしていた口から、掠れた声が漏れた。

「翔……」

 事故っただけにしては様子がおかしいと思ったら、その視線の先に、翔太くんが立っていた。



 尻餅をついた翔太くんがすがるような目をしていたのは、何か許しを乞うような目をしていたのは、このためだったのか。

 翔太くんは、お父さんを見上げていた。お父さんの反応を待ちわびて不安に緊張している、そんな目でじっとまっすぐにお父さんを見つめていた。

『バカ野郎、さっさと拾ってけ!』

 お父さんの車を抜いた瞬間の、陣の一喝が蘇る。それで気付いて慌てて見回したが、陣の姿はまたも消えていた。

(あの言葉って……)

 その時やっと、陣が何にこだわっていたのかわかった。

(陣の心残りは下手とかって噂なんかじゃなくて、翔太くんだったんだ……!)

 お父さんに、翔太くんを拾ってもらいたかったんだ。

 わたしは見つめあう父子の邪魔をしない程度の距離に、そっと近付いた。

「お父さん。翔太くん……ずっと、ここにいます」

 愕然として翔太くんを凝視したままだったお父さんの肩が、ぴくりと震えた。

「当たりに飛び込んだのに、失敗してしまったから。だから、あの後も……亡くなった後も、それが気になって成仏できずに何度も……」

 繰り返し道路に飛び出す、幼い少年の姿が浮かんだ。涙が溢れてくる。街灯の白い光や、それを反射して星屑みたいに光る、道路に散乱したヘッドライトのガラス片が滲んでいく。

「何度も、何度も飛び出しては、あなたを探してるんです」

 翔太くんのお父さんは、道路にがくりと膝を突いた。

「もう、止めてあげてあげて下さい。もう必要ないんだって言ってあげて!」

 涙が止まらなくて両手で顔を覆うと、肩にかすかな重みを感じた。振り仰ぐと、轟が遠慮がちに手をかけてくれていた。いつの間に気を取り直したんだろう、憑かれて消耗して、他人のことどころじゃなかったはずなのに。

 ふえーんとその肩に抱きついた。視界の端で千歳がハンカチを手渡すかどうか迷っているらしいのが見えて、こっちから手を出して貸してもらった。

「そんな……そんなつもりじゃなかったんだ……あの時は……」

 背後で、翔太くんのお父さんの弱々しく悲痛な声がした。

「半年前に詐欺を考えたのは……認めます。あの人は、翔太をよけようとして転落死したんです……」

 わかっていたから、もうそれを怒る気にはなれなかった。

 ただ、悲しかった。

 陣は幼い命と引き換えに、自分の命を落とした。それでも恨むことなく成仏していた。なのに、そこまでして救ったはずの翔太くんは亡くなってしまった。しかも成仏できずに、車に飛び出してはお父さんの許しを待っていた。

 翔太くんが成仏できずにいるのをずっと気にしていたから、陣は霊としてのお勤めどころじゃなかったんだ……。

(何でそんないい男が死んじゃうのよ!)

 惜しくて悔しくて、ひたすら泣けた。

「でも、違うんです! あの日は、もうやめようと思って……半年前の事故で怖くなって、反省して、お参りに来たつもりだったんです! なのに翔太は……」

 殴られたかと、思った。

 目を開いても、暗闇しか見えていない気がした。轟のTシャツを掴んだ手に力を込めようとしても、ずるずると身体が落ちていく。

「また当たりをやりに来たと、きっと勘違いしたんです。止める間もなく、と、飛び出してしまって……」

 絞るような嗚咽が聞こえた。

「そんな……」

 轟まで力が抜けたらしい。二人して、崩れるようにぺったりとその場に座り込んだ。

(翔太くんは、また当たりをやるんだと誤解して……自ら飛び出しちゃったんだ……)

 翔太くんの家を探していた時に団地まで付き添ってくれた、おしゃべりなおばさんの声が頭にこだます。

『人見知りで、いっつもお父さんにくっついててね。翔ちゃんには、お父さんしかいなかったから……』

 お父さんに褒められたくて。お父さんの役に立ちたくて。

 振り返ると、翔太くんのお父さんは道路に泣き崩れていた。翔太くんは、そんなお父さんを困ったように見つめている。

「もう、いいって……」

 しゃくりあげてしまって、うまく言えなかった。そばにいた千歳が腰を落として、励ますように手を握ってくれる。

「もういいんだよって言ってあげて下さい……そして、連れて帰ってあげて」

「翔太ぁ……」

 叫ぶように呼ばれて、翔太くんは立ち上がった。ゆっくり車道を渡って、お父さんの前に立つ。

「俺が悪かった。ごめんな」

 街灯に照らされた、アスファルトに手を突き見上げるお父さんの頬には、幾筋もの涙が光っていた。翔太くんはそれを、思案するようにじっと見ている。

「もういいから、帰ろう。うちに帰ろう」

 翔太くんは、笑った。

 まだあどけない、小さなひまわりみたいな笑顔で、うんと頷いた。


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