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憑座であるビクトリノックスを手放したから、竹原は出てこられなくなる――そんな淡い期待は、午前一時半に裏切られた。
「からかってるだけだってば、信用して。本当に困らすようなことしたら俺がなくすの、ひろさんの信用だけじゃないから」
「プライバシー? リョウに盗聴されてるもんね、この部屋」
「あ、それもあった」
他にもあるらしい理由を明かさないまま、千歳はおやすみを言って電気を消した。
理由を追求しようとする思考は蓄積した寝不足に阻まれて寸断し、混濁しながら眠りに吸収されようとしたその時だった。胸板を潰されるような衝撃に、肺の空気が叩き出された。
前触れも、千歳の名を呼ぶ暇もなかった。肌から払いのけたくなるくらい重くまとわりつく霊気を放ち、竹原の霊はわたしを容赦なくマットレスに沈めた。
息が吸えない。
どんな満員電車だってどうにか息はできる。だけど竹原は僅か鼻先ばかりの空気を吸うことも許すつもりはないようだった。
金縛りで死んだ人なんて聞いたことない――。
そう信じていた。でももしこのまま数分間、金縛りの重みで呼吸を止められていたら。医学的には原因不明の突然死で片付けられるだけ。だから金縛りで死んだ人なんて聞いたことがないだけなのかもしれない。
心臓が惨めなくらい騒ぎだす。
『やめてってば! こんなとこで死ぬわけにはいかないの!』
無駄だろうと思いながらも、頭の中から竹原に向かって叫んでみる。すると意外なことに、鋼鉄の布団でも乗せられてたかのようだった重みがすうっと引いた。
涼しい空気が肺へなだれ込んでくる。深海を想像させる強圧と恐ろしい可能性から解放されて、安堵の呼吸を堪能した。
だけど霊気はまだ辺りに立ち込めている。竹原の姿を見るのが嫌で、目をぎゅっとつぶったままにしていた。忙しい心臓が打ち出すのは血液じゃなくて冷や汗みたいだ。霊に慣れてるわたしだって、これほどの憎しみと金縛りに晒されればさすがに怖くもなる。
千歳に起きてもらおう。そう思って名前を呼ぶために、息を吸った瞬間。
引き込んだばかりの呼気は一瞬にして、体が軋みそうな圧力に奪われた。胸の痛みだけで息が止まる。
やめてと叫んだわたしをあざ笑い、助けを呼ぶ声を断ち切るかのようなタイミング。竹原は面白がっている。わたしを苦しめることに喜びを感じてる。
怖い、と心底思った。
これほど誰かに憎まれたことなんてなかった。生前の竹原に刺された時だって、ここまでの憎悪をぶつけられはしなかった。憎まれるのが、憎ませてしまうのがこんなに悲しいことだなんて、それに対して申し開きもできない無力さなんて知らなかった。
金縛りにされてても涙は流せることも、知らなかった。
「ひろさん……息してる?」
がば、と毛布をはねのけて千歳が起き上がる気配がした。してない、助けてと答えたくとも金縛り中じゃ不可能だ。
「寝てるなら寝てるだけって言って」
金縛り中はおろか寝てる人間には実行できない注文を出される。ぺたぺたと顔を触ってきてた指先が、こめかみの涙にハッとしたのが分かった。
「やばっ……いるならどけ、竹原! ひろさん、しっかりして」
抱き起こす千歳の介入が竹原を退けた。体に巻き付いてた大蛇が逃げるみたいにズルリと霊気が去る。振り切るのももどかしく、自由を奪い返した腕で千歳にしがみついた。
酸素より人肌が、触れていると安心できる対象が恋しい。あったかい。コットンのTシャツとその下にある千歳の生身の体を、わたしの手はちゃんと捉えてる。大丈夫、生きてる。千歳の匂いがする。息も出来る。
「怖かった。あいつひどいの、千歳を呼ぼうとしたらそこを狙って……」
「ごめん、すぐ気付かなくて」
シュッシュッシュッ、とこすれるような、鋭く空気を吐き出すような音が周囲を飛び交ってる。竹原が隙あらばまた金縛りをかけようと待ち構えてるみたいだった。
「やだやだやだ、もう消えて」
普段の威勢はどこに行ったのか、自分で呆れるくらいの涙声だった。でもどうしようもない。背中にある千歳の腕が、ぎゅっともう一回り輪を縮めてくれる。隙間があればそこから竹原に引き剥がされて連れて行かれそうで、しっかり抱きついた。
「大丈夫。多分俺、絶縁体だから」
右の耳元に押し付けられた千歳の唇がそう言った。
「……え?」
「ひろさん前に言ってたじゃん、霊感が強い人ほど霊障を強く受けるって。俺には霊感ないから影響がない。だからこうしてれば俺が絶縁体になって、竹原は手を出せないよ」
自信ありげな千歳の言葉に、恐怖があっけなく撃ち落されていくみたいだった。
考えてみたこともなかった。霊感のない人に抱き締められてたら霊の力が及ばないバリア、結界になるだなんて。
実際に今、竹原の霊は周囲をうろついてるだけで何もしてこない。
思い当たることはある。祖父の霊が死因となった窒息の苦しさを訴えて、パニック発作のような症状をわたしに押し付けてきた時。轟に抱きかかえられてても治らなかったのに、千歳が交代したら徐々に収まった。
千歳と二人で囚われた山の異空間から脱出した時も、後部座席の千歳が腕を回してくれていたんだっけ。
「そうかも……」
「しょうがない。今日から毎日、ひろさん抱いて寝るしかないなー」
こいつはどうしてこうなんだ。せっかく急上昇した株を自分で暴落させてる。
「ありがたいけど遠慮します」
「おっと風呂も危ないな。バスタブに浸かってる時に金縛りかけられたら、溺れるかもしれない。しょうがない、俺が抱いて入って体も洗って……」
「なんで体まで洗う必要があるの!」
後頭部をはたいてやったら、千歳はイテと笑って肩を揺らした。
「弱みにつけこむチャンスだと思ったのに、手強いな」
卑怯者な発言だったけど。
弱みにつけこむなら、口のうまい千歳はもっとうまく確実につけこむことができるだろう。それをわざわざ、わたしが呆れて気を取り直すようなおどけた言い方してみせるなんて。
「トイレはどうしようか?」
まだやってる。
だけど元気付けてくれてるのが分かったから、つねらないで笑っておいた。
絶縁体とはいっても竹原の霊をブロックできているだけで、このままずっと、それこそトイレまで千歳に抱きついてるわけにもいかない。
恐る恐る目を開いてみると、白い影は見下ろしてくるような角度で中空に凝り固まってた。千歳の腕の中という安全圏にいるのをいいことに、説得にかかる。
「えーと、とりあえず金縛りかけるのはやめて、話し合ってみない?」
返事も変化もなし。
この世でキスを味わい損ねた、それだけの未練で守護霊見習いに回されてくるやつがいるくらいだ。恨み募った相手を殺し損ねたという強烈な未練を簡単に諦めてくれるとは思えないけど、やっぱり。
「せっかく霊感あるんだし。実力行使じゃなくてまずは話を……」
『無駄無駄。あんなんじゃ収まらないですよ、って忠告しましたのに』
突然に、霊の声がした。竹原――じゃない。
フローリングの上にちんまりと正座しているのは守護霊見習い候補。紺色の甚平を着た丸刈り溌剌早起き男。
「永誉さん? 今、激しくややこしい場面だから出てこないほうがいいかと……」
「はっ? 永誉さんって誰……ああ、例の見習いか」
ややこしい場面じゃなくていい場面なのに、と千歳は小声で嘆いてる。千歳も相当場慣れしてきたんじゃないだろうか。
『お二方のお邪魔をするつもりは毛頭ございませんが、この悪霊はひろサンじゃもうどうにもなりそうにないかと思いまして』
よっこらしょ、と永誉さんは腰を上げた。竹原に向けて足をゆるく開いて立ち、ひとつ深呼吸をしている。見物に来たんじゃなくて、話し合いに参加しに来てくれたんだろうか。
溌剌おせっかいを発揮してどんな説得が始まるのかと見守っているわたしの前で、永誉さんはゆっくりと右手を挙げた。人差し指と中指をきりりと揃えて立て、刀を模した――刀印。
『臨む兵、闘う者、皆陣列をなして前に在り』
ピキリと音を立てそうに、場の空気が引き締まった。それまでのどかにヘラヘラ笑っていたのに、永誉さんは今やまるで厳しい僧のよう。あまりの変貌ぶりに声を失った。
『悪霊よ、私を前にしておまえは神聖なる兵に囲まれているも同然。観念して裁きを受け、退散するがよい――臨』
鋭い気迫と共に刀印が横に切られる。
これは九字切りだ。霊を祓い亡ぼす。
『兵、闘』
掛け声と共に淀みも迷いもなく、永誉さんの刀印は空間を縦横に切っていく。
お坊さんみたいな見習いだと思っていたら、永誉さんは本当に僧だか修験者だか霊能者だか、そういう仕事をしていた人だったに違いない。そうでなければこんなに手慣れてるはずがない。
――憑座を捨てたくらいじゃ収まらないですよ、ああなっちゃうと。
そうでなければ、憑座を捨てた後に霊がどうなるものかなんて経験則も話せるはずがない。
『者、皆』
どうして思い出さなかったんだろう。出家した人に与えられる戒名、法名。宗派によっては釈や誉の字を入れることになってる。永誉さんというのは名字じゃない、この見習いさんの法名だったんだ。
『陣、列』
永誉さんは除霊をしようとしている。竹原を亡ぼそうとしている。
「待って、やだ、やめて」
止めに入るわたしの声を永誉さんは聞き入れない。刀印は容赦なく竹原の霊を斬っていく。
『在、前。怨霊調伏』
「やめてってば!」
竹原の白い影は、刀印に散り散りにされて吹き消えた。
「どうして? どうして勝手に除霊しちゃったの? 相談もなしにいきなりあんなことして」
「ひ、ひろさん苦し……」
怒りと興奮のあまり、抱きついてた千歳の首を締め上げてたらしい。
『どうしてもこうしても。人様に迷惑をかける悪霊など、祓う以外にありませんでしょう』
眉をひそめて、永誉さんは所在なげに首の後ろを撫でている。実体があればその辺りを殴ってやりたいところだ。
「そんなのおかしい。だって、それなら何のために見習いがあるの? 心残りを晴らして成長して、守護霊になるチャンスをあげるためじゃないの? 永誉さんがしたのは……除霊っていうのはチャンスも与えずに霊を死刑にしちゃうことじゃないの?」
『あれは守護霊見習いとはワケが違うでしょうに』
「違わない!」
落ち着いて落ち着いて、と千歳が肩を撫でてなだめにかかってるのが分かるけど。
「霊界って何のためにあるの? 無念を抱えて死んでいった人たちが癒される場所じゃないの? なのにそこでも悪霊退散だの怨霊調伏だのって排除されたら、人はどこで救われればいいの!」
永誉さんはわたしの窮地を救ってくれたんだ、って頭では理解してた。自分ではどうにもできなかったのが悔しいのも、これが八つ当たりみたいなものだってことも分かってたけど、言わずにはいられなかった。
「竹原の死にはわたしだって関係してる。だからこんな風に除霊したりしたくなかった。見習いの意味を否定するようなことしたくなかった。今までしてきたことは何だったの……」
涙で喉がつかえる。怒りも悔しさも悲しさも全部が一挙に押し寄せてきて、涙以外の防波堤がなかった。涙と一緒に力も下方へ滑り落ちていくみたいで、へなへなと千歳の腕の中に収容される。
「もう見習いしない……」
する資格などないと思った。
「永誉さん、帰って。絹さんにそう伝えておいて。もう見習いはしない、絶対に」