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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い三号 ―絹―
20/39

… Friday morning …

… Friday morning …


「いよーう、ひろ。化粧はばっちりかー」

 昨日の夕方に軽くやり合ったばかりだというのに、リョウは抜け抜けと三人の朝食の場に顔を出した。黒いタンクにごっついシルバーのネックレスして、肩口にはトライバルな刺青が見えてるんですが……この人にバイオメトリクス認証とか取得時効とか教わってるなんて、轟も千歳も信じないだろうなあ。ただの怪しいおにいさんだよ。

 そろりと振り返ると、ラグの上の千歳が不機嫌極まりない形に眉を寄せていた。轟は正座して、緊張した面持ちで千歳とわたしを交互に見守っている。

「おっす、大学生。ひろ借りてくぞ」

 あああ、どうしてそう、神経逆撫でするような言い方するかなー。千歳は挑発に乗ったみたいに立ち上がって、ずんずん歩いてくるし。

「ひろさん、行くんですか」

 行かなきゃいけないんだけどそんな、そんな怖い顔されると。非常に行きづらいんですが。

「講義休まないって、約束しましたよね」

 したけど。

「怪我させるような男と出掛ける方が大事ですか」

 そうじゃないのに。そうじゃないけど、言えない。

「俺、見てらんないですよ。どうしてひろさんがついてくのか、分かりません」

「…………」

「行くぞー、ひろ」

 緊迫感のない口調でせかすリョウをじろりと睨み上げて、千歳の視線は再びわたしに戻って来た。目を合わせられない。

「ごめん……」

 途端にらしからぬ強い力で腕を掴まれて驚く。

「どうして?」

 こんな感情むき出しの千歳なんて、見たことがあっただろうか。覗き込んでくる千歳の鼻先は、あとほんの少しでわたしの顔に触れそうだった。瞳には怒りより戸惑いより、やりきれない悔しさが溢れているように見えた。

 何も言えなかった。言えるわけもなかった。バイオレンスなスキンヘッドがもしここまで押しかけて来たら、今度怪我をするのは彼らだろう。既におじいちゃんという死者が出ている事件なのだ。

 ぐっと我慢していた千歳の唇はわたしの目の前を左へ逸れて、また左耳に何か言葉を落としたようだった。けれど、トーンを抑え切れなかったのかもしれない。それはこう言っているように聞こえた。

「俺じゃダメなんですか」



 そんなはずない。千歳がそんなこと言うはずない。そんな風に思ってるわけがない。

 今そんな言葉を聞かされたら、行けなくなる。聞き違いだって思いたい。

「わたし、行かなくちゃ」

「ひろさん!」

 千歳は腕を放してくれない。でも行かなくちゃいけない。どうしたら放してくれるだろう。

「単位落としてもいい。彼のところに行く」

 その顔に衝撃が広がっていくのは、見るに耐えなかった。緩んだ千歳の手から脱け出した腕をリョウの首に回して、キスをする。こうでもしなければ千歳を振り切れない気がした。

 こんなに嬉しくない、空虚なキスはしたことがなかった。

 リョウは落ち着いてわたしの背中を抱き寄せ、恋人同士みたいな熱いキスを演じてみせる。ほろ苦いのは煙草のせいだろうか。

「……分かりました」

 背後で低い声がした。

「好きにすればいいです」

 痛い、と声に出そうになった。言葉や気持ちは現実に胸を刺す。そこから流れ出るのが涙なんだろう。

「千歳」

 たしなめるような轟の声は続いて、困ったような優しい口調に転じた。

「ひろさん、行ってらっしゃい。でも、ほどほどにして下さいね」

 もう耐えられそうになかった。急いでミュールに足を突っ込み、外に出る。財布を取るために千歳の横を通ったら、泣いてるのがバレてしまう。靴箱の上にあった鍵束だけ掴んで外に出る。

 リョウの車は二ブロックほど走ってから一旦停まった。

「アツ? 俺だ。荷物積んでから付いて来てくれねえか」

 携帯で連絡を取ってから、リョウは再び車を出す。しばらくして、静かな車内に着信音が響いた。

「積んだか? わりーな」

 車は竹原の貸金庫に向かっているんだろう。でも車窓からそれを確かめる気も起きない。ずっと黙って俯いていると、リョウは場違いに明るい声を出した。

「心配すんな、片が付いたら色男優男に俺からちゃんと説明してやるから」

「許してもらえるわけないじゃない!」

 怒鳴ると、押さえつけていたものがぼろぼろ零れ落ちてきた。

「もう帰れないよ。あんなひどい嘘ついて、もう仲良くなんてしてもらえない」

「俺にはそうは思えないがなあ」

 のんびりした返答が憎らしい。

「あいつらを守りたくてついた嘘じゃねえか」

「でも、あんなに心配してくれてたのに。全部めちゃくちゃにしちゃった」

 泣いていても、慰めてくれる優しい肩はもうないのだと思い知った。自分で手放してしまった。

「二人と暮らすの、すごく好きだったのに」

 失くしてみて、言ってみて、本当にそうだと思った。

「会って半年も経ってねえくせに」

 からかうような台詞は不思議と気にならなかった。確かに半年も経っていないのに、こんなに大事に思うなんて変かもしれない。けれど実際、大事だった。それをゆっくり噛み締めていると、気持ちが徐々に落ち着いていった。

「でも好きだったの。だからいいか、危ない目に遭わせないで済んだんだもんね。代わりに竹原に会うことがあったら、一発殴ってやろう」

「おっ、その意気で頼むよ。おまえ、怒ってる時が一番色っぽいからな」

 あまり嬉しくない褒め言葉もリョウなりの激励な気がして、ようやく涙も引っ込んでいった。



 貸金庫の近くに停めた車内で、リョウは綿棒でわたしの口腔細胞を採取しては小さなビニールシートに塗りつけた。

「予想だがな、あの扉の向こうには例の眼科にある測定器みてえな、口腔細胞と虹彩をチェックする台がある。そこで登録された顧客のDNAと一致すれば、貸金庫室への扉が開く。俺は竹原に面が割れてるんでな、おまえについてくことは出来ねえんだが」

 そこでひらひらとシートを振ってみせる。

「ずっと音拾っとくし、いざとなったらこいつを使って追いかける。虹彩は生きてる人間なら誰でもパスさせるんだ、こいつを口ん中に貼ってひろのDNAを検出させりゃ俺でも通れるはずだ。ただ、検出するのに三十分かかるからな。すぐには行けねえぞ」

 とにかく中身を確認したらすぐ出て来いよ、と念を押されて車を降りた。以前、これ以上近付くと監視カメラに映ると言われた場所を越えて進んでいく。味も素っ気も無いコンクリートの建物の、これまた無愛想な灰色の扉の前に立った。

 古びて見えたけれどドアノブはすんなり回り、扉は音もなく奥へと開いた。裸電球がひとつ点いたっきりの、がらんとした暗い空間が広がっている。地下へ降りるエレベーターも、どこか別の場所に繋がっていそうなドアも見当たらない。片隅に、安そうなパイプ椅子が放置されたような趣で置いてあるだけだ。

 こんな質素な造りなのは、何も知らない者が興味本位に覗いてもそのまま引き返させるためだろう。奥へと足を進めると、ミュールの踵が打ちっぱなしのコンクリートに反響した。

 パイプ椅子の前の壁には肩幅ほどの広い溝が上下に切られ、その内部に埋められたレールに器械が取り付けられていた。リョウが言った通りの、眼科にある測定器がもう一段複雑化したような感じだ。周囲を見渡しても、説明書きらしきものは何もない。

 器械のそばの壁に、上向きと下向きの三角が描かれたボタンが一つずつあった。押してみると、測定器に似た器械が上下する。これで器械の高さを調節するらしい。顔の高さに合わせた。

 口を開けて顎を載せるとその重みを検知したらしく、綿棒と歯ブラシの合いの子みたいな細い棒がするすると伸びてきた。棒は左の頬の内側をしゃかしゃかこすり、同時に右の瞳の前を明るい光が通過する。口の中から棒が出て行ったので器械から顔を離すと、器械は勝手に動いて足許の床へ消えて行ってしまった。DNAの検出を始めるんだろう。

「そっか、細胞は左側から取るんだったっけ」

 リョウに情報を伝えようと、独り言みたいな振りをして呟いた。隠しカメラだけでなく、隠しマイクもあるかもしれない。

 パイプ椅子に座ったまま、三十分が過ぎるのをじっと待つ。考え始めると轟と千歳のことばかりが巡って仕方ないから、何も考えないようにした。

 突然、足許から低い機械音と震動が響いてきた。少し遅れて中央の床が二メートル四方ほど沈み、さらに横へスライドしていった。その空間へ、地下から板のようなものがせり上がってくる。忍者屋敷かスパイ映画みたいで思わず楽しくなってしまったが、隠しカメラのことを思い出して厳しい表情を保つ努力をした。

 上がってきたのはエレベーターらしかったが、工業用みたいな手すりもない簡素なものだ。操作盤は巨大な釘みたいな状態で底辺に突き立っている。下向きの三角形のボタンを押すと、エレベーターは下降を始めた。

 反響する音の遠さで、地下には広い空間が続いているのが分かった。頭上で、さっきは床だった天井が再びスライドして入口を塞いでいった。

 真っ暗な地下室の割に空気が淀んでいないのは、空調をきかせてあるからだろう。乾燥してほんの少し肌寒いような闇の中に、足許を照らす誘導灯が夜の滑走路のように浮かんでいる。通路の左右は暗くて見えない。誘導灯は歩くには困らないけれど、周囲を確認出来るほど明るくなかった。

「あ」

 思いついて、尻ポケットから鍵束を引っ張り出す。キーホルダーにしているビクトリノックス・スパルタンライトは、ナイフや栓抜きといったスタンダードツールに加えて白色LEDが搭載されたモデルだ。こんなところで懐中電灯代わりになると思わなかった。ライトを通路の側面へ向けてみて、思わず息を飲む。

 そこには見上げるほどの高さ、それと同じ幅を持った金属製らしき暗色の扉が鎮座していた。腰の高さに銀色のごついハンドルがしつらえられている。頭上には点いていない電灯があった。通路の奥へと続く誘導灯の先には、その頭上の電灯が一つだけ光っている場所がある。あそこにわたしのDNAが鍵になっている、つまりおじいちゃんの金庫があるのだろう。

 おじいちゃんの金庫へと進む間に、いくつもの扉を通り過ぎた。一体どんなものが、どれだけの資産が隠されているのだろう。きっとどれも合法的な資産じゃないに違いない。こんな資産がなくても充分食べていける人たちばかりだろうに、何だか腹が立ってくる。

(これは汚いビジネスなんだ)

 白いLEDが照らし出す扉の数々に、今更ながらそれを実感した。嫌悪感が湧き上がってくる。

(もしおじいちゃんの横領資産があったとしても、竹原には渡すもんか。こんな貸金庫業、潰れちゃえばいいんだ)

 電灯に招かれるようにして、一つの扉の前に辿り着いた。金庫の扉はとろりと冷たい光を反射しながら、二十年の眠りから覚めるのを待ち構えていたように見えた。恐らくこの中には、隠匿資産はともかくおじいちゃんの遺体がある。

(ひょっとして……)

 気を引き締めつつハンドルに手を伸ばしかけて、ふとある考えが浮かんだ。

(おじいちゃんは汚いビジネスだってことを知って、会社を潰そうとしたのかもしれない)

 悩んでいたところに、竹原がプライベートバンクの話を持ち出す。旧財閥資本家の資産を隠匿するばかりでなく、それを運用して殖やしてやる手伝いまですることになる。着々と準備は整っていき、おじいちゃんは追い詰められた。そして顧客の資産を横領して永遠に封じ込めることで、会社の信用を傷つけようと考えた……。

(でもそれなら、社長なんだし単純に会社をたためば良かったんじゃないの?)

 その時、息苦しくなっていることに気付いた。



『おじいちゃん、やめて……』

 金庫の扉にもたれて息をつきながら、その向こうにいるのであろうおじいちゃんに呼びかけた。その間にもどんどん視界は奪われ、誘導灯が暗くなっていく。押し潰されるような圧迫感に、ずるずると床へ座り込んだ。ビクトリノックスが指から滑り落ちて、通路の真ん中で硬い音を反響させた。

『おじいちゃんやめて、どうしてこんなことするの……?』

 必死に酸素を求めながら訴える。背中を冷や汗が伝い落ちていくのが分かった。耳鳴りもする。いつもと少し違う、低くて機械音のような……。

(耳鳴りじゃない……?)

 何とか頭を傾けて聞いてみると、その音は通路の入口の方から響いてくるようだった。誰かがこの地下室へ通じるエレベーターの扉を開けたのだ、と気付いた。

(リョウ? でも、鍵を開けるには三十分かかるはずだから……発作を聞きつけて来たにしては早すぎる……まさか)

 冷え切っていた額からさらに血の気が引いていく。近付いてくる急いたような足音から逃げたくても、立ち上がることさえ出来そうになかった。息をするだけで精一杯だ。

 足音は願いに反して着実にこちらを目指してやって来る。どうしよう、どうしてこんな時にと歯がゆい思いで唇を噛んだ時、頭の中に地の底から湧き上がるような低い声が聞こえた。

『渡すな……』

(おじいちゃん?)

「おまえは……孫娘か? まさか、孫を鍵に使っておったとは……」

 頭上の電灯が作り出す、暗くて狭い光の輪の中に老人が現れた。きっちり撫で付けられた白髪の下には、抜け目なさに光る機嫌の悪そうな瞳が並んでいた。普段着のような何でもない白シャツに地味なスラックス。低くて痩せた身体ながら、今は床にへたり込んでいるわたしを苦々しげに見下ろしている。

 名乗られなくても、その発言で竹原だと分かった。

 会ったら一発くれてやろうと思っていたのに、この状態では睨むのが関の山なのが悔しい。竹原はわたしが動けずにいるのを見て取ったらしく、意地悪な笑みを頬に刻んだ。

「わしにも運が向いてきたらしいのう。あの男を消し損ねて横領事件を起こされてから、ケチがついて回ったというのに」

(消し損ねた……?)

 あの男、というのはおじいちゃんのことだろう。穏やかでない事態が、わたしだけでなくおじいちゃんにも起こったに違いないと悟った。

「あの男、怖気づきおってな。会社を清算すると言い出しおった。倫理がどうのと抜かしてな。巨万の富、財界への強力なコネを諦めろと言いおった。あんまりうるさいから消してやるつもりだったのだがな、気付きよったわ。だが、横領なぞで失脚するわしではない……」

(つまり……)

 酸素が足りなくて霞みかける頭で、何とか竹原の言うことを理解しようとした。

(やっぱりおじいちゃんは旧財閥資本家の隠匿資産を預かる貸金庫業に嫌気がさして、その上さらにプライベートバンクを立ち上げるのが怖くなって、手を引こうとしたんだ。でも竹原にやめる気はなくて、おじいちゃんを殺そうとしたんだ……)

 おじいちゃんは死を覚悟する。でも竹原に一矢報いてやりたい。ビジネスを潰してやりたい。そう思いながら見納めに息子夫婦を密かに訪ね、同時に顧客資産の横領を思いつく。わたしのおしゃぶり、すなわち口腔細胞を手に顧客を拉致し、貸金庫を開けさせる。そしてその中の資産をどこかへ処分するか、新たに借りた金庫に移すかして、自分も金庫へと入る……。

「あの男、盗んだものを持ち切れずにここへ幾らかでも残していったに違いなかろう」

 その言葉に、竹原はおじいちゃんが金庫の中にいるとは知らないのだと思い出した。おじいちゃんの妨害が文字通り命懸けだと知っても、この男は反省などしないだろう。怒りにますます胸が苦しくなっていった。

「さて」

 竹原は金庫の扉を塞ぐようにもたれかかって座り込んでいるわたしを見下ろした。恨みか憎しみか、冷たい炎がくすぶるような老人の視線は、わたしが取り落としたままだったビクトリノックスへと向けられる。

「今度こそは消えてもらうとしよう」



 ビクトリノックス・スパルタンライトには二本のナイフが収められている。そのうちの長い方、ラージブレードを真っ赤に染めたのがわたしの血だということを、現実味なく受け入れていた。

 呼吸するだけで力尽きそうになっていて、逃げることも、よけることさえ出来なかった。竹原の手に握られたビクトリノックスが自分の左腹に沈むのを、まるで他人事のように見届けるしかなかった。焼きごてを押し込まれたような、熱い痛みが朦朧とした意識の中を走り抜ける。

 傷口を押さえることも出来ずにいるわたしに、竹原はとどめを刺すまでもないと判断したのかもしれない。ビクトリノックスを捨てると金庫のハンドルを掴み、わたしごと扉を引き開けた。扉もわたしも重かったのだろう、人ひとりやっとすり抜けられる程度の角度まで開くと、竹原は中へ入っていった。

「ううっ……何じゃ?」

 俯くしかすることのないわたしの背後から、庫内を照らしているのであろう照明の光、竹原の唸り声、そして霊気とひどい悪臭が漂ってきた。

(やっぱりおじいちゃんはここにいたんだ……)

 竹原が庫内で嘔吐している気配がする。ざまあみろ、二十年ものの腐乱死体だ。おじいちゃんがわたしたち家族を守るために命を懸けてくれた証拠なのだ。

(守るために……)

 どんよりした意識をよぎったある手段が、わたしの気力を奮起させた。必死に息を継ぎながら、何とか右足を引き寄せる。お腹の傷がぎりぎりと悲鳴をあげる中、両手を右膝に突いて、上体を後ろへと押しやった。

 重い金庫の扉が徐々に閉まっていく。

「うあっ……」

 竹原は何か叫んだかもしれない。その時にはもう、扉は低い音を立てて閉じていた。思った通りオートロックらしい、扉の内部で機械音がして、竹原が金庫を開けて出て来る気配はなかった。

(ざまみろ……)

 お腹に力を入れてしまったせいだろう、ジーンズのお尻も床もねっとりと血で濡れている気配がした。内側で竹原が助けを求めているらしい鈍い殴打音が微かに聞こえる。

 竹原を閉じ込めたことで、おじいちゃんは満足したのだろうか。それとも、わたしの代わりに竹原を襲っているのだろうか。呼吸は少しずつ回復してきたけれど、入れ替わりに傷の痛みは叫び出しそうにひどくなってきた。

 死ぬのかもしれない。

「リョウ……」

 耳栓を通して聞いているはずだ。今頃、頭上で鍵が開くのをじりじりと待ってくれているのかもしれない。

「万智子さんにも、お父さんにも言わないで……」

 おじいちゃんに横領事件を起こさせ、結果的に命を奪った竹原は金庫に閉じ込めてやった。

「轟にも千歳にも、言わないで」

 今わたしが死ねば、竹原は中で窒息死する。そしてもう二度と、誰にも開けられなくなる。家族もあの二人もリョウもずっと安全なまま、竹原の会社を潰してやれる。

「わたしが死んだらあの人たち、きっと気にする……駆け落ちして、どっかで幸せになったことにしといて」

 言ってから、バカだと思った。自嘲に笑えたかどうか分からない。

「気にするわけない、か……」

 静かだった。不思議と心が落ち着いている。これでいいんだ、と思うと身体が床に沈んでいき、意識は上に上がっていくようだった。

 どれ位の間、そんなゆったりとした浮遊感に身を任せていたのか分からない。ふと、何かが聞こえた気がした。

 地下室の入口が開く、低い機械音と気付いた。



「ひろさん!」

 雪山で遭難した者には、救助隊の幻影が見えることがあるという。轟と千歳の重なる呼び声がしたのは、そんな幻覚と同じなんだろう。

「優男、おまえ病院の息子だったな。止血法くらい知ってんだろ!」

 でも駆け付けて来る複数の足音に、リアルなリョウの台詞まで幻聴で聞こえるものだろうか。

「ひろさん、しっかりして……」

 動揺しきった千歳の声がすぐ近くに聞こえた。肩を掴まれてる気もする。けれど、瞼は重すぎて開こうとしても体力が残ってなかった。

「千歳、揺すらないで。横に寝かせて膝を立てて……何か押さえるもの!」

 いつもおっとりした轟の声は、珍しく緊張に満ちている。その指示通りに身体が動かされているのが、何となく分かった。

「えっと、出血の仕方からすると動脈は無事みたいだけど……わっ、すごい血」

「ひろ、起きろ」

 びしびしと頬を叩かれている。こんな乱暴なことするのはリョウに違いない。

「アツに救急車を呼ばせてる。それまで頑張れよ」

 何を頑張れって言うんだろう。このままにしておいてくれた方がいいのに。

「おい、おまえら!」

 リョウが怒鳴っている。

「ひろには助かる気がねえ。ひろを見捨てた、てめえらなんぞを守るためだ。ひろと俺が部屋を出てから、アツの車でずっと聞いてただろ! こいつがどんな思いで嘘ついて出て来たのか!」

(アツの車で……)

 今朝、部屋を出た後にリョウが電話をかけていたのを思い出した。

『アツ? 俺だ。荷物積んでから付いて来てくれねえか』

(あの荷物って轟と千歳のことだったんだ。あれからずっと、わたしとリョウの会話を聞いてたんだ……)

 だからここにいるんだ、幻覚じゃないんだと納得しても再会を喜ぶ気持ちは湧いて来なかった。知らないでいてくれて良かったのに。

「死なすなよ。おまえらにしか出来ねえんだ」

「ひろさん」

 千歳の声は震えているみたいだった。

「ごめん。俺がバカでした。帰ってきて下さい、お願いです。一生のお願いですから」

 下半身はすっかり痛みに痺れて、感覚がなくなっている。でも胸の奥がぎゅっとするのは分かった。千歳に手を握られているらしいのも。

「単位取って、実家のコンサル継ぐんでしょう? 夏には海に連れてってくれるって約束しましたよね。連れてって下さいよ、ひろさんも楽しみにしてたじゃないですか」

 そんなこと言ってた時もあったっけ。すごく昔のことのようだ。

「ねえ、ひろさんってば……」

 答えられずにいると、千歳は焦ったように早口になった。

「好きにすればいいなんて、あんな言葉がひろさんに言った最後だなんて嫌だ! 俺、ひろさんに言ってないことまだ沢山ある。してあげたいことも……絶対、ひろさん楽しませてあげるから」

 いつもの軽口、悪口ならもう充分なんですけど。

「死んだりしたら損ですよ。惜しくってきっと、見習いになっちゃいます。それでもいいんですか?」

(それは嫌かも……)

 何だかやけに現実に引き戻されてきた。遠くから聞こえてくる救急車のサイレンも騒々しくて、意識が徐々にはっきりしてくる。

「千歳、救急隊員を誘導してきて」

 轟に促されて、千歳は一瞬迷ったみたいだった。でも返事もせずに、すぐに駆け出していく足音が震動として身体に響いた。

「ひろさん」

 右の耳元で轟が話し出した。

「ひろさんのお母さんに聞きました。身体もモノも、死ぬ時はどうせ置いていくものだって言ったそうですね。でもひろさん、ひとつだけ持っていけるものがあります。持ってっちゃうものがあります。千歳の心ですよ」

(千歳の……)

 俺じゃダメなんですか、と言った千歳のつらそうな顔が浮かんだ。

「あいつの心を埋められるの、ひろさんしかいないんですよ。今ひろさんが死んだりしたら、千歳は誰にも埋められないその穴を一生抱えたまま生きていかなきゃならなくなります。そんな思いさせないで下さい」

「…………」

『だけど、残された人は死んでる人に許してもらおうと思っても、絶対返事をもらえないんだよね。死んでぼくに会うまで苦しまなくちゃならない』

 いつかの守護霊見習い、友紀の台詞が聞こえた気がした。

「ひろ、分かるな」

 それまで黙っていたリョウの、珍しく優しい声がする。

「おまえがおふくろさんやこいつらを大事に思うのと同じだ。こいつらだっておまえが大事なんだ。帰ってやれ、それはおまえの権利じゃねえ、義務だぞ」


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