… Saturday …
そいつの第一印象は最悪だった。
… Saturday …
『今日からこの男がおまえの守護霊見習いだよ。まあひとつ仲良くな』
そう言われた時、わたしにはその見習い君が見えなかった。
ちょうどダイニング兼リビング兼ベッドルーム、まあつまりはワンルームの真ん中でラグにどっかと胡坐をかき、カレーの一口めを掻き込もうとした瞬間だった。お世辞にも豊かとは言えない食生活を送っている一人暮らしの女子大生としては、月にそう何度もない贅沢な一瞬である。何といっても今日のカレーには肉、しかも牛肉、それも薄切りでなくてブロックが入っているのだ。それを味わう至福の一口めとしてわたしが食らったのは、山盛りのスプーンを掲げ、ぱっくり口を開いた状態でのおあずけ。
(……は? 見習い?)
ぱくつこうとした口はそのままで、上目だけで見回す。だけどどう見ても、幸せを邪魔しに来たのはわたしの守護霊さんだけ。地味な海老茶の和服を着て髪をひっつめた、気難しい顔のおばあちゃんだ。
そんじゃ、と説明もなしに消えようとする小柄な海老茶に、慌てて待ってと呼びかける。
「絹さん、この男って誰? どこ? 見習いって何?」
呼び方は絹さんでも、実は曾祖母だ。でもいちいち「ひいおばあちゃん」と呼ぶのもまだるっこしいし、年を感じるからやめとくれと本人にも言われている。
絹ばあちゃんは、だからこの、と見えないそいつの肘でも掴もうとしたらしい。すかっと中空を切った掌を見ると、普段から不機嫌そうな絹さんの目元がいっそう吊り上った。角を付けたらそのまま般若のお面に使える。
……わたしもその血を継いでいるわけだが、ブルーになるから考えないでおこう。
『あんた、しっかり出て来んかい。男のくせにもじもじしてんじゃないっ』
何も無い空間を見上げた絹さんの顔の角度から察するに、見習い君の身長は百八十前後と思われた。言われてみるとその辺から弱い波動を感じる。
いや、弱いというか……けだるい。
絹さんのそこのけそこのけな図々しく強烈な波動に慣れていると、そんじょそこらの雑魚霊など影が薄くて見過ごしてしまいそうになる。しかしこいつの場合出て来たくないような、わざとらしーい弱さが漂っていた。
『……だから何で俺が、こういう女で修行しなくちゃいけないわけ』
「はあ?」
突然降って湧いたその声の張りからして、見習い君……いやいやこんな生意気なのは見習い野郎でいいや、見習い野郎は若い男らしかった。
食事を邪魔された挙句の、いかにも嫌々といった不機嫌で緩慢な台詞に、わたしの血はいきなり沸点に達する。
「何よこの人、顔も見せないで失敬な。見習いだか何だか知らないけど絹さん、他の人に回してよ。わたし忙しいんだから!」
ぴしゃりと言い切り、わたしはようやくカレーを口に入れることに成功した。
(やっぱり今、絹さんみたいな般若の顔してるんだろうか……)
そう思うと、せっかくの牛肉カレーも有難さ半減だ。泣きたい。それなのに絹さんは呆れてバカにしたような視線で追い討ちをかけてくる。
『忙しいっておまえ、食うことがかい』
「そうよ!」
そうだ、そもそも食事中に出て来る絹さんがいけない。
生来のでしゃばり……いや、世話好きは亡くなってからも健在らしく、霊界でもそれなりの役職に就いていて忙しいのだそうだ。そう言い訳しながらお風呂中とか授業中とか、わたしの都合を無視した時と場所に出てくるのが常なのだ。トイレとデートの最中だけはやめてくれときつく言いきかせている。そんなの、プライバシー保護の観点からは至極当然の権利だと思うんだけど、絹さんにはそれが通じない。
とにかく頼みごとをする時は、TPOくらいわきまえて欲しいものだ。
『もう決まったことなんだからグズグズ言うな! じゃあ、後はよろしくな、シロ』
ちょっと待ってよ、という台詞は口いっぱいのカレーで「むぐ」にしかならなかった。愛しのカレーまでわたしの邪魔をするのか。
『あんたも覚悟決めな! 全く近頃の男ときたら根性がなくて情けないね』
ぶつぶつ言いながら消える絹さんと入れ替わりに背中を叩かれるようにしてやっと姿を現したのは、やはりまだ若い男だった。わたしと同年代か二、三歳上といったところか。
(おっ、いい男……)
一瞬それまでの経緯も忘れて見惚れたが、いやいや見た目は当てにならんぞ、と自分に注意喚起する。
霊の見かけはその人の最盛期というか、本人が一番好きだった年頃で、好きだった服を着ていることが多い。だから、若い霊に見えても中身はもうちょっとお年がいってたりする。実際、絹さんも八十で亡くなったはずなのに、出てくる時はだいぶ若作りだ。それを指摘するとコップをひっくり返したりされるので、迂闊に口にできない。
ただし本人の納得いかない亡くなり方をした場合は、それを訴えたくて亡くなった時そのままの状態でドロドロとお出ましになる。負の感情が強いとさらにあちこち歪んでくる。それはあまりお目にかかりたくないお姿だ。
幸いにもそいつは守護霊見習いをするくらいだからきちんと成仏していて、服も乱れたりせずちゃんと着ていた。
着ていたが……洗いざらして色の抜けたオレンジのTシャツに、これまた年季の入っていそうなジーンズ、履き古したスニーカーというあまりにラフな格好だった。霊界のドレスコードがどんなものかは知らないが、好きな服を着て出てこられるはずの霊がこんなに普段着くさいのも珍しい気がする。
痩せてはいるが骨太で、背筋は少々かったるそうに力が抜けている。見るからにヤンキーかチンピラ風情だが、どことなく品の良さが漂うのは顔立ちのせいか。
金色に近い茶色の短髪の下には、石原軍団が喜びそうな切れ長で硬派なパーツが整然と並んでいた。これがこんな不愉快な出会いでなくてしかも相手が生身の人間なら、わたしも喜んだかもしれない。
が、お互いに特上の無愛想な顔を作って睨みあうこの状況では、むしろ醜男であって欲しかった。
無視すべくわざとらしくボリュームを上げてリモコンを放り出すと、わたしはテレビ画面とカレーに集中した。関西芸人のテンションの高い笑い声が、しんとした空間に虚しく響いている。
(お願いしますと言ったら構ってやってもいいけど)
わたしは自分の優位を知っていた。何といってもこいつは絹さんの監督下にある。霊界では上位の霊に逆らうと、ろくなことにならない。それは見習い野郎にもわかっているはずだ。絹さんがやれと言った以上、こいつは嫌でもわたしについて見習いをしなければならない。
せっかくの牛肉入りなのに食べた気になれない、ゲンの悪くなったカレーを涙ながらに機械的に胃へ落とし込む。我慢比べのようなぴりぴりした空気が充満した。
やがて観念したらしく、そいつはわたしの視界の隅っこでフローリングに腰を下ろした。
『……犬みてえな名前だな、シロって』
こいつの頭の中にはワビという観念が存在しないのか。
ぎりりと睨みつけてから、無視してやろうとしていたのを思い出した。自分の単純さに舌打ちする。
「ひろ! いとへんにナムって書いて紘!」
『念仏の南無?』
(んな名前があってたまるか!)
三日分のカルシウムが吹っ飛びそうなイライラに襲われながら怒鳴り返す。
「カタカナでナム! 絹さんは江戸っ子だからヒとシの発音がごちゃ混ぜなの!」
あっそ、といかにも興味なさそうに曲げられたへの字口に荒塩を突っ込んでやろうかと思ったが、不浄霊じゃないから効果がなさそうだ。ぐちゃぐちゃとカレーをかき回しても怒りは収まらない。
「男みたいな名前だと思ってんでしょ。いいんです、どうせ男みたいな性格ですから放っといて下さい」
『……そんなヒステリーな男がいるか』
投げてやろうと、空いていた左手でリモコンを掴んだ。が、ここで投げたらわたしはヒステリーですと言ってやるようなものだ。しかも実体がない幽霊なんだから、ぶつかるわけもない。いやそれでも、怒っているのを示すために投げるべきか。
「あんた、性格悪いわね」
逡巡した末、ぐぐっと我慢してリモコンを置く。せめてと毒づくと、見習い野郎はぼそりと呟いた。
『ジン』
「え?」
そいつはベッドにもたれかかってあらぬ方向を眺めたまま、低い声で続けた。
『名前。大阪夏の陣の、陣』
それだけ言うともう用はないとばかりに、さっさと消えてしまった。
(……顔だけじゃなくて、名前も例えもクラシック)
その日から、陣とわたしのおかしな共同生活が始まった。