… Sunday …
… Sunday …
「ひろさん、何か怒ってます……?」
あれからどれだけ呼び出そうとしても、絹さんは一向に姿を現そうとしなかった。いつもは噂話でもしようものならすぐに割り込んでくるのに、都合が悪い時は雲隠れだなんて勝手なものだ。ムカついたから、今朝は仏壇にお茶の代わりに絹さんの嫌いな牛乳を置いてきてやった。
そんなことを思い出していて自然にむっつりした顔になっていたのだろうか。話しかけられて我に返ると、ハンドルを握ったままの轟が心配そうにこちらを見ていた。
「ちょっと、運転中でしょー。危ないじゃん、前を見ててよ」
「……赤信号なんですけどー……」
眼を上げると前方の信号は確かに赤で、車は完全停止していた。
「青になって、後ろからクラクション鳴らされても知らないからっ」
「……すいません」
恥ずかしくなって無茶苦茶を言ったが、轟はおずおずと謝って律儀に信号を見つめ出した。
(可哀想に……)
と自分で思うくらいなら、言わなきゃいいんだけど。
こいつほど名前負けしてるヤツもそういるまい。その名前と真っ直ぐな心が広く轟きますようにと願ってつけられたという名は轟と書いて、ゴウと読む。音の響きからしてもがっちりと逞しく気難しいイメージが浮かぶがどっこい、心配性で温厚柔和、お人よしが実体を持ったような男だ。
良く見れば貴族的に繊細で端整な顔なのにそうと気付かせないのは、余計な飾り気が無いためか。それとも目尻が下がり気味の、困った犬みたいなあまりに優しそうな笑顔に気を取られるからか。線の柔らかい表情は、癒し系と言ってもいいと思う。
背はすらりと高いのだけれど、いつも他人を見下ろすのを申し訳なさそうにしているので忘れがちである。一人暮らしの大学生にしては肌艶も良くて健康優良児なのは、わたしよりよっぽどマメに自炊してるからだろう。さらさら揺れる髪のキューティクルなんて分けて欲しいくらいだ。
「ひろさん、轟をあまり緊張させないで下さいよ。こいつが車のいる道路に慣れてないって一番良く知ってるの、ひろさんでしょうが」
後部座席から千歳にのんびりなだめられた。
千歳というとやはり女性の名前という印象が強いらしく、ひろさんと名前を交換したいとよく言われる。でも轟と違って千歳の場合は意外と名前が性格と合っているから、慣れれば違和感はなかったりする。
背は平均身長にプラスアルファをつけてやるかどうかを迷う程度なのに、顔が小さく細身でバランスがいいせいで得している。モノトーンのすっきりした服装を心がけているみたいで、実際よりちょっと年上に見える。
時折、どうして千歳が轟とつるんでるのか不思議に思うことがあるほど、轟とはタイプの違う男である。東南アジア系に彫りの深い甘いマスクで人当たりが良く、バーの向こう側にいたら相談を聞いてもらった女性が一発で常連になってしまいそうなやつだ。実際バーテンダーのバイトをしているから、本人も自分の適性がわかっているらしい。
……その割にわたしには、ずけずけと言いたいことばかり言うのは何故だ。
「まあねー。あのド田舎じゃ、車よりカカシの方が多かったもんね」
春休みを利用した免許合宿は、冬場はスキー客で賑わうのであろう東北の山奥だった。オフシーズンもどうにかして収入を得たいロッジと、地元の客だけでは暇でしょうがない運転試験場が考え出したなかなか頭のいいやり方だと思う。
轟とはこの免許合宿で出会い、同じ大学の同じ学部であるとわかって意気投合した。ところが合宿が終わる寸前まで、轟はわたしを年上だと思っていたらしい。実は四月から同じ二年、しかも浪人してわたしより一歳年上のくせに轟が丁寧語を使うのは、最初の誤解でそうなったのが未だに続いているからだったりする。
だからって、轟のクラスメイトかつ同じアパート住人の千歳まで、そうする必要はないのだが……。
「そうですよー。歩行者は歩いてるし、原チャリはひっかけそうだし……ああっあそこ、蛙がつぶれてる」
赤信号で停車しているのに、轟は周囲確認を神経質に繰り返す。しなくてもいい確認までしてる気がするけど。
滅多に人も歩いていないような田舎道で実習した合宿参加者が都会に戻って運転すると、交通量と情報量の差にあたふたする羽目になるそうだ。轟ももれなくその一人らしい。
……ということは、わたしもか。
「そりゃ歩いてるから歩行者って言うんじゃないのー? 怖いならわたしが運転してあげる」
「やめてください」
リラックスさせてやろうと思って言っただけなのに……そんな、練習したみたいに揃って即答しなくても。しかも千歳はわざわざ後部座席から乗り出してくるし。いつもの愛想のいい笑顔も消えてるし。
「先週みたいなのは、勘弁して下さい」
先週もこのメンバーで買出しに行った。野菜や肉の小分けは割高だから買いたくない。かといって大きな単位にすると余って悪くしてしまうから、三等分してそれぞれ部屋に持って帰ることにしていた。
それにスーパーまでは歩いて二十分もかかるから、轟が車を出してくれると非常に助かる。車と言っても白の塗装が何やら黄ばんできている、クラッチのご機嫌取りが難しい古いアコードだが、無いより遥かにマシだ。
もともと轟と千歳がやっていた買出しに、二人と同じアパートへ引っ越してきたわたしが、その輪に加わらせてもらった形だ。
一人暮らしを始めて一年で引っ越す羽目になったのは、ずばり絹さんのせいである。
絹さんは、前のアパートの地縛霊のじいさんと折り合いが悪かった。ところがじいさんは、性格も霊力も強い絹さんに歯が立たない。結果、じいさんは迷惑なことに住人に八つ当たりを加えだしたのだ。
住人たちは頻発する怪現象を気味悪がっていたけれど、理由を説明したって信じてもらえなかっただろうし、話して不利になるのはわたしだから黙っておいた。仲裁に入っても双方聞く耳持たなかったので、引っ越すことに決めた。
怪現象を理由に退居を申し出るとおかしな噂が広まるのを恐れてか、大家さんは礼金を全額きれいに返してくれた。原因の一端はわたしにあるのに申し訳ないと思ったけれど、そこは知らぬが仏。当然、有難く受け取った。たまたま轟の住んでいるアパートの一部屋が空いていると聞きつけて、そこに転居したというわけだ。
合宿で培った運転の勘を忘れないうちに練習させてよ、ということで前回の買出しはわたしがこのアコードを運転させてもらったのだが……。
「あれはわたしの運転が下手とか、そういうんじゃないでしょー」
二人の勢いに押されながらも反論してみたが、彼らの眼はやめてくださいともう一度念を押してきた。
実を言うと、わたしの左耳はほとんど聞こえなかったりする。
受験勉強に必死だった高校三年のある日、授業中に突然聞こえなくなった。すぐ元に戻るだろうと思ったし、模試だ何だと慌しくて治療を先延ばしにしていたのが良くなかったらしい。ずいぶん経ってから耳鼻科へ行き、突発性難聴と診断された。早期治療を逃すと治る見込みはあまり望めないと知った時には、もう遅かった。治療を始めてもやっぱり聴力は回復せず、今でも時折耳鳴りに頭を抱えることがある。
けれど日常ではそんなに困らないから補聴器は使っていなくて、たまに響きを押さえるために耳栓をする程度。会話する相手にもこちらから言わない限り気付かれない。
先週、そんなわたしの運転で狭い駅前通りを抜けていると、どこからか救急車のサイレンが近付いてきた。
「えー? 前の交差点の右側からでしょ。わたしたち、関係ないんじゃないの」
なんて、わたしは前方を通り過ぎるはずの救急車をのほほんと待ち構えていた。ところが助手席の轟と後部座席の千歳は、やけに慌ててよけろと騒いでいる。するといきなりでかい声がした。
「そこのシロ、どきなさい」
シロと言われて絹さんが出て来たかと見回したら、真後ろに救急車がいた。気が付くと、周囲の車はとっくに左右に待避している。モーセが海を割ったように一般車が精一杯道を空けている中、わたしは拡声器を通して車の色で名指しされるまで、救急車がどの方角から来ているか聞き取れなかったのだ……。
(聴力云々じゃなくて、単なる注意散漫って言われればそうなんだけどさ)
「とにかく僕が運転しますから、ひろさんはそこに座ってて下さいね。お願いします」
言い含めるような口調で頼まれた。わたしは一体、何のために免許取ったんだろう。
「この、シートベルトの壊れてる助手席に?」
当てつけにバックルの留め具が効かなくなって締められないシートベルトをぶらぶらさせると、轟は文字通り身を縮めた。
「……すいません、早めに修理出しますね……」
とは言え、轟がこの車自体のローンであっぷあっぷなのは知っていた。いじめるのもこの位にしとかないと、また千歳に怒られるか……と思った時、その千歳が轟とわたしの間に頭を突っ込んできた。
「ひろさん、俺がそこ座りますよ。後ろでベルトしてれば安心でしょ」
「後ろ、嫌い」
即座に否定すると、千歳の頭は黙って引っ込んでいった。
別に後部座席そのものが嫌いなわけじゃない。前の席の会話が聞き取れないのが嫌なだけだ。後ろにいると誰だって、前の会話は聞き取りにくいものだと思う。そのうえ片耳の聴こえが悪いわたしとしては、前の会話に入れないのも嫌だし、会話に入れるようにと前の二人が声を大きくして気を使ってくれてしまうのはもっと嫌だ。
それをいちいち説明する気はなかったけれど、難聴のことを知っている二人は、わたしが助手席にこだわる理由を察している気配がした。こんな時、ごめんねと言うべきか、ありがとうと言うべきか、それとも黙ってくれてることに甘えて流してしまうのがいいのか。
迷ってふつりと黙っていると、千歳がその後部座席から思い出したような口調で言った。
「あ、轟。酒屋寄って」
どことなく気まずい雰囲気はたちまち弾けた。
「わー、ひょっとしてまた実験台にする気でいるだろ」
千歳のバイト先では毎月創作カクテルを出すらしく、月末が近くなると新しいのを考えて来いと店長が指令を出すそうだ。わたしと轟はその味見役……と言えば聞こえはいいが、実際はダメ出し役というか毒見役というか。
ま、ただ酒が飲めると思えばいっか。
「すいません僕、煙草吸ってきますね」
お酒のディスカウントショップの棚には、見たこともない洋酒がずらずらと居並んでいる。アルコールなんて飲めれば何でもいいタイプの轟は、ノンスモーカーの千歳の前では我慢している紫煙を求めて出て行こうとする。
「わたしもついてく。お酒わかんないし」
訳知り顔であれこれと酒瓶を手に取っている千歳を残して外に出る。朝は弱々しかった太陽が、昼も近付いてようやく元気になってきていた。駐車場まで取って返すと轟はドアを開けて、中のトレイを引っ張り出した。
「自分の車なんだから、堂々と中で吸えばいいのに……」
呆れていると、轟はへにゃりと目尻に笑い皺を作った。えくぼまで出来て、男の笑顔が可愛いなんて言ったら怒られるかもしれないが……可愛い。
「僕の車に一番良く乗るの、千歳なんですけど……部屋のヤニの匂いもダメらしくて、用がある時はいつも僕が千歳の部屋に行くんですね。だからせめて車はヤニ臭くしたくなくって」
(ホタル族予備軍というわけか……)
ふうんと言いながら風下を選んで煙草を吸っている轟の横顔を見ていたら、何だか無性に自分も欲しくなってきた。店に戻って、入口横の自販機にちゃりちゃりと小銭を入れる。轟に火を借りて煙を吸い込むと、肺にきゅんと喝が入った。
「うー、おいしい」
思わず唸っていると、それまで黙っていた轟が意を決したように口を開いた。
「あのう、ひろさん。禁煙したんでしたよね」
「二度と吸わないなんて言ってないじゃん。連続的に吸うのはやめただけ」
「はあ……」
何かまだ言いたそうにしている轟を睨んで黙らせた。
去年早朝バイトをしていた時、眠気覚ましに吸い出した。頭がすっきりするのはいいけど難聴につきものの耳鳴りが頻発するようになって、煙草もバイトもすぐにやめてしまった。ところが免許合宿の実技前にえらく緊張してしまい、紛らすために久しぶりに吸ったのを轟に目撃されたのだった。
「大丈夫、この一箱でやめるから」
禁煙に負ける人はみんなこう言うんだろうな。
「ずいぶん渋いの吸ってますね……」
ぴらっと掲げた箱を見て、轟は感心しているような顔をした。言われて自分の手の中を見るとそこにあったのは、群青色に飛ぶ金色の鳩……ピースだ。
「何これえ?」
もっと軽いのが好きだったはずなのに、いつの間にこんなの買ってたんだろ。
「何これって、自分で買ったんじゃないですか」
そうだけど、わたしはそんなに間抜けじゃない……つもりだ。カレーの牛肉も奮発というレベルなのに、何百円も出して買う嗜好品を間違えるなんて我ながら脳みそが心配になる。
しげしげと地味なパッケージを眺めてみた。
煙草の匂いには、パンやコーヒー以上に伝染力があると思う。けれど、急に吸いたくなったのがおかしい気がしてきた。轟が煙草を吸ってるのなんて今まで散々見てるのに、どうして今日に限って自分も吸いたくなったのか。
ひょっとして、と辺りを見回すと……いた。
『ひでえ車だな』
見習い野郎、陣がアコードの運転席に座っていた。窮屈そうに長い脚を折り畳んだハンドル下を覗き込んで、鋭角的な顔をしかめている。わたしは開いていた助手席側の窓から上半身を突っ込んだ。
『ちょっと!』
霊と話す時は、頭の中が基本だ。思考するのとは少し、使う脳みその位置が違う気がする。神社や寺に参拝する時、仏壇に手を合わせる時、大抵の人は自分自身に対するのとは違うところで相手に語りかけるのではないだろうか。霊とはその念じ方で会話するわけだ。
周囲に人がいない時は口に出して話すことが多いけれど、轟や千歳みたいに霊感のない人の前では念じるほうの会話をするようにしている。二人には怖がられそうなので、わたしには霊が見えることも絹さんのことも話していない。
『あんたでしょ、煙草を吸いたいのは!』
守護霊というのは一生面倒を見てくれると決まっているわけではない。ごくたまに交代が行われたりする。見習いがつくというのはわたしも初耳だったけれど……。
その交代があると、守護霊の嗜好に合わせて守られている側、つまり生きている人間の趣味まで変わったりするのだ。
『お。俺にも一本』
そう言って無造作に手を伸ばす陣から、ばっと箱を遠ざけた。
『わたしを通して吸わないでよ! 禁煙してんのよ!』
陣はたちまち不機嫌な顔になった。もともとチンピラかヤンキーみたいな雰囲気であるうえに、悔しいが顔立ちがいいから凄味がある。
『てめえ、コンタクトブレーカ焼くぞ』
何のこっちゃ、と思ってるのが顔に出たらしい。陣は呆れたように顎を落とすと、ふっとかき消えた。
(……あいつ一体、何を見習いに来たつもりなんだろ)
「あのー、ひろさん。シートに灰が落ちてるんですけど……」
「一分待ってて!」
ドアの外に二人を残し、慌てて仏壇の扉を閉めに行った。絹さんのために、コンパクトサイズで扉を閉めてしまえば一見それとは分からない現代的デザインの仏壇を置いてある。けれど一人暮らしの女子学生の部屋に仏壇があるというのも不審がられる気がして、誰かが部屋に入る時は必ず扉を閉めておくことにしていた。
今朝、絹さんへのささやかな意趣返しに供えておいた牛乳を流しに捨てて、仏壇の観音扉を閉じる。
(あいつら、干しっぱなしの下着を片付けてるとでも思ってるんだろうな)
実際干しっぱなしだったのが情けない。ピンチごとクローゼットに放り込んだ。
「いいよ。荷物分けといてー」
精算と食料品の山分けを二人に押し付ける。まあ、言わなくてもいつも轟が黙って進んでやってくれるのだが。
二人が狭いローテーブルを占領してビニール袋をがさがさ言わせているので、ラップトップを抱えてベッドに上がった。
「相変わらず片付いた部屋ですねえ」
褒めているつもりだろうが、轟の部屋が普通に乱れてるだけだと思う。
「っていうか、殺風景? 男らしいというか、モノが無い……」
しらっと余計なことを言う千歳に、投げるモノならあるぞ、ということをマウスパッドを飛ばして証明してやった。
「千歳、そこにライターあるから取ってよ」
指差したお菓子の空き缶を探ってから、千歳はすらりとした眉をひそめて怪訝そうに振り返った。
「ひろさん、煙草吸う人でしたっけ?」
その言葉で気が付くと、既に唇にくわえていた。陣はチェーンスモーカーだったのかも。早いところ見習いから卒業させないと、わたしの歯がまっ黄色になってしまう。
たまにね、と曖昧な返事をする。千歳に不快な思いをさせないよう、開けた窓際へとベッド上を移動した。
「ライターって……まさか、これですか」
千歳の手の中で、礼儀正しい直方体に施された模様が柔らかな銀色の光を放っている。
「うん、そう」
それと布団の上の煙草を交互に見比べたあと、千歳は大げさに溜息をついた。
「デュポンのライターにピースって……ひろさん、女の子って自覚あります?」
呆れ顔で言いながらも寄って来て、火を付けてくれる。
(こいつ、バーテンだけじゃなくてホストもできるな……)
最初の煙をふうと窓の外へ逃がした。
「別にデュポンが好きなわけじゃないけど。気に入ったって言ったら、くれた」
「あ、商社勤めの彼氏ですか? よく外車で迎えに来てた……」
アコードを愛する純朴な轟には、エクリプスの逆輸入車が外車に見えていたらしい。いや、左ハンドルだし外車と言えば外車だけど。
「正確には既に元カレ」
検索エンジンにコンタクトブレーカ、と入力している画面の向こうで、千歳がひょいと轟に掌を出すのが見えた。
「ひろさん、また一ヶ月もたなかったんですねー……」
恨めしそうな顔で呟く轟が、ジーンズの尻ポケットから財布を引っ張り出す。
「……ちょっと、あんたたち賭けてたの? わたしの交際期間で?」
「儲からせて頂きましたー。こんな男らしいひろさんが、チャラチャラしたブランド男と長続きするわけないと思ってました」
千円札をひらひらさせて、千歳は無邪気に喜んでいる。
(轟、今月のローンは大丈夫なんだろうか……)
いやいや心配してやる筋合いはないか、わたしをダシに賭けなんぞしてたんだから。
「あのさ、振られたのかもしれない人の前でそういうことするかなあ」
「あ……すいません。振られたんですか?」
答えを聞く前にわたわたと土下座体勢に入っている轟の横で、千歳は悠然とライターを眺めている。
「振ったんですよね? 普通、気の無い女の子に四万するライターなんかホイとあげないでしょ」
「四万!」
轟とハモってしまった。
「知らないで巻き上げたんですか」
巻き上げたって。
「知ってたらちょうだいなんて言わないって、そんなお高いもの」
「えー。売っ払ってメシ代にでもしようと思ったんじゃないんですかー」
にやにやしている千歳にピースの箱を投げつけた。
「へえー、四万……」
千歳から恐る恐るライターを受け取りながら、轟は目を丸くしている。男にしておくには勿体無いような長いまつげだ。轟がふたを指で弾くと、きんと澄んだ音がした。
「いい音ですね……あ、だから欲しがったんですねえ、ひろさん」
「……う」
レトリバーみたいに目尻の下がった笑顔を向けられると、嘘がつけない。顔が赤くなるのがわかって、慌てて外した視線をラップトップへ落とした。
わたしには、気に入った音がするものを集めてしまうという癖がある。免許合宿の記念にとか言いながら南部鉄風鈴なんぞを買い求めたわたしは、不思議そうな顔をする轟に仕方なくそう説明したことがあった。
それが片耳が不自由だからこそのこだわりと気付かれるのが嫌で、わたしは無理矢理話題を変えることにした。
「ねえ、コンタクトブレーカって知ってる?」
きょとんとしてから、二人は知りませんと口を揃えた。
検索結果からいくつか突付いてみたところ、コンタクトブレーカが焼けると車の電気系統が落ちてしまうらしいことがわかった。要するに、家にあるブレーカと同じだ。
『てめえ、コンタクトブレーカ焼くぞ』
あれは煙草を渡さなかったわたしの意地悪に対する、陣なりの仕返しの言葉だったわけだ。電気は霊気に反応しやすいだけに現実味があって、ちょっと怖くなる。
(だけど、たとえ見習いだとしても守護霊が守ってるその相手に悪さを働こうとするなんて、聞いたことないぞー……)
「そうだよね、あいつきっと車に詳しいんだ……ってことは」
(陣ってひょっとして、事故死だったりして……)
あのひねくれた態度、不機嫌な顔。成仏してても、ほんとは何か未練や心残りがあるのかもしれない。だから霊的に成長できなくて、絹さんが面倒見る……否、わたしに押し付けることになったのかも。
……陣の場合、もともとの性格にも大いに問題ありそうだけど。
自分の意見に自分で頷いていると、急に轟が頭を抱えた。
「あああ、ライターの話してたら計算が途中でわかんなくなっちゃいました……」
陣という名で二十五歳前後の男性の事故記事がないかニュースサイトを検索してみたら、意外とあっさり出てきた。
現場はここから車でも電車でも一時間程度で行ける、渡瀬橋。海沿いの緩やかなカーブで、半年ほど前の夜に起きた事故だった。陣の車は海側のガードレールを乗り越えるように転落、崖下で大破したらしい。陣は搬送先の病院で亡くなったそうだ。目撃者はいなかったが、スピードの出し過ぎでコントロールを失ったのだろうという警察の推測が添えられていた。
(やっぱり事故死なんだ……でも、それが無念ならそもそも成仏しないんじゃないの?)
他に記録はなさそうだし、あまり噂していて陣本人が出て来るのもややこしいので、さっさとブラウザを閉じた。
眼を上げると、キッチンで轟が何やら手際よく炒めている。ファミレスの厨房でバイトしているだけあって、落ち着いたフライパンさばきだ。エプロン姿が浮いていない。背が高くてどことなく日本人離れしたような綺麗な顔をしているから、主夫というよりシェフと呼びたくなる。
「いよっ轟! いいお嫁さんになれるよー」
「それが年頃の女の子の台詞ですか、ひろさん」
テーブルで電卓を叩いていた千歳が呆れて首を振る。どうやら計算は千歳が引き継いだらしい。
「千歳の周りにいるのが女の子らしすぎるだけでしょ。通い妻なんてすっごく可愛いし。あの子、アイドルに似てるよね、ほら」
挙げたアイドルの名前を聞いて、それまで忙しかった轟のフライ返しがぴたっと止まったのに気付いた。
(しまった地雷踏んだか……)
気にしてないかのように、千歳は呑気にぽん、と電卓を弾いた。
「はい、お一人様千五百三十円になりまーす。……ひろさん、その子最近来なくなっちゃって」
千歳はシャープな顎に手を添えて、不思議そうに首をひねる。通っても彼女として扱ってもらえずに諦めるんだって、いい加減教えてやった方が世の女の子のためかも。
「また乗り換えたの?」
「いや乗り換えたも何も、別にもともと彼女じゃないですし。メシ作ってくれたりしたけど、俺は付き合ってたつもりはないんで、通い妻ってわけじゃ……」
千歳にとっては女友達なんだろうけど、こうやって優しくされて結局泣いた女の子が何人いるんだ……。
「かわいそー。千歳、誰にでも愛想良くするから……で、今はどんな通い妻なの?」
「年上のOLですよ。でも俺は付き合ってるつもりは……」
それを聞いて、フライパンから何か美味しそうな匂いのするものを皿に移していた轟が苦い顔をした。
「年上ね! ありがと、千歳」
「え?」
はあ、と溜息をつきながら、轟は再び尻ポケットから財布を引っ張り出す。受け取った千円を、千歳の黒目がちな目の前でひらひら振ってやった。
「儲からせて頂きましたー」
「ああっ? ひろさん、俺の通い妻で賭けてたんですかっ!」
通い妻って認めてるし。
「ジュースみたいー。アルコールの味がしなーい!」
お昼ごはんからそのまま、千歳の創作カクテル試飲大会に突入した。
「だって女性向けのカクテルなんですから、あまり強いのは……轟、おまえはどうよ」
「僕はビールか焼酎しかわかんないってー」
千歳は夏に向けてライチやらキウイやら、トロピカル系のリキュールを使ったカクテルを次々作っては感想を聞いてくる。数杯めで辟易したわたしはごそごそとキッチンへ向かった。
「大体ねえ、千歳。何度も言ってるけど、わたしたちに味見させるのが間違ってるんだってば」
「そうだー。通い妻に聞けー」
ほろ酔いで絡む轟をなだめながら、千歳は困った顔をした。
「同じアパートだから、潰れても部屋まで引きずっていけば済むじゃないですか。ひろさんはザルだからいくらでも飲んでみてもらえるし、一応女性だし」
「一応って何よ」
しょうゆやみりんのボトルを掻き分けて、アマレット・ディサローノを召喚する。
「はい、駆け出しバーテンダー。ロックでね」
「なのにひろさん、結局これしか飲まないんだもんなあ……」
四角い瓶を突き出すと、千歳はおとなしくそれを受け取ってロックにしてくれた。
「アマレットだって色んなカクテルになるんですよ? ウーロン茶で割るだけでイタリアン・アイスティーってカクテルに……」
「あほか! 薄めてどうすんの! 何のために安くてアルコール度が高いお酒選んでると思ってる? しかもよりによってウーロンなんて犯罪よ犯罪!」
夕方からバイトなんだからおまえはこれで一休みね、と千歳からその犯罪的液体を受け取っていた轟は複雑な表情をした。
「コニャックなら許す! ポパイ刑事かっこいい……」
ジーン・ハックマンの勇姿を思い出してほれぼれしていると、千歳はそれが映画にちなんだカクテルだと思い出したようだ。
「フレンチ・コネクション? まさかひろさん、ブランド男の前でそんなもの頼んだんじゃ……」
何がいけないのかと唇を尖らすと、千歳は首を横に振った。
「あれって、俺たちが生まれる前の映画ですよ……お願いですからひろさん、煙草といい酒といい、もうちょっとはたちの女の子らしいもの選びましょうよ。それから男の前では酒に弱い振りくらいしなくちゃ」
千歳は窓際でアマレットとピースを交互に口に運ぶわたしを見て呆れている。何か投げてやるものはないかと見回すと、千歳は慌てて確信的な甘い笑顔を作った。
「いえいえ、経済性とアルコール度数とミーハー根性で酒を選ぶ、俺はそんなひろさんが大好きでーす!」
どっちにしろ、枕は飛んでいく運命だった。




