50 火星とナチス
むさくるしいチーチ・マリンの顔をしたイチローは、カウンターの下から、一枚の写真をとりだし、それをサタンの前においた。
ずいぶん古そうな白黒写真で、全体がセピア色に色褪せている。荒涼とした場所、まるで、アフガニスタンかどこかのように、草木が一本も生えていない、砂とごつごつした岩だけの背景のまえで、軍服姿のふたりの男が肩を組んで、カメラに向かって笑いかけている。そのふたりの横に、おそらく黒い金属の、なにか大きな物体が写っている。3分の2は写真からはみ出ているので、それがなんなのか、まったくわからない。
「その軍服は、どこの軍隊のものかわかるかい?」イチローが質問した。
「SSだろ?」サタンにとっては簡単な質問だった。
「SS? それなに?」トモミがサタンに訊いた。
「ナチス親衛隊でしょ?」シンジがこたえた。
「ナチスじゃない! なんどいったらわかるんだ、おまえたちは! ほら、ここを見ろ!」サタンは写真の中の一点をゆびさした。「この襟章…、二本並んだ稲妻のようなこの襟章。これは、ルーン文字の『SS』だ。親衛隊…Schutzstaffelの頭文字だな。東部戦線、背景から察するに、おそらく南方軍集団に編入された武装SS…ヴィーキング機械化歩兵師団の士官じゃないか? 襟章に白い点が4個ある。この男は少佐だな。もうひとりは、士官じゃないな。曹長だ。こっちは曹長。つまり、大隊長とその大隊付き先任下士官といったところだろう。どうだ?」
「半分は正解で、半分ははずれ!」イチローが笑った。
「どこが間違いなんだ? ヴィーキング師団じゃないのか?
ダス・ライヒか? それとも、アドルフ・ヒトラー師団なのか?」
「さあ、この二人が、いったいどこの師団の兵隊なのか、じつはぼくもよく知らない…」
「じゃあ、まちがいって、いったいどこだ!」サタンが食い下がった。戦史マニアのプライドが傷つけられたとあっては、このまま黙っているわけにはいかなかった。
「場所だよ。場所! ここは東部戦線じゃない」
「しかし、こんな荒涼としたところは、ロシアの山岳地帯しか考えられんだろう。それとも、北アフリカなのか? DAK(ドイツアフリカ軍団)にSSが?」
「ちがうよ。ほらよく見て! ココとココ…、山が見えるでしょ?」
ああ、たしかに山が見える…。しかも、どこか見覚えがあるような…、それも、つい最近見たような…。」
「ああっ! これは!」シンジが叫んだ。そして、酒場の窓の外をゆびさした。
「あのピラミッドじゃない?」
なにい? なんだとぉぉぉ?
サタンは窓の外にそびえる』“D&Mピラミッド”と写真をなんども見比べた。本当だ…。ここに写っているのは、あのピラミッドにまちがいない。しかも、この写真は、おれたちがいまいる方角から撮ったもののようだ。ということは、つまり、このSSのふたりは…。
「ナチスが火星に…」
再三にわたって、ナチスという単語をつかうなと言ってきた本人の口から、つい無意識のうちに、その単語が漏れ出てしまうほど、それは衝撃的な写真だった。
そのとき、酒場の扉がギィーッときしみ、そこに男がふたり立っていた。ふたりともおなじデザインのフィールド・グレイの軍服を着ていた。しかし、よく見ると、おなじデザインのようでも微妙なちがいがあった。先に店に入ってきたほうのズボンはだぶだぶで、そのすそを編み上げブーツのなかにたくしこんでいたが、あとから店に入ってきたほうは、ももの部分がふくらんだ乗馬ズボンのようなデザインで、しかもブーツは長靴だった。あとから入ってきたほうは、将校にちがいない。
サタンはそのふたりと、手元の写真を見比べた。
「こいつらだ…」
「えっ? ほんと?」シンジが写真をのぞきこんだ。「ほんとうだ!」
「え? なになに?」トモミが身を乗り出した。「あいつら、ナチスなの?」と大きすぎる声で訊くので、シンジとサタンは、あわててトモミの口を塞がなければならなかった。
「しーっ! 声が大きいよ、トモちゃん!」
「そうだぞ! このバカ! ナチスっていうのは、連中を侮辱した呼びかたなのをわすれたのか? どうせ、おれの授業なんか、ろくに聞いてなかったんだろう」
「ちゃんと聞いてたわよ。ナチ公とか、ナチ野郎っていう意味なんでしょ?」
「声が大きいってばっ!」シンジがまたトモミの口をふさいだ。
そのとき、親衛隊の少佐の制服を着たほうの男が顔を上げて、シンジたちのほうをみた。そして、その男は、席を立って、シンジたちのほうにむかって歩いてくるではないか!
しまった! 聞こえたのか? ナチスって呼んだことを聞かれたのか? シンジは少佐の右手が、よもや、ワルサーP-38のホルスターにかかってはおるまいな!と確認したが、少佐の右手の人差し指と中指のあいだには、たったいま火をつけたばかりのタバコがはさまれていて、今すぐそれを投げ捨てて、ホルスターのカバーを開けようとしているようには見えなかった。
「やあ、きみたち。ここの住人かい?」
トモミの隣にやってきた少佐が、三人の誰に訊くとはなしにそう尋ねた。
えっ? それって、どういうこと? ここの住人? ってもしかして、火星人かって訊いてるのか?
「やだな、少佐。そうに決まってるじゃないですか」バーテンが答えた。「地球からここへやってきたのは、少佐たちが最初でしょ? っていうことは、あなたたち以外は、ぜんぶここの人間ってことになる。ちがいますか?」
「はっはっは!」少佐は笑った。「そりゃたしかにそうだ! そうだ、きみたちにドイツワインをご馳走しようじゃないか! おい、きみ。まだたしか、何本か残っていただろ?」
バーテンはうなずくと、棚からワインのボトルをとりだし、カウンターの上にドンと置いた。
「あなたがたは、地球からやってきたのですか?」サタンが少佐に訊いた。
「ああ、そうだ。おれたちは、地球のドイツという国からやってきた。いま、おれたちの国は、戦争の真っ最中で、しかも負けつつある。軍人のおれがこんなこというのもなんだが、おそらく負けるだろう」
シンジは、まさか親衛隊の少佐の口から、『負ける』などという言葉が飛び出してこようとは思ってもみなかった。親衛隊の少佐が負けを覚悟しているとなると、少佐の生きている時代は1942年、スターリングラードで第6軍が壊滅したあとだろう。独ソ戦のターニング・ポイントであるスターリングラード攻防戦…。第6軍の30万人が壊滅したあの戦い…。あの戦いで、ドイツの歴史上、はじめて元帥が捕虜となった。
「ところで、少佐は、どうやって、ここまで来たんだ?」サタンが訊いた。「V2号ロケットか?」
「ロケット? まさか! あんなもので、ここまで来れるわけがない。突撃ボートだよ」
「突撃ボート? なんだ、それは…。B-boatのことか? あれはただの魚雷艇だろ」
「ちがう。そとを見てみろ! おれたちが乗ってきた船がそこにおいてある」
シンジたち三人は、ふたたび窓に駆け寄った。そして、三人が目にしたもの…。真っ黒に塗装された金属体…。写真にすこしだけ写っている、あの金属体…だった。
「あれは!」シンジが叫んだ。「UFOだ! ナチスが開発した『ベル型』の!」