My tender bartender
――行ってくればいいじゃないですか。
数時間ほど前の自分の台詞を、溜息でキャンセルしてしまえればいいのに。
急に人数が足りなくなったから合コン来てとクラスメイトに頼み込まれて、ひろさんは窺うような眼差しを俺に向けてきた。それまで金がある限り、週に一度は合コンに出向いていたひろさん。俺が本気で口説いたあの日から、とんと行かなくなった。いい男いないんだもん、なんて唇を尖らせていたけど、俺に気を遣ってくれてるのは分かってる。
俺とひろさんの経緯を知らないクラスメイトの懇願を断りづらくて、俺に許可を求めるみたいな目をしたのがその証拠。そんな風に特別扱いしてくれるのが嬉しくなって、行けばいいなんて笑って余裕かましたのが間違いだった。
ほんとに行っちまうとは。
短針はもう十一に近い。バイトが終わるまであと一時間と少し。休憩時間に出したメールに未だ返事はなし。ひろさんから返事がないのはしょっちゅうだけど、アパートに帰って、ひろさんの部屋に電気が点いてなかったらどうしよう。留守電入れまくってやる。こんなにうるさく言われるなら、二度と合コンなんか行くもんかと思わせるような留守電を――。
「千歳くーん、お代わりくれる?」
「はい」
カウンターの、最近良く来てくれる女性客二人。俺を目当てにしてくれるのは嬉しいから、そつなく笑顔で答えてはみたものの……しまった、さっき何を作ったんだっけ。いつもなら覚えているのに、お代わりと言われても分からない。さりげなく伝票をチェックするか。
と、横からカンパリ、続いてグレープフルーツ・ジュースの瓶が差し出された。見ると店長は素知らぬ顔で、今度はスライスしたグレープフルーツの入ったタッパーを寄越す。この組み合わせ、そうか、スプモーニ。
やがて、美味しかったです、と笑顔でスプモーニの彼女達が帰ってから、改めて店長に謝った。
「すいません。ぼうっとしてて」
「いやいや。恋の花咲く夜だねぇ」
何も話してないのに、店長はにこにこと頷いている。
「アマレットの瓶を見つめちゃ溜息をつかれれば、分かるというものだよ」
どうしてとも聞いていないのに、これまたにこにこと解説される。これくらいの観察眼がないと、バーテンダーは務まらないのだろうか。
ますます滅入ってきた気分まで消そうと、カウンターを念入りに拭く。ガラス扉が開く気配に、いらっしゃいませと顔を上げると、そこにいたのは俺の溜息の元凶だった。
やっぱりいい男なんていなかった、と愚痴でも垂れる振りして安心させに来てくれたのかも。一気に込み上げたそんな期待と嬉しさは、ひろさんの憂鬱そうな顔にたちまち吹っ飛んでいく。何だか気分が悪そうだ。駅からアパートまで帰る元気がなくて、ここに寄ったのかもしれない。
「ひろさん、いらっしゃい。……もしかして飲みすぎた?」
近付きながら声をかけたら、ひろさんはゆっくりと硬い目線を向けてきた。
「……ごめん、もう一回」
そう言って右耳を寄せてくる。そうか、耳鳴りがひどいんだ。
「カラオケにでも連れてかれた?」
「なんか騒がしいクラブ……」
左耳が難聴なぶん、ひろさんの右耳は過敏だ。音の大きいところ、うるさいところが苦手なのを、ひろさんは俺と轟以外のクラスメイトに言おうとしない。二次会がクラブでも、黙ってぎりぎりまで耐えてたんだろう。馬鹿、と囁くとそういう悪口だけはしっかり聞こえているのか、それとも気配を感じるのか、黙って睨まれた。
つねる気力も、足を踏む元気もないなんて重症だ。
カウンターの奥に通して、BGMのボリュームをもう一段絞る。氷多めのアマレットのグラスを出すと、ひろさんはすがるみたいに両手で受け取った。肘をついた手で支えて、額に当てている。氷の音を耳でなく、肌で聞こうとしてるみたいだ。瞼を閉じたままじっと動かないその姿は、何も知らない人が見れば酔っ払って額を冷やしているようにしか見えないだろうけれど。
「あの、店長……」
「千歳君、いつあがってもいいからね。送ってあげるんだよ」
エスパーか仙人か、店長は穏やかに微笑んで噛み締めるように言ってくれた。あぁもう俺、この店以外でバイトする気ないですよ、店長。
「そろそろ帰るね、千歳。美味しかった、ありがと」
不意に小さく笑って、ひろさんが立ち上がる気配を見せた。
「待って、俺も帰る」
案の定、必要ないと言われたけど、こっちには必要がある。兆速で着替えて、店長に頭を下げる。
「ねえ、千歳君。私は長年バーテンダーをやってきたけど」
カウンター越しに店長は身を乗り出して、こっそりと俺に耳打ちした。
「口をつけてもいないものに対して、美味しかったと褒めてもらえたことはないんだよ」
店長の視線を辿ると、ぼんやり眠そうにしているひろさんの手の中にあるグラス。すっかり氷は融けてしまって、アマレットの琥珀色はグラスの底に押し込められている。
「君はいいバーテンダーだ。だから彼女はここに来たんだね」
「……ありがとうございます」
ひろさんは、俺がひろさんだけにあのグラスを出すことに気付いてない。氷を多めにすることも、ひろさん専用にキープしてるボトルから注ぐことも。
だけど、ちゃんと報われてる。
「ほら、車来てるから。ふらふらしてると轢かれますよ」
耳鳴りが落ち着いたら、やって来たのは猛烈な眠気らしい。帰り道、ふわふわした足取りのひろさんの手を引っ張ったら、ひどく冷たかった。ずっとグラスを握り締めていたからだ。
「千歳の手、あっつい」
何で俺が文句言われなきゃならないんだろう。でもそれさえ嬉しいんだから、俺も調教されてきてる。
「熱いの、手だけじゃないけど」
「……どことは聞かないでおく」
下ネタな勘違いしてるっぽいけど、どこかと真面目に聞かれるよりいいか。笑ってごまかすと、ひろさんは盛大な溜息と共に天を仰いだ。
「もう合コン行かない。お金と時間の無駄って、良く分かった」
「耳鳴りに懲りた?」
「あー……うん」
千歳に悪いから、なんて返事がもらえるとは最初から期待してない。歯切れの悪い答だけで満足。あっついと文句つけながら、手を振りほどかれないだけで満足。
何度も何度も俺の手をすり抜けていったひろさんが、俺の作るグラスを受け取りに来てくれたんだから。
……でも部屋に着いたら、キスだけは絶対にもらってやろう。
店長が時間に遅れたのは初めてだった。いつもなら開いているはずの裏口が、ガチリと音を立てて俺を拒否した。仕方なく自販機でコーヒーを買ってきて、ドアの前で店長を待つ。喉を潤したところで、ひろさんに電話する。
『あれっ、バイトじゃないの? 忘れ物でもした?』
相変わらず成績の芳しくない科目のレポートに取り組むひろさんを、出かける直前まで見張っていた。目が離れた途端に早速サボってないか探りでもいれに電話してきたのか、という警戒心がありありだ。もう少し一緒にいたかったのに、なんて寂しがってるのが俺だけなのは重々承知だけど、こういつもいつも疑わなくてもいいだろうに。
「うん。行ってきますのキスするの忘れた」
『忘れるも何も、一度だってしたことあるかーっ』
やだー、千歳くんたら。と喜んでくれるのが大抵の子の反応なのだが。どんなに女らしくなくても、俺にとってはひろさんだけが女の子なんだから耐えねば。俺って人知れず一途。
自分で自分の健闘を称えていると、路地の向こうから見慣れたシルエットが小走りにやってきた。店長は黒いスーツに黒いネクタイを締めて、どうやら法事でもあったらしい。遠くから、すまんすまんと片手を挙げている。
「じゃ、行ってきます、ひろさん」
舌先と唇で音を立てて携帯にキスすると、『何してんのバカー!』という悲鳴が漏れてきた。赤くなってるところ見られなくって残念至極。そのまま通話を切り、店長を出迎える。
「新幹線が遅れてね。待たせてしまったね」
「いえ、念入りに別れを惜しむのは大事なことですから」
携帯を掲げて見せる。誰かとの別れを惜しんできたばかりであろう店長は、目尻にじんわり優しさを滲ませて微笑した。
轟を引き連れたひろさんがやって来たのは、それから一時間後。
「連日のお越し、すっげー嬉しいんですが……レポートは?」
「飽きた」
単位がかかってること、分かってるんだろうかこの人は。俺が抜けた後もひろさんの部屋にいたはずの轟へと非難の目線を送ってみる。
「ごめん。気分転換しようって言われて、まさか飲みに行くつもりだと思わずにハイって」
轟はひろさんに甘すぎる。起きろ、講義に出ろと怒るのはいつも俺。見習いだって、轟はたしなめはしても止めない。俺とは心配する観点が違うんだろう。
とにかく頑固なひろさんのことだ、アマレットを飲まないことには帰らないに違いない。昨日、結局一口も飲まなかったのを、悪いと気にして来てくれたんだろうし。それならそうと言えばいいじゃん、ひろさんのひねくれ者。
昨日と同じカウンター奥に通そうとしたら、ひろさんは首を振った。
「……先客がいる」
すいません、明らかに空席なんですが。
「うわー、そういう気分転換になるとは思ってませんでした……」
轟がすり寄って来る。俺もだ、と同情を込めて肩をぽんぽん叩いてやった。
ひろさんは小さく頷きながら、空席にいるらしい誰かと話してるみたいだ。穏やかにしてるから、絹さんでも悪霊でもないんだろう。すぐに優しく笑って、奥から二番目、俺や轟には見えない誰かの隣に座った。
たまに供物で一杯の仏壇を眺めて、エサを頬張るシロを見下ろしてこの上なく優しく笑うのを、ひろさん自身は気付いてるんだろうか。俺は俺にその笑顔を向けて欲しくて、いつも必死になる。待ち構えてる。一方通行なのが当たり前みたいに、相手が見てないところで笑うなんて勿体無い。生きてる人間と交わされるべき笑顔なのに。
だから俺は、ひろさんが見習いするのが嫌いだ。
「アマレットと、それから――」
店長と挨拶を交わしてから、ひろさんは聞いたことのないカクテル名を口にした。昨日の合コンで知識を仕入れてきたんだろうか。またアマレットをチェイサーに飲む気か。バーテンダーとして報われるんだか報われないんだか、分からなくなってきた。
その聞いたことのないカクテルを知ってるだろうかと店長を振り返ってみて、驚く。店長は口をぽかんと開け、一言も発せずに硬直していた。いつも物事に動じない穏やかな人で、こんな表情は見たことがない。
「店……長?」
声をかけると、銅像と化していた店長の口がゆるゆる閉じられた。
「……かしこまりました」
不思議な目だった。店長は懐かしい人を、ありったけの愛しさを込めて見つめるような目でひろさんを見ていた。心なしか瞳が潤んでいる。
ひろさんは何も言わない。店長がそんな顔をする理由を分かってるみたいで、ちょっと微笑んで受け止めていた。訳を聞きたいけど、立ち入っちゃいけない雰囲気テンコモリだ。微妙に妬ける。
「千歳、テーブル席に移ってもいい? あ、その奥の席には絶対誰も通さないでね」
轟を引っ張ってテーブル席に移ると、ひろさんはようやく話してくれた。
「店長さんの、亡くなった前の奥さんが来てる。今日、命日だったみたい」
「あ……」
喪服を着て、法事帰りで遅れてきた店長。そうか、前の奥さんの法要だったんだ。カウンターの方を振り返ると、店長が空席にそっとグラスを置いていた。桜の花びらみたいな、とろりと淡くて上品な色をしたカクテル。
「その人のためだけの特別なカクテルなんだとか……やるねっ店長さん」
そうか……その人と店長しか知らないはずのカクテルだから、店長はあんなに驚いてたんだ。
「二十年ぶりに頂くわ、って笑ってる……」
まただ。霊にばかり向ける、あの優しい顔。ひろさんにこんな顔をさせるものが、ひろさんに見習いをさせてしまう。そう分かってるけど、俺は止めずにいられない。
その笑顔を一番欲しがってるのは、通りすがりの霊なんかじゃないよ、俺なんだよ。気付いて。
「美味しかった、ご馳走様って、伝えて下さいって」
ひろさんが前の奥さんからだという伝言を告げると、店長は深々と頭を下げた。あーレポートめんどい、なんてぶつくさ言いながら轟と連れ立って帰るのを送り出す。
店内に戻ると、店長は中空を眺めて幸せそうな笑い皺を作っていた。ずっと空席だったけど空席ではなかったその場所から、一滴も減っていないグラスを下げる。
「店長……、口をつけていないものに対して、美味しかったって」
「ああ、そうだね」
はあ、と感慨深そうに店長の肩から力が抜けて行くのが見えた。
「私もようやく、一人前のバーテンダーになれた気分だよ。いやあ、彼女の――ひろさんのおかげだねえ」
「…………」
これがひろさんを見習いに駆り立てるもの。手放しで喜べない罪悪感がちくりと胸を刺す。相手がひろさんなら気付かないであろう作り笑顔の曖昧さを、店長には一瞬で読み取られてしまったらしかった。
「すまなかったね。彼女は休んだ気にならなかったんじゃないかな」
「いえ……ひろさんが、したくてしてることだから」
「だが千歳君は気に入らないんだろう?」
毎度、店長の読心テクには参らされる。そしてつい本音を零したくなる。バーテンダーは人格を求められる職業だ。この人こそ、本物のバーテンダーだと俺は思う。
この店の名はPoison Apple。毒りんごの要領で、吐き出せば生き返る。
「……ひろさんの左耳は多分、普通の人には聞こえない声を聞くためにあるんです。でも……」
自分の革靴の先に視線を落とした。
「そのせいで、普通の人には聞こえる声が、ひろさんには届かない。だからって叫んだら、ひろさんはきっと耳鳴りを起こしてしまうんです。分かってんのに俺、いつもうるさく言っちゃって……」
物理的なことだけを言ってるんじゃないのはさすが店長、分かってくれたみたいだ。ぽん、と肩に手が載る。重みに続いて、じわりと温かさが染みてきた。
「昨日、彼女は耳でグラスの音を聞いているようには見えなかったよ」
握り締めたグラスを額に押し当てていたひろさん。相当具合が悪そうだったからきっと、氷の音なんてろくろく聞こえていなかっただろう。
「彼女が美味しいと言ったのは、味でもグラスの音でもなかった。違うかな?」
「…………」
「大丈夫。口では言わなくても、耳では聞いてなくても、きっと届いてるよ」
「……すいません、五分だけ休憩下さい」
どうしても声が聞きたくなった。電話するとひろさんはまだアパートに帰り着いていなかったらしく、ミュールの靴音が応答の後ろに聞こえていた。
「おやすみのキスするの忘れた」
『しなくていい!』
無視してまた音を立てて携帯にキスすると、ギャーと激しく女の子らしくない悲鳴が返ってきた。
『何なの、今日はもー』
文句を言ってるけど、問答無用で通話を切られないあたり、俺の甘えっぷりが心配になってきたみたいだ。こんなちょっとした気遣いをどれだけ嬉しく思えるかが、ひろさんとうまくやるコツだって今の俺は知ってる。
大丈夫、届く距離まできっと引き寄せてる。近付いてる。
「俺、ひろさん専属バーテンダーだから。忘れないように言っとこうと思って」
『はい?』
「いつでも注ぐから、いつでも来て。待ってる」
『……レポートはどうしたって怒ってたくせに、変なの。ねえ、轟』
あぁくそっ……まだ最難関、ひろさん専属コックが残ってるのを忘れてた。よし、店長に頼んであのグラスを部屋にもらって帰ろう。そしたら、それを餌に連れ込める。
バイト頑張ってねと言って切れた携帯に、もう一度唇を押し当てた。