… Monday am …
… Monday am …
面会時間が始まる十時きっかりにリハビリセンターに乗りつけた。滝田さんという名前らしいショートカットの看護婦さんは、わたしがナースステーションに赴くと当然のようにナース服を出してきた。やっぱり着替えなきゃいけないんですか、今日も。
「昨日いらして頂いたこと、高木さんは覚えてないかもしれないから」
台詞の内容とは裏腹に、何で楽しそうなんですか。面白がられてる気がする。あまり容態の急変とか頻繁な入退院がない場所だから、刺激に飢えてるんだろうか。またしても轟には待っててもらうことにしてしぶしぶ着替え、今日は先導なしで理沙さんの病室へ向かった。
「理沙さん、ひろですけど。入ってもいい?」
閉じたスライドドア越しに声をかけると、ぱたぱたと足音がして理沙さんがドアを開けてくれた。今日はジャージでなくて、胸に大きな王冠のプリントがあるピンクのTシャツに白いジーンズを穿いている。どうやら名前は覚えていて、待ち構えていてくれたらしい。それでも不安そうな顔で、わたしの髪やミュールをしげしげ確認している。ほっとして笑ってくれるのを、動かずにじっと待った。
『もー、ひろちゃんなのに。声で分かんないのかな、あたしってば』
部屋からずっとついてきてた生霊の理沙さんが、後ろで呆れている。
昨夜、生霊の理沙さんが生霊であることを、あれこれ例を挙げて納得させた。何度も部屋に来ているリョウがしゃべらないのは、理沙さんが生霊であるが故にその姿が見えないからだということ。ためしにバーコードおじさんの部屋を訪ねてみても、おじさんが全く理沙さんに反応しないこと。
生霊の理沙さんは何しろ実体と対面したのだから、複体というものの存在は信じるしかなかったらしい。リハビリセンターにいる方が生霊なのではないかとも考えたようだが、気がついたら病室にワープしていたという体験で、自分側が生霊なのだと観念したらしかった。
それにしても、妙に図太いところもある人だ。一晩で生霊であることを受け入れてしまって、実体に文句をつけている。
『多重人格障害の別人格もそうらしいんだけど、生霊がしたことを実体は覚えてないみたい。だからわたしが生霊の理沙さんと話したことを、実体の理沙さんは知らないはず』
脳内でそう説明してあげたら、生霊の理沙さんはえーっと唇を尖らせている。
『じゃあ、あたしが実体のあたしに戻ったら、ひろちゃんと話したこと忘れちゃうの? そんなのやだー! ね、お友達でいてね、絶対だからねー!』
泣くな泣くな泣くなっ。
『ほら、実体とももう会ってるし大丈夫。やだとか言わないの、実体に戻しに来たのに!』
「ひろちゃん、どうしたの? 入って!」
生霊さんと話していて部屋の入口に立ちんぼになっていたわたしに、実体さんが首を傾げている。あなたと話すのに忙しかったんですとは……言えない。
応接セットの椅子に通される。生霊の理沙さんも二人掛けのソファの隣に座った。実体の理沙さんはお茶を出してくれたが、もちろん生霊さんの分はない。生霊さんにごめんね、と断りつつ一息つかせてもらった。実体さんはわたしの様子を見計らってから、背筋を伸ばして深呼吸する。
「考えてみました。何か怖いことを思い出すかもしれなくても、可能性に賭けてみたいです」
きちっと両膝を揃え、そこにまたきちっと両手を置いて、理沙さんはしっかり言い切った。
「お願いします。あたし、どうして男の人が怖いのか知らなきゃ、前に進めません。ちゃんと知って、ちゃんと亮ちゃんに会いたい」
きりっとした眉の下の、こちらが怯むほど意志の強い大きな瞳に、迷いは欠片もなかった。一瞬反応するのを忘れるほどその真っ直ぐな眼は綺麗で、周囲の空気がきんと音を立てて浄化されたように思えた。
『よーしよく言った、あたし』
自分に感激してるよ、生霊の理沙さんってば。
『……あ』
不意に生霊の理沙さんが小さく声を上げる。振り向くと、その姿は急速に輪郭が揺らぎ、薄らいでいる。自分の存在が消えかけていることに気づいているようだ。生霊さんは別れを惜しむ眼でわたしを見ていた。急いできつく言い聞かせる。
『未練を持っちゃダメ。実体に戻って。生霊だった理沙さんも忘れない。実体の理沙さんとも友達でいる。事件は一緒に解決していこうね。会えるようになったらリョウ、絶対喜ぶから』
『亮ちゃん』
その名前は効いたようだ。ぎゅっと閉じてまた開いた瞳からは、実体の理沙さんと同じく迷いが消えていた。
『うん。ひろちゃん、ありがと……』
涙が出そうになった。でも、ここで泣いたら実体の理沙さんは訳が分からず困ってしまうだろう。ぐっと堪えながら、生霊の理沙さんが空に融ける雲か、川の朝霧のように消えていくのを見届けた。
「可能性に賭けてみてくれるんだ。分かった。理沙さん、ちょっと……準備してくるから、待っててくれる?」
何を、と問われたがそれを答えたら意味がない。とにかく病室を飛び出して、看護婦さんに叱られない程度の小走りで病棟を走り抜ける。急いで看護婦の制服から、ジーンズと昨日買っておいたシンプルな白のタンクトップに着替える。理沙さんほどでなくても胸はあるが、少なくとも衣服だけ見たら女性らしくはない。
行ったと思ったら着替えて走って帰ってきたわたしを、休憩スペースで大人しく待っていた轟がきょとんと出迎えた。
「轟、理沙さんの部屋についてきて」
腕を引っ張ったら、轟はわたわた引きずられながらどもる。
「え、でもこっちの理沙さんは男、全然ダメなんですよね? ひろさん気づいてないかもだけど、僕もその、一応世間的には」
「いいから。来て欲しいの」
戸惑い顔の轟を連れて来て、理沙さんの病室の前に立った。スライドドア越しに声は掛けず、ノックだけする。はーい、という理沙さんの応答と、ぱたぱたと近づいてくる足音がした。轟に耳打ちする。
「いい? よく見ててね」
いよいよ結果の分かる瞬間だ。肋骨が邪魔なくらい跳ね回っている心臓を押さえる。
(お願いします……)
胸の中で祈ってから、しゃきっと背筋を伸ばしてドアを見つめる。カラリと軽い音と共に、スライドドアが開いた。
「あ、ひろちゃん。準備って何?」
理沙さんはためらわなかった。不安よりも期待が大きいような興奮した表情は、口をきけずにいるわたしを見て少し曇る。
「どうしたの?」
「見分けてる……」
後ろで轟が呟くのが聞こえた。
「見分けてるよね……」
ようやっと呟き返す。ぱちぱちと風が舞い起こりそうな大きな瞬きをして、理沙さんは首を傾げている。
「理沙さん、今、どうしてわたしだって分かったの?」
「え……」
「ほら、看護婦の制服じゃないのに怖がってないじゃない。わたし着替えてきたの。見たことない服でしょ。なのに理沙さんはどうしてわたしだって分かったの?」
何を言われているのか理解してないようで、唖然として口を開けられてしまった。
「だってひろちゃんだもん……」
理沙さんはそう言って、自分の言葉に耳を疑うように黙った。大きな瞳が右へ左へ忙しく動いている。
「でも今朝来た時は、理沙さんはわたしを声と靴で判別してたでしょ。今はノックだけで声を聞いてないし、靴は見てなかったはず。でもドア開けてすぐ、ひろちゃんって言ったよね」
「だって……ひろちゃんだもん……」
理沙さんの瞳の奥で、ぐるぐると記憶と思考が錯綜しているのが見えた。
「リョウの顔、思い出せる?」
まじまじと見上げられて、わたしの眉間には穴が開くのではないかと思えた。その口角が徐々に上がっていく。
「きゃあ、ひろちゃん!」
いきなり抱きつかれて、二人して廊下に倒れ込んでしまった。
(む、胸がすごい弾力……男が胸にこだわるのが分かる気が……って、何を考えてるんだっ)
轟が慌てて助け起こしてくれる。怖いはずの男性に抱え起こされているというのに、理沙さんは気づいていないようだ。
「分かる! 亮ちゃんの顔、分かるよ! どうしよ、電話しなきゃ。ごめんなさいひろちゃん、ちょっと待ってて!」
病室を飛び出して、すぐにあたふた戻ってきた理沙さんは、ベッド脇の小さな棚をがさごそしている。再び飛び出して行ったその手に持っていたのはメモらしい。リョウの携帯番号が書いてあるんだろう。
「良かったですね、ひろさん! 理沙さん、相貌認知が良くなってるみたいですよ」
「うん、良かった……」
電話が終わるまで、待たせてもらおう。そう思って病室の応接セットに向かったのに、そこにたどり着く前に膝からへろへろと力が逃げていってしまった。
「わわ、ひろさん大丈夫ですか」
「ごめん、気が抜けた……」
生霊を戻したのに相貌失認はそのままでリョウの顔が分からず、なのに事件の過酷な記憶は思い出してしまう可能性だってあった。どうやらその最悪の事態は免れたようだ。今更ながらその事態を恐れて、めちゃくちゃ緊張していたことを知った。
轟に助けられてようやく椅子に到達し、ぐったり埋もれる。ぼんやりしていると、早くも理沙さんは駆け戻ってきた。頬が上気しているのはいい知らせだ。
「三十分で行くって、それだけで切られちゃった。どうしよひろちゃん、この服でいいと思う? お化粧崩れてない? やだ、亮ちゃんに会うの何日ぶりだろ! ああ、髪カットしてもらっとけば良かった!」
すっかりパニックになっているらしいが、こんな微笑ましいパニックは歓迎だ。轟への挨拶もそこそこに慌てふためいている。
「何日って……一年ぶりだと思うよ」
「えええっ、一年!? 嘘! ほんと? いつの間にそんなに経ったの?」
そうか、時間認知障害もあったから、一年経ったことに気づいてないんだ。
大丈夫、可愛いよと言ってるのに、理沙さんは片っ端からチェストの中の服を引っ張り出してベッドに広げ、どれにしようかしきりに悩んでいる。
(恋する女の子だ……)
一方のわたしは力が抜けてぐったりしたまま、ハチドリみたいに忙しく色鮮やかに咲いた服のあいだを飛び回る理沙さんを眺めていた。
「轟……今回しみじみ思った。わたしって、恋愛より見習い向きみたい……」
「はい?」
その時、前触れも音もなく突然、スライドドアが動いた。
「あっ……」
わずか十センチほどの隙間から、暗い色が覗いた。顔の上半分を覆い隠している紺色のキャップ。その下から覗く薄い唇。紺色のTシャツ。小柄で細身のシルエット。
(アツ!)
声に出してそう言う前にアツは、人差し指を自分の唇の前に立てた。その動きひとつでわたしと轟の口を封じる。こっそり振り返ると、理沙さんは何も気づかず一心に服を選んでいる。アツは唇から離した指をくいくいと曲げて、出て来いと伝えてきた。
「理沙さん、ちょっと外すね。また後で来るから」
うん、と疑う気もないというか疑う心の余裕もなさそうな返事に、轟と二人そそくさと外へ出る。スライドドアを閉める頃には、アツはスタスタと廊下の遥か先を歩いていた。
「アツ、待ってよ。何でここにいるの? リョウと一緒に来たの? どこ行くのー?」
金色なのか茶色なのかはっきりしない長髪が垂れた背中は、振り返りもせずに病棟を抜けていく。
「多分、教えてもらえないと思います。ひろさんのおじいさんの事件の時もそうでした。僕と千歳はあの人に連れられて、車の中でひろさんとリョウさんの会話を聞かせてもらったんですが……そのあいだ最後まで一言もしゃべりませんでしたよ」
そういえば、Poison Appleでも全然声を聞かなかったっけ。変態ポイントをまた足しておかねばなるまい。
アツの痩せた背中は本館を通り、病棟の向かいにある訓練棟へ入った。人目を避けるように階段を使って三階へ上り、さらに屋上へ通じる銀色のドアを開けた。関係者以外立入禁止の赤い文字など、全く気にしていないようだ。大抵こういうところは鍵がかかっているものだが、そこは鍵屋・リョウの相棒。苦もなく開けてしまったに違いない。
屋上は初夏の昼の陽射しが容赦なく照りつけ、足元のコンクリートからムッとするほどの熱気が立ち昇っていた。見渡すと、リハビリセンターは緑の森に浮かぶ白い船みたいで視覚的には涼しいのだが、実際は太陽光がチリチリ痛いほどだ。
「もー、ここに何かあるわけ? リョウと理沙さんの感動の再会を逃しちゃったらどうすんのよ!」
太いパイプや蛇腹にくるまれた配線がごちゃごちゃした屋上を、アツは慣れた様子でひょいひょいと進んでいく。はっきり聞こえるように文句を言いながらついていくと、やがてアツは柵ぎわで屈み込んだ。機械が置いてあるようだ。
黒くて細長い円筒形の棒が、三脚でがっちり固定されている。TVや映画撮影の時なんかに使ってる、超指向性ガンマイクってやつだろうか。その隣にはどえらい長さの望遠レンズがついたビデオカメラも設置されている。マイクとカメラの指す先は、向かいにある病棟の二階のようだ。
アツの手招きに応じて寄っていくと、ヘッドフォンを渡された。それを装着しつつ、膝を落としてカメラのファインダーを覗く。最初は何が映っているのか、分からなかったのだけれど。
『亮ちゃん、一年のあいだに風俗とかいっぱい行ったんでしょー!』
『うっせーな。男は溜まるのが生理なんだよ』
このオレンジ頭はリョウだ。刺青もフルに見えている。フルに見えてるってことは、少なくとも上半身は何も着てないってことで。周囲に理沙さんが選びかねていた洋服が散乱してるとこからすると、ベッドの上にいるんじゃなかろうか。
『だめだってば亮ちゃん、こんなとこで……』
『うるせえこと言うと抜くぞ』
『意地悪……』
……すでにAVばりの光景が展開されていた。
慌てて立ち上がり、ヘッドフォンをむしり取る。何てもん見せてくれんのよ、と怒鳴ろうとしたら、アツはまた人差し指を唇の前に立てた。そしてマイクを指す。余計な声を出すなと言いたいらしい。
ふらふらその場を離れると、ややあって轟が転びそうな勢いで追いついてきた。真っ赤になってるから、わたしが見たのと似たような場面を見させられてしまったに違いない。
「さすが変態盗聴屋……」
めまいがするのはきっと、暑さのせいじゃない。
終わったら教えてくれとアツに言い残して、フライパンの上みたいな屋上からひんやり暗い階段へと退散した。屋上へ通じるドアの前の最上段に轟と並んで座り、リョウと理沙さんの盛り上がりすぎな感動の再会が一段落するのを待つ。
壁に寄りかかってボーッしていると、何故か急速に悲しくなってきた。理沙さんは生霊と一緒に相貌認知能力を取り戻して、リョウを見分けられるようになった。あの様子からするとリョウもやはり、理沙さんが好きでたまらないらしい。二人の一年ぶりの逢瀬は、喜んであげるべきものなのに。
出てくるのはどうしてだか、溜息ばかりだ。
「理沙さん、可愛いもんねー……」
独り言みたいに呟く。同じ段の反対端に座っていた轟は、ややあってぽつりと返してきた。
「リョウさんのこと、好きになってたんですね」
「…………」
あんな不良で態度でかくて浮気性な男なんて、好きになったら苦労するだけだ。しかも理沙さんがいる。好きになるだけ無駄だって、最初から分かってたはずだ。好きになるわけがない。
「何か……お兄ちゃん取られちゃったような気分」
……なんだと思うけど。
「あ、でもリョウや理沙さんには言わないでね。お兄ちゃんみたいとか言ったのがバレたらリョウのヤツ、またニヤけながら絶対からかうに決まってるんだから」
「……ひろさん。僕、千歳がひろさんに黙って霊能者のとこに行こうとしたの、分かる気がします」
脈絡のない台詞に振り向くと、轟はどきっとするほど優しい優しい眼をしていた。口元がはっきり笑ってるわけじゃないのに、微笑んでるのが分かる眼。後光背負った宗教画の中の人みたい。
「霊道が閉じてひろさんが喜んでる顔見られれば、千歳は貯金なんて惜しくなかったんでしょう。黙ってそうしようとしたのは、ひろさんが反対するの分かってただろうし、それに……」
轟の瞳は背後のドアのすりガラスから差す光に影を飛ばされて、日本人離れした明るい茶色に見えた。
「どんなにあの部屋にいて欲しいか、そのためにどんな努力したか知られちゃったら、ひろさんの無邪気な笑顔見られなくなっちゃうじゃないですか。知られたら、その笑顔壊したくなくって必死に我慢してる意味、なくなっちゃうから……」
轟自身の話をされてるような気になって、どぎまぎしてしまった。
「んーっと、轟ってその……知ってるの? 千歳が、えっとー……」
語尾を濁しまくっていると、すぐに柔和に下がった目尻でその先を拾ってもらえた。
「ひろさんに告白したこと? 知ってますよ。前日に聞かれました。告白するけどいいか、って」
あ、知ってるんだ。そうだよね、親友だもん。
「何で轟に確認する必要があるんだろ」
「僕もそう言ってやりました」
ルームメイトみたいなわたしたちだ。千歳とわたしの関係が変わったら、轟には随分気を遣わせてしまうだろう。千歳はそこを気にしたのかもしれない。
「轟も同じなの?」
「えっ?」
今度は轟がうろたえ気味に上半身を引く。何でそんなに焦ってるんだ。
「もし霊能者がインチキじゃなさそうで、轟が千歳の立場だったら……轟も、千歳みたいなことしたかもしれない?」
「あ、ああ……そういうことですか。うーん……したかもしれませんね」
脈絡のない話題かと思ってたら、黙って慕う、って繋がりで轟はそんなこと言い出したのか。
「おまけにひろさんは、リョウさんのとこに行くって言ったっきり帰ってこなかったじゃないですか。そりゃ疑いもしますよ。しかも引っ越しちゃったら、ほんとに遠くなっちゃうから……千歳は焦って、何とか現実的にだけでも、ひろさん繋ぎとめたかったんだと思いますよ」
そっか、鍵のことなんて説明しなかったから、傍目にはわたしがリョウを追っかけていったみたいに見えたんだ。それなのにわたしってば、千歳が嘘ついた理由を考えもしないで、会うなりバカを連呼したりして。
「千歳に謝って、ちゃんと仲直りしなきゃ」
何だか、常に自分が悪いような気がしてきた。今度から、かっとして怒鳴るのは控えよう。
「それから、さっきのお兄ちゃんとかそういうこと……千歳にも言わないでくれる? ただでさえリョウのことになると、ありもしないのに勘繰られて大変なんだもん」
轟はさっきと正反対な笑い方をした。唇の端は笑ってるのに、眼はやけに静かだ。
「分かりました」
「独り言もダメだからね」
頷いて、轟のえくぼはもう一段はっきりと沈んだ。
「僕、こう見えても千歳に隠し事するの慣れてるんですよ」
その後はとりとめもない話をして、一時間も経っただろうか。コンクリートを踏みしめる軽い足音が背後に近づいてきたと思ったら、がちゃりと銀色のドアが開いてアツが姿を見せた。さっきのカメラやマイクが入っているのだろうか、大きな箱型のショルダーバッグを提げている。撤収するということは、リョウと理沙さんの感動の再会が一段落したということだろう。
「終わった?」
答えずに、アツはわたしと轟のあいだを抜けて階段を下りようとする。途端にフラつくアツの肩を、慌てて両側から支えた。痩せた肩はやけに熱い。
「あのさー、こんな熱の吸収率高そうな紺色づくめな格好して炎天下の、しかも照り返しの強い場所でじーっと覗き見してたら、日射病になるの分かりきってない?」
分かっていながら、止めに行かなかったわたしたちもわたしたちだが。
「変態のしすぎで死なないでね。親、泣くよ」
「…………」
キャップのつばの下からじっとりと睨まれてる気配がするが、無視してやろう。どうせ言い返さないだろう。
それでもキャップを脱ごうとすらせず変態の意地を見せるアツ、機材を持ってあげた轟と共に理沙さんの部屋へ戻る。何ラウンド目かなんて知らないけど再開されてたらどうしようという懸念は、開いているスライドドアで払拭された。
中を窺うと理沙さんの姿はなく、全開の窓に寄りかかっていつもの煙草をふかしているリョウだけが残されていた。上半身は裸のままで素足だし、ジーンズの前もとまってない。ベッドと散乱した服だけは理沙さんが片付けていったようだが、リョウは何があったのか隠そうともしていない雰囲気だ。こっちが恥ずかしいぞ。
「よお、アツ」
さっきまで熱愛の巣と化していた部屋だ。入るのを遠慮がちにしてるわたしと轟を置いて、アツはためらいなくドアをくぐる。さすが盗撮マニアは場慣れしているらしい。紺色の背中に続くと、リョウの呑気な声がした。
「いくらだ? ピンボケしてたら殺すぞ」
(いくらだって……もしかして撮らせてたのっ?)
アツが勝手に盗撮してるんだと思ってた。変態ワールドに、こっちが日射病になりそうだ。アツは黙って三本の指を立ててみせている。三万円ってとこだろうか。
「あんたたちって、いい変態相棒なんだね……」
呆れてるのか感心しているのか、もはや自分でも分からない。溜息混じりに言うと、リョウの眉間に谷間が出来た。
「おまえ、相棒がヤってるとこ盗み撮りして三百万ふっかけるのの、どこがいい相棒なんだよ」
「さんびゃくまんっ?」
轟とハモってしまった。指一本一万じゃなくて、百万だったのか。こいつら、普段どういう金勘定してるんだ。
「テンペストの機材欲しいっつってたもんな。その金、身内ゆすって調達するかよ普通……いやこいつは普通じゃねーからな」
テンペストというのは電磁波盗聴で、PCのケーブルをアンテナとして、キーボードから入力されたりディスプレイに映し出されたりした情報を盗聴することなんだそうな。アツはその高額な機材を買いたくて盗撮したのか……。
口では文句を言いつつ、リョウの機嫌はいい。
「こいつにたかられたら、迷わず払えよ。渋ったりしたらマジで躊躇なく売っ払うぞ」
冗談かと思ったけど、アツの唇はうっすら笑っている。怖いんですが。
「えっ、でも撮られてるの気づいてたんじゃないの? たかられるのが嫌なら、カーテンでも閉めればよかったのに」
んあ、と気合のない応答が返ってきた。
「まーせっかくだからな。記念、記念」
やっぱりどっちもどっちの変態コンビだ……。
「理沙さんは?」
これ以上の変態話は御免なので、話題を変えてみる。
「風呂だろ。ここの風呂には入り納めかもしれねえな」
何故お風呂なのかは考えるまい。でも入り納めということは、リョウと仲良くしてたってことは、やっぱり相貌失認も男性恐怖症も相当軽くなったんだ。少なくとも、生霊の理沙さんと同程度には。
煙草をふかすリョウの横顔は、珍しく穏やかだった。いつもの、下手に触れたら殴られそうな緊張感がない。理沙さんの回復で、リョウの心に溜まっていた後悔が少しは薄らいだんだろうか。その眼は窓の外でなくて、理沙さんとの新生活を見ているのだろうか。
その顔を眺めていたらふと、視線がわたしに向けられていることに気づいた。
「ところで、何でひろと優男がここにいるんだ?」
「何でって……何でって、リョウが呼びつけたんじゃないの! アパートの鍵、勝手に換えて……」
カクカクと空気を噛んだあと、ようやくそう答える。
「知らねーぞ」
一蹴された。リョウは隠し事する時はする、しない時はしないでタイミングが読めない。信じていいものやらぱくぱくしていると、ああ、とリョウの煙草がアツを指した。
「おまえだろ」
「ええええっ?」
またしても轟と共鳴しつつアツを凝視すると、次元大介的ニヒルな笑い方をされた。
(そういえば……『カギ 取りに来い』ってメモはリョウだと思い込んでたけど、名前が書いてあったわけじゃないし……結局今まで、リョウからは何のコンタクトもなかったし……)
話せと言われて、Poison Appleから帰ったらアパートの鍵が換えられていたことに始まり、理沙さんの生霊に会ったこと、理沙さんの相貌認知と時間認知だけが治らないのは生霊が出ているせいではないかと考えたこと、生霊が出たのは性犯罪の体験からの自己防衛ではないかということ、生霊と実体と両方を説得して融合させたことを説明した。ただし、強姦未遂の犯人が理沙さんの勤めていた美容院の店長らしいということは伏せておく。
「犯人が証拠品を盗みに来るかもしれねえと思って、理沙の部屋には隠しカメラを仕込んである。けどこれでも忙しくてなー、チェックはアツにやらせてたんだよ。こいつの専門分野だって言ったろ。もしかしてそこに何か映ったんじゃねえのか? 理沙の生霊とかいうのが」
アツはショルダーバッグの中から取り出したものを病室のDVDプレイヤーに押し込んだ。映し出されたのは、白黒だけの暗さに沈んだ、古いアパートの理沙さんの部屋。
「わあああ」
散々生霊に対面してその部屋で寝泊りまでしたくせに、画面を白い影が横切ると轟は手で顔を覆ってしまった。
「ふーん、それでひろを来させたのか。そしたら理沙の生霊ってことが分かったんで、そのまま放流しといたわけだ」
放流って、おいっ。
「何よーもう、こっちはリョウって苦労人なんだーとか、何で連絡くれないんだろうとか思いながら駆けずりまわったのに。アツもそれならそうと、最初から相談してくれればいいのに!」
「頼んですんなり引き受けるクチかよ、おまえ」
リョウにさらっと突っ込まれて、返す言葉がない。確かに見習いは一度も進んで引き受けた例がない。そんなとこまで読まれてたとは。
「じゃあ結局、リョウの頼みでも見習いでもなかったのかあ。わたしバカみたいだなー」
「そんなことないですよ、ひろさんが頑張ったから理沙さんは良くなったんですよ!」
轟があれこれ慰めてくれるけど、虚脱感はなはだしい。見回したが、病室にお酒が置いてあるはずもない。ちなみに医療用のアルコールを飲む気はない。
「リョウ、一本……」
「ひろさんは禁煙……いえっ、どうぞ吸って下さい」
どんな顔して睨んじゃったんだろ、轟は鬼軍曹に会ったみたいな反応で言葉を飲み込んだ。窓際に寄ってって煙草を一本もらうと、何とリョウが火をつけてくれた。普段の横柄さからは考えられない。もしかしてこれがリョウ風のお礼の言い方だったりして。
「鍵っつうのは、時間をかけさせるもんだと思ってた」
濃くて重い煙を空に放つと、それを待っていたようなタイミングでリョウが話しだす。真面目な口調に、部屋の空気がすうっと冷えて沈んだ気がした。遠くから響いてきた蝉の声が、やけに白々しく耳に残る。
「金庫だろうが家だろうが、どんな鍵だって最後は破られる。破るまでの時間をどれだけ稼げるか、それが鍵の意味だってな。俺はあんな、開けるまでもなく蹴り倒せば済むはずだった鍵に邪魔されて……理沙に取り返しのつかないことをしちまった」
それはリョウのせいじゃない。でも轟が、わたしの怪我は自分たちがうっかりしていたせいだと言ったように、リョウにとってはそうなんだろう。
「だから鍵を商売にしたのに結局、理沙の心も病気も、突破口を開けてやれなかった。この一年、俺は理沙を食わせてたにすぎねえ」
それだけじゃないはずだ、という慰めの言葉など口にさせない強い断定だった。誰も何も言えずに……いやアツだけは最初から何も言う気がないだろうけど、とにかく言えずに黙っていた。
「けどな、ひろ」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。思わず、はいなんて返事する。
「おまえ見てるとな、鍵ってそうじゃねえかもなって思うんだよな。鍵は何かを隠したり、隔てるためじゃなくて……鍵って形を取って隠されたり隔てられてたもんを、もう一度繋げるためにあるのかもしれねえな。霊感のこと言ってるんじゃねーぞ、それもあるけど、おまえはそれだけじゃねえモンを持ってる」
霊感のことじゃないなら、何なんだろう。わたしが人より特別に持ってるものなんて、それくらいしかないけど。ひょっとして強欲な守護霊のことだろうか。
考えてると、リョウはいきなり打って変わって例の生意気極まりない笑みを浮かべた。ごっついシルバーの指輪がはめられた手で、わたしの髪をぐしゃぐしゃと荒らす。
「おまえ頭いいのに、ほんっとアホだよな」
矛盾してるぞ、言ってることがっ。
「そのアホ鍛えてやるから、相棒になれってば。女が一人いると便利なんだよ」
またその話か。
「変態コンビに入る気なんてない!」