5 老人と少年
シンジが倒れた自転車をおこし、コウスケが『さあ、行くぞ!』と声をかけた、そのときだった。
「ちょっと待ちなさい」
だれかが、二人を呼びとめた。
でも、だれかって、いったいだれ?
声のしたほうを、二人は同時にふりかえった。
そこには、くすんだネズミ色のジャンパーを着た老人が立っていた。
「そんなはずは・・・・・」
シンジが思わず叫んだ。
────そんなはずはない。ほんの何秒か前には、ぼくとコウちゃん以外だれもいなかったはずだ。出てこられるような、脇道もない。じゃあ、この人は、いったいどこから?
「何が、そんなはずは・・・・なんだい?」
老人は、楽しげにニヤニヤ笑いながらそう訊いた。
でも、老人が本当に笑っているのかどうか、シンジには自信がなかった。それほど、老人の顔には、深い皺が幾筋も刻まれていた。その皺が笑ってできたものか、あるいはもともとあったものなのか、判断することができない。本当は笑っていないのに笑っているように見えるだけなのかもしれない。
ピエロのように・・・・・・
その考えはシンジをぞっとさせた。背中のまんなかに冷たいものが走った。
シンジはちいさいころからピエロが嫌いだった。
「えーと、それは、その・・・・・・」
「おい、ジイさん。あんた、いったいどっから来たんだ?」
コウスケが訊いた。突然あらわれたハイエナに驚いて、立ちすくんでしまった息子のまえに、颯爽と登場した雄ライオンといったところだ。
「そんなことが重要なのかい? ワシがどこから来たか、なんてことが、おまえさんたちには重要なのかい?」
「重要ってわけじゃないけど」シンジがこたえた。「でも、ちょっぴり不思議な感じがするんだ。たしかに、さっきはだれもいなかったのに・・・・・・」
「確かに・・・・・・か。本当に『確か』なのかい? おまえさん、自信があるんだな?」
「自信があるかって言われても困るけど・・・・・・」
そうさ。確かに自信はない。笑っているかどうかもわからないんだから・・・・・・ピエロみたいに
「悪いが、ジイさん」シンジ、おまえはもうそれ以上喋るなという感じで、コウスケが割ってはいった。「ここで、あんたとくだらねぇお喋りしてるひまなんか、俺たちにはねぇんだ。ちょっと、いそいでるんでな。さあ、行くぜ、シンジ!」
「・・・・・・でも、コウちゃん。この人、ぼくたちになにか用事があるんじゃないかと・・・・・・」
「そんなもの、どうせ、ろくでもねぇ用事にきまってる。いいからほっとけっ!」
そう言い放つと、コウスケはちょうど通りかかった下級生をとっ捕まえ、紳士的とはとても言えない態度で、自転車の後ろに乗る許可を取った。そして「先に行くからな!」とヒラヒラと手を振り「おめーもはやく来ねーと、間に合わねーぞ!」と大声で叫けびながら行ってしまった。
────あの子も災難だな。まあ、ぼくは助かったけど。
でも、間に合わないって、いったいなんのことだろう・・・・・・。
「おまえさんは、行かなくていいのかい?」と老人が訊いた。
「そりゃ、行きたいよ。一緒に・・・・・・。でも、ぼくたちになにか用事があるんでしょう?」
「ぼくたちに・・・か」老人の顔から、にやにや笑いが消えた。
「『たち』じゃないよ。おまえさんに用事があるんだ」
そう言うと老人は、ルーク・スカイウォーカーに、正体を明かしたときの、ジェダイマスター〈ヨーダ〉みたいに、グウッと身をのりだした。そして、まっすぐにシンジの目をのぞきこみ、言った。
「とても大切な用事がね」
こんどは、シンジが身をのりだす番だった。
「とても大切な用事?」
「そうとも。お前さんにとって、すごく大切なことなんだ。ちょっとばかり突飛な話で、面くらうかもしれん。『このジイさん、頭イカレちゃってるんだ』と思うかもしれん。それでも、どうしても聞いてもらわねばならん! いいかね?」
シンジは大きく、コックリと音がするんじゃないかと思えるほど、大きくうなづいた。
それを見て、老人も満足げに小さくうなづき返した。
「よし。じゃあ、話すが、実はあまり時間がない。だから、バカげた質問に、いちいちこたえるわけにはいかんのだ。質問はしないと約束できるかね?」
「うん。わかったよ。質問はしない。でも、なんで・・・・・・」
「ほら、言った先からそれだ」老人はやれやれと言いたげに、小さく首を振った。「どうしてかって? それは、ワシがおまえさんをよく知っとるからだ。なんにでも首を突っ込む。根掘り葉掘り訊きたがる・・・・・・」
「どうして知ってるの?」
「やれやれ、またかい。どうして?なんで?なにが?・・・・・・。おまえさん、日本語の通じない国の生まれか?ワシの言ってること、ちゃんとわかってるんだろうな?」
老人は、ジャンパーの袖をまくりあげて、腕時計をみた。
「そらみろ。もうこんな時間じゃないか。グズグズしてはおられんぞ! 今後、いっさい口を開くことは許さんからな。わかったな!」
────いまチラリと見えた腕時計・・・・・・。もしかすると、ぼくのと同じ時計じゃあるまいか。
シンジは口を真一文字に結んだまま、コックリとうなづいた。 腕時計が気になるが、『その時計、ちょっとみせて』と言えるような雰囲気ではなかったので、シンジはグッと我慢した。
「よし。『どうして?』とか、『なんで?』もなしだ。いいな!」
ふたたび、シンジがうなづいた。
「まあ、いいだろう」そういうと、老人はもう一度時計をみた。「3時48分か・・・・・・」
そうつぶやくように言ったあと、老人は、深く息を吸い込み、フウッとゆっくり吐き出した。なにか重大なことをだれかに告げるとき、なかなか言い出せない自分に、きっかけを与えてやる────そんなときに、よくやるおまじないだ。
「いまから、12分後、ちょうど午後4時きっかりに、重大な事件が起きる!」
きっぱりとした口調だった。
シンジが目をおおきく見ひらき、かたく閉じたはずの唇がかすかにうごいたのを見て、老人は人差し指を一本だけ立てて、自分の口のところへ持っていった。『だまれ!』という万国共通のジェスチャーだ。・・・・・・ほんとうに万国共通かどうかは知らないけど。
眉毛は、スタートレックにでてくるバルカン人のミスター・スポックなみに吊りあがっている。
シンジはギュッと唇を噛んだ。
「おまえさんの今後の人生を左右する大事件だ。残念ながら、いまここで、事件の内容は言うことはできない。おまえさんがこれから取るべき行動に、少なからず影響を与えてしまうからな。ということは、おまえさんになにかアドバイスをしてやることもできんということだ。自分で考え、判断し、対処しなくちゃならん。つまり、自分だけの力で事にあたり、のりきらにゃならん。わかるな?」
シンジは無言でうなづいた。
「よし」老人もうなづいた。「ワシの言っていることは理解したようだな。さて、いまおまえさんの頭のなかには、一つの疑問がうかんでいるはずだ。『なにもわからないのに、どうやって事件を解決するのさっ!』っていう疑問がな」
シンジは、ジェスチャーゲームで正解が出たときのように、激しく首を縦に振った。そのしぐさが滑稽だったので、老人は思わず笑ってしまいそうだった。だが、今笑ってしまうと、この少年は、全部嘘っぱちだと決めつけてしまうかもしれない。だから老人は、笑いたいのを必死にこらえた。
老人は、右手をジャンパーのポケットにつっこんだ。ポケットからでてきたとき、右手はかたく握られていて、その拳を、みぞおちめがけて放たれた強烈なボディーブローのように、シンジの胸元に突きだした。
「そこで、こいつが役に立つ」
手がパッとひらくと、まるくてひらたい時計のようなモノがなかからあらわれた。懐中時計のように見えるが、針が一本しかなく、その針は、ピタリと12時の位置をさしている。
ストップウォッチだ!
最近のものは、黒いプラスチック製で、針はついておらず、液晶のデジタル方式のものが多い。
だが、老人の手のひらのうえものは、ピカピカに磨かれた金属製で、白い文字盤に、ちいさなたくさんの目盛りが書き込まれている。文字盤の右側の部分に、さらにちいさな文字盤があり、そこにもちっぽけな針がついている。大きな文字盤の1周が1分、1目盛りが1秒になっている。ちいさいほうの文字盤は、一目盛りが一分。サッカー場の時計のように、全体の4分の3のところまで、普通の時計でいうと9時のところまでしか目盛りがない。小さいほうは1目盛りが1分だから、15分まで計測可能なストップウォッチのようだった。
「こいつはストップウォッチだ。見たことがあるだろう?」
シンジは、ウンウンと二度、うなづいた。
「そうだろうな。だれだって、一回や二回は見たことがある。50メートル走のとき、先生がよそ見をしてるすきに、何秒息を止められるか、なんてのを、こいつで計ったりしたことがあるだろう?」
シンジは思わずプッとふきだしそうになった。本当に、そのものズバリの使い方をしたことがあるからだ。
「だが、こいつは、おまえさんがいじくってたのとは、ちょっとばかり違う。これから使い方を説明するが、もう一度、確認しておかなくちゃならん。いいか、質問はなしだ。一言だって、口を開いちゃいかん。わかってるな?」
もう、いい加減にしてよと言いたげな、うんざりしたような顔つきで、シンジはうなづき返した。
老人は、ストップウォッチの竜頭を、すぐに親指で押せるように持ち替えると、左腕の時計の文字盤をのぞきこんだ。
シンジは老人の腕時計をもっとよく観察する機会を得た。
─────やっぱりぼくのと同じ時計だ。
ブライトリング・ナビタイマー
父さんの時計・・・・・・
戦う男の時計・・・・・・
「3時49分と30秒か・・・・。ちょっと、待ってておくれ。こいつはきっかり10分前にスタートさせねばならんからな」
老人は時計の秒針をにらみつけながらそう言った。ストップウォッチを持つ右手の筋が、ギリギリと音を立てるんじゃないかと思えるほど、浮かび上がっていた。老人は、腕時計をのぞきこんだまま、ピクリとも動かない。こめかみに、ひと筋の汗が流れ、頬骨のでっぱったあたりでとまった。表面張力でまんまるにふくらんだその汗は、いまにも流れだしそうだったが、重力と頬骨のでっぱり具合の絶妙なバランスによって、なんとかその場所にふんばっていた。
────ああ、僕だったら、汗があんなふうに溜まってたら、ムズムズして仕方ないんだがな。
そんなことを考えながら、シンジが老人の汗のしずくを見つめていたときだった。
カチリ!
と、乾いた音がした。その瞬間、老人の頬骨の汗がスッと流れた。
フウッと小さく息を吐き出し、老人は「これでよし」と言った。そして、ストップウォッチを持ったほうの手の甲で、汗の流れた頬骨のあたりを拭った。
────あっ! やっぱりこの人も気になってたんだ!
老人の仕草を見て、シンジはそう思った。
「こいつは間違いなく作動させたよ。あとは、おまえさんの働きしだいだ」
老人は、ストップウォッチをシンジの手の上に置いた。
「いいかい。こいつには、陸上部の先生が首からぶら下げていたような、あの、便利な黒いヒモはついちゃいない。だから、落とさないように、しっかり持ってなきゃならん!」
そう言われて、手の中のストップウォッチが、急に重たくなったように、シンジには感じられた。
「さて。ここからが大事なとこだ」老人はその皺くちゃの顔をシンジにグッと近づけた。
「今から10分後、午後4時きっかりに時間が止まる」
「えっ? 今なんて・・・・」
老人との約束など、はるか北極の彼方まで、すっ飛んでいってしまった。
「質問はなしだ。いいな!」
老人はピシャリと言った。
「止まるといっても、ずっと止まっているわけじゃない。せいぜい10秒、長くて12・3秒ってとこだ。時間が止まっているのに、10秒って考えるのはちょっとへんだが、とにかく、それくらいの時間しかない。だから、おまえさんは、その、与えられた10秒のあいだに、なにが起きて、そのあとどうなるのか、そうならないために、なにをすればいいのか! そういったことをすべて、見極め、考え、行動する。そいつを持ってれば、時間が止まっても、おまえさんだけは、その中で動くことができる。そして、もし、どうにもならないと判断したら、右側の小さいボタンを押すんだ。そいつを押すと、全てがリセットされる・・・・・・あっ、待て! 今は押しちゃいかん!」
シンジは慌てて人差し指をリセットボタンから離した。
「やれやれ、おまえさんには、いつもながら冷や冷やさせられる。そのリセットボタンを押すと、全ての針がゼロの位置に戻る。すると、時間もゼロの位置、つまり、ワシがそいつを作動させた時間、3時50分00秒に戻る。お前さんが4時きっかりにどこにいようと、たとえ、そこがサハラ砂漠のど真ん中だろうと、3時50分にいた場所、つまり、ここだな。ここへ、すっ飛んでくるって具合だ。ただひとつだけ、リセットされないものがある。それは、お前さんの記憶さ。まずいことが起きたら、すぐにボタンを押すんだぞ。そして、もう一回やり直す。記憶が残ってるから、今度はへまはしない。わかるな?」
シンジはうなづいたが、わかったからうなづいたわけではなかった。
────わかるな?と言われたら、うなづくしかないじゃないか! だけど、こんな突拍子もない話、わかってたまるものかっ! 時間が止まるだって? 3時50分に戻るだって? それってつまりは、10分過去にさかのぼるってことじゃないか! そんなことできるわけがない。でも、ひょっとすると、あり得ないことではないかも・・・・・・。スタートレックじゃあ、しょっちゅうそんなことが起きてるし・・・・・・。
「おまえさんのその顔、ワシの言うことなんか、全然信じちゃいないって顔だな。まあ、いい。一度経験すれば、コツはすぐに飲み込める。最初の一回は、状況を把握するだけで精一杯だろうからな。ボタンを押して、戻ってくればいい。二回目からが本番だ。ただ、厄介なのが、この手の便利な代物は、おうおうにして使える回数が決まっている場合がおおい。アラジンの魔法のランプのようにな。もちろん、こいつも例外じゃない。使えるのは3回までだ。3回使ったら、こいつの効き目はなくなっちまうんだ。したがって、最後は時間は止まらんし、やり直しもできん。だから、なるべく早く、ケリをつけるんだ。忘れるなよ。3回だぞ」
シンジは神妙な顔でうなずいた。
老人はブライトリングの腕時計を見た。
「いかん! あと7分だ。すぐに出発するんだ!」
「でも、少しはぼくの疑問に答えてくれたって!」
我慢しきれず、とうとうシンジが口をひらいた。
「そうだな、答えになるかどうか、ワシにはわからんが、スタートレック・ファンのおまえさんに、キャスリン・ジェインウェイ艦長のこの言葉を送ろう。たしか、こんなふうだった。『時間移動におけるパラドックスを解決する一番の方法・・・・・・それは、考えないこと!』」
「どうして、ぼくがスタートレック・ファンだと・・・・・・」
「さあ、行った、行った。幸運を祈ってるぞ」
老人は両手でシンジの肩をつかむと、くるりと回れ右をさせ、さっさと自転車に乗るようポンポンと尻を叩いた。
シンジは渋々自転車にまたがり走り始めた。
一番重たいギアしか使えないので、なかなかスピードが上がらない。
業を煮やした老人が、自転車の荷台を、ボブスレーのオリンピック選手なみの勢いで押しはじめた。
「おい、もっとすっ飛ばさんと、本当に間に合わなくなるぞ!」
「わかったよ。うるさいなあ」
シンジの自転車は、おばさんの乗る軽自動車くらいのスピードになった。
老人は、見る見る小さくなるシンジの後姿を、いつまでも見送った。ボサボサの髪の毛も、風ではためくダブダブの学生服も、すべてがただのちっぽけな黒い点にしか見えなくなったとき、老人は、つぶやくようにこう言った。
「がんばるんだぞ。シンジ」