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見習いはしないと宣言してから、永誉さんは現れなくなった。当然ながら竹原の姿も消えた。千歳のボディガードも解除になった。
見習いをやめたことについて、二人はとやかく意見したりしなかった。轟はいつもしたいようにさせてくれるし、千歳は以前からダメだダメだと言い張ってたんだから自然なことだ。
一夜漬けという名のテスト勉強に励み、レポートに呻き、戦果に嘆く。轟のごはんと千歳のコーヒーに舌鼓を打つ平和な日々。十日間にわたる前期末試験およびレポート提出期間も終盤を迎えていた。
「轟の裏切り者ー」
戦略的株式非公開化の意義。タイトル入力以降、一向に文字数の増えないレポートを前にして呟く。傍らでシロに猫じゃらしを振っていた千歳が肩をすくめた。
「轟は一年目の一般教養をひとつも落としてないから、テスト数が少なくて早く終わっただけ。ちなみに俺も。バイトに行くから代わりに晩メシ作ってあげてって頼まれて、俺はここにいるんだからね、ひろさん」
「はい。すみません」
それでもタイピングのためにキーボードへ置かれた指が動き出すわけじゃない。首を伸ばしてディスプレイを覗き込んだ千歳の猫じゃらしが、頭にぺしっと仕置きをしていった。
「全然進んでないじゃん。非公開化のケースなら欧米のほうがいいよ。はいゴーイング・プライベートで検索する」
「うう……英語わかんないよ」
「要するに飽きてんだ」
ご名答。
「で? 気分転換にPoison Appleで店長の美声に酔いたいとか言い出すつもり?」
「あー……今はいいかな……」
「ふうん。じゃあ中ジョッキかアマレット?」
「んー……それも気分じゃないなあ……」
千歳の無言は良くない兆候だ。さっさと書け、と怒られる前に書くふりをしよう。ポチポチと検索バーにgoing privateと入力していると、ふーう、と長い長いため息が聞こえた。
見れば千歳は彫りの深い顔の影をさらに濃くして、猫じゃらしをわたしに振ってる。
「轟もずっと気にしてたけどさ。ひろさん、元気なさすぎ」
横から走りこんできたシロが、猫じゃらしにタックルした。
「酒も飲まないでしこしこ勉強するひろさんなんて、見てて怖いっての」
わたしは一体どういう人間だと思われているのか。
「ほら、こういうこと言っても何も投げてこないしさ、暴力振るわないしさ」
わたしは一体どういう人間だと……。
「見習いやめてってずっと言い続けてきた俺が言うのもどうかと思うけど。あんな風にやめちゃうのは想定してなかったっていうか」
千歳は気まずそうに、膝の上で暴れるシロへ視線を落としてる。
「元気ないひろさん見るより、見習いに振り回されてきゃんきゃん騒いでるひろさんを心配してたかったっていうか」
轟と千歳が時折、言葉を口にしかけては飲み込むことに気付いてた。竹原の金縛りがなくなっても、彼らに気を遣わせ続けてしまっているらしい。
「ごめん。大丈夫だから」
明るく告げてみたのに、千歳の唇はむすっとしたまま。機械的に猫じゃらしを振り続けてる。テスト期間中は三人の誰にもろくろく遊んでもらえなかったシロは、鼻息荒くそれに猫キックをかましているのだが。
「大丈夫だから、ってそういうの聞きたいんじゃなくて。愚痴なら耳貸すし、泣きたいなら肩貸すし、ご希望とあらば片っ端から貸し出しちゃうから言って」
口調の軽さとは裏腹に、眼差しは真剣だった。こういう時の千歳の瞳は強力に語りまくって、熱まで発してる気がする。大丈夫だから以外の言葉を探して、もじもじとスペースキーを連打してみる。
「そっちの見習いやめちゃったんなら、こっちの彼氏見習いの未練を聞いて。一人で抱え込まないで、話して下さい」
近頃、本当に逆らえない。
最初は嫌がっていた見習い。だけど最近は引き受ける気になってきてた。見習いが無事に卒業していく時の笑顔を見たら、苦労なんてまあいいかと思える。
「それと、見習いすると落ち着くっていうか。借金払ったような気になってた」
「ふうん?」
困惑気味な相槌が帰ってきた。
「だってほら、わたし耳のことで周囲に迷惑かけてるから……その代わりに霊感を与えられてて、それで誰かの役に立ったら、耳のことチャラにしてもらえそうな気がしてた」
考えてみればそんな理由で見習いを引き受けるというのも自分勝手な、見習い霊に対して失礼な話だ。そのうえ恨みで成仏もできない不浄霊を生み出してしまったなんて皮肉極まりない。
「だから見習いやめて良かったんだと思う。永誉さんのせいみたいに言って、悪いことしちゃった。そういうことをツラツラ考えてたの」
「……ふうーん……」
やけに静かでもったいぶった返事をする千歳。手の中にある猫じゃらしは、トン、トンと膝をゆっくり叩いてる。出た、納得いってない時の仕草。わたしがぎょっとしているのに、シロは不承を告げる猫じゃらしへ元気に爪を繰り出している。代わりたい、切実に。
「散歩に行こうか、ひろさん」
不意ににっこり、特上の営業スマイルをされた。不吉だ。不吉すぎる。叱ろうとしてるか良からぬことを企んでるかのどっちかだ、間違いない。
「残念ながらこれ、誘ってるんじゃないんだ」
命令ですか。
千歳の機嫌を損ねると後が非常に面倒だ。一触即発な爆弾を抱えさせられてる気分で、千歳に続いて部屋を出た。
外はすでに日没を過ぎていて、低い西の空に夕陽の最後のオレンジ色が残っているだけ。七月の夏日でも陽と共に熱気も沈んで、縁日の夜祭を思い出させる懐かしい匂いがする。
散歩の割には随分遠くまで歩き、挙句に階段を上らされる。公園になっている小高い丘の斜面で、結構な急勾配だ。歩きやすい靴を履いてと言われた理由がようやく分かった。
息が上がり始めた階段の途中からさりげなく手を握られて、引っ張られるように上へ連れて行かれる。
自然のままの林、むきだしの土に遊具が点在する古い公園。暗いから子供の姿はもうなくて、ジョギング中のおじさんが走り抜けていくくらいだ。
千歳は丘の縁、林の切れた場所へ迷わず歩いていく。
ひとけのない公園で二人きりなんて。
密かに軽く警戒モードを起動しようとした矢先、眼前に光の海が開けた。
「わあ。夜景見えるんだ、きれい」
マンションや家々の輪郭が縁取っているのであろう地平線は、闇空と境目が溶けてしまってどこまでとも知れない。いっぱいに広がる無数の光の点は、深黒のビロードの上に極小のダイヤを奔放にぶちまけたみたいだ。ゆるく弧を描く幹線道路の路側灯は、流れ星の軌跡を追った天体写真のよう。
「ここの夜景、好きなんだ。シンプルで」
指摘されて見てみれば、千歳の言う通りだった。繁華街から外れて住宅地の広がっている地域。華美なイルミネーションもネオンも、派手にライトアップされた高層ビルや橋も目に付かない。
「前は特別どうとも思ってなかったけど……今はすごく気に入ってる。ひろさんっぽくて」
手を握り直して、照れたみたいに声のトーンを落として、千歳はいきなりわたしの名前を出した。思わず千歳を振り仰ぐ。半歩、体を寄せられる。表情は暗くてよく見えないけれど千歳の黒目に夜景が映って、つやりと光ってた。
繋がれた指の温かさを急に意識しだす。
「あの一つ一つの光って、誰かんちの……メシ食ってるダイニングかもしんないし、家族の帰りを待ってる玄関かもしんないし。人に見られるのを前提にした商業的なモンじゃない。見られるの意識して飾り立てたりしてない。なのに、そういうのがたっくさん集まるといい夜景になってる」
「うん」
「ひろさんの耳も、霊感も、ひろさんとは関係ないよ」
またしてもいきなり名前を出されて、しかも話題が飛んで混乱してきた。
「俺はひろさんの耳を気にかけるけど、気にしてない。だって障害っていうか、人より苦手なとこなんて誰にだってあるし。ひろさんの場合はそれがたまたま耳ってだけで……轟なんて簿記できないし、俺はいつまで経ってもひろさんが気に入ってくれるようなアマレットのカクテル作れない」
並列していいんだろうか、簿記やカクテルと。
「チャラにしなきゃなんて、何でそんなこと思うの? ひろさんは簿記教える代わりにメシおごれとか、カクテル作れない代わりにキスでチャラにしろなんて思う?」
「えーと、少なくともキスしろとは言わない……」
「耳や霊感が理由でひろさんがしなきゃいけないことなんて何もない。ただ、いてくれればいいです」
――今はすごく気に入ってる。ひろさんっぽくて。見られるの意識して飾り立てたりしてない。なのに、そういうのがたっくさん集まるといい夜景になってる。
千歳が何を言いたくてこの夜景を見せに連れて来たのか、そこでやっと分かった。
両肘を両手で掴まれ、引き寄せられる。屈んできた千歳の額が、わたしの額でこつんと鳴った。すっかり覚えた千歳のフレグランス。
「いてくれれば、それだけで俺には絶景だから」
優しく諭す瞳は夜景なんて見向きもしないで、真っ直ぐ覗き込んできた。
どう返せばいいのか思いつかない。
息が苦しくなるくらい胸がぎゅっとするけど、金縛りの圧力とは天国と地獄ほどに違った。千歳がくれた言葉にふさわしいだけのお礼を言いたいのに、どれだけ探しても見つからない予感がする。
もたもたしていたら、左の耳たぶをヒョイと引っ張られた。
「俺の言いたいこと、聞こえた?」
難聴の左耳をチャラにする努力なんて必要ないんだってこと。耳も霊感も見習いも上辺とも関係のない、存在そのものを好きでいてくれてるってこと。この左耳でも、この左耳だからこそ聞ける言葉もあるってこと。
くっついた額のままで、うんと頷く。
「こんなにいい耳なのに、何で要らないなんて言ったの?」
「…………」
我慢してたのに、涙腺の限界が来た。胸の奥と同じくらい目が熱くなって、涙はどんどん落ちるのに全然冷めようとしない。
「ごめんね……」
ようやくそれだけ喉から絞り出す。
「謝ったって、俺の耳返してあげたりしないからね」
意地悪なこと言ってるくせに口調はめちゃくちゃ優しくて、それがまた涙を呼ぶ。
「いつもありがと、千歳」
「うん」
「付き合ってって返事も、ずっと待っててくれてありがと」
「そろそろオッケーしちゃいましょう。楽になるよ」
ちゃっかりしたアピールは冗談めかしてる。落ち込んでる時、泣いてる時、千歳はいつだって元気付けてくれる。それに応えて笑うための筋肉はきっと、涙腺の門を閉じる働きを兼ねてる。
「うん」
「…………」
饒舌だった千歳が、そこでぴたりと黙った。初夏の夜気がしんと鳴る。至近距離にある千歳の瞼が何度も何度も瞬いてる。
「あのさ、ひろさん」
「なに」
「今、うんって言ったように聞こえたんだけど」
おずおず聞き返されるのが可笑しい。うん、ともう一度答える。
「千歳の彼女にして下さい」
小さく息を呑むのが聞こえた。右肘にあった千歳の指は一度ぐっと掴んでから、そっと滑って腰に回る。
「――俺だけの、って言って」
吐息だけで話してるような密やかさ。
博愛主義と疑ってのリスクヘッジ文言だろうか。ここに来て今更言わせる必要があるのかと思うけど、千歳が意外と甘えたがりなのも知ってる。
「千歳だけの彼女にして下さい」
耳たぶを挟んでた千歳の右手が、ゆるゆると降りてきて頬を撫でた。額が離れて、鼻先が触れ合う。鼻先が離れて、唇が近付く。
千歳はもうキスを盗む必要なんてない。わたしもはたき返す理由なんてない。イエスと答えてくれるはず、いつか夢うつつに教わった、一番簡単な読唇術で。
そして与えられたのは――きゅっと小気味いい頬へのつねり。
「いたたっ、何すんの千歳ってば!」
「疑わしい。ほんとにひろさん? 誰かに乗り移られてんじゃないの、友紀の時みたいに」
はい?
「これが他人だったら俺、立ち直る自信ないって。そうだ、テストしよ。ひろさんが別れた彼氏からまき上げて後生大事にしてる、俺が捨てちゃいたくてしょうがないモンなーんだ」
「デュポンのライター? 思い出に取ってあるんじゃなくていい音だから、それだけ! えっ、捨てたいの?」
「このニブさ……やべっ、ひろさんだ。あ、さっきの返事はね」
最強の愛想笑いを浮かべてるに違いない千歳の額を、正面からはたいてやった。
「もういい、撤回!」




