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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い四号 ―理沙―
29/39

… Monday pm …

… Monday pm …


 とにかく一年ぶりに顔を合わせた恋人同士の邪魔をするつもりはない。この件の仕掛人であるアツにようやくアパートの鍵をもらい、さっさとリハビリセンターを後にした。

「あーもう、この鍵ひとつもらうためだけに大変だったな」

 アコードの助手席で、新しい鍵をキーホルダーであるビクトリノックスに付け替えながら愚痴る。

「一晩、轟のとこに泊まらせてもらって、近所の鍵屋さんに行けばよかった」

 それでさらに鍵を換えてもらって部屋に入り、携帯を充電してリョウに連絡が取れれば、随分話が違ったはずなのに。

「ひろさん、まだそんな言い方してるんですね」

 だから何でそんなにこにこと、したり顔なんですかってば。

「そうだ、理沙さんが働いてた美容院に寄ってくれる?」

 轟にもリョウにも、理沙さんを襲った犯人が店長ではないかということは話していない。話を聞かせてもらった隈取り美容師さんに、理沙さんの後遺症の経過報告をしたいから……などと適当な理由をでっちあげて、轟には喫茶店で待っててもらった。

 月曜の昼下がり、美容院は客も少なく暇そうだった。ガラスのドアを押し開ける。カウンターに立っていた店長は、わたしを覚えていたらしい。顔を覚えていることを知らせようとする目礼が一気に、無性に勘に障った。いらっしゃいませと言いかけた作り笑顔に、ポケットから出した黒ずんだ指輪を黙って突き出して見せる。

「これが誰ので、どこに落ちていたか、知ってますよね」

 出来うる限り冷たい声で言ってやった。視線で釘が打てるなら、わたしは店長の両目に五寸釘を打ち込んでいるだろう。店長は指輪の細部を確認するまでもなく、それがどこに落ちていたものなのか、どうしてわたしが怒っているのか悟ったらしい。みるみるうちに顔色が悪くなっていく。

「奥で話しましょう」

 伊達メガネの向こうの細い眼は引きつっていたが、口調は意外に冷静だった。事務室兼休憩室らしい狭い部屋に通され、実用一辺倒な応接のパイプ椅子に向かい合わせに腰を下ろす。

 店長は手荒れの見える指を気障ったらしく膝の上で組み合わせ、わざとらしい咳払いをした。

「お客様がどんな勘違いをなさっているか知りませんが、それはわたしのではありませんし……」

「はあ?」

 店長は神経質な笑いを唇に貼り付けて、そんなことを言い出した。

「じゃあ、どうしてわざわざ店じゃなくてこんな部屋で話し合おうとするんですか。聞かれちゃマズいこと隠してるからじゃないんですか」

「大きな声を出されますと、他のお客様のご迷惑になるからです」

 あっそう、そういう態度に出るわけか。ふうん。

「これ警察に持ってって、指輪から指紋取ってもらいましょうか?」

 ムカつくことに、店長は動じなかった。

「それがわたしの指輪ということが分かったからって、何だっていうんですか?」

「どこに落ちてたか知ってますよね。以前ここで働いてて、無理矢理乱暴された女性の体の中ですよ。それをどう言い訳するんですか」

 あろうことか、店長は椅子の背にもたれながら、にやりと冷たく笑いやがった。

「それはお気の毒な話ですね。その女性とやらが、わたしの顔を覚えてるとでも言うんですか」

 顔。やっぱりこいつは、理沙さんが相貌失認で犯人の顔を覚えられないことを知ってて、犯行に及んだんだ。それを盾に開き直るとはっ。ひろさんを怒らせたらどうなるか、思い知らせてやる。

「あなたは最後までする前に見つかって逃げたから、指輪以外に自分が犯人だという証拠を残さなかったつもりかもしれませんけど。例えば精液とか」

 こっちも椅子にふんぞり返りながら言ってやった。

「唾液の中には口腔細胞って言って、頬の内側の細胞が溶け出しているんです。唾液では血液型くらいしか分からないとでも思ってました?」

 お、ヤツの口元が引きつったぞ。リョウと働いた時の知識がこんなところで役立つとは。

「彼女は事件後にちゃんと病院で証拠採取してもらってます。唾液のサンプルだって保存してあります。もしその唾液に含まれる口腔細胞から検出されたDNAと、あなたのDNAが一致したらどうします? どうやって言い逃れする気なんですか!」

 実際は、理沙さんが病院に行ったのか、唾液のサンプルを取ったのかなんて知らない。でもここはハッタリかますところだ。ついでにバーンと机を殴ると、そこにスイッチがあったみたいに、店長は現実に十センチほど飛び上がった。

「それが指輪より顔より強力な証拠です。あんたは顔さえバレなきゃいいと思って、ドジを踏んだ。彼氏と同棲することになったのを聞いてカッとなって襲ったんでしょ、そうなんでしょ!」

「好きだったんだ!」

 いきなり店長は棒みたいに立ち上がって、吐き出すように叫んだ。唾がかかったぞ、おいっ。変態の不潔な唾がっ。

「なのに気づきもしないで、男の話なんかしやがって。無神経な女だ!」

「好きだからって理由は免罪符じゃない!」

 こっちも立ち上がって怒鳴り返す。

「好きだって気持ちがうまく届かなくて、一見、訳の分からない行動をすることだってあるかもしれない」

 霊能者に会いに行った千歳を捕まえた時の、落ち込んだ横顔が脳裏をよぎった。

「でもだからって、何をしてもいいって訳じゃない! あんたが好きなのは自分なの。相手の笑顔じゃなくて、自分の欲望で満たされたかっただけなの。そのくせ偉そうに、好きだとか言わないでよ!」

「それを寄越せ」

 狂気じみた黒い光に満ちた眼をした店長が、テーブルを回りこんできた。指輪の入ったビニール袋を奪われそうになって、急いでそれを遠ざけながら手のひらに握り込む。

「寄越せ!」

 大事な証拠品を絶対に渡すわけにはいかない。逃げようとしたけど腕を掴まれ、押し倒されてしまった。パイプ椅子をなぎ倒し、床にしたたかに打ちつけられた。体のあちこちに痛みが走る。

「唾液のサンプルはどこだ。こっちに渡せ」

 覆いかぶさられて身動きが取れない。それでも何とか抜け出そうともがく。

「どいてよ、バカ! 変態! 触んないでよ!」

 指輪を握り締めている方の手首をものすごい力で掴まれる。指を開かれそうになって、思わず叫んだ。

「やめて!」



 この絶体絶命なピンチに登場するのは正義のヒーローと決まっているのだが、ドアをズバーンと開けて飛び込んできたのは……不良だった。

「この野郎……」

 声だけで息の根を止められそうなくらいドスの効いた言葉と共に、リョウはわたしが暴れても跳ね返せなかった店長の後ろ襟を掴み上げた。そのままブン投げたらしく、店長の体は椅子とキャビネットを大音響で巻き込みながら部屋の隅へ飛んでいった。

「てめえだったのか! 畜生」

 リョウは、店長こそが理沙さん暴行の犯人だと知った。その台詞がそう示していた。リョウの眼に宿っているのは明らかに殺気だ。店長は書類や美容器具に埋もれて、ぐったり尻餅をついている。そこへ拳を握ってぐいと踏み出すリョウの前に、慌てて飛び出した。

「リョウ、だめ」

「どけ! おまえも死にてえのか」

 鼓膜に叩きつけるような音波で一喝された。狼に食いちぎられる寸前って、こんな気分だろうか。怖くって息が止まるかと思った。理沙さんの病室で煙草をくゆらせていた、あの穏やかな人と同一人物とは思えない。それでも精一杯、首を振る。

「理沙さんに聞いた。傷害で執行猶予中だって。また事件を起こしたら、どんなに温和な観察司だって見逃してくれないよ。刑務所に行ったりしたら、せっかく会えたのに理沙さん悲しむじゃない!」

「うるせえ、おまえに関係あるか!」

 ない……けど。

「構わねえよ、理沙はもうあんな施設にいなくてもいいんだ。もう金稼いでやる必要なんてねえんだよ!」

 やっぱりそうだったんだ。リョウは理沙さんの入院費用を捻出してた。そのために暴力事件を起こしたりしないよう、暴力は好かないなんて言って自制してたんだ。

「その施設の中で、理沙さんはずっと頑張って待ってたんだよ。やっと会えたんじゃない。これからなんじゃないの? 施設に隔離するんじゃなくて、今度はそばで守ってあげてよ。リョウももう、壁にも鍵にも囚われないで」

 リョウがこれ以上暴力を振るったら、正当防衛じゃ絶対に済まされない。ドアから隈取り美容師さんや、ロッドを頭に巻いたままのおばさんがこわごわ覗いている。正当防衛でしたなんて目撃証言はしてもらえそうにない情勢だ。

「死んでからだって、仲直りしたり幸せを感じたりすることはできる。でも生きてる時間は限られてるの! こんな男を殴るためにそれを無駄にしないで。その時間は理沙さんのために使ってあげて。殴ったりしたら、わたしは理沙さんとリョウを繋いだんじゃなくて、隔てたことになっちゃう。だからやめて!」

 これ以上睨まれたら、吸殻を灰皿に押し付けるみたいに、魂が潰されてしまうんじゃないだろうか。本気でそう思うほどの肉食獣の眼を必死で見返した。リョウの荒い息が額にかかる。

「想ってくれる人のところに帰れって、わたしに言ってくれたじゃない……」

 表情は変わらなかった。けれど、食いしばった歯のあいだから鋭く漏れるようだったリョウの速い息遣いが、徐々に長くなっていく。黒いタンクの内側で大きく上下していた刺青の隆起からも、引き潮のように力が抜けていくのが見えた。

「くそっ!」

 急にリョウはくるりと背を向けて、転がっていたテーブルを思いっきり蹴り上げた。吹っ飛んだテーブルは派手な音と共に壁をえぐり、漆喰がバラバラと剥がれ落ちた。

 どうやら怒りの矛先を収めてくれたらしい。へにゃへにゃと膝から力が抜けていく。マジで怖かった。慰謝料取りたいくらいだ。

 よろめいて寄りかかった事務デスクに、電話の子機が置いてあるのを見つけた。

「さ、警察に自首して」

 気を立て直して、キャビネットの残骸の中でへたり込んでいた店長に子機を突き出す。

「しなかったらわたし、もう二度とこの歩く破壊兵器を止めたりしないからね」

 リョウがよほど怖かったのか、茫然としたまま店長は頷いて子機を受け取った。

「何だよそれ俺のことか、ああ?」

 この部屋の家具をめちゃめちゃにして壁まで壊して、他に誰がいると思ってるんだ。リョウは不機嫌そうに振り返って睨んできたが、さっきの眼に比べれば落ち着いていた。

「あ、これ返しとくね」

 話題を逸らそうと思って、ずっと握りっぱなしだった指輪を渡そうとする。何とその手が血まみれだ。

「何やってんだ、おまえ」

 何やったんだろう、わたし。自分でも思いも寄らぬ方法で話題は逸れたらしい。

「強く握りすぎちゃったみたい……いてて」

 店長に奪われまいと握り締めて、爪が手のひらを傷つけてしまったみたいだ。必死だったから、今まで痛みに気づかなかった。

「バッカじゃねーのか、そんなのなくたって締め上げて吐かせてやったのによ」

 そんなことしたら、喧嘩を阻止した意味がないでしょうがっ。

「おい、何か手当てできるモンねーのか」

 ドアから首をすくめながら覗き込んでいた隈取り美容師さんが、その言葉に我に返ってどたばたと入ってきた。ぼそぼそと電話を始めた店長を汚らわしそうに横目で見やりつつ、事務デスクの引き出しから救急箱を取り出してくれる。リョウが何も言わずにそれを奪った。

「座れ」

 って言うなら、椅子を起こすくらいして欲しいんだけど。もたもたと怪我してない方の手で倒れていたパイプ椅子を引き起こし、そこに座った。

「痛い、痛いってば! あのねー、消毒液ってのは、ぶっかければいいってもんじゃないでしょ! かけすぎ! ジーンズが汚れる!」

「うるせーぞ、人に説教しやがって」

 むーん……ひょとして店長をシメ損なった腹いせが、こっちに来てるんだろうか。

 口答えしたらますます乱暴にされそうな確信に近い予感がして、黙って耐える。リョウはまだ血が滲むわたしの手のひらに眼を落としたまま呟いた。

「すまねえな」

 こんなにしおらしいなんて有り得ない、とわたしに言った千歳の気分が悔しいが分かってしまうような、驚きの大人しさだ。

「関係ねえとか言ってよ。理沙に色々してもらっといて……」

 もしかして腹いせじゃなくて、お詫びのつもりで手当てしてくれてるとか。手荒いことこの上ないけど。

「いいよ。わたしもつい口が滑って怒鳴っちゃうこと、よくあるし」

 特に千歳が被害者だ。今頃、一人で講義受けてるのかな。

「……おまえ、男にしとくにはもったいねえ女だな」

 訳が分かりません。

「そういえばさ、何でここにいるの? 理沙さんに、店長が犯人だって教わって来たの?」

「おまえ説教する時だけ、頭いい別の誰かが乗り移ってんのか?」

 わたしの手のひらにガーゼをぼんと置きながら、リョウは呆れきって肩を落とす。

「アツが仕組んだんだぞ、おまえに盗聴器つけねえ訳がねえだろうが。理沙の生霊との会話中におまえが犯人に気づいたらしい、ってアツに言われてな。どーせおまえのことだからすぐに接触しに行くだろうと思って、後をつけてたんだよ。おにーさんの読みは完璧だ」

「ええっ、どこ? どこに盗聴器なんかつけられてんの?」

 全然気づかなかった。服のあちこちを点検してみたが、それらしいものがついてる気配はない。

「鞄の中」

 リョウはにやにやしながらヒントを出す。包帯をぐるぐる巻かれつつ、空いている手で床に転がっていた鞄を引き寄せた。中身を覗いたが、それらしき物体は見当たらない。

「降参です……」

 ムカつくことに、リョウはわたしをやり込めるのが大好きらしい。いたく満足そうである。

「おまえさー、携帯の充電切れたとか言ってただろ。それだ。携帯の中に盗聴器埋めて、充電池のパワーをそっちに流すように配線したんだろ。そうすりゃ携帯使えなくなって俺と連絡取れなくなるから、自分が仕掛けたことバレずに済むしな。電波と違って携帯電話回線使うと、遠隔地の盗聴がばっちりなんだよ。電波と併用したんだろうけどな」

 な……なんて知能犯なんだ。ただの変態盗聴マニアかと思ってたけど、今回の件をまんまと仕組んだことといい、実はリョウと張るくらいの切れ者なのかもしれない。

「でも、いつ? 充電切れた日の夕方まで普通に使ってたし、ずっと持ち歩いてたんだよ。アツが盗聴器埋める暇なんてあった?」

「色男の店で会ったろうが」

 はっ、そういえばあの時、気づいたらアツがわたしの後ろに立ってたんだっけ。もしかしてあれは匂いを嗅いでたんじゃなくて、携帯をスってたのでは……。じゃあトイレに行ったのはわたしをオカズにしてたんじゃなくて、スった携帯を改造して盗聴器仕込んでたんだ。それをまたわたしの鞄にこっそり戻しておいたんだろう。

 合点して唸っていると、ははは、とリョウはやっと声を出して笑ってくれた。

「だから珍しく、飲みについて来たんだなー。いや実際にひろの匂いも嗅ぎたかったんだと思うがな」

 ぶんぶんぶんぶん。



「強引にでもついてけばよかったです。もしリョウさんがいなくて、ひろさんに大変なことが起きたら……それでなくても犯人と二人っきりにさせちゃったなんて、すいません。僕ってどうしてこう大事なとこで……」

 轟はしゅんとしながら、アコードのハンドルを握っている。喫茶店で待ってくれていた轟はわたしの帰りが遅いので美容院まで様子を見に来て、めちゃめちゃになった事務室と手に包帯を巻いたわたし、警察官に付き添われていく店長を発見して茫然としていた。

「ごめんごめん、轟が悪いんじゃないから。自重するとか言っといて、一人で乗り込んだわたしがいけないんだってば。でも穏便に話そうと思って行ったんだけどねー、何故か掴み合いになってねー」

「前にも話し合いに失敗してカーチェイスになったの、覚えてませんか?」

「……轟、千歳の口の悪さが伝染してない?」

 ぺこぺこ謝られた。幸い、まだ面の皮の厚さは伝染してないようだ。

(そういえば、千歳はどうしてるんだろ)

「ねえ、全部片付いたから帰る、って千歳に電話した方がいい?」

 前方を向いたままだったけれど、轟は驚いたみたいに瞬きして、それから満足そうに頷いてくれた。置いていかれる方は気が気でないのだ、という教えをわたしが受け入れたことに、気づいてくれたみたいだ。

 時計は夕方だと告げていた。千歳は講義を受け終えて、バスにでも乗ってる頃だろうか。轟の携帯を借りて電話すると、案の定だった。

『ひろさんの声、久しぶりに聞いた』

 そうだっけ。これだから理沙さんに放置してるとか言われちゃうんだな、きっと。

「今から一時間くらいで帰るね。それからあのう……講義サボらないって約束したのに、破ってごめんね」

『覚えてたんだ』

 千歳の声は嬉しそうだ。

「それに、嘘つきとか言ってごめん。千歳は千歳なりに考えて、してくれたことなんだよね」

――どんな努力したか知られちゃったら、ひろさんの無邪気な笑顔見られなくなっちゃうじゃないですか――

 そう言った轟の横顔をちらりと盗み見ながら謝ると、携帯からは投げやりな返事が戻ってきた。

『別にー。説明してもひろさんがわあわあ騒いで面倒だと思ったから、それだけです』

(……こいつ……)

 また軽く水に流そうとしてくれてるのかもしれないけど、その度に人をけなすな。

「なんだ、そうなんだ……」

 ちょっと仕返ししてやろう。はあ、と溜息をつきながらがっかりした声を出してみた。

『えっ……いえあの、えっと』

「心配してくれたんだと勘違いしちゃった。嬉しかったのにな……そっか、面倒なだけだったんだ。うん、分かった……じゃ、またあとでね」

『待って、ひろさん』

 途端に急き込んだ千歳の声が飛び出してきた。

『金で片付くなら、そうしたかったんです。いなくならないで、って言ったじゃないですか。心配してた。ひろさんが出かけちゃってから俺、ずっと心配で、ずっと電話待ってた。早く帰ってきてくださ……』

「最初からそう言ってくれればいいのに」

 しばしの沈黙のあいだ、ゴーというバスの走行音だけが聞こえていた。

『……満員のバスの中で俺に恥ずかしいこと言わせられるか、轟と賭けでもしてんですか。いくら勝ったんですか。それ全額くれたって許しません』

 あ、拗ねてる。

「賭けてないけどー……」

『今日と明日は俺の部屋に泊まってください。そしたら許してもいいです』

「はああっ?」

 何を言い出すんだ、何をっ。

『ずるすぎます、轟とは二日連続で外泊したくせに。このままじゃ浮かばれません』

 だって轟が襲うわけないし、生霊の理沙さんだっていたしと強調しても千歳は譲らない。

『どうせひろさんの部屋は霊道通ってるから、外泊するしかないじゃないですか』

 うわ……すっかり忘れてた、霊道。一挙に気落ちする。

「じゃあ轟にも一緒に泊まってもら……」

『ダメ。ひどいなー、俺がまるで襲うことしか考えてないみたいじゃん』

 っていうか、それしか考えられない。

『じゃ、そういうことでシャワー浴びてお待ちしてまーす』

 やっぱりそれしか考えてないじゃないかー。

「もしもし千歳っ? もしもしっ……」

 切られてしまった。

「切るなバカー! 知るかっ」

 リレーのバトンタッチ並みにバシッと音を立てて、轟の大きな手のひらに携帯を返す。それをポケットにねじ込みながら、轟は情けない形に唇を歪めた。

「あの、僕はどうすれば……」

「聞くまでもないでしょ!」



 聞くまでもなく一緒に泊まってくれという意味だったのに、どうして逃げるように自室に引っ込むんだ轟。笑顔が抑えられないらしい千歳と二人っきりで、一〇三号室に取り残されてしまった。仕方ないから一人で全部の経緯を説明し、リョウとアツの変態っぷりを愚痴り、怪我した弁解をし、理沙さんとは友達になりたいと言って締めくくった。

 何をしでかしてきたんですかとにこにこ聞き始めた千歳は、理沙さんに関する一連の話を真剣に聞き入った。盗撮ビデオの話ではえらく興味深そうにして、店長の話になると険しい顔をして、そのあいだにどんどんローテンションになっていき、最終的には黙り込んでしまった。椅子の上に片膝を立ててそこにおでこをくっつけ、じっと下を向いてしまっている。

「あのさあ、ひろさん……」

 沈黙に耐えられずにどうしたのかと聞こうとした瞬間、その体勢のままで千歳が呟いた。

「どうして幽霊の陣とか、グラビアアイドルみたいな彼女がいる裏鍵屋とか、そんな無理っぽいのばかりに惹かれるんですか?」

「別に惹かれてないけど」

「いくらでも言うこと聞くのが手近にいるのにさ」

 わたしの否定は無視された。

「隠さなくってもいいですよ。見てれば分かります。ずっと気にかかってたことだし」

「…………」

 千歳がどんな顔してるのか、うつむいてるし前髪が落ちて隠しているから見えない。

「全く、なに似合わない忍ぶ恋なんてしちゃってんですか。これだからひろさんは眼が離せないっつってんですよ……」

「そんなの、するつもりないもん。お兄ちゃん取られた気分なんだってば」

 ブルーのシャツの肩がちょっと揺れたから、笑ったのかもしれない。

「ふうん?」

 やっと顔を上げてくれた。でも、疲れたみたいな弱い笑顔だ。信じてくれてないらしい。これ以上言ったらまた喧嘩になりそうな気がして、口をつぐんでいた。

「そうですか」

 気まずい沈黙を察して、それ以上突っ込むのはやめてくれたらしい。千歳の中指はテーブルをゆっくり叩くことで、わたしの言い訳を飲み下そうとしているみたいだった。

「……痛いですか」

 ややあってノックを止めた中指は、テーブルの上に置いていた手の包帯に触れてきた。そっと添えるだけの、ひどく遠慮したような触れ方だ。

「名誉の負傷は痛くないの」

 言ってから、しまったと口をつぐんだ。怪我はいい加減にしろって言われてたのに。

 怒られるかと思ったら、千歳は滅多に見せない、ストレートな優しい眼をした。

「ひろさん、お疲れ様。……頑張ってきたんだね」

「…………」

 何でそんな柔らかい表情するんだろう。いつもみたいに、口悪く色々言ってくれればいいのに。そしたら涙ぐんだりしないで、はたいたりして笑えるのに。

「変なの。千歳だって、彼女候補がいくらでも部屋に来るくせに」

 やばい、涙声になってしまった。

「そうですね」

 恋は経済モデルみたいに、綺麗には描けない。需要曲線と供給曲線が交わるとは限らない。どんなに付加価値つけても、中身を見直しても、どうにも動かないことだってあるみたいだ。

「けど……俺、いい加減分かったんですよ。この部屋に来る子たちが会いに来るのは、俺じゃないんです」

 いきなりどうしちゃったんだろ。自嘲というか諦めに近いような、短い笑いなんか漏らして。

「バーテンダーのバイトしてる大学生。女の子のお洒落を褒めてあげられる男。にこにこして話をよく聞いてくれて、優しいこと言ってくれる人……そんなもんです」

 失敬なことばかり言う人だと思うけど。と言いかけたが、千歳が真面目そうなので黙っておいた。

「年下のセフレって時もあったかな。でも、それでいいやって思ってました。お互い様だから。こっちも、可愛くてセンス良くて、一緒にいたら皆が羨ましがりそうな子が来てくれたら嬉しかったし。いい思いもさせてもらったし。でも……どんどん自分がホストみたいな気分になってきちゃって」

 言えてる。と思ったけど、これまた口にできそうにない雰囲気。

「ジャズが似合うなんて言われたらジャズ聴いて、ワインが似合うって言われたらうんちく調べてさ。何やってんだろ俺、って思ってた頃に、ひろさんが引っ越してきて……」

「はい?」

 突然自分の話になったのでびっくりする。

「俺きっと、それでもいいから誰かにいて欲しかったんです。でもひろさんに会って、欲張りになりました。ひろさんは違うから……違うって今回、はっきり分かりました」

 何が違うんだろ。一緒にいても誰も羨ましがらない、とか言うんじゃないだろうな。聞いてみたかったけど、千歳はわたしがそれを分かってないのを微笑ましく思ってるみたいな、和んだ顔をしていた。しゃべるだけしゃべって満足しちゃったらしい。反応に困るんですが。

 でも何となく、千歳が自分らしくいたくなったのだ、と言いたいらしいことは分かった。合ってるのかどうか、轟か理沙さんに確認してみたいところだ。

「えーっとね、千歳……理沙さんを説得する時に、千歳の話をしたの」

 ん? と、千歳の眉が聞き返した。

「一人で平気、そうじゃなきゃ障害を克服できないって意地張ってたけど……一緒に寄り添って、障害とうまくつきあってくれようとする人もいるって。わたし、千歳があんな風に言ってくれてなかったら、理沙さんを説得できなかったと思う。千歳が言ってくれたこと、すごく嬉しかったし、ほっとしたし……感謝してます」

 わたしが素直にしてるのがそんなに意外か。きょとんとするな。

「今回ね、轟や理沙さんに色んなこと教わって、千歳のこともっと見てあげなきゃいけないなーって思って……」

「ひろさんって切り替え早いな。それとも博愛主義者なの?」

 はい?

「妬くに妬けなくなること言って……ずるいよなー。俺まんまとキープされてるよ」

 二股かけてるって言いたいんだろうか。そういう見方もあるのか。

「あのー、キープなんてつもりないけど、そういうのが嫌だったらしない……」

「してください! そんでもってさっさと俺に決めて、とっとと持ち帰ってくださいっ」

 そんな、くわっと怒らなくても。

「それでさ、ひろさん……」

 急に殊勝な上目遣いされると、どきっとしちゃうんですが。

「引っ越しちゃっても、この部屋……っていうか、俺んとこに遊びに来てくれる?」

 すらりとした眉に通った鼻筋、そういえば整った顔してるんだっけ。こいつ、自分がかっこよく見える角度を知っててやってるんじゃなかろうか。そう思っても、やっぱり見とれちゃったりして。

 振り切るように、うんうんと頷いてみせた。千歳はたっぷり間を取って見つめてから、すっと瞼を伏せる。

「俺が待ってんの、ひろさんだけだから……」

 あ、どうしよう。緊張してきちゃった。頬が熱くなってくのが分かる。赤くなってて、千歳が絶対それに気づいてるに違いないと思うと、ますますどうしようもなく火照ってくるこの悪循環。

 何て答えようかどぎまぎしていると、千歳は一転してにやりとした。

「ひろさんと違ってね」

 手近にあったティッシュ箱で、それがへこむくらい殴ってやった。



 こんな夜中に訪ねてくるとしたら轟だろうと思ったら、ドアを開けに行った千歳はめちゃくちゃな不機嫌で戻ってきた。その後ろからドカドカと話題の人・リョウが入ってくる。そりゃ不機嫌にもなるよなー。

「よー。おまえの携帯から盗聴器回収すんの、忘れてた」

 こっちも忘れていた。鞄から携帯を引っ張り出して渡す時、ふと疑惑が頭をよぎる。

「もしかして今の会話聞いてた……?」

 ヤバい。リョウに惹かれた惹かれてないなんて話をしてしまった。

「話がまとまるまで待っててやったんだぞ、礼くらい言え」

(ギャー、聞かれてたんだっ)

 なのにリョウは平然と床に胡坐をかいて、持参したドライバーやら何やらごちゃごちゃ詰まったツールボックスをかき回している。頭が真っ白になった。千歳が、盗聴器つけられてたって何で言わないんだとぎゃあぎゃあ文句つけてきてるのが遠くに聞こえるけど。

「ひろが引っ越すくらいで騒ぎやがって、贅沢なんだよ色男。俺は理沙に一年も会えなかったんだぞ。たまに電話して盗撮しただけだぞ」

 盗撮の是非は置いといて。

「理沙さん、大丈夫? 事件のこと思い出したんでしょ。犯人が自首して、動揺してるんじゃないかな……」

 分解された携帯から顔を上げて、リョウは呆れたように肩をすくめた。

「男よりダチか。優男みてえなこと言うじゃねえか」

 ここで轟が出てくるのが謎なんだけど。

「生霊の理沙さんが消えそうになった時にね……約束したんだ。生霊だった理沙さんも忘れない。実体の理沙さんとも友達でいるって」

 オレンジ頭は黙って頷く。切れ長の静かな眼が、頼むと言っているように思えた。

「退院したがってる。俺も引っ越さねえとな」

「一緒に暮らすんだねー」

 リョウは手際よく携帯の部品なんだか盗聴器なんだか、もはや不明な器械を入れ替えている。でも仕事人の顔じゃない。口角が少しだけ緩んでる。

「そういえば。アツに、経費払えって言っといてくれる? おまけにね、さっき部屋に帰ってみたら下着がなくなってたの! 全部だよ全部! 何も全部持ってくことないじゃない!」

 視界の隅で千歳が頭を抱えて呻いている。呻きたいのはこっちだ。

「迷ってるうちにまた邪魔が入って盗り損ねたらたまんねえから、とりあえず全部持ってったんじゃねえの? よしよし、学習してるねアツも」

「褒めるな! 笑うな!」

 怒るほど、リョウの意地悪な笑いは増幅していく。

「俺が弁償してやるって」

「あのねー、何でもお金で解決できると思ってんの?」

「いや、おまえならメシで充分」

「…………」

 リョウにはたてつくだけ無駄なんだろうか……。

「なあ、ひろ」

 言い返す気力を奪われてゲンナリしていると、リョウが携帯としての動作確認をしながら、妙に明るい笑顔を向けてきた。

「理沙にバレなきゃいいじゃねえか。おまえちょうどいいよな。寂しいとか今すぐ会いに来いとか、めんどくせえこと言いそうにねえし、気楽でさ」

 一瞬、何のことかと思った。

「何だよ、その言い方」

 千歳が怒りもあらわにリョウへ食ってかかっている。そうか、本命じゃないけど浮気相手とかセフレとしてなら遊んでやるって言われてるんだ……。

(俺にも選ぶ権利があるなんて、散々言っといて。……もしかしてあれって、暴力は好かないっていうのと同じだったのかな)

 理沙さんのために、風俗には行っても、普通の女の子と関わるのは自制してたのかもしれない。まあ、風俗なら浮気に入らないのかと言えば、人によりけりだと思うけど。

 それなのに今更相手してやるなんて言いだすのは、リョウなりのお礼の仕方なのか、それとも怒らせて諦めさせようとしてるのか。

(ただからかわれてるだけかもしれないな……)

 脳裏に理沙さんが浮かぶ。くりっとした瞳で笑ったり、目一杯泣いたり忙しい理沙さんを見てたら、どうしたってどうにかしてあげたかった。裏切れるわけがない。第一、ややこしいことになるのは御免だ。

「いいよ、千歳。あのねーリョウ、そういう気は全くないから勘違いしないでよ」

「ま、気が向いたら来い。おにーさんは近親相姦、大歓迎だぞ」

 わたしの返事をちゃんと聞けっ。

「じゃあなー」

 盗聴携帯をただの携帯に無力化して、リョウはさっさと帰っていった。嵐を起こすだけ起こしといて、あまりにあっけない去り際だ。携帯を手にぼうっと見送る。

「追っかけなくていいんですか」

 イラついたような低い声がした。千歳が閉まったばかりのドアへと眼を向けている。

「俺に気を遣わなくていいですよ。好きな男に誘われてんですよ、ひろさん」

「……別に好きじゃないってば、風俗通いしてた変態男なんて」

 それでも千歳は立ったまま、探るような眼でわたしを見ている。椅子へ腰を下ろすのが、追いかけないというわたしの意思表示だ。続いて千歳もゆっくりと向かいに座る。

 リョウなんて好きじゃないと重ねて言おうかと思ったけど、口を開くのがひどく億劫だった。

 浮気性の不良に軽い扱いされたって無視すればいいだけの話だし、実際に一蹴してやったのに、さっぱりしない。無意味に携帯の登録アドレスを繰ってみたりする。何か動くものを見てれば、考えない方がいいことを考えなくて済むような気がして。

 ややあって、テーブルの向こう側から小さな溜息が聞こえた。

「ちょうどいいなんて……信じちゃだめですからね」

 眼を上げたら、千歳はやけに真剣そうにしていた。慰めようとしてくれてるみたい。

「気にしてないよ。他の人にも、似たようなこと言われたことあるし」

 昔付き合ってた男に、前の彼女とよりを戻すって言われて、理由を聞いた。おまえのことは好きだ。でも、おまえは一人でも生きていけるけど、前の彼女はそうじゃないから、と説明されたっけ。

「そんなはずないです。ひろさんはサバサバしてるけど、キスも大盤振る舞いしてたけど、軽い女の子じゃないでしょう」

「ムキにならなくっても、気にしてないんだってば」

 次の瞬間ぎっと睨まれて、思わず息を呑む。

「ひろさんだって、本心見せてくれないじゃないですか! 俺もそんな風に嘘つかれたくないです。無理されるより、泣いてくれたほうがよっぽどマシです!」

「…………」

「轟じゃなきゃ泣けない?」

 生活の中で恋愛が一番じゃなくても、ドライでも、だからって本気にならないわけじゃない。けれど、そう主張したくなるほど本気になれる相手に会えなかっただけかもしれない。

 同じことしちゃってるのかな。霊能者に会いに行ったのに、買い物だと嘘をついた千歳と。

(でも……)

 上半身を乗り出して息を詰めて、千歳はわたしの答えを待っている。視線を逸らすのが憚られるような、強く掴んでくるみたいな瞳。怒ってるのかも。

 リョウの言葉を気にするのは、リョウに特別な想いがあるって認めるのと同じなんじゃないだろうか。そうしたら、千歳はまた傷ついた顔するだろう。でも無理してちょっと笑いながら、慰めてくれようとするんだろう。そんなの、千歳が可哀相だ。

「でもリョウのことはほんとに、お兄ちゃんみたいに思ってるだけだもん。せっかく今は千歳のこと見ようとしてるのに、その千歳がわたしにリョウの浮気相手になるの勧めるなんて、おかしいってば」

 千歳は、聞くと一旦渋い顔して、それから気が抜けたみたいにがっくり頭を垂れた。

「全く……意地っ張りもそこまでいけば立派ですよ」

 あくまで信じる気はないらしい。

「もうピリピリすんの嫌だから、おあいこ。いいですね」

 うんって言ったら、意地を張ってることになってしまう。ううんって言ったら、また言い合いになりそうだ。仕方なく黙っていたら、千歳は勢いをつけて立ち上がった。前髪をかきあげる仕草で、いつもの愛想笑いの仮面を着けたらしい。

 本当は怒ってるのかもしれないけど、見慣れた笑顔にほっとする。その裏が見えないなんて文句つけたのに、わたしってば甘えてる。甘やかしてもらってるんだ。

「ひろさん、飲みましょうか」

 キッチンから千歳が掲げて見せたのは、アマレットの瓶。わたしが頷く前に千歳はもう、冷凍庫からロックアイスを取り出している。

「ありがと。千歳ってめげない人だね」

「誰が打たれ強くしてると思ってんですか、誰が」

「……誰?」

 真剣に聞き返したのに、答えの代わりに氷が飛んできた。


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