48 こいつ、ただのオカルトマニアじゃないな
カシャッ、カシャッ、という拍車の音が、カウンターのかげに身を潜めている三人のほうに……
三人ではなかった。そこには、もうひとりいた。シンジ、トモミ、中身がサタンの老いぼれ、そして、そのとなりに…
「どうするんだ? あいつはかなりやばいぞ!」その男が言った。
「あれ? チーチ・マリン? あなたは、チーチ・マリンでしょ?」
シンジがその男に質問すると、彼が答えるまえに、サタンが口を挟んだ。
「だれだ? そのチーチ・マリンって」
「ロバート・ロドリゲス映画によく出てくる、脇役専門のコメディアンだよ。“フロム・ダスク・ティル・ドーン”じゃあ、ひとりで3役やってた」
「脇役専門? 辻親八みたいね。吹き替えはきっと辻親八じゃない?」
素っ頓狂なトモミは無視して、シンジはその男に訊いた。
「こんどは、バーテンの役やってるだね。ところで、あの男のことを知ってるみたいだけど…」
「おまえの言うとおり、おれはバーテンだが、役ってなんのことだ? まあいい。ところで、おれはあいつを知っている。直接見たのは今日がはじめてだが、噂で聞いたことがある。隣町のバーで、そこでたむろしていたごろつきども20人が、あいつたった一人にやられたってはなしだ。噂ってものは、とかく尾ひれ胸びれがついて、ばかでっかくなるもんだが、さっきのあいつを見ただろ? 銃の腕前はほんものだ。さて、どうするんだ? おれはバーテンだから安心だが…。バーテンは決して死なない。むかしから、そう決まってるんだ。だが、おまえらは死ぬ。バーテンじゃないからな」
なに言ってやがるんだ? サタンはふりむいて、男の顔をみた。この状況で、バーテンだけが助かるはずがないじゃないか! 大虐殺の目撃者を殺さないわけがない。
拍車の音がとまり、なにかが、バンッと音を立てて、カウンターをたたいた。
「おい! オヤジ! いつまで隠れてるつもりだ?」
あいつだ! とうとう、カウンターの前までやってきやがった! どうする?どうするどうするどうするどうするどうするどうするっ! このままじゃあ、三人ともやられる! いまにも、あいつは、カウンターに身を乗り出してのぞき込み、おれたちをみつけるだろう。なにか、武器はないか? ふつう、酒場のオヤジはショットガンを隠し持っているものだ。
サタンはあたりをきょろきょろ見まわしたが、そんなものはどこにもなかった。
シンジが、床に転がったウイスキーのビンを拾い上げ、ビンのくびを握って逆さに構え、いつでもあいつのあたまに叩き込めるよう身構えた。トモミはデザート・イーグルを両手に持ち、カウンターにピタリと張り付いて、上を見上げていた。
「おい、オヤジ! おれは、のどが渇いた。なにか飲み物をくれ」
おい! あいつはおまえを呼んでる。とっとと顔を出せ!
サタンはひじで、チーチ・マリンのわき腹を小突いた。チーチ・マリンは『おれだって、まだ死にたくない』と声をださずに必死の形相で訴えた。
サタンがマリンの腹の肉を、ぎゅっとひねり上げた。
「痛ってぇぇっ!」チーチ・マリンは飛び上がった。
「なんだ。ちゃんとそこにいたんじゃないか! ビールをくれよ」
バンデラスが言った。
チーチ・マリンは、カタカタと震える手で、ジョッキにビールを注ぎ、バンデラスに出した。バンデラスは、それを一口すすると、顔をしかめ、口の中身を吐き出すかにみえたが、ごくりと飲み込み、ジョッキの残りも、いっきにのどに流し込んだ。そして、どんっとジョッキをカウンターに置き、こう言った。
「あんたに言われたとおり、邪魔者は全部かたづけたぜ。ところで、この小便みてえなビールは、あんたのおごりでいいんだろ?」
マリアッチはにやりと笑うと、ブーツの拍車を鳴らして、店から出て行った。
「どういうことだ?」サタンが立ち上がり、チーチ・マリンに詰め寄った。「この殺戮劇は、あんたが仕組んだのか?」
「邪魔だったから、消えてもらっただけだ。こいつらは、もともとおれのものじゃないからな。あんたが呼んだ連中だ。だから消したんだよ」
なに? ひょっとして、こいつが、本体なのか? オカルト野郎の本体は、こいつなのか?
「おまえ、おれの正体を知ってるのか?」サタンは訊いた。
「ああ、もちろん。おれのあたまにもぐりこんだあんたは、サタンだろ?」
「・・・・・・」なんてことだ。
「あんたはサタンだ。つまり、堕天使ルシファー!」
やれやれ、まちがいない。こいつが本体だ。まだそんなこと言ってやがるのか。いっそのこと、岸部露伴でも呼んで、“ヘブンズ・ドア”であたまのなかを、丸ごと書き換えてもらうか? それが手っ取り早いんじゃないか?
「おまえが、オカルト野郎の本体!」
立ち上がって、シンジが大きな声で言った。
「おいおい、オカルト野郎とは、これまた失敬な…。ちゃんと、名前で呼んでほしいな」
「ええーと、なんて名前だっけ」
「おい、こら! おれの名前を忘れたのか?」
「ごめん。忘れた…」
「なんてやつだ! クラスメートだろうが!」
「あんたの影がうすいからよ!」ドスの聞いた声でトモミが言った。「影がうすいのはだれのせいでもない! あんた自身の問題よ。シンちゃんが悪いわけじゃない。それに、わたしだってあんたの名前を知らないもん」
いまの一言は利いたな…とサタンはひとりほくそえんだ。おそらく、こいつはいま、この女がここにいること自体にかなりおどろいているはず。それは、いい意味での驚きだ。こいつだって、健全な少年の精神をもっているなら、この女に好感をもっているはずで、その女がここにいることについて、あれこれ理由をつけようとしているだろう。ひょっとすると、なにか特別なものでつながってるんじゃないのか?…てな具合に、勝手に妄想をふくらませているだろう。その相手からの、いまの一言…。そうとうなダメージをうけたに違いない。
チーチ・マリンの格好のオカルト野郎が、サタンの肩をつかんで、すがりつくように訊いた。
「先生は? 先生なら、おれの名前くらい…」
「知るか! ばかめ! だいいち、おれは先生なんかじゃない! さっきおまえも言ったろ? おれはサタンだ。おまえらが、ガンダルフと呼んでいる老いぼれじゃない」
「なんて薄情な連中だ。しかたがない。おしえてやる。おれの名前は…」
「べつに、あんたの名前なんて、どーでもいいわ。聞いても、どうせすぐに忘れちゃうだろうし。クラス替えのときに、わたしやシンちゃんだって、あんたの自己紹介を聞いたはずだけど、忘れちゃったのは、忘れてもなにも問題がなかったからにちがいない。だから、いまさら教えてもらわなくったって…」
「せっかくそう言ってるんだから、教えてもらおうよ」シンジが助け舟をだした。
「シンちゃんがそう言うなら、いいわ。さあ、言ってみて」
「・・・・・・」
あらためて、そう言われると、かえってなかなか言い出しにくいものである。
「あっ、そうだ! おもいだした! 山田君でしょ? 山田君じゃなかったっけ?」シンジがうれしそうに声をはずませて言った。
「そ、そうだ。やっとおもいだしてもら……」
「平凡な名前ね。だから、すぐに忘れちゃったのね。シンちゃん、よく覚えてたわね」
「ええーと、ぼくは、“おじゃまんが山田君”のファンだから、覚えてただけ…」
「へー、おじゃまんが? なんだかわかんないけど、シンちゃんのあたまのなかには、わけのわかんないものが、いっぱいはいってるのね。しかも、それがちゃんと役に立ってる。すごいわ! さすがね!」
そうだ。やっと気づいたか。サタンは満足げににんまり笑った。シンジは照れくさそうにあたまをぽりぽりと掻いて笑った。でも、山田…なんだっけ? 思い出せないや。
「それで、山田…なに?」シンジの思念を受け取ったかのように、トモミがそう訊いた。
「イチロー…」
マジでか! サタンはプッと吹きだしそうになった。いかん、いかん。名前を聞いて笑うことほど失礼なことはないからな。ところで、こいつ、ほんとうのことを言ってるのか? そんな、銀行の申込書の見本に書いてあるような名前のやつが、ほんとうにいるのか?
「へえー、かっこいい名前じゃない」
「え?」おそらく、オカルト野郎は、そんなことを言われたのははじめてなんだろう──こころから驚いた顔で、トモミをみつめている。
「イチローなんて、最高じゃないの! たぶん、アメリカ人がいちばん知ってる日本人の名前よ」
山田イチローの顔が、日陰から太陽の下にでたときのように、ぱっとあかるくなった。これが、トモミのパワーだ! そして、ぼくがいちばん好きなところ…シンジはトモミの魅力を再認識した。
「ぼくは、ちいさいころから、この名前のせいで、ずいぶんバカにされ、いじめられてきた。病院の待合室でも、ぼくの名前が呼ばれるたびに、まわりでヒソヒソ話が起きるんだ。だから、そのまま知らん顔して、うちに帰ったことだってある。それも、一度や二度じゃない。たぶん、ふたりがぼくの名前を忘れていたのは、ぼくがそうなるように気を配っていたからだ。身の回りのものにも名前を書いたことがないし、授業中も休み時間も、極力目立たないようにしてきた」
「だったらなぜ、おまえはさっき、目立つような行動をとった? 『サタンはルシファーだ』などと、すすんで手を上げて発言したわけは、いったいなんだ?」
「それは、あなたがガンダルフじゃないと気づいたから。なにか、別のものが憑りついたように感じたから。そして、それはおそらく、サタンと呼ばれるものに違いない、おそらく、ヒットラーに憑りついたものとおなじものが、入り込んだんじゃないか? と直感したんだ」
なんてことだ…。こいつは、ただの人間のくせに、そこまで見抜いていたっていうのか? あなどれんな。ひょっとして、ただのオカルトマニアじゃないのか?
「ところで、ここはいったいどこなんだ? いかにも“地の果て”っぽいここは、いったいどこだ?」
「火星」
ええー!? と三人は同時におどろきの声をあげた。
「火星って、あの火星? 地球の外側をまわっている?」シンジがもういちど確認した。
「そうさ。あの火星。ここは、火星にある古い街で、シドニア地区にある。有名な“人面岩”のすぐ近くだよ」