9 「ブライトリングは戦う男の時計だ」と父さんは言った
カチリッ!
と音がして、老人は「これでよし」と言った。目の前の少年が笑っているのを見て、老人はすこしムッとしたような表情で訊いた。
「なにがおかしいんだ?」
「えっ?」シンジはわれにかえった。「そうか、戻ったんだ!」
「戻った?」
その問いには答えずに、シンジは老人の手から、ストップウォッチをもぎとった。
「ごめんよ。でも、時間がないんだ」
「だから、さっきからワシがなんどもそう言っとるだろう。おまえさん、戻ったと言ったな。本当に戻ったのか?」
「戻ったんだよ」 シンジは自転車に飛び乗った。
「なにやら楽しそうに笑っておったが、いいことでもあったのかい?つまり、戻ってくるまえにという意味だが…」
「いいこと…? とんでもない! 最悪だよ。いいことなんてあるわけないじゃないか!」
「そりゃ、確かにそうだ。いいことなら、ワシがここへ来る必要もないわけだしな」
「笑っていたのはねえ、とっておきの解決法をみつけたからなんだ」
シンジは自転車をスタートさせ、老人は荷台を押した。ぜぇぜぇと荒い息で走りながら老人は訊いた。
「今度で何度目なんだい?」
「2度目!」
「今度は大丈夫なんだろうな!」
「たぶんね! だけど、そんなのわからないよ。毎回ちょっとづつ違うんだからっ!」
シンジの自転車は老人の手から離れ、グングン加速していった。老人は両手を膝について前かがみになり、肩で大きく息をしながら、小さくなってゆくシンジの後姿を見送った。
「そろそろケリをつけないと、取り返しがつかんぞ。なんとか、今回で決めてくれよ」
しかし、あいつ、楽しんでるな。崖っぷちにぶらさがって、片方の手がはずれて、しかも、もうかたほうも指先がほんのちょっぴり引っかかってるだけのような状態なのに、あいつ、楽しんでやがる!
まったく、大したやつだ。シンジってやつは…
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
シンジはさっきとは違う、道路の反対側を走っていた。
前回と同じように道路の右側を走って、そのまままっすぐ本屋へ直進すれば、確かに時間は稼げるのだが、またトモミに見つかる危険性があった。だから、今回は、自動車と同じ左側を走り、交差点をわたったあとで、こっそり引き返して来ることにした。面倒だけど仕方がない。トモミには、あのままオープンカフェにいてもらう必要があるのだ。
「あのクソ野郎といっしょっていうのが気に入らないけど…」
交差点が近づいてきた。
シンジは信号にひっかからないようにスピードを調節し、『青』になった瞬間に、いっきに交差点をわたりきった。そして、そのまま直進し、本屋のカゲにはいってトモミの死角にはいったところでひきかえし、本屋をまわりこんでコウスケのいる建物のあいだのせまい路地に飛び込んだ。
今回もコウスケはそこにいた。犬小屋の前にしゃがみこんでごそごそやっていた。
せまい路地を全力疾走で駆け抜けると、シンジはコウスケの後ろに仁王立ちになった。
「コウちゃん! 犬はそのままでいい!」
コウスケはビクッと肩を大きく揺らし、慌てて振り向いた。
「シンジッ! おどかすんじゃねぇよ! 犬がどうかしたのか?」
「いいからっ! コウちゃんのやろうとしてることは全部知ってる。犬はそのままにしておくんだ!」
そう言うとシンジは、くるりと回れ右をして、歩道にむかってダッシュした────コウちゃんはわかってくれたはずだ。犬をアイツにけしかけようなんてことは、もうしないはずだ。
シンジは走りながら、ブライトリングの時計を見た。
「3時59分40秒…」
歩道に飛び出すと、そのまま止まることなく直角右ターンをして、交差点のほうにむかって走りつづけた。BMWが走ってくるのが見えた。運転手は今回も、あいかわらずマヌケづらだ。携帯電話を左手に持ち、大口をあけて笑っている。
────こんな時間にこんなトコで、バカな内容の電話をかけてるヤツって、いったいどんな仕事をしてるんだ?
いや、仕事なんかしていないにきまってる。おおかた、どっかの町医者のドラ息子ってとこだろう。父親が稼いだ金を手あたりしだいにつかいまくってるぞ!っていう顔だもの。入学金とはべつに〈寄付金〉と称した裏金をガッポリとる三流医科大学の三年生といったところにちがいない。そして、電話のあいてというのは、男とおなじような町医者の娘で、ファッションセンスの良し悪しは、身につけたブランド品の総額で決まると勘違いしている三流女子大のバカ女にきまってる。そして、ふたりがふたりとも、18金のネックレスやらブレスレットをつけているにきまっている。
シンジはERのファンで、勤務医の実態を知っているだけに、このての開業医にたいしては、グリーン先生やベントン先生同様、相当に手厳しい意見の持ち主だった。
────だっておかしいと思うでしょ? おなじような勉強をして、おなじ国家資格をもってるのに、いっぽうは連続36時間勤務、もういっぽうは、毎日午後1:00から4:00まで休診だなんて。しかも収入には、イチローとマイナーの選手ほどの差がある。開業医は午後の休診時間は、厚生労働省の指定する病院で、無償で医療業務にたずさわる義務がある……なんていう法律をつくったらどうだろう。これだったら、病院の勤務医の超過労働の緩和と人件費の節約になるとおもうんだけどな。
本屋の建物の陰から、自転車があらわれた。ハンドルの前のカゴの中には茶色い紙袋、そこからセブンスターの10箱入りカートンふたつが顔をのぞかせている。
「来たな、オヤジめっ!」
オヤジは下をむいて、左手の携帯電話をのぞきこんでいた。
シンジはそのまま走り続け、オヤジに跳び蹴りを食らわせた。
ガッシャーン!
オールド・プロレスファンにはなつかしい、ミル・マスカラスばりのドロップキックが、床屋のオヤジにものの見事にきまった。オヤジは自転車にまたがったままの格好で、その場にぶっ倒れた。
どうだ! オヤジめっ! これで、もう二度と、僕の髪の毛で遊んでやろうなどとは……
キッキィィィーッ!
髪の毛が全部逆立った。ボサボサで、ただでさえあちこち突っ立っているにもかかわらずだ!毎度おなじみのBMWのブレーキが鳴く音……。まったく、すこしは手入れをしたらどうなんだ!マヌケづらめ!────とシンジが自分の自転車の手入れ不足を棚にあげて、不平をこぼしたくなるような嫌な音が響きわたった。
「今度はいったいなんだ!だんだん腹がたってきたぞ!」
シンジは立ち上がった。
足元には、自転車にまたがったままの床屋オヤジが、〈ひょっとこ〉のような顔で固まっていた。まんまるに見開かれた両目は、漫才師の西川きよしに似ていた。カメラを持ってれば(いまどきの高校生にしてはめずらしく、シンジはカメラ付携帯などという便利な代物は持っていなかった。彼とおなじく、そんなもん、うっとおしいだけだぜ!と言ってコウスケもやはり携帯電話を持っていない)入選まちがいなしの大傑作が撮れたのに残念だなとシンジは思った。
シンジはやれやれと思いながらうしろをふりかえった。
BMWが固まっていた。
こんどは歩道のうえではなく、ちゃんと道路のうえにいる。ちょうどスターバックス・コーヒーのオープンカフェのまえのあたりだ。そうとうな急ブレーキを踏んだのであろう、BMWのお尻は高く持ち上がり、前のほうが大きく沈み込んでいる。まるで、ドラッグレースの怪物マシンのような格好でBMWは固まっていた。道路には黒々とタイヤのあとが残っており、タイヤスモークが綿菓子のように空中に固定されていた。その前方に目をやると……
「あぁっ!」
BMWのまん前にいたのは、トモミだった。
ミレーの『落穂ひろい』と言う絵画に出てくる女の人のような格好で、道路の上のなにかを拾おうとしていた。
シンジは彼女がなにを拾おうとしたのか見るために、BMWの前のほうに向かった。そのBMWは生意気にも左ハンドルだったので、運転席のなかがよく見えた。ただでさえマヌケづらの運転手は、腹話術の人形でも出来ないくらいに大きく目を見開いていて、よりいっそうマヌケに見えた。『マヌケさ加減に磨きをかけた』と言い換えてもいいだろう。口も拳骨がすっぽりはいるくらい大きくひらいている。左手は、鶴田浩二のモノマネをしているひとのように、耳のところに持ち上げられている。そこから携帯電話がポロリとこぼれ落ち、空中で止まって固まっていた。
シンジは、男の左の袖口からチラリと見えている時計が気になったので、顔を近づけてよく観察してみた。
「ぼくのと同じような時計をしているぞ!こいつめ! マヌケなくせに、ろくに使えもしないくせに、クロノグラフをしているぞぉぉ!」
ブライトリングのクロノグラフ……
『シンジ、いいか、こいつはなぁ、戦う男の時計だ。そこいらにころがっている時計とはわけがちがうんだ。ブライトリング・ナビタイマーといってな、飛行機のパイロット用に作られた時計なんだ。〈腕にはめる計器〉と呼ばれている。若いころ、給料一ヶ月分、まるまるはたいて買ったんだ。いまじゃ父さんの給料3ヶ月分でも手が届かん。プレミアっていうんだったかな。なんか知らんが、えらく高くなってしまった。いいか、ここがなぁ、こう動いて、こうするだろ?すると、こいつがこうなって……計算尺にもなってるんだぞっ、シンジ!』
シンジはよく理解できなかったが、とにかく、すごい時計だということはわかった。
シンジのお父さんは、シンジが高校に入学するとき
「こいつは父さんの宝物だ。たとえおまえが私の息子でも、やるわけにはいかん! だから、預かってくれ! そして、おまえがその時計に見合う男になったと私が判断したときに、あらためて、その時計をおまえにやろう」
そう言って、この時計をシンジに手渡した。
それからわずか3ヵ月後の土曜日の夜に、警察官だったシンジの父親は、この世を去った。
交通違反の取締り中に、つかまえた暴走車両から降りてきた数人の若者に取り囲まれ、突き飛ばされて倒れ、気を失った若い同僚をかばい、彼の前に仁王立ちになって、鉄パイプやら金属バットで散々殴られ、病院で息を引き取った。命を救われた若い警官が、泣きじゃくるシンジのところへやってきて言った。
「お父さんは強い人だった。いくら殴られても、決して手を出さなかった。奴らが殴り疲れて行ってしまうまで、決して手を出さなかった。そして、からだじゅうの骨が折れて気をうしなっても、まるでほんものの仁王像のように、カッと目を見ひらいて、救急車がくるまでずっと立っていた」
そう言うと、若い警官はシンジを抱きしめ、『すまなかった。おれをゆるしてくれ』となんどもあやまった。
「おれをゆるしてくれ!おれは気を失ってなんかいなかった。失ったフリをしていたんだ!どうしようもなく怖くなって、巡査長がやられているあいだじゅう、ずっと気を失ったフリをしていたんだ!だから知ってるんだ。お父さんがいっさい手をださなかったことも、さいごまで倒れなかったことも!」
若い警官はその場にくずれおちて号泣した。シンジはその警官の肩にそっと手をおいてこう言った。
「父さんは怒らないよ。もしかすると、気を失ってないのを知ってたかもしれない。でも、怒らない。父さんはぜったいに怒ったりしない。わかるんだ。……だから、ぼくも怒らない」
若い警官は涙をボロボロながしながら『お父さんのような立派な警察官になる』とシンジに約束した。
シンジの視界がぼやけた。
目に涙がいっぱい溜まり、まばたきをすれば、きっとあふれだすだろう。シンジはゴシゴシと目を拭いて、もういちど男の時計を見た。じっくり見るまでもなかった。男の時計は、シンジのものとは全然違う、まったく別のメーカーのクロノグラフだった。
そりゃそうさ。ブライトリングは戦う男の時計なんだ。こんなマヌケといっしょのわけがない!
その男の時計の文字盤を見ると、ブライトリングのひろげた翼のマークではなく、12時の位置に数字の12のかわりの、トランプのキングがかぶっているような王冠のマークがあって、そして、その下に〈ROLEX〉と書いてあった。
「そらみろ、やっぱりにせものだ!」
はじめ男の時計を見たとき、こんなヤツが……電話をかけ、あごが外れるくらい大笑いしながら車を走らせるようなヤツが……三度まで、大切な人の命を奪おうとしたクソ野郎が、自分とおなじ時計をしていることに、自分でもおさえようのない、全身の血液が沸々と煮えたぎるような怒りを感じた。
父の戦う男としての誇りを泥靴で踏みにじられたような気がした。
時間がゆるすなら、ドアを開けてそとに引きずりだして、徹底的に痛めつけてやろうと思った。
だがシンジはそうはしなかった。
時間がないということもあっただろうが、そうしなかった本当の理由は、無抵抗の相手を痛めつけるような真似を、シンジの父親はぜったいにやらない……シンジはそのことを知っていたからだ。
でも、ちがった。男の時計はブライトリングじゃなかった。真っ赤なにせもの……たぶん、この男のことだから、相当に値が張るものかもしれない。ひょっとすると、自分のより高いヤツかもしれない。
だが、やっぱりニセモノはニセモノだ。
この男の価値がニセモノなのと同じように、時計もやっぱりニセモノだ…ブライトリングじゃない!
腹いせに、シンジはBMWのドアを思い切り蹴飛ばした。必要以上に頑丈に作るドイツ職人の努力の成果なのか、時間が止まっているせいなのかはわからないが、BMWのドアはビクともしなかった。こっちの足が痛いだけで、これじゃあ全然おもしろくない。
シンジはさらに前にすすんで、右足をスッとうしろにのばし、ウインブルドンのテニストーナメントに出場した女子選手が、貴賓席のエリザベス女王に対してするような、華麗なお辞儀をしているトモミを見た。右手は女王に敬意をあらわして胸のところに当てているのではなく、道路に落ちている物を拾おうとしていた。伸ばした指さきがフィギュアスケートの選手のようで、なんとも可憐だった。その可憐な指さきが、白いハンカチをつかもうとしていた。ハンカチはおそらく彼女のもので、たぶん、テーブルの上から、風に飛ばされて落ちたのだろう。
シンジはテーブルのほうを見た。
クソいまいましいデキスギ野郎が立ち上がってこちらを見ている。冷ややかな目で、こちらを見ている……ただ見ているだけだった。
前にも見た、人間とはとても思えないような目で、そこに突っ立ってこちらを見ていた。
左手が斜め下のほうに真っすぐに伸びている。機動戦士ガンダムに出てきたガルマの恋人イセリナの頬を裏拳で殴ったあとの元ロサンジェルス市長とおなじかっこうだ。左手が机の上のなにかをさっとはらったような感じで、固まってはいるがその時の勢いを感じさせるかたちで、左斜め下に伸びている。
机の上のものをサッとはらった感じ…
机の上のもの…
机の、上の、……ハンカチ?
まさかっ!こいつがやったんじゃぁ!
シンジはクソ野郎の顔をにらみつけた。そして、その顔を見て、これまでに経験したことのないほどの恐怖を感じた。
笑ったのだ。
時間が止まっているにもかかわらず、そいつは確かに笑った。ぼく以外、だれも動けないはずのこの世界で、そいつは確かに笑った。口をキュゥゥゥーと不気味に歪めて……
いや、笑ったように見えただけかもしれない。あらためてよく見ると、薄い唇は釣りあがってはおらず、もとの無表情なままだった。
時間がない!…そろそろ時が動き出す。このまま彼女の腕を引っぱって、歩道のところまでうごかせば、助けられるかもしれないっ!
シンジはトモミの腕をつかんで力をこめてグイッと引っぱった。
ところが、どっこい、トモミはビクともしない。
だめだ、うごかせない。ちっぽけなプラスチックの破片はうごかせたのに、なぜだ?
BMWのドアもへこまなかった。なぜだ?
ストップウォッチの効果には、一定の範囲があるんだろうか? そのなかにすっぽり入るような小さい物はうごかせるが、そうでないものはうごかせないのかもしれない…。
物が動くにはかならず〈時間の経過〉が必要だ。時間の経過がゼロの状態で物をべつの場所にうごかすという行為は、その物体が同時にふたつの場所(厳密にいえばふたつの場所どころではなく、物体が移動するルート上のすべての場所であり、したがって、その物体は無限に存在するということになる)に存在するという理屈になる。そんなことはぜったいにありえない! だからうごかせないんだ。スタートレックの世界で、ワープ10を超えるのがぜったいに不可能なのとおなじ理由だ。物体は異なるふたつの空間に同時に存在できない。だから、ワープ9.80とか、ワープ9.95とかは出せるけど、ワープ10は超えられない。ワープ10を超えるということは、まったくべつの宇宙に同時に存在するということになるから……。昔のスタートレック〈宇宙大作戦〉では、エンタープライズ号は平気でワープ15とか出していたけど、あれはきっと速度の単位がちがうせいだ。いまのシリーズではワープ10以上はぜったいにだせないことになっている。
じゃあ、そんななかを平気でうごきまわってるぼくは、いったいどうなるんだ?ジェインウェイ艦長はきっと深く考えるなと言うだろうけど、だんだん心配になってきたぞ……
だから、うごかすことはぜったいに不可能!
この方法では助けることができない。
では、彼女の腕をつかんだまま待機して、時間が動きだす瞬間にグイッとひっぱる──という作戦はどうだろう。
シンジはふたたび彼女の腕をつかんだ。時間がふつうにながれている現実の世界では、ぜったいにできないような大胆な行為だ。そう、いまならなんだってできる!
「そうさ、いまならキスだってできる」
また、例によって、あの悪魔のささやきだ。とってもすばらしいご意見ありがとう。まったく考えなかったか?と訊かれれば、もちろん!とはとてもいえない。でも、いまはそんな余裕はない。ちょっぴりざんねんに思っているのも、まぎれもない事実ではある。
彼女の腕をつかんで実感した。
「この方法でも無理だ!」
まえに触れたBMWのように、トモミの腕からも圧倒的なパワーが伝わってくる。
「人間のなにげない動作に秘められたパワーをあなどっちゃだめだ!」
家のなかでタンスの角に足をぶつけたことがあるでしょ?あれって、ものすごく痛くない?べつにわざと蹴とばしたわけじゃないよ。歩いているときに、なにげなくまえに踏みだした足の先に、たまたまタンスの角があっただけ……。それなのに、あの痛さときたらもう!────むかし『涙がちょちょ切れる』なんていう流行語があったけど、タンスに足をぶつけたときの痛さは、まさに涙がちょちょ切れるほどの痛さっていえるんじゃないのかな。立ったり、すわったり、うしろをふりかえったり…というような、人間のなにげない動作に秘められたパワーはけっしてあなどれない。ためしに、いまの彼女のように、まえかがみになろうとしているひとの、ちょうどあたまがうえから振り下ろされる瞬間に、じぶんのあたまをもっていってみるといい。その頭突きの威力といったらもう、すさまじいにちがいない。きっと目ん玉から星が飛び出るとおもうよ。
だから、やっぱりこの方法でも、彼女を助けることはできない。
彼女は、時間が止まってるせいで、まったくうごいてないようにみえてるだけで、いわゆる〈静止した状態〉ではない。まさに、運動のまっ最中の状態である。シンジが彼女のことを、忠臣蔵で吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭を旗本が『殿中でござる』とやったように、うしろから羽交い絞めにしたとしても、時間が動きはじめた瞬間に、一本背負い投げを食らった〈いなかっぺ大将〉のように、まえにすっ飛ばされるだろう。
では、彼女のなにげない動作パワーに負けないように、彼女のまっ正面に立って、時間がうごきだすタイミングにあわせて、おもいっきり助走をつけてタックルし、歩道にころがりこむっていうのは?
ざんねんながら、この作戦も却下せざるをえない。時間がうごきだすタイミングを見極めるのが非常に困難だからだ。いったいいつうごきだすのか、まったくわからない。タイミングがはやければ弾きかえされるだけだろうし、遅ければ……それは、もう、手遅れってことだ。実行すれば失敗は確実!一か八かの賭けはできない。時間がふたたびうごきだしてしまえば、もうあともどりはできないのだから。では、いったいどうするのか……
視界のすみっこのほうに、ピエロが立っているのにシンジは気づいた。
ちょうどスターバックス・コーヒーの入り口のまえだ。オレンジ色のポンポンが二つ、胸のところに、ボタンのようについている。シンジは昔からピエロは嫌いだった。だからサーカスを見にいったことがない。口が耳まで裂けたような、あの化粧がこわかった。スティーブン・キングの『IT』を読んで、よけいにこわくなった。いまあそこに立っているあのピエロも、『IT』のペニーワイズのようにどこか不吉な感じがする。胸のポンポンもペニーワイズとおなじだ。
ピエロはちいさい男の子に風船を手わたしていた。店の中にいた、あの若い奥さんのとなりにちょこんとこしかけていた、あの男の子だ。あの子はあのピエロが怖くないんだろうか……
「ねえ、その風船、ふわふわ浮かぶの?」と男の子がピエロにたずねた。
シンジはゾッとした。
おなじだ!『IT』とまったくおなじセリフ…。主人公ビッグ・ビルの弟ジョージーがペニーワイズに訊いたのとおなじセリフ──雨で水かさのふえた下水道の入り口のまえで、ジョージーはペニーワイズにそう訊き、そして、まっくらな下水道にひきずりこまれた。
「ああ、もちろんだとも。ふわふわ浮かぶよ」とピエロがこたえた。ペニーワイズがジョージーにそうこたえたように……。本当は笑っていないのに、化粧のせいで笑っているように見えるその顔で……
いったいどうすればいいのだろう。ほんとうに彼女を助けられるんだろうか……?
シンジにはわからなかった。
はじめはなんとかなると思っていたが、いまではまったく自信がない。そして、ヤツの存在……ヤツはいったいなに者なんだろう。なぜ彼女を殺そうとするんだろう。確信はないが、シンジにはあの男がトモミを殺そうとしているとしか考えられなかった。ピエロも気にかかる。あのピエロ……なぜか不吉な感じがする。ヤツの仲間だろうか?
もう時間がなかった。
「もういちど戻るしかないっ!」
シンジはストップウォッチを取りだし、3度目の、そして最後のリセットボタンを押した。