… Wednesday …
… Wednesday …
「おーっす、ひろ。デートの迎えに来てやったぞ」
鍵屋は千歳の部屋にも盗聴器を仕掛けているのだろうか。轟が奮発してきてくれたらしいみりん干しがおかずの朝食を平らげたところで、鍵屋はタイミングよく一〇三号室に現れた。
と言っても今日は作業着ではない。サイケなシャツに古そうなジーンズだが、不思議と似合っている。こうしてみると業界の人か何かみたいなのだが、中身はそんな可愛いものではない。
(デートって……)
命を懸けさせられる家庭教師、と言った方が合っているような気がするのだけれど。
振り返ると、轟も千歳もぽかんとした顔をしていた。
「何でこんなとこまで来るのよ!」
「おっ、元気みたいじゃねえか。ひろが元気だと、おにーさん嬉しいよ」
「……誰がおにーさんなのよ」
講義のない水曜日、せっかく和みながらの朝ごはんだったのに。鍵屋の登場を待ってはいたけれど、何もこんなタイミングで来なくてもいいのに。
でも立場が弱いのはこっちだ。出直して来いと追い返すわけにもいかず、急いで自分の食器を片付けた。
「ごめんね、二人とも。出掛けてくる」
「あの、ひろさん。一緒に出掛けるなら具合悪くなるかもしれないこと、ちゃんと鍵屋さんに話しておいて下さいね」
轟は発作のことを心配してくれているらしい。うんと頷いておいたが、鍵屋は恐らくとっくに承知しているだろう。何せ盗聴してるんだから。
千歳も何か言いたそうな、不安げな顔をしていた。
「大丈夫、ひどかったら病院連れて行ってもらうから。じゃ、行ってきまーす」
ドアを閉めると、鍵屋は煙草をくわえながらにやにやしていた。
「あの色男」
……どっちのことだろう。
「俺のこと、すげー睨んでたぞ」
「千歳? 心配してくれてるのは分かるんだけど、いつも怒るの」
ふーん、と鍵屋は面白そうに煙草を揺らした。ひょっとして興味あったりするんだろうか……。
表に停めてあったのは白いワンボックスじゃなくて、スカイブルーのワゴンだった。わナンバーということはレンタカーだ。
「相棒は? 名前、アツだっけ」
紺色が好きらしい長髪男の姿が見えないので聞いてみる。
「あいつ、今日は調査担当。俺たちは現地に行くぞ」
「現地って?」
何だか落ち着かないと思ったら、アコードじゃない車の助手席に座るのは久しぶりだということに気付く。そういえば、轟や千歳以外の男と二人で出掛けるのも久しぶりかもしれない。合コンで出会いはあるのにどうもピンと来ないのは、あの二人とつい比べてしまうからかも。
「現地っつったら一つしかねーだろ。じーさんの貸金庫見学だ」
「じーさんのと言ったが実際は、じーさんが失踪した後に事業を引き継いだ竹原の貸金庫だ。二十三年前にじーさんがひいじーさんの金庫業を継いだ時、竹原を副社長に迎え入れた。金庫道一筋だったじーさんと違って、ビジネスの才能があったらしいな。じーさんはいわば技術者で、経営は竹原が担当した」
鍵屋は高速に乗ると、合流ゾーンからいきなり追越車線まで突っ切って話し出した。
「ひょっとしてその竹原さんが、おじいちゃんが借金してたっていう共同経営者?」
「そう。それについてはひとまず置いとくぞ」
確か、おじいちゃんが生きていると信じて借金の返済を待ってくれている人だ。
「竹原は、世界最高水準の貸金庫を売りにプライベートバンクを設立しようとした。何しろ貸金庫で財閥資本家の信用はばっちりだ、腕のいいマネージャーを連れてくりゃ資産運用を任せてもらえる公算は充分ある。じーさんは技術の全てを注いで最新鋭の金庫を用意し、ひいじーさん時代からの顧客の資産を移管した。一方で竹原は、銀行業を立ち上げるべく準備を整える……はずだった」
語尾の終わり方にどきん、とする。
「でも、おじいちゃんがその途中で失踪した……?」
隣を見ると、鍵屋の口元は不謹慎にも笑いをこらえているようだった。
「それが二十年前だ。純国産のプライベートバンク頭取として華々しくデビューするはずだった竹原は、じーさんの顧客資産横領、失踪で信用を地に堕とされる。もともと表に出来ない財産だから賠償の請求こそ微々たるもんだったものの、無論、信用第一のビジネスとしては大打撃を受けた。三年の努力も夢も信用もカネもおじゃんだ」
それでも借金返済を待ってくれて、お父さんたちを心配して何度も来てくれて……竹原さんは相当いい人らしい。
「プライベートバンクの夢と信用は消えたが、貸金庫業は潰れなかった。ひいじーさん時代からの顧客は結局、ほとんど資産を引き揚げることなくついてきたわけだな。何しろ、金塊や貴金属をどっさり収められる、二メートル四方もある貸金庫なんてそうそうないしな」
二メートル四方の金庫に積みあがった金塊を想像して、一瞬、おじいちゃんが横領しても無理ないような気がしてしまった。いけないいけない。
「竹原には先見の明があった。スイスのプライベートバンクは口座の秘匿性を法律で守っていたんだが、二十年前ってのはスイスが犯罪や独裁者の隠匿資産の温床になっていることで国際批判が高まってた時期だったんだ。ハイチのデュバリエ、コンゴのモブツ、フィリピンのマルコスとまあキリがないな。実際、数年後には犯罪や脱税が明らかになった場合は情報を開示するという法改正が起きた」
トラックをじゃんじゃんあおりながら、よくこんな小難しい話をぺらぺらしゃべれるものだ。
「預金以外の方法で資産を隠匿する必要性がますます高まったってこと? つまり貸金庫の需要が」
「そうだ。だからもし口座の預金を差し押さえられても、貸金庫の中には現金やら貴金属なんかがザクザクしてんのが当たり前だった。いわば聖域ってヤツだな。ところがどっこい、それさえも見逃されなくなってきた。おまえ、大学で民事保全法とか習わねえのか?」
無理言わないで欲しい。せいぜい会計法とか商法をかじるくらいだ。
「債権者、つまり金を貸してるヤツだな、は債務者が返済しようとしない場合は訴訟を起こす。手っ取り早く回収出来るのはまずカネとか株とかって動産だ。つまり返還請求権としての動産引渡請求権を差し押さえる」
サイケなシャツにジーンズで髪染めた男の口から出て来る話とは思えない……。けれど鍵屋は天気の話でもしてるかのように、淀むことなく長い単語を繰り出してくる。
「ところが債務者の口座には預金なんぞ残ってないとする。が、貸金庫を借りてるとなりゃ、そこにカネになるもんが隠されてると睨むのが当然だな。そこで貸金庫内容物の動産引渡請求権を差し押さえることを考え付く。困るのは銀行だ。三菱東京UFJ、当時は三和だったその銀行は裁判所執行官に貸金庫内容物を引き渡すかどうか、最高裁まで判断を仰ぐ羽目になった」
この家庭教師は法律や判例まで教える気らしい。頭が痛くなりそうだ。
「その裁判は一九九九年、五年かかって結審した。結果、債権者は貸金庫内容物の引渡しを銀行に請求出来ることになった。聖域が破られたわけだな。第三者によって開けられてしまう可能性のある銀行の貸金庫は安全じゃなくなった。竹原はそこまで見越して、契約者以外は管理者たるじーさんや竹原にさえ絶対に開けられないシステムの金庫をじーさんに作らせてたんだ」
「えっとつまり、おじいちゃんは金庫の秘匿性を法律じゃなくて、鍵っていう物理的な方法で実現したわけね」
「それともうひとつ。顧客の素性を聞かないことだ。現金一括で管理料を支払わせたら、黙って金庫へご案内だ。カネさえあれば、名前も知られずに預けられる。つまり、貸金庫内容物の動産引渡請求権なんてもんを振り回して裁判所の執行官が押しかけてきたところで、そんな客は知らん、なんせ記録がないんだから、でお帰り願えるわけだ。じーさんや竹原が知ってるのは、どの金庫をいつから、何年間貸し出したか程度だったろうな」
だからおじいちゃんの横領で信用が揺らいでも、それまでの顧客が逃げなかった……逃げられなかったんだ。
「その、おじいちゃんや竹原さんにも開けられない鍵を開けろって、鍵屋に依頼が来たのね」
にっと楽しそうに笑った鍵屋は、待ちきれないといった様子で肩を揺らした。
「鍵屋としちゃ、それを開けたらちょっとした名誉と興奮じゃねえか、なあ?」
ちょっとしたどころじゃないと思うけど。
「さて、最強の鍵ってのは何か。暗号みてえに忘れる危険もない、いわゆる鍵みてえに失くす心配もない、でもって世界中で一人しか持てないもんは何だ」
「えっと……指紋」
自信があったのに、また五十点と言われた。点の厳しさに唇を尖らせる。
「拗ねるな、考え方は間違ってねえ。そう、生体認証。まー近頃はやりのバイオメトリクス認証ってやつだな。ここでプライベートバンクに戻るぞ。プライベートバンクってのは、何年何十年って単位で付き合うもんだ。結果的にプライベートバンクの貸金庫として使うことはなかったわけだが、じーさんはそのつもりで貸金庫を設計した。そこで何十年もの使用に耐える鍵が必要になる」
銀行がどうの、金庫がどうのと言っていた時より楽しそうなのは、本業の鍵の話だからだろうか。
「そいつを経年変化耐性っつーんだ。バイオメトリクス認証には、指紋、声紋、静脈、人相、虹彩、網膜と色々パターンがある。例えば人相はどうだ。何十年も経ったら、顔が変わっちまうのは分かるな? つまり長期のバイオメトリクス認証には不向きってことだ。声や網膜、虹彩なんかも経年変化耐性が低い」
「……指紋で合ってるんじゃないの」
反抗的だからって、煙を女の子の顔に吹き付けるフェミニストがどこの世界にいるんだっ。
「確かに指紋は経年変化に強い。だが、事故で両腕切断でもしてみろ。それに精度の問題もある。指紋っつーのは柔らかい組織の上に載ってる。指紋を読むためのリーダーに押し付けた時、多少変形もするわけだ。手先も荒れりゃ、磨耗もする。鍵として指紋を登録した時のデータと完璧に一致しないと開かないってんじゃ、話にならねえだろ。そこである程度の誤差は許容しなきゃ鍵として機能しなくなる。だが誤差を許容する鍵ってのは、鍵としてどうなんだ」
要するに指紋も完璧じゃないらしい。
「そうなると? さあ今度は当てろよ」
「……遺伝子?」
また煙を浴びせられると嫌だから上半身を離しながら言ってみたら、合ってたらしい。鍵屋は満足そうに顎を引いた。
「そっ、DNA。本人しか持ち得ない、失くす心配のない、しかも不変の鍵だ」
「一卵性双生児はどうなのよ」
「まあ急かすな。DNAが最高の鍵ってのは昔っから分かってたことだ。だが実用化するとなると問題は技術面、つまり時間がかかるってことだった。機械がDNAを検知して金庫が開くまでに何時間も待たされるんじゃ、ちっと不便だろ。貸金庫を開けるからには緊急事態ってことも充分ありうるわけだからな。しかもDNAってのは究極の個人情報だ。だから次善の策として指紋や虹彩が使われてきた」
白衣を着た技術者が金庫の前で試験管を持ってる姿を想像しちゃったけど……まさかね。
「一卵性双生児がもう片方の双子が利用してる貸金庫を盗みたくても、DNAが鍵になってる貸金庫そのものが存在しなかったわけね」
「その通り。だが、おまえのじーさんはそれを実用化した。フルオートメーションで三十分。おい驚けよ、これが二十年前の話だと知ったら科学者はまず信じないぞ」
どんなにすごいことか分からないから、ふうんと言ったら怒られた。
「でもさ……DNAなんて、他人がいくらでも手に入れられるんじゃないの? 例えば髪の毛を盗むとかして」
「毛髪でのDNA鑑定っつーのは、毛根がない場合はミトコンドリアDNA鑑定になる。鍵として登録されてんのがゲノムDNAだと一致しないと判断されるんだ」
よく分からない……が、毛根のない毛髪を持ってきても鍵は開かない、というのは分かった。
「じゃあ毛根つきの髪とか、血液とか」
「先に言っちまうと、じーさんが使ったのは口腔細胞だ。口の内側だな。綿棒なんかで軽くこするだけで採取出来るから注射器をぶっさす必要もねえし、痛みもなくて手軽だ。DNA鑑定としちゃ一般的な方法だぞ。じーさんは機器や試薬や検定手順を特化することで、口腔細胞以外の検体からはDNAを分析出来なくした」
金庫を開けようと思って口腔細胞とかいうもの以外を持ってきても、無駄だということらしい。
「なら、その口腔細胞を無理矢理、奪ってくればいいんじゃないの?」
「鍵は、口腔細胞のDNAと虹彩がセットで合致しなきゃ開かない。眼科に行くと、あんだろ。顎を乗せて頭を固定するとさ、眼科医が目を覗き込む測定器みたいのが。竹原の貸金庫室に行くとブースがあってな、そこであんな感じの測定器に口を開けて顎を乗っけるらしい。そうすると自動的に口腔細胞を採取されて、同時に虹彩もチェックされる」
すぐ、それがおかしいことに気付いた。
「ねえ、虹彩って鍵には向かないって言わなかったっけ。だからDNAを採用してるのに、何でここでまた虹彩が出てくるの」
「おっ、いいねえ。それそれ」
鍵屋は嬉しそうに笑って、ぱちんと指を鳴らす。
「経年変化耐性の脆さだな。じーさんがそれを知らなかったわけがねえ。恐らくじーさんが虹彩の読取機で調べたいのは、虹彩じゃない。バイタルサイン、生存徴候だ」
何だかまた、難しい話を始めそうな予感だ……。
「心拍とか呼吸の他に、瞳孔の対光反応を見るってのもバイタルサインのチェック法だ。よくやってんじゃねえか、医者が死人の瞼こじ開けてペンライトを当てるやつ。ライトを当てて瞳孔が縮むと、生きてる証拠だ」
つまり虹彩を調べてると見せかけて実は、鍵を開けに来た人が生きてるかどうかを調べてるわけか。
「だが、実は虹彩をチェックされてるわけじゃないと知らなかったら、そこまで厳重に管理されてりゃ本人を生きたまま連れてくるしかないと思うよな」
そりゃそうだろう。そりゃそうかもしれないけれど。
「でも……おじいちゃんは、顧客を誘拐して鍵を開けさせたんでしょ。設計者なんだから知らないわけないじゃない。何もわざわざ連れて来なくても、口腔細胞だけ盗んでくればよかったじゃないの」
「冴えてるねー。そうなんだよ。盗んだ口腔細胞を塗りたくった防水シートみたいなもんを口の中に貼り付けて、器械に顎を乗っけりゃ済む話なんだ。ひろで良かったよ、話しても分からんバカだったら真っ先に俺が死ぬ」
褒め言葉……なんだろうな。
「さて、じゃあ、何でじーさんはわざわざリスクを冒して顧客を連れてきたりしたんだ?」
ワゴンは意外なインターで下りて行く。排気ガスに煤けた防音壁の向こうには、疲れたように汚れた色の工場が立ち並んでいた。煙突から吐き出される煙は垂れ込めた雨雲に繋がって、まるでこの工業地帯がくすんだ空を生成しているみたいだった。
「これ以上近付くな。監視カメラに映っちまうからな」
煙突から煙が出ている以上は稼動しているのだろうに、人っ子一人見当たらない工場群の一角にその建物はあった。すっかり錆びの浮いた廃工場に挟まれた灰色のコンクリートは、建設現場の事務所程度の大きさしかない。窓はひとつもなく、ただぽつんと素っ気無い金属製のドアがあるだけだった。
「うそー、あれなの?」
看板もフェンスも何もない、見回しても監視カメラを見付けることも出来ない。
「あのなあ、貸金庫でござーいとネオンサインでも付けろってのか?」
……確かに、目立たないほうがいいに決まってる。
「あそこには地下の金庫室に降りるエレベーターがあるらしい」
鍵屋は胸ポケットから煙草を取り出した。とんとんと箱の尻を叩きながら、無愛想なコンクリート塊を目で示す。
「何で知ってるの?」
「鍵屋だって何度言えば分かるんだよ。金庫や貸金庫業の裏だって知ってるに決まってんだろ。だがじーさんが金庫を借りてること、金庫の場所と設計図は依頼人が教えてきた。どうやって手に入れたんだろうな?」
煙草をくわえて、にやりとする。そんなことわたしに聞かれても。
「全国の鍵屋も金庫屋も泥棒も、人を殺してでも欲しがる情報だ。さすがに設計図は見せてもらっただけで回収されちまったが、あれ売ったら一生豪遊出来るよなあ」
殺してでも奪っときゃ良かった、とでも言いたげだ。こいつならやりかねない、と思ったのが顔に出ていたらしい。鍵屋はハンドルを抱えて、ちょっと照れくさそうに笑った。
「鍵屋のプライドだろ。竹原の金庫を拝んでみたい、この手で破ってみたい。その気持ちはカネじゃ手放せねえ」
……おっと、惚れそうだ。柄にもなくどきどきしてきた。何だか息まで苦しくなってきたような……。
「おい、どうした」
(まずい……まただ……!)
もう日課になってしまったのだろうか。視界に暗幕が下りてきて、肩を揺すってくる鍵屋が闇に消えていく。息が出来ない。
「例の発作か」
目を瞑って、うんうんと頷く。真っ直ぐに座っていられず、ドアに掴まろうとした。が、車の内装にあるまじき冷たい感触がした。
(何これ……?)
必死に息を引き込みながらも、ダッシュボードの方へと手を伸ばす。そこも固くて冷たい、壁のような手触りだった。
「何か欲しいのか? 水か?」
首を横に振る。苦しい。吸っても吸っても、空気に全く酸素が含まれていないかのようだ。まるで窒息しかけているみたいに。
(窒息……)
霞みがちな意識を引っぱたきながら、発作を起こした状況を思い出そうとした。そうだ、確か最初はおじいちゃんの生死を絹さんに聞こうとした時。二回目は、おじいちゃんが横領の犯人なのかと考えていた時。そして今回は、おじいちゃんの作った金庫のそばにいる。全部、おじいちゃんが関係している。
それにこの、金属の壁にのしかかられるような圧迫感。息苦しさ。わたしの霊感。
「金庫にいる……」
「何だって?」
ドアにもたれたまま、頭を上げることも出来ない。フロントガラスの向こうに見えているはずの、小さなコンクリートの建物を指差した。
「おじいちゃんは、金庫の中にいる」
「じゃあ何か。じーさんはこの下にある貸金庫で死んでるってのか」
しばらくして発作が治まると、鍵屋は真剣な面持ちで訊ねてきた。
「轟はパニック発作じゃないかって言ってたんだけど……それにしては、タイミングが良すぎない?」
シートで休むより、広い場所で気を落ち着けたくて車を降りた。廃工場の段になった入口は泥だらけだったけど、この際かまうもんか。
しっかりと感覚を澄ませてみると、確かに足許から淀んだような霊気が湧いてきていた。
「俺は、最初からこの件はおかしいと思ってた」
鍵屋は隣にどっかりと腰を下ろした。
「じーさんは資産を横領して逃げたってことになってるんだぞ。俺の依頼人はどうしてわざわざ、じーさんの貸金庫を狙おうとしてんだ? 竹原の貸金庫と言えば旧財閥資本家の資産隠匿先だってことくらい、鍵屋の裏事情通なら知ってる。警察もだ。利用者はおのずと分かるってもんだ。なのに、資本家でも金持ちでもねえじーさんの貸金庫を狙う理由は何だ」
確かに横領した資産を同じ店の貸金庫に隠して、のこのこ後で引き出しにくる人がいるとも思えない。となると、おじいちゃんの金庫に横領した資産が入っているとは考えにくい。泥棒なら、それよりは当たりをつけた旧財閥資本家を狙う方がよっぽど効率的で理にかなっている。
「つまりそいつは資本家の隠匿資産じゃなくて、じーさんの隠したもんに用があるってことだ」
そういうことになる。
「おかしい点はまだある。俺の依頼人はどうやって、じーさんが貸金庫を借りてることを知ったんだ? あの貸金庫は、じーさんと竹原でさえ顧客の名前を知ることは出来ないはずなんだ。せいぜい、利用客の数と借りられてる期間がいいとこだ。それから、金庫の設計図。あんな機密を、ヤツは一体どうやって手に入れたんだ?」
信じがたい可能性が頭をよぎる。内部犯、それも金庫の設計図を入手出来るくらいの人物となると……。
「竹原さん……」
今度は赤点、と言ってもらいたかった。けれど鍵屋は否定してくれなかった。
「じーさん失踪の夜に、受け付けた覚えのない利用客が一人増えていたとしたら。それがじーさん以外には有り得ないと知りうる立場にいるのは、竹原だけだ」
いい人のはずだったのに、と呟いたのが聞こえていたみたいだ。鍵屋はけったくそ悪そうに息を吐いた。
「逃亡犯が最後に頼れるのは血縁者だ。おふくろさんが言ってたろ。竹原はじーさんの失踪後に何度も家に来て、じーさんが来なかったか、連絡はなかったか聞いたそうだな」
そうだ。竹原さんは心配してくれてたんじゃなかったんだ。おじいちゃんを追ってたんだ……。
「ひろ、携帯持ってるな? おふくろさんから竹原に電話して、こう言わせるんだ。もう二十年になりますし、じーさんの借金は土地を処分して返済します」
言われるがままにうまく万智子さんを丸め込んで、竹原さんに電話してもらった。
『怒られちゃったわ、あなたは父上の生存を信じてらっしゃらないのかって。返済はお父さんが戻られてからでいいですって』
拗ねたような万智子さんの報告を聞いて、さっき教わったばかりの判例を思い出す。貸金庫内容物の動産引渡請求権。
「アツに裁判所をあたらせる。もし竹原がじーさんの借金を利用して貸金庫内容物の動産引渡請求権を差し押さえようとしているとしたら? 竹原は貸金庫会社の社長だ、じーさんの借りた金庫がじーさんの名義だって書類を偽造するくらい朝飯前だろ。そうしたら竹原は、合法的にも非合法的にもじーさんの金庫を開けようとしてることになる」
「でも、おかしいじゃない! おじいちゃんの金庫に入ってるのは、おじいちゃんの遺体でしょ。竹原さん……竹原はそんなものが欲しいの?」
思わずおじいちゃんの遺体をそんなもの呼ばわりしてしまった。でも、竹原さんが欲しがるとは思えないシロモノだ。
「竹原は、金庫でじーさんが仏になってるのを知らない。おまえみたいな霊感がない限りな。失踪したはずのじーさんが横領直後にわざわざ借りた金庫に入れるようなモノっつったら、可能性は低くても持って逃げたはずの横領資産ぐらいしかねえだろ」
「俺は竹原を詳しく調べてみる」
今日になれば全てが分かるかと思ってたのに、ますます複雑怪奇なことになってきた。おじいちゃんがもう亡くなっているらしいと知ってしまったのも気が重い。
家に送ってくれるというので立ち上がった時、少し離れた倉庫らしき建物の影から不意に人影が現れた。こちらにずんずんと近付いてくるその男は、見るからにその筋のお方らしい。スキンヘッドで眉がない。背中に虎か龍の刺繍でもありそうなジャンパーの下に、何を隠しているのか分からない凄みがあった。やたらと背もでかい。
「よう、鍵屋。何してんだ、こんなところで」
ひどいかすれ声だ。普段、怒鳴りっぱなしで喉が潰れたような感じだった。
「鍵屋が金庫を見に来ておかしいか? お宅はじーさんを探すのが仕事だろ、邪魔はしねえよ」
鍵屋は落ち着いた声で返したけれど、声には緊張が混ざっていた。どうやら鍵屋が言った、わたしを探しに来るであろうバイオレンス大好きなヤツに違いない。
バイオレンスは三白眼で鍵屋とわたしを交互にねめつけた。
「こっちはそうもいかねえ。おまえに先に鍵を開けられちゃ、商売上がったりなんでえ」
鍵屋と成功報酬を巡って競争している相手ということだろう。妨害しに来たに違いない。
「車に戻ってろ」
是非そうしたかったけれど、鍵屋を置いて離れるのが心配になった、その一瞬に腕を掴まれた。
「おまえの女か?」
「触らないでよ!」
振りほどこうとしたのに、男はびくともしなかった。すごい力にぞっとする。
「こいつは関係ねえ、離せ!」
割って入ろうとした鍵屋は、男の突きをくらったらしい。のけぞるように二、三歩後じさった。
「何すんのよ! 鍵屋の邪魔してる暇があったら、自分の仕事したらどうなの!」
「このアマ……」
男が手を伸ばしたのは、髪を掴むためかと思った。でも引っ張られたのは耳、しかも耳たぶにものすごい痛みが走った。直後に突き飛ばされたらしく、アスファルトにもろに尻餅をつく。
でもお尻より耳の方がよっぽど痛かった。尋常でない痛みに左耳を押さえようとしたら、さらに痛みが激増する。見ると、耳に触れた左手が真っ赤に染まっていた。
「すっこんでろ!」
唾でも吐くように言った男の右手がアスファルトに投げ捨てたのが、わたしのピアスだと気付いた。信じがたい乱暴だ、ピアスを掴んでピアスホールを引き千切られたのだ。
「てめえ……っ」
鍵屋が男に殴りかかっている。ショックと焼け付くような痛み、恐怖に足がすくんでいたけれど、加勢しなければとその一心で何とか気を奮い起こした。立ち上がって車に飛びつく。幸い、キーは差しっぱなしだった。エンジンをかけてシフトを入れ、揉み合っている二人に向けてアクセルを踏み込む。
「俺まで殺す気か!」
焦っていたのだろう、急発進した車は間一髪で鍵屋を轢くところだった。慌てて飛びすさった二人の間は、うまい具合に距離が開く。すぐにバックして、今度は男を狙い直す。男は悔しそうに何かわめくと、もと来た方へと駆け出して行った。
「……ひろ、おまえさあ」
安堵して何度も息をついているわたしを運転席から引きずり出しながら、鍵屋は呆れた顔をした。その唇の端に血が滲んでいる。暴力沙汰は好かねえと言ってたけど、実はひょっとして暴力沙汰が苦手なだけなんじゃ。
「いざとなったら本気で轢くつもりだったろ。殺気を感じたぞ」
いざとならなくても、割と本気で轢くつもりでした。