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守護霊見習い  作者: シトラチネ
見習い三号 ―絹―
17/39

… Tuesday …

… Tuesday …


「鍵屋さんだって。大家さんから連絡行ったみたいですけど」

 火曜は二限から、ということで遅めに摂った朝食を片付けているとドアチャイムが鳴った。俺が出ますと見に行ってくれた千歳は、何とかかんとかロックサービスという社名の刷られた名刺を持って戻って来た。

「えっ、鍵屋さん来ちゃったの? 大家さん、手配早すぎ」

 覗き穴からはベージュの作業服が見えた。胸にオレンジ色の糸で社名が刺繍されている。意外にも若い男性で、二十代後半というところだろう。アッシュグレイとでも表現すればいいのだろうか、落ち着いた色の短髪に合わせてちゃんと眉も染めてある。切れ長な目尻は知的さが漂っているのに、口元はソフトな営業スマイルだ。

 ……好みかもしれない。

 現金にもちょっとわくわくしながらチェーンを外し、ドアを開けた。

「ひろ? ひろじゃねーか!」

「ええっ?」

 嬉しそうな大声を上げたかっこいい鍵屋に、いきなり腕を回され引き寄せられた。

(だ、誰? 見覚えないんだけど……)

「……静かにしろ」

 何するのよ、と喉まで出掛かっていた抗議は右耳に落とし込まれた小さな声で行き場を失う。頬に固い金属が押し当てられるのが分かった。

 でも、そんなもの押し当てられなくても動けなかった。営業スマイルとは程遠い、ひどく冷たくて落ち着いていた鍵屋の声に首筋がざわりと冷たくなる。そこには、逆らえば無事では済まされなさそうな酷薄さが滲んでいた。今まで会ってきた不良や詐欺師たちとはわけが違う、逆らったら本当に危ないのだということを感覚で悟らされた。

「何だよ、久しぶりだなー! 別れて随分経っちまったからって、鍵のことをまず俺に相談しねえなんて水くせえなあ」

 一方で鍵屋は、聞こえよがしな大声で根も葉もないことを言い出す。轟と千歳には、鍵屋でないことを悟られたくないということらしい。

 それからまた低くて小さな、ドスのききまくった声が聞こえた。

「昨日は俺の相棒が邪魔したな」

(相棒……?)

 逃げ出した紺色づくめの長髪男、床に散乱した下着と、千歳の言葉が脳裏をよぎった。

『相当ピッキングうまくないと、傷が残るって聞いたことあるんだけど……』

(こいつら、プロなんだ。しかも複数で動いてるピッキング集団か、鍵屋を装った強盗かなんか……)

 額から血の気が引いていくのがはっきり分かった。

「奥の二人を帰らせろ。言う通りにすりゃ、手は出さないでいてやる」

 それでも一瞬、考えてしまう。助けを求めたら三人がかりで取り押さえられるかもしれない。このまま二人を帰したら、窃盗どころかレイプとか、最悪の場合は殺されるなんて可能性もある。

「外に相棒待たせてんだ、下手なことすんなよ。安心しろ、ちっと話があるだけだ」

 話だけだなんて、信用出来るわけがない。けれど昨日の下着ドロのことを知っているのは仲間だからに違いないし、その相棒が近くにいるのも充分あり得ることだ。

「ひろさん、お知り合いですか?」

 背中に遠慮がちな轟の声が聞こえた。

「元彼と運命の再会ってやつだ、なあ、ひろ? 積もる話もあるってもんだ、鍵も付け替えなきゃならねーし、お二人さんには先に大学へ行ってもらったらどうだ」

 耳の奥に、昨夜の轟と千歳の安らかな寝息が蘇る。ここで下手に抵抗して二人に怪我させるよりも、鍵屋の言うことに賭けてみようかという気になった。巻き込みたくない。

「うん、二人とも先に行ってて」

 努めて平静な振りをした。鍵屋はわたしの頭を抱え込んだまま、離そうとしない。二人には見えない場所で、冷たい金属はずっとわたしの頬に押し付けられていた。

 どうやら演技はうまくいったらしく、轟と千歳は枕と毛布を抱えて出て行った。千歳が不機嫌な顔をしていたのは、単位を落さないと約束したばかりなのに今日も講義を休む羽目になったからだろうか。

 彼らの顔を見られるのはこれが最後かもしれない、と思うと足から力が抜けそうになった。助けて、と言いたいのを辛うじて飲み込む。

「ひろと鍵はどうぞご心配なくー」

 能天気にそう言って鍵屋がドアを閉めると、同時に希望も断たれたように思えた。



「まあ座れ。そう睨むな、食ったりしねえよ。俺にも選ぶ権利はあるんだぜ」

 昨日は発作を起こして、死ぬかもしれないと怖くなった。今日は殺されるかもしれないとすくんでいるわたしをよそに、鍵屋はのんびりしたものだった。それにしても失敬極まりない発言だ。本当に話がしたいだけなのかもしれない。

 ようやくその腕から解放されて、見ると鍵屋が持っていたのはナイフじゃなかった。見覚えの無い、あまり危険性を感じないただの工具のようだ。

「あ、これ? カム送りの道具な。おまえんちの鍵なんて、これがありゃ三秒で開くぞ」

 脅すに値しないものに脅されていたらしい。張り詰めていた気がへなへなと萎れていく。それをどうにか立て直して睨んだ。

「下着が目的ならあげるわよ、さっさと出てって」

 そう言ってクローゼットを開けると、鍵屋は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「アホか、洗濯しちまった下着なんて意味ねえだろうが」

(……こいつが一番の変態かもしれない)

 さっき立て直したばかりの気力が、またしおしおとへこんでいく。

「ところで話が長くなりそうなんだが、何かねえのか。麦茶とかコーヒーとかよー」

 ねえのかと聞きながら、勝手に冷蔵庫を漁っている。茶を飲みながら話をしたいがために、鍵屋に化けて脅迫までしたのかこいつは。

「話ってなに? 洗濯してない下着が欲しいわけっ」

 ポカリのプルタブを開けて一口飲むと、鍵屋は首をこきこき鳴らした。押し入っておいて、何て緊張感のないヤツなんだろう。つられて徐々にわたしも調子を取り戻す。

 一息ついたらしい鍵屋の唇は、端っこが苦々しく曲がった。

「全くアツの野郎、さっさとやることやって引き上げりゃいいのに、珍しく女の部屋に入ったもんだから欲張りやがって。あのなあ、下着が目的じゃねえんだよ。それにおまえ襲うほど、女日照りなわけじゃねえし」

 ほっとしなければいけない場面だろうが、そう言われるとそれはそれでムカつく。

「もらうもんって? 言っとくけどお金なんてないから」

「威張って言うな、自分で悲しくならねえのか。大体、カネがないことくらいこのアパート見りゃ分かるっての。しかしこの部屋あちーな、リモコンどこだよ」

 ひとんちの冷房の温度を下げる前に、作業着の上着を脱いだらどうなんだ。自己中心的なヤツ……まあ、そうでもなければ泥棒に入ろうなんて考えないか。

「じゃあ何が欲しいの。大体、あんた誰なの」

 にっと笑ったら、余裕しゃくしゃくなその顔は泥棒にしておくには勿体ないクールさだった。

「だから鍵屋だっつってんだろ。鍵をもらいに来た」



「……は?」

 押し入ってまで奪う価値のある鍵なんて、持っているわけがない。何かの間違いじゃないだろうか。

「おまえ、ヒットマンとか裏稼業モノの話って好きか?」

「はあ?」

 次々とわけの分からないことを言われて、何をどう聞き返せばいいのか見当もつかない。なのに鍵屋は呑気に冷房の風を浴びて涼んでいる。

「よくそういう話に出て来るな、報酬はスイス銀行に振り込めってさ。あの銀行って何だか分かるか?」

「……スイスのプライベートバンク」

 脈絡のない質問に戸惑いつつも答えると、鍵屋は満足そうに頷いた。

「おっさすが経営学部生、少しは勉強してるみてえだな。スイス銀行って名前の銀行かとか答えたら、話す気がなくなるところだったぞ」

 どうして経営学部生だと知っているんだろう。わたしの名前も知っていたし、色々と調べてから来たのかもしれない。気味が悪くなる。鍵屋がそんなわたしの様子を楽しんでいるみたいに、腕組みして笑って見ているのが腹立たしい。

「その通り、プライベートバンクだ。そんじゃあその、プライベートバンクってのは何だ」

 押しかけ家庭教師でもしてるつもりだろうか。

「普通の銀行みたいに、定期預金や振込みとかってこまこましたサービスがあるわけじゃなくて……すっごい金持ちを対象にして何億何十億ってお金を預かって、顧客のニーズに合わせた保管や運用を専門的にやるんでしょ。紹介者がいないと門前払いで、紹介者がいても役員会で承認が下りないと口座を開くことさえ出来ないから、一介の殺し屋なんかが利用出来るわけないって聞いたことある」

「まあ口座を持つ抜け道はいくらでもあるわけだが」

 そんなことをさらっと言うあたり、抜け道を知っている側、利用している側の人間だと感じさせられて緊張する。一見ただの人なのに、わたしを脅した時の肝の据わりまくった声といい、中身はとんでもないヤツなんだろう。

 何だかテストみたいな会話も、わたしに何の関係があるのかと聞かずに黙って続けておいた方が良さそうだ。

「その、ゴルゴ13みたいな一介の殺し屋が自国の銀行じゃなくて、わざわざスイスを利用するのはどうしてか」

「日本にはプライベートバンクってあんまりないから」

 鍵屋は唇を曲げた。

「おい、その答えは赤点だぞ」

 まずい。うまく答えないと、話してもらえなくなる気配がする。

「えっと、スイスが金融立国だから」

 大学の講義がこんなところで役立つとは思ってもみなかった。懸命に講義内容を記憶細胞から引っ張り出す。

「そもそも銀行っていうのは十字軍遠征で発展して……つまり戦争や政情不安のある国の銀行に預金したら、銀行や国そのものが潰れた時に資産がパーになるから、信用出来る国の銀行に預けようとする」

 続けて、という風に顎をしゃくられたから、方向性は合っているらしい。

「日本の場合はそんなにすっごい大金持ちがいるわけじゃなかったし、海に囲まれて比較的国も安定してたから、プライベートバンクが発達する必要があまりなかった。でも世界を見た時、特にヨーロッパでプライベートバンクは必要不可欠な存在で、スイスはそれを国の売りにしようと考えた。スイスの銀行って経営の健全性と情報の秘匿性が法律でものすごく厳しく管理されてて、しかも中立国だから国や銀行が倒れる心配が少ない。すなわち預金が飛び抜けて安全で、かつ秘密にしておける」

 この答えでいいんだろうか、と顔色を窺うと鍵屋は苦笑していた。

「まあ及第点だ。そんなわけで、世界の個人資産の三分の一はスイスの銀行に集中してる。ところで、そのスイスの銀行が世界一の信用でもって預かるのは、何もカネだけじゃないってのは分かるな?」

「あ……貸金庫」

 やっと鍵屋が鍵じゃなくて銀行の話なんかを始めた理由が分かってきた。わたしがそこに気付いたことを見て取ったらしく、鍵屋もふうと息をつく。

「でもわたし、スイスのプライベートバンクの貸金庫の鍵なんて持ってないけど」

「んなこた、分かってる」

 部屋に入ってからというもの、この男がわたしを傷つけたりする気配は一切なかった。警戒してずっと立っていたけれど、話はまだまだ長そうなのでベッドに腰を下ろす。鍵屋はローテーブルにどっかと座って、煙草を吸い出した。寛ぎすぎな気がする。

「昨日もおふくろさんが電話で言ってたじゃねーか。おまえのひいじーさんとじーさんは金庫屋だったんだぞ」



『一緒に金庫屋さんをやってたのがとってもいい方で』

 確かに万智子さんはそんなことを言っていた。だけど、どうしてそれをこの鍵屋が知ってるんだろう。背筋がすうっと冷たくなっていく。

「鍵屋だけじゃ儲からないんでね、情報屋も兼業してるわけだ。上手に鍵開けて気付かれずに盗聴器を仕掛ける需要は、犯罪からストーカーからいくらでもあるもんで」

「実家に盗聴器つけたの?」

 しらっと盗聴の事実を明かした鍵屋に詰め寄ったが、動じる気配もなく煙草をふかしている。

「すぐに外してやるよ、おまえが鍵を持ってるってもう分かったからな」

「何も持ってないってば! そう思うんだったら家捜しでも何でもすればいいじゃないの!」

 瞬間、鍵屋の目から熱が消えた。逆らってはならないと思い起こさせる冷徹な瞳に、思わず口をつぐむ。

「おまえから鍵を奪おうと思えば、今すぐにだって出来る。けどな、俺はこう見えてもフェミニストだし、暴力沙汰は好かねえんだ。それに俺たちは利害が一致してる」

 妙な工具で女子大生を脅して部屋に押し入った男が、どの口でフェミニストなんぞと言うんだ。

「……わたしに利益なんかないと思うけど」

「おまえな、命が無事なだけでめっけもんだと思えよ。ここに来たのが俺じゃなかったら、おまえはとっくに死んでるぞ」

 冗談だと思いたかった。でも、鍵屋の冷血動物みたいな表情のない瞳は、それが冗談ではないと語っている。足がすくんでいるのを悟られないように、そろそろとベッドの縁に座った。

「おっと、もうひとつあるぞ。じーさんの行方を探してやる」

 急に鍵屋はそれまでの仮面みたいな表情を崩した。面白そうに笑って、煙草の灰をポカリの缶に落とす。

「ほんと?」

 それは確かに、わたしにとっての利益だ。行方が分かれば、お父さんも万智子さんも喜んで会いに行くだろう。

「おう。どうだ、鍵を渡す気になったか?」

 膨らんだ期待は、鍵という単語に一気にしぼんでしまう。本当に心当たりがない。でも鍵屋は先刻承知らしく、訳知り顔でこちらを観察している。何だか悔しい。

「さて、銀行の話に戻るか。ちゃんと話についてこいよ、大学生」

 わたしが持っているという鍵について知るには、この長話に付き合うしかなさそうだ。

「最近は日本企業が資本のプライベートバンクってのも始まってるが、外資の、それこそスイスなんかの専門的なプライベートバンクに比べればまるっきり歴史も浅いし、規模だって小さなもんだ。だが、日本でプライベートバンクのニーズが高まったのは最近よりもむしろ昔だ」

 意外そうにしたのが顔に出たらしい。鍵屋は煙と一緒に溜息を吹いて寄越した。

「おまえが言ったんだぞ、戦争してる国の銀行に預けたら、何もかもパーになる可能性があるって」

「あっ……敗戦」

 資産運用という観点から見ると、銀行の役割が庶民レベルに降りてきたのは人々が富を蓄えた戦後の高度成長期以降かもしれない。けれど、資金の保管という意味では戦時中こそが最も不安定で、信用ある銀行が必要とされた時期だったことになる。

「そっか、その頃はペイオフなんて……預金の保証なんてなかったんだ。確か政府が支払い制限はしないと言っておきながら、後で預金封鎖したりしたんだっけ」

「モラトリアムな時代ってやつだな。日本の銀行も政府も信用出来ない。そうなると外資の銀行を考えるわけだが、外国銀行はGHQによって閉鎖されちまってた。おまけに戦後復興ってやつで日銀券が乱発されて、インフレが起こるのは目に見えてる。つまり銀行を頼り、しかもインフレのせいであっという間に価値の目減りする現金で資産を持つのはアホだということになる。そこで必要になるのは?」

 生徒を当てるみたいに煙草で指される。

「金庫……現金じゃない資産を保管する金庫」

「そうだ。だがその答えは五十点」

 この先生はなかなか厳しいらしい……。

「終戦直後、自宅に金庫を置くことさえ危機感を持ってるヤツらがいた。民主化の名のもとに行われた財閥解体のターゲットになった資本家どもだな。なにせ米軍はそいつらの家に軍用トラックで乗り付けて、強制的に株券を没収していったりしたんだ。そんな戦々恐々とした状態でもし、外資のプライベートバンク並みに頑丈で秘密性の高い金庫を貸すヤツが現れたら」

 落ち着け、と自分に言い聞かせた。話がとんでもなく大きいことが分かってきた。ぎゅっと目を瞑って深呼吸を繰り返す。

「もう分かったな? 財閥資本家を相手にして隠匿資産を貸金庫に預かったのが、おまえのひいじーさんってわけだ。じーさんはその貸金庫業を継いでいる」



「そんな話、信じろって言うの?」

 膝に肘をついて、顔を覆った。動揺しているのを見られたくない。もしそんな莫大な財産の鍵をわたしが持っていると誤解しているなら、家族どころか一緒にいるだけの友達だって危険な目に遭うかもしれない。鍵を取りに来たのが俺じゃなければおまえはとっくに死んでる、と言った鍵屋の台詞は誇張じゃないと思った。

「続きは明日だ。これでも忙しい身なんでね」

 顔を上げると、鍵屋は吸殻を缶に落とすところだった。じゅっ、とこもった音がした。

「俺の言うことを信じなくても、俺は別に困らない。鍵も成功報酬もきっちり頂く。だが、おまえは全てを失うぞ。それこそ命もな。おまえを探してるのは俺だけじゃねえ。いずれ別の、バイオレンス大好きなヤツらが来る」

「……その人たちも泥棒?」

 不快そうな眉に見下ろされた。

「俺は鍵屋兼情報屋だ。泥棒とは違う」

 人んちの会話を盗み聞きしてるくせに。

「分かってるだろうが、他言無用だ。俺はおまえに手を差し伸べてやってんだ、礼儀知らずにはそれなりの対処をするぞ」

「……どうして? さっさと鍵を奪って、報酬をもらいに行けばいいじゃない。そもそも、鍵なんて持ってないけど」

 それなりに危ない橋を渡っていそうな男が、競争相手がいるにも関わらず鍵を目前にして帰ろうとするのは不自然に思えた。

「最初はそうするつもりだったんだがなー」

 鍵屋は立ち上がって、面倒そうに首を回した。

「依頼主がどんなヤツか、金庫の中は何なのかを調べるのも大事でね。鍵を渡した瞬間に頂けるのは、報酬じゃなくてあの世への切符ってこともあり得る」

 口封じ、ということか。

「逃げ道を確保するまで、鍵は目の届くところに隠しておく。そういうことだ」

 だからってわたしに長話をする必要までないとは思うんだけど。いまいち納得出来ないものの、気を変えられても困るから何となく頷いておいた。

「さて、仕事しとくか」

 そう言うと鍵屋はスニーカーに足を突っ込んだ。ドアを開けて、外側で何かガチャガチャ作業している。

「スペーサーリングっつって、そこらへんでも売ってるカム送り解錠防止グッズだ。まあ俺に言わせりゃカネの無駄だけどなー。下着泥棒対策に、大家とあのおせっかいな色男優男を安心させるネタくらいにゃなるだろ」

 ……俺には通用しない、いつでも開けてみせると言いたいらしい。にしても色男優男って……轟と千歳のことなんだろうか、やっぱり。どっちがどっちなのかは分からないけど。

「六百円」

 手を出された。

「お金取るんだ……」

「ったりめーだろ、俺は鍵屋だって何度言わせんだ。恩に着ろよ、卸値だぞ。鍵ごと替えて何千円って請求したせいでおまえに餓死されちゃ寝覚めが悪いからな」

 そこまで困ってない、と断言出来ないのが哀しい。仕方なく六百円を渡した。

「釣り」

 ポイと無造作に渡された紙を開くと、それは新聞記事のコピーらしかった。

「捏造だと思うなら図書館に行ってみろ、どこでも過去の新聞くらい保存してあるからな。じゃ、また明日な」

 引き止めるのを許さない素早さで、鍵屋は出て行った。玄関からその後姿を目で追ってみて、ぎくりとする。表の道路には見覚えのある白いワンボックス、その運転席には紺色づくめの長髪男。

(昨日の下着ドロ……!)

 鍵屋はその助手席にひょいと乗り込むと、フロントガラス越しにこっちを見上げてひらりと手を振った。エンジンがかかり、ワンボックスは軽薄な音を立てて走り去った。

(ほんとに仲間だったんだ……)

 信じがたいような話がまた一段と現実味を帯びてきた。急いで部屋に引っ込んで鍵をかけたけれど、鍵屋が相手じゃ無意味なことに気付く。それにこの部屋も盗聴されているのは間違いない。

 逃げ場がないという不安に、思わず手を握ってしまったらしい。くしゃりと音がして、コピーを渡されていたことを思い出す。その新聞記事は二十年前の日付だった。

『貸金庫会社社長、顧客の金庫内容物を横領。社長は昨夜未明、顧客の一人である投資会社相談役を拉致、脅迫のうえ金庫を解錠。数百万円相当の貴金属を強奪した。警察は失踪した社長を容疑者として手配し……』

 そこで手配されていたのは、おじいちゃんだった。



 突然の着信音に、心臓が飛び上がった。ディスプレイには轟の名前が表示されている。腕の沙悟浄を見ると、ちょうど二限が終わって昼休みになったところだった。

『ひろさん、三限は必修科目なんですから出席して下さいね。今どこですか、まさか部屋じゃないですよねー……』

 轟ののどかな声が、やたらと非現実的に聞こえた。今のわたしにとっての現実は、莫大な財産を狙う誰かに、わたしがその鍵を持っていると誤解されているらしいこと。そのせいで監視されていること。おじいちゃんが犯罪者らしい、ということだった。

 鍵屋の言葉をそのまま信用するわけにはいかない。でもこの新聞記事は……。

『もしもし、ひろさん? 聞こえてますか』

「うん……」

 だから、お父さんも万智子さんも、わたしにはおじいちゃんは亡くなったってことにしていたんだろうか。蒸発したからだけじゃなく、横領事件の犯人だったから。

『あの……元彼の鍵屋さんと、何かあったんですか?』

 何かあったなんてもんじゃなかったけど、しゃべるわけにはいかない。他言無用と言われずとも、あんな危なそうな話をする気は起きなかった。

「ううん……」

 まずい、と気付いた時には遅かった。息が苦しくなってきて、視界が黒く染まっていく。昨日と同じ発作だ。身体が重くなり、めまいがして膝を突く。

 あまりの急激な変化に、ごめん、切るねと言う暇もなかった。すでに話すどころじゃなくなっている。

(昨日の今日でまた心配かけちゃう……)

 悪いけどこのまま電話を切ってしまおうと思いついたが、その頃にはとっくに息遣いが聞こえてしまっていたらしい。

『ひろさん、また苦しいんですかっ? すぐ行きますから!』

 いい、と断る前に通話は切られてしまった。

 昨日は死ななかった。だから今日も死なない、と自分に言い聞かせる。懸命に息を吸って、のしかかってくる空気の重みを肩で押し返そうとした。今まで遭遇した数々のきつい金縛りを思い返して、あれよりはマシだと思おうとする。

 数時間にも思える時が過ぎた。でも轟が大学から戻る前だから、ほんの十分か十五分だったのだろう。やがて昨日と同じようにそれは徐々に治まって、息が出来るようになってきた。体中、びっしょりと冷や汗をかいている。いつの間にか倒れ込んでいた床から起き上がると、鼻先から汗が滴り落ちた。汗は新聞記事のコピーの上でぱたん、と弾け飛んだ。

 どんどんどんどん、と乱暴にドアを叩く音がする。もう驚く元気も残っていない。

 コピーをのろのろとクローゼットに突っ込んでから、玄関を開けた。案の定、轟と千歳が息を乱して飛び込んでくる。

「ごめんね、もう落ち着いた……」

「でも真っ青ですよ。すごい汗だし」

 ずるずる抱えられて、ベッドに座らせてもらった。額の汗を拭ってくれてるのはキッチンの手拭き用タオルのような気がしたけど、もう何でもいい。

 エアコンを切って、窓を開けている気配がする。梅雨時の生温かく湿った空気は不快でも、どうしようもない寒さは和らいだ。

「どうして、こんなことになったんだろ……」

「大丈夫ですよ、ひろさん。きっと原因を突き止めて、そしたらゆっくり治療すればいいんです」

 轟はそう言ってくれたけど、わたしが思っていたのはおじいちゃんのことだった。元を辿れば、お墓に行こうとしたんだっけ。墓参りしろと言ったのは絹さんだ。絹さんは、どこまで知っててそんなこと言い出したんだろう。

(ひょっとしたら、絹さんが見習いなのかも……)

 息子の容疑を晴らしてくれ、と言いたいのかもしれない。それが絹さんの心残りなのかもしれない。

「ひろさん、もしかして……あの男に何かされたんですか?」

 千歳が怒ったように聞いてくるのを、ぼんやり聞いていた。

 絹さんが陣や友紀を守護霊見習いにしたのは、霊界でのポイントを稼ぐためじゃなくて、本当は予行演習だったのかもしれない。絹さん自身の未練、すなわちおじいちゃんの行方と横領の真相を明らかに出来るように、わたしを鍛えていたのかもしれない。

「ひろさん?」

「あ……ううん、あいつとはその……ちょっと昔の話をしただけ」

「…………」

 探るように覗き込まれて、思わず目を逸らした。言えるわけがない。

「ひろさん、俺……」

 千歳はその先を言わなかった。

 重い身体とそれより重い気持ちを引きずって午後から講義に出たけれど、内容なんて全く耳に入らなかった。早く明日が、鍵屋が来て全てを話してくれればいいと思い続ける、一人きりの夜が過ぎていった。


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