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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い三号 ―絹―
19/39

… Thursday …

 俺が連れてたのがじーさんの孫娘だと、あのハゲが気付いたとは思わない。だがバレるのは時間の問題だ。外出する時は、なるべく人目のあるところにしろ。アツに必ず尾行させるが、念のためこれを持ってろ、と言われて小さな耳栓を渡された。

「マイクが入ってる。髪で隠しときゃまず気付かれねえし、着替えたりしても付け替えなくていいから楽だろ。おまえ、左耳は得意じゃねえみたいだから気にならねえだろ」

 左耳の難聴を指して、得意じゃないと言ったらしかった。鍵屋なりにソフトな言い方をしたんだな、とちょっと微笑ましかった。

「こんなに小さいのにすごいねー」

 感心していたらアッシュグレイの眉の下の、賢そうな瞳がげんなりした。

「おまえ、スパイ映画はSFの世界だと思ってんのか? トイレに行く時は外せよ、忘れたらアツを喜ばすだけだぞ」

 ……盗聴器仕掛けついでにわたしの下着を盗もうとしたヤツだ、大喜びするだろう。忘れないようにしなくちゃと心に刻んだ。

 バイオレンスな男とやりあった後、医者で左の耳たぶの裂傷を縫ってもらった。家まで送ってくれた鍵屋は、マイク内蔵の耳栓をわたしの掌に落としながら真剣な顔をした。

「すまねえな」

 鍵屋が謝ることじゃないような気がした。

「ねえ、鍵屋……」

「あのな、俺はそりゃ鍵屋だけどな、それが名前じゃねえんだ。リョウって呼んどけ」

 今まで名乗らなかったのは誰だ。

「リョウ、全部終わったら飲みに行こうよ」

 そんなことを言い出すとは思ってなかったらしい。きょとんとした後、鍵屋……もとい、リョウはにっと楽しそうに唇の端を持ち上げた。その弾みに殴られて切れたところが痛んだみたいで、いてて、と頬をさすっていた。

「そうだな。おにーさんがいくらでもおごってやるぞ」

 いつの間にか仲間意識が芽生えていることに気付く。信用ならないなんて思ってたのに、もうリョウの言葉を疑う気はなくなっていた。

「言っとくけど結構飲むと思うよ、わたし」

「おお、こえー。俺を破産させんなよ」

 リョウはわざとらしく怖がってみせた。

 昨晩の轟と千歳はバイトだったらしく、夕飯のお誘いはなかった。でもさすがに、今日の朝食に誘われると断る理由が思い付かない。ドアを開けた千歳は、わたしの左耳の大きなガーゼを見て絶句した。

「あ、気にしないで。ちょっと引っ掛けちゃっただけなんだ」

「ちょっと引っ掛けただけで、こんなことになりますか!」

 朝一番で怒らないで欲しい……。

「引っ掛けたって……ピアスですか? ひろさんが昨日してたのって、キャッチタイプですよね。引っ掛けるような形じゃなかったと思いますけど」

(うっ、そんなとこ見てたのか……)

 千歳の剣幕に、しゃもじを持った轟があたふたと姿を見せる。

「千歳、まず上がってもらわないと。ひろさん、おはようございます」

 言葉に詰まっているわたしを、轟が千歳の肩を叩いて助け出してくれた。でも、ダイニングに座るや否や千歳の質問攻めが再開される。

「縫ったんですか。縫ったんですね? どうやったらそんな怪我になるんですか!」

 怒らないでってば。

「えっと、弾みっていうか何て言うか」

 口ごもっていると、千歳はずいと上半身をこちらへ屈めてきた。目が怖いってば。

「まさかと思いますけど……あいつにやられたんですか」

 あいつって……リョウのことか。

(違うって言ったら、じゃあ誰だって聞かれるんだろうな。見ず知らずの不良にからまれたとか答えたら、それはそれで心配させるし……)

 どう答えようかと考えていた沈黙を、千歳は無言のイエスと受け取ったらしい。

「あの野郎……」

 千歳……顔が怖いんですが。彫りが深いと影になる部分が多くて余計怖い、なんてどうでもいい発見をする。

「彼は悪くないから! ほんとに悪い人じゃないの、怒んないで」

 千歳もキッチンで話を聞いていた轟も、不服そうに唇を曲げた。



「気にしないでってば。どうせ、左は要らない耳なんだし」

 場を明るくしようと思って笑顔を作ったのに、轟は泣きそうな声を出した。

「そんなこと言わないで下さい、ひろさん。鍼治療で回復する人もいますし、聞こえないからってそんな言い方……」

「分かった、ごめんごめん、ごめんなさい」

 我ながら、自虐的すぎる冗談だったかもしれない。轟に哀しそうな顔をさせるのはいたたまれないので、謝り倒す。

「手伝うね、これ運べばいい?」

 だし巻き卵を持ってキッチンから戻ると、千歳はまだ憤然と腕を組んでいた。どうにか機嫌をとらなきゃいけないんだろうな。

「要らないんなら、下さい」

「は?」

 どうしようか、と考える前にそんなことを言われた。

「ひろさんの左耳。要らないなら、俺に下さい」

 意味不明だけど……あげると言ったら、機嫌良くなってくれるかもしれない。

「いいけど。もらってどうすんの」

 千歳は立ち上がった。ひょいと屈んできて、左の耳元に顔を寄せる。息がかかったみたいにちょっと温かくなったから、何事か呟いたみたいだ。今日は比較的マシとはいえ、相変わらず耳鳴りの続く耳では全く聞き取れなかった。

「ごめん、何て言ったの?」

 聞くと、知らんふりされた。

「俺が俺の耳に何を言ったっていいじゃないですか」

(くそ……またいつもみたいに、ムカつくことしゃべったんだろうな)

 とはいえ、あげると言ってしまった以上、文句をつけるのも憚られる。

「ところで、昨日は発作、大丈夫でした?」

 ご飯を頂いていると、轟がさり気なく聞いてきた。しまったと思ったのは、隠す間もなく読み取られていたらしい。

「昨日もだったんですね……」

(うわあ、また心配させてる……)

 細くて優しい線を描く轟の綺麗な顔を曇らせるのは、美形に対する犯罪のような気がする。

「あれはね、あの……おじいちゃんだったみたいなの」

 これくらいなら話しても大丈夫だろう。心配してくれてるのに、耳の怪我も発作も理由を隠すのは胸が痛む。

 それにしても突飛な台詞だったらしい。二人は箸を止めて、目を丸くしている。

「ほら、絹さんが墓参りしろって騒いでるって言ったでしょ。おじいちゃん、その……窒息死したみたいなの」

 朝ご飯にふさわしくない話題で申し訳ない。

「おじいちゃんの話題になると発作が起きてたし、今まで何ともなかったのに急に立て続けに発作が起きるなんて不自然じゃない? おじいちゃんが、苦しい思いをしたってことを訴えたいんじゃないかと思うんだけど」

 轟も千歳も箸を泳がせたまま、悼むような気味悪そうな居心地悪そうな、複雑な顔をする。わたしの近くにいる以上、いい加減に霊の話に慣れてきても良さそうなものだ。でもさすがに、窒息死した男性の霊なんて気持ち悪いか。

「そのうちちゃんと供養する。だから、おじいちゃんも体調も心配しないで。おじいちゃんの話はこれっきりね、またあんな状態になったら嫌だもん」

(おっ、うまくこの話を終わりにさせたぞ)

 霊の話から離れたいのか、二人は強く頷くと急いで別の話題を切り出した。



「よう、ひろ。寿司がいいか? それとも焼肉か?」

 国際会計論の若い教授が長信銀の粉飾決算を例にアカウンタビリティについて熱い弁論を繰り広げる、苦痛の四限が終わった。轟や千歳と連れ立って教室を出た途端、待ち構えていたらしいリョウが呑気な大声を上げる。今日はレゲエなTシャツだ。

「お好み焼きがいい」

 思わず本音を言うと、リョウはよっしゃ、と笑って早速歩き出した。

「轟、千歳、また明日……」

「待てよ」

 二人に挨拶をしようとしたら、言い終わる前に千歳がリョウの腕を掴んでいた。怒っているみたいだ。リョウは千歳の勢いに動じる気配もなく、眉を上げてみせただけだった。

「ひろさんの怪我、説明しろよ」

(あっ……千歳はリョウがやったと思ってるんだ)

 リョウのせいじゃないんだと言おうとしたら、そのリョウに黙ってろと目で制された。

「ああ、わりいわりい。ついカッとしちまってな」

 まるで自分がやったかのような発言をする。とぼけたリョウの口調に、千歳の怒気が一段と濃くなった。轟も珍しく、止めに入る気配を見せずにいる。

「ふざけんな! 女の子に怪我させて、よく平気なツラ出来るな」

「うるせえな。ひろがいいって言ってんだから、いいじゃねえか」

 千歳は責めるような、鋭い視線を向けてきた。わたしのために怒ってくれてるのに申し訳ないけれど、ここはリョウが言ってくれてるのに合わせることにする。

「ほんとに事故みたいなものなの。気にしてくれてありがと。大丈夫だから」

「ひろさん、何で……」

 悔しそうに低い声で呟いてから、千歳は渋々リョウの腕を放した。俯く千歳の傍らに立った轟が、行って下さい、と手振りで促す。

「千歳、ごめん……」

 目からゆっくり顔を上げた千歳はふと近付いてきて、朝やったみたいにわたしの左耳に口を寄せた。また何か言われたけど、今度も聞こえなかった。バカ、とか何とか言ったに違いない。

 リョウの車に乗った後も、千歳の怒ったように俯く横顔が消えなかった。ごめん、ともう一度口の中だけで繰り返す。

「いやー、青春だね」

 のんびりしたリョウの台詞も気分を明るくしてはくれず、溜息をついた。

「竹原について、何か分かった?」

 気を逸らすために、本題を切り出す。

「ヤツの会社は経営が危ないみてえだな。じーさんの行方が分からなくてずっと開けられずにいた貸金庫を、今になってこじ開けようってんだ。理由は恐らく資金難だ」

 車は夕焼けの中を軽快に走っていく。どこへ行くの、と聞く気も起きなかった。

「金庫には耐火と防盗の二種類がある、って知ってるか。防盗金庫は火事には弱い、耐火金庫は盗難に弱い。貸し金庫は勿論、両方の耐性を兼ね備えてなきゃ話にならんな」

 そりゃ、何に対しても強い方がいいに決まってる。

「ところが耐火金庫ってもんには、実は寿命がある。防火作用を持つ気泡コンクリートの水分が、年月と共に気化して抜けるからだ。日セフ連が耐火金庫の有効耐用年数は二十年ってことを業界決定事項にしたのは平成に入ってからだが、要するに金庫の耐火性は二十年だ。だから二十年経ったら、金庫を替えなくちゃならない」

 日セフ連ってのは日本セーフ・ファニチュア協同組合連合会、金庫を含めたオフィス家具の事業連合会な、と説明される。

「あ……じゃあ、おじいちゃんの作った金庫は、ちょうど作り替える時期が来たんだ。竹原にはその資金がないのね。銀行に借りようとしても、事業内容に透明性がなさそうだから貸してもらえないだろうな」

 でも、だからって金庫を替えずにいてもし火事に遭ったら、そんな古くて危ない金庫に預けたままにする顧客はいないだろう。おじいちゃんがいた時は自社内で開発出来た金庫も、外注するとなると莫大なお金がかかるんだろうし。

「そうだろうな。竹原は信用と秘匿性を保つために、どうにかして自分で資金調達する必要がある。そこで、もしかしたらじーさんが借りっぱなしの金庫の中に、横領資産が残っていないか賭けてみることにした」

「そこで自分が竹原ということを隠して、バイオレンスにおじいちゃんの行方を再度捜索させる。一方で、無理矢理に鍵を開けられないかと鍵屋を雇ったわけね」



「そうだ。俺も意気込んで設計図から解錠法を見つけ出そうとしたわけだが……正直に言うと、不可能だ。だからって引き下がれるか? で、正攻法でじーさんの口腔細胞を手に入れようと考えた。じーさんちはとっくに処分されて更地になっちまってたが、失踪者が最後に頼るのは血縁者だ。いくら金があって豪勢に暮らしててもな、息子や孫の顔が見たくなるのが人情ってもんだ」

 それで、実家やわたしの部屋に盗聴器を仕掛けたのか。アツは盗聴器を仕込みに来たついでに、下着もちゃっかり盗んでいこうとしたわけだ。

「ところが、だ。どういうわけか、じーさんの行方を追ってるバイオレンスなヤツらが血縁者をあたってる気配がねえ。考えてみりゃ当然だな、息子夫婦には依頼人、つまり竹原自身が何度も、連絡一つねえことを確認してる」

 だから、昨日のスキンヘッドはわたしがおじいちゃんの孫娘だと気付かなかったんだ。依頼人である竹原に、調べる必要はないって言われていたから。

「でも……でも、リョウはわたしが鍵を持ってるって……」

 会ったこともないおじいちゃんの口腔細胞なんて、持ってるわけないんだけど。

「銀行口座なんかじゃよくあるだろー」

 膝でハンドルを押さえながら煙草に火を付けている。十時十分を握り続ける轟の運転に慣れてると、ちょっと不安になるぞ。

「将来のために子供名義の預金口座を開設して、そこに貯金してやるってやつ。金庫も同じだ。貴金属や現金や株券を収めた金庫の鍵を、相続人に渡す」

 そう言うリョウの切れ長な鋭い瞳は、真っ直ぐわたしを見ていた。

「渡されてないってば!」

「その遺産が莫大であればあるほど、相続人は危険に晒される。中身がヤバいもんだったらなおさらだな、例えば横領資産とかさ」

 そこで面白そうに笑うな。全然、面白くない場面だと思う。

「で、じーさんは考えるわけだ。周囲には鍵はじーさんが持っていると思わせておいて、本人が知らないうちに鍵を渡しちまえば、資産を欲しがるヤツらに相続人が狙われる危険性は低くなる」

「おじいちゃんの遺品なんて何も持ってない! 会ったこともない!」

「ところでさ」

 こいつはわたしの言葉が聞こえていないんだろうか……。

「おまえ、ガタカって映画見たことあるか?」

 いきなり話題が変わって、頭を切り替えるのがやっとだ。わたしはそれが、近未来を描いたSFだったことを思い出す。

「うん、イーサン・ホークのでしょ。劣性遺伝子を持った主人公が宇宙飛行士になりたいがために、優秀な遺伝子を持った人の血液を指先に仕込んで……あ、あれってバイオメトリクス認証なんだ!」

 その宇宙開発の会社に出社する時は指先の血液から瞬時に遺伝子を読み取られ、それが優秀な遺伝子とされるものでなければ通過出来ないようになっていたはずだ。

「話が早くて、おにーさん楽だよ。じゃ、あの男が検問に引っかかった時にどうやって切り抜けたか覚えてるか?」

 んっと、ユマ・サーマンと車に乗っていた時だ。遺伝子採取に近付いてきた警官に対して、イーサン・ホークは「他人のものが混じっているから」代わりに血液を使えと言い出した。あれは、キスしたらお互いの口腔細胞が口の中で混ざってしまうからだったんだ。

「分かったか? 口腔細胞は唾液にも混ざってるから、唇が触れたとこからも採取出来ちゃったりする。例えばこんなとこだな」

 リョウは、吸っていた煙草のフィルター部分をわたしの目の前でぶらぶらさせた。

「あるいは、歯ブラシやコップ」

 言われて、最近それがどこかで話題になったような気がした。そうだ、ビニール袋に入れられて封をされた、わたしの歯ブラシとコップ。

「あ……ああっ! アツって、あの歯ブラシが泥棒に入った目的だったの!? 歯ブラシからわたしの口腔細胞を盗むために?」

「当たり」

 歯ブラシ収集癖があるわけじゃなかった。変態じゃなかったんだ。

(いやいやでも、ついでに下着を盗もうとしたんだから、やっぱり変態よね)

「なのに、いきなりひろが帰って来たもんだから慌てて置いてきちまってさー。色男優男が泊まり込んでガードするし、俺の依頼人はどうも怪しいし、こりゃひろに協力させた方が良さそうだと踏んだわけだ」

 あの時、素直に口腔細胞を盗まれてた方が平和でいられたような気もするけれど。

「その流れでいくとリョウはわたしのDNAが鍵になってると言いたげだけど、じゃあおじいちゃんはどうやってわたしの……」

 わたしの口腔細胞を手に入れたのよ、と言いかけて黙った。気配を察したのか、リョウは満足げに何度も頷いている。

「気付いたか? 俺もそう思った。あれは、おまえのじーちゃんの仕業だ」

『そうそう、うちも泥棒に入られたことあるのよ。おじいちゃんのいなくなった夜だったんだけど』

 万智子さんの電話越しの声が蘇る。

『何か盗まれたの?』

『紘のおしゃぶり』



「おふくろさんは、救急箱も荒らされたって言ってたな? 恐らく、じーさんは最初は穏便に救急箱にあった綿棒でおまえの口腔細胞を採取しようとした。だが、おしゃぶりを取った途端に大泣きを始められて、おふくろさんが目を覚ましそうになる。慌てて逃げようとした時、おしゃぶりからも口腔細胞が取れることに気付いて、それをそのまま持って行った」

 万智子さんが言ったおかしな泥棒のおかしな盗品は、そう考えるとものすごく納得出来てしまう。

「ねえでも、どうしておじいちゃんはわたしに遺産を渡そうなんて思ったの」

 リョウがわたしの口腔細胞を盗もうとしていた理由、わたしが鍵を持っていると言っていた理由がようやく分かった。鍵はわたしの口の中にあるのだ。

 その鍵は今、お好み焼きにまみれているわけだが。

「孫に資産を……まあ資産と言っても横領した他人のモンだけどな、遺してやりてえなんてことを考えていた……ってのは、どうにもおかしな筋書きだ。じーさんと竹原はプライベートバンクを立ち上げて、まさに富を築こうとしてたところだったんだ。じーさんがひろを鍵にしたんじゃねえかってことは推測出来たんだが、理由は俺にも分からねえ。ただ」

 リョウはお好み焼きの上に呆れるほどのマヨネーズの塊を落としている。エプロンがけのおばちゃんが切り盛りする、油の匂いがしみついたこの古いお好み焼き屋で、かつて遺伝子と銀行の話をした客がいただろうか……。

「ぴったりすぎるだろと思うことがある。単純横領罪の時効だ」

 また小難しい話をする気か、とついつい溜息をついたら鰹節が吹き飛んできた。そのうち、フェミニストの意味を教えてやらねば。

「公訴時効は三年から五年だから、とっくに刑事責任を問われることはなくなってる。だが、民法だと?」

 知るかー、と青海苔を吹き飛ばし返す。

「おまえな、こんなの宅建試験に出て来るぞ。コンサルやりてえなら勉強しとけよ、取得時効の話だ。それが善意無過失の場合の時効は十年。悪意の場合は二十年だ」

 二十年、ともはや聞きなれた単位にぎくりとした。

「真の権利者の請求があれば取得時効は中断するが、思い出せ。旧財閥資本家の顧客が横領されたのは、表に出来ねえ隠匿資産だ。被害として警察に届けられたのはわずか数百万円分の貴金属だ、今更ガッポリ出て来たところで、真の権利者だと名乗り出られるわけがねえ。つまりだ。じーさんの横領した資産は、二十年で法的にじーさんのもんに出来るってことだ」

「竹原が二十年経っておじいちゃんの貸金庫に目をつけたのは、それが横領資産じゃなくて正式におじいちゃんの資産として回収出来るから……」

 だな、と軽く同意して、リョウはお好み焼きの大きな一切れを口へ放り込んだ。

「じーさんは二十年間、金庫を開けるつもりはなかったのかもしれねえな。だとしたら、横領した資産を持ち逃げするんじゃなくて、貸金庫に移し変える意味もあるわけだ。二十年経ったら、自分のものになった資産を堂々と金庫を開けて取りに来れるんだからな」

「だから、顧客を連れて来たのね」

 リョウは怪訝な顔をした。

「おじいちゃんが横領を働く時に、口腔細胞だけを盗めばいいのに、わざわざ顧客を金庫まで連れてった理由。だって顧客たちや竹原に、虹彩が実は関係なくて口腔細胞だけで鍵が開いてしまうことがバレてしまったら、おじいちゃんの移し変えた資産も危ないじゃない。煙草や歯ブラシ一本で開けられると知られてしまう」

「ああ、そうか。とにかく本人が捕まりさえしないように逃げ続ければ、じーさんの金庫は安全ってことか……しかも逃げ続けて金庫の鍵の秘密を自白させられない限り、ひろは安全だ」

 納得して割り箸を振り振り、リョウは明るい笑顔を見せた。こうしてると、本当にただのかっこいいお兄さんなんだけどな。

「ひろ、おまえ俺の相棒にならねえか? アツより使えそうだ……おっと、この会話、アツも聞いてるんだったな」

 わたしの耳栓を指差して肩をすくめるリョウの口調は、あまりにもわざとらしい。

「変態は変態同士で仕事してて下さい」

「つれねえなあ……」

 さり気なく、変態同士だと認めたような気がするんですが?

 何の話してたんだっけ、と話を戻そうとしてふと、ある可能性が頭をよぎった。

「逃げ続ける限り、安全……」

 わたしが考え込んだのを見て、リョウも真面目な顔になる。意見を待ってくれるのは、頼りにされてるみたいで嬉しかった。

「おじいちゃんは、金庫の最高級の技術者だったんでしょ。自分の作った金庫には、絶対の自信があったと思う。もしそのおじいちゃんが完璧に行方をくらまそうとしたら、どこを選ぶと思う?」

 リョウは二、三度瞬きをしてから、箸を置く。わたしの考えてることが分かったみたいで、一段と厳しい目をした。

「おまえが、じーさんがいるって言った場所か」

「うん。金庫の中」



「じーさんは、一生遊んで暮らせるカネを前にして金庫に閉じこもったってのか?」

 ……おかしいよね。

「じゃあ、横領されたって財閥資本家のほうが犯人だったんじゃない? そうしたら虹彩は関係ないってこと知らないんだから、本人が横領の現場にいたのも納得でしょ。で、おじいちゃんを脅してわたしのDNAを鍵にした金庫に隠匿資産を移す。ついでに、おじいちゃんに遺産は資本家に寄付しますって遺書を書かせる。二十年経ったら、資本家は隠匿資産を合法的に持てる」

「資産家が赤の他人のおまえのDNAを選ぶ理由がイマイチだな。しかもクソバカ高い贈与税を払ってまでか? それならまだ、じーさんが自発的に金庫に入ったって方がすんなりだ」

 先生、厳しいよ。

「じーさんが自決してまで、客の資産を横領したかった理由があるのか?」

「おじいちゃんが欲しかったのは、お金じゃないってこと?」

 その時、聞き慣れない着信音がした。テーブルの端でリョウの携帯がちかちかと着信を知らせている。

「アツか。どうだった」

 調査で何か分かったのだろうか、不敵さがリョウの唇に浮かんだ。

「竹原は押さえようとしてるぞ、じーさんの貸金庫の動産引渡請求権」

 もう疑わなくてもいいらしい。リョウの依頼人、すなわちおじいちゃんの貸金庫を開けようとしてるのは竹原なんだ。万智子さんにはお父上の生存を信じてないのかと言っときながら、借金のカタに金庫の中身を取り上げるなんて。おじいちゃんの横領事件を、本当は根に持ってるのかもしれない。

 携帯を置いたリョウは再び箸を手にお好み焼きを突付くが、食べようとしているんじゃないみたいだ。その切れ端を奪って食べてやったら、箸で鼻をつままれそうになった。

「おまえなー、女なんだから焼きましょうかーとか、ビールお代わり要りませんかーとか聞け」

「千歳みたいなこと言わないでよ」

 ああ、忘れてたのに。怒ったまま俯いてた千歳の横顔がまた気になってきちゃったじゃないか。帰ったら、いっぱい謝っておかなくちゃ。

「リョウ、早く終わらせたいよ……」

「しょんぼりすんのか食うのかどっちかにしろ」

 だって。

「泣くな。俺が泣かしてるみてえだろ」

 だって。

「轟だったら黙って肩貸してくれるのにっ」

「当たるなよなー」

 あの二人と違って、リョウには慰めようって気がないらしい。何だか泣くのが虚しくなってきた。これがリョウのやり方なのかもしれない。

「もういい。おばちゃん、ビール! 中ジョッキ!」

「飲むのかよ!」

 呆れつつもリョウは笑っている。煙草のお尻をくわえて箱から引っ張り出したのに、火をつける気配は見せずにぶらぶらと唇の端っこで弄んでいた。

「明日、突っ込むか」

「え?」

 運ばれてきたジョッキの向こうでリョウは笑顔だったけど、その目はいつか見たように冷たく冴えていた。

「色男優男に嘘つくの、もう嫌になってんだろ」

「…………」

 また涙が出て来そうになった。

「二十年ぶりの金庫ご開帳だ。シャンパンでも持ってくか?」

「……おじいちゃんの遺体の前で乾杯すんの?」

 リョウは目を丸くする。

「ダメか?」

 ダメでしょ。


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