… Friday …
… Friday …
検温と診断の結果、退院させてもらえることになった。熱が下がったおかげか、聴力もほんの少し回復している気がする。何回か通院して経過を見ることになった。
迎えに来てくれた轟と千歳は、随分心配そうにしてたくせにやたらと笑顔だった。滅入ってるのがバレたんで、気を遣ってくれちゃってるのかもしれない。
顔を出すなり、いきなり轟が手話を使い出すんで驚いた。わたしより遥かに手慣れているのではなかろうか。まず右手の拳を顔の横でひょいと小さく振り下ろして、立てた両手の人差し指をちょこんと曲げた。
(……おはよう、だった気がする)
「おはよー」
轟は続いて手を体に当て、首を傾げる。
(具合どう? ……だった気がする)
「もう熱もないし、耳もよくなってきてるみたい」
さらに轟の手は流暢に動いているが、何だかもう踊っているようにしか見えなくなってきた。
「ご、ごめん、わかんなかったりしてー……」
我ながら情けない。聴力が回復するしないに関係なく、そのうちちゃんと覚えよう。
「それもお姉さんに付き合ってるうちに覚えたの?」
聞くと、轟はうんうんと頷いた。頭の中にはどれだけ、専攻とは無関係の知識が入ってるんだろう。何だか必死に経営やってるのが可哀想になってくる。
とにかく心配させたことを平謝りして、迎えに来てくれた御礼を繰り返す。例のごとく轟はひたすら首を横に、千歳は縦に振った。千歳は昨晩のしおらしさは夢だったのかと思うほど、いつもの調子だ。気が抜ける。
抗生剤と痛み止めをもらって会計を済ませる。三島氏が結局三万円を返す必要はないと言ってくれてたので助かった。入院費を差し引いても、仕送りまで充分食いつなげそうだ。
「あのう、帰る前にお願いしたいことがあるんだけど……」
アコードの助手席に収まりながら恐る恐る切り出す。二人は、今なら何でも聞いてくれそうな顔で頷いた。
「猫一匹、捕まえてもらえる?」
耳が聞こえなくても、二人が揃って「はい?」と聞き返しているのは、思いっきり怪訝そうな表情が語っていた。
廃ビルへの道すがら、猫が友紀の転落に関わっていたこと、その猫の世話を頼まれたことを話す。先日の要領でフェンスを乗り越えると、やっぱり千歳が渋い顔をしていた。小言を聞かされずに済む状態なのがむしろ有難い。廃ビルの裏に回ると、落雷を受けた樫はまさに生木を裂かれて無残に白い肌を晒していた。倒れた半分がビルの壁に寄りかかっている。
惨状を見た轟と千歳はたっぷりと何か言いたげな目をしていたが、気付かないふりして猫狩りを開始した。
放置したままだった虫取り網まで動員して追いかけまわした挙句、あっさり逃げられた。
『飼う前からひろさんに似て、逃げ足速いですね』
アパートへと向かうアコードの助手席で出直しを誓っていると、千歳がそう書いた携帯を後ろから差し出してきた。携帯を奪って投げ返す。
『ひろさんが幽霊になったら絶対ポルターガイストが頻発する』
こいつは携帯越しでもおしゃべりだし小憎らしい。もう一度奪って投げ返す。
『投げられてナンボ』
……無視してやろう。
(ほんと、昨日のへたれっぷりは何だったわけ……)
まあ、元気になってるみたいだからいいけど。
アパートに戻っても世話を焼きたそうにしている二人を大学へ行かせ、わたしは授業よりもまずお風呂に直行した。
さっぱりするとラップトップに向かう。携帯から転送した写真も含めて、友紀の事故の経緯を詳細に三島氏へ書き送った。店員さんの証言も、したければご自分で確認して下さいと添える。
(だけど……)
ついた息が聞こえないと溜息はあまり効果がない、なんて嬉しくない発見をしながら画面を眺める。
友紀の死が悩みや抗議でないことが判明して、これで三島氏は少々救われたかもしれない。けれど、肝心の友紀については何も進展していないも同然だった。
(考えられるとすれば昭子さんの友紀に対する執着と……)
『死ぬ前日の晩も言い争いになった』というteruの記事を思い出す。
(三島氏との仲違いか)
喧嘩の内容と、昭子さんの様子を教えてくれと書き加えてメールを送信した。
切羽詰っているとはいえ夜になってくると、さすがに一人きりの試験勉強にも飽きてきた。轟と千歳は週末だから狩り出されたとか言いながら大学からそのままバイトに行ったらしい。
(そういえば、紅茶のカクテルが採用されて今日からお店に出すって言ってたっけ)
お弁当をおごってもらった時、おごらせてくれたらチャラにすると言われたのを思い出す。時計を見るとまだ六時前だから、金曜日とはいえそんなに混んでいないかもしれない。
気分転換がてら、千歳のバイトしているバーに行ってみることにした。
バスから降りて駅から少し離れた裏通りをうろうろしていると、スナックやカラオケ屋に紛れてPoison Appleという木製の看板が下がっているのを無事に発見した。
(……ここに来ると酔い潰れて、眠り姫ばりに寝てしまうって意味かなー)
ガラス扉が開くと立派な一枚板のカウンターが眼に入った。間接照明とテーブル上のりんご形キャンドルが照らす薄暗い店内は落ち着いたソファ席が中心で、学生が一杯ひっかけに入るような雰囲気でないのは一目瞭然であった。しかも千歳の姿はない。
しかしまだ客もまばらで、カウンターの中にいた店長らしきシブいロマンスグレーと眼が合ってしまった以上、引き返すのは無理だと思われた。
「こんにちは、千歳いますか?」
と聞いてから、自分がほとんど聞こえない状態だったのを思い出す。いきなり筆談をお願いしたが、ロマンスグレーさんは驚きも嫌な顔もせずにこやかにレジからメモパッドを取って来る。いい人だ。
『いらっしゃいませ。千歳君にはお使いに行ってもらってるんですが、すぐ戻ると思います』
じゃあ待ちます、と言うとカウンターの端に案内してくれた。
「千歳が考えた紅茶のカクテルと、アマレットをロックで下さい」
ロマンスグレーさんの眼がぱちぱちすると、意外と小鹿みたいで可愛いことがわかった。
『待ち合わせですか? それでしたらソファの方に』
書いてくれている途中で、いえいえと否定する。一人で両方飲むんですと言うとロマンスグレーさんは目尻を下げながら小さく頷いて、カクテルの方からお持ちしますとメモしてくれた。
(いきなり二杯頼むのは変だったか……)
でも紅茶のカクテルなんてベタ甘そうで、口休めが欲しくなるに違いない。それがまた甘いアマレットだということには、我ながら矛盾を感じるけれど。
カウンターの後ろの壁に整然と、綺麗にディスプレイされた酒瓶の数々は圧巻だった。感心して眺めていると、すぐにコリンズグラスが出てきた。
『ティー・サンライズです』
わざわざカクテル名を書いてくれた。ロマンスグレーさん、なかなか親切だ。綺麗な三層に色づいていたグラスをストローで回して飲んでみると、予想と違って甘味を抑えた爽やかな味だった。ティフィンとかいう紅茶のリキュール、オレンジジュース、グレナデン以外に本物の紅茶やソーダも加わっている気配だ。
「美味しいですね」
ほんとに美味しかったのでそう言うと、ロマンスグレーさんは嬉しそうにした。そして手に持っていた店の子機らしき電話を示しながら何か書き始めた。
『失礼ですが、ひろさんですか?』
何でバレたんだろうと驚きながら、はいと答える。
『ティー・サンライズをご指名の美人がいらしていると千歳君に電話したら、ひろさんだろうと言ってました。急いで戻ってくるそうです』
……ロマンスグレーさんはお酒だけでなく口もうまいらしい。あまり忙しくなさそうだったので、気になっていたお店の名前の由来を聞いてみた。
『毒りんご、胸につかえているものを吐き出せば楽になる』
そう書いて悪戯っぽく笑うロマンスグレーさん……ファンになりそうだ。
数分もしないうちに、ビニール袋を下げた千歳が慌しくガラス扉を開けるのが見えた。手を振るとすっ飛んでくる。
『退院したばっかなのに何で酒飲んでるんですか!』
わたしを見つけた瞬間は笑顔満面だったくせに、しょっぱなから怒られた。一応バイトなんだから、いらっしゃいませくらい言ったらどうなんだ。
「だって入院中、暇でしょうがなかったんだもん。勉強も飽きたし、息抜き。吐き出せば楽になれる場所なんでしょ、ここ」
教わったばかりの由来を言ってやると、千歳は言い返せずに渋い顔で肩をすくめている。ざまみろ。
「わたしだって、よくわかったね」
『カクテルのチェイサーにアマレットを頼む女の子がひろさん以外にもいたら、バーテンダーの存在意義を疑います』
「なんだ、美人じゃなくてそこで判断してたのか……」
思わず口に出ていたらしい。否定も肯定もしないで、にやりと笑われた。
『奥のソファの、黄色いネクタイした方からひろさんにって』
紅茶のカクテルも少なくなってきた頃、千歳はコーヒー色に乳白色が浮かんだゴブレットを置いてからそうメモに書いた。振り返ると奥の席で青いワイシャツに黄色いネクタイを締めた、背広姿の若い男性がちょこんと頭を下げる。そんな服装が似合うちょっと癖のある顔をした、稼いでいそうな男だ。こっちも会釈を返す。
「これ、トム・クルーズの『カクテル』で見たことある」
『さすがミーハー』
そう書く千歳は、何故かえらく不機嫌そうだ。
『名前も知ってるんですか』
それを口に出させる気か。カウンターテーブルの下で脛を軽く蹴ってやる。千歳は一瞬笑うとメニューを引っ張ってきて、とあるカクテル名を指差した。
「ふーん……アマレットベースなんだ」
(だけどオーガズムをおごるって……要するに誘ってるわけ?)
バーのカウンターで声を掛けられるのを待ってる、寂しくて手軽な女とでも思われたんだろうか。
『まだ俺だってひろさんにおごってないのに』
そんなことを怒ってるのか。
「わたしがこんな馬鹿にした誘われ方してることに怒りなさいよ」
『断れるんなら断ってますよ』
それは逆ギレってやつだと思う。
「千歳、あの人ここに呼んできて」
ひどい不満顔をした千歳の眼は、「モペットやるから」と言い足すときらりと光った。
『そういうことはよく知ってるんですね』
メキシコ流の少々乱暴な飲み方ゆえ、千歳はロマンスグレーさんに了解を取りに行ったらしい。ロマンスグレーさんは嫌がるかと思いきや、にこにことテキーラを出してきている。肝の据わった人みたいだ。
「ただおごって頂くのはつまらないと思って。飲み比べなんていかがですか」
男性が差し出した名刺には外資系の会社名が印刷されていた。外資さんにそう持ちかけると、彼は面白そうに笑って頷く。相当自信がありそうな感じだ。
「ついでに負けた方が、双方の飲み代とテキーラ代を持つってことにしません?」
気取った仕草で鷹揚に頷いてから、外資さんは涼しい顔で腕時計を外すとカウンターを滑らせて寄越した。時計も賭けると言いたいらしい。見ると、パイロット向けに開発されイギリスやイタリアの空軍で採用された二十万はする時計だ。パイロットでない者がパイロット向けの時計をブランドとして見せびらかす態度が気に食わない。
「ブライトリングには及びませんけど」
ここまでされたら受けて立つしかないと、わたしも腕時計を外した。
『いいんですかそれ、お気に入りの沙悟浄でしょ』
困った顔で千歳がメモを出してくる。オリスと言って欲しい。フェイスの縁に書かれた日付の数字を沙悟浄の持っている武器みたいな針が差すのが気に入って無理して買った、トノー型のメンズ。恐らくわたしの所有物の中で一番高価なものだ。
「千歳は悔しくないわけっ」
耳打ちすると千歳は逡巡した。結局テキーラをジンジャーエールで割ったモペットを並べながら、その飲み方を説明しだしたようだ。聞いていた外資さんは早速、掌で蓋をするようにしてショットグラスを持つとカウンターにどんと叩きつけた。わっと泡が立ったところを一気に飲み干し、わたしを見て何か言っている。
『女性相手だから、一杯アドバンテージあげるって』
それが彼の致命的なミスだったろうと思う。
二本に増えた腕時計で左手が重いせいか、酔って体のバランスが取れないでいるせいなのか最早わからなかった。ストゥールに真っ直ぐ座っているのも難しくなっていて、とにかく帰ろうと決める。黄色のネクタイがひん曲がったままソファでぶっ倒れている外資さんに、ロマンスグレーさんが氷を当ててあげているのがぐらぐら揺れて見えた。
(ヤツにとってわたしは、かじると倒れる毒りんごだったってわけね)
一人で得意になっていると、後ろから腕を掴まれた。振り返ると、いつの間にかバーテンダーの制服から私服に戻った千歳がいる。
「何やってんのよ、仕事すれば」
千歳は聞いちゃいない様子でロマンスグレーさんにぺこりと頭を下げ、わたしをぐいぐいと出口へ引っ張り出した。通りに出るとタクシーを拾っている。送ってくれようとしているらしい。
「一人で歩いて帰れますー」
いくら言っても千歳は全然反応しない。酔っているせいだろう、正真正銘外からは何も聞こえない。自分の内側で響く声は気のせいなんだろうか。
「千歳、わたししゃべれてる? 聞こえないうえにしゃべれてないの……?」
タクシーに押し込まれながら言うと千歳はハッとした様子で振り向いて、申し訳なさそうな顔で何度も大丈夫だというように頷いてくれた。安堵で涙腺が緩みそうになる。
「バカ、焦ったじゃん……」
肩のあたりを引っぱたいてやると酔っていて力の加減を忘れていたらしい、やたらと痛がっている。
『俺、手話勉強しますから』
走り出した車の中で、そう入力された携帯画面を差し出された。
「別にいいよ、わざわざ悪いもん。聞こえなくなったら実家戻るし、そしたら手話覚えてまで会いに来てくれる友達なんて」
言ってから、しまったと思った。友紀に会った日もそうだったから、わたしは酔ったら説教か愚痴をたれだす最悪のタイプに違いない。
「ごめん、何でもない」
急いで言って、外資さんからせしめたブライトリングをはめた左手をぶんぶん振ってみせた。
「ねえ千歳、夏休みになったらこれ売って、轟と三人でパーっと海でも行こうか!」
『じゃあひろさんが読唇術覚えてください』
ごまかせてなかったらしい。
「……そうする」
疲れて眼を閉じていると、やがて車が止まった気配がした。千歳に引っ張られて降りる。眠くてしょうがなくて眼を瞑ったままぼんやり立っていると、ぐいぐいと手を引かれた。
「聾をもっと丁寧に扱いなさいよー」
ばしばし肩を叩かれて渋々瞼を上げると、階段だった。覗き込んだ千歳が、それ以前にただの酔っ払いでしょうに、と言っているのは唇なんて読まなくてもわかってしまった気がする。抱えられるようにしてずるずると二階へ上がる。キーを鍵穴に差せなくてもたもたしていると、業を煮やしたのか千歳が開けてくれた。
ベッドに直行して仰向けに倒れこんでいたら、またぎゅうぎゅうと腕を引っ張られた。何よ、と眼を開けると千歳はわたしの鍵束を振りつつ何か伝えようとしているみたいだった。
『戻りますけど、鍵かけて下さいよ』
ぐにゃぐにゃ曲がる視界の中で、どうにか携帯のディスプレイを読んだ。
「やだ、もう起きらんない。鍵持ってって、明日返してー」
まだ何か言おうとしているらしいが、そろそろ限界なほど眠くて朦朧としていて、ディスプレイを見るのもしんどくなってきた。
「ごめんリップ・リーディング覚えるから、今日はもう勘弁して……」
『一番簡単な読唇術教えてあげましょうか』
そう表示されている携帯は幻みたいに、ふわふわ揺れていた。
「なに、それ……」
その後キスされたのも夢なのか現実なのか、わからなかった。