44 海の獣と陸の獣
このまま、俺はここで遭難するんじゃあるまいか?
サタンは不安になった。走れど走れど、いっこうに目的地にたどり着ける感じがしない。目的地である地平線上の街並みは、徐々に大きくなるどころか、遠ざかっているようにすら見える。現実の世界では、そんなことは絶対に起きるはずはないのだが、なにしろココは現実の世界ではない――かなり、いや、相当にイカレた奴の頭のなかだ。何が起きても不思議じゃないが…。
全速力で走ってきたが、それももう限界だった。赤みがかった砂の上を、死に損ないの老いぼれの、くたびれた身体にムチを打って、それこそ死に物狂いでここまで走ってきたが、このままでは、ほんとうにこの老いぼれは、おっ死んでしまうだろう。
「失敗だったな。コースケを経由して、こいつにもぐり込むんだった…」
サタンはちょぴり後悔した。後悔といえば、そもそも、こんなところへ来るんじゃなかった。こいつが、サタンはルシファーのことだと思い込んでいようがいまいが、そんなことどうだっていいことじゃないか!えっ?そうだろ?
「いや、そうもいかないんじゃない?」
突然の声に、サタンは文字どおり、ギョッと飛び上がった。
「だっ、誰だっ?」
サタンはキョロキョロと辺りを見まわした。自分の真後ろに小さな岩山があり(そんなばかなっ!たった今、俺はその方角から走ってきたんだぞ!)、見上げるとそのてっぺんに、黒い人影がちょこんと座っていた。逆光で顔はよくわからないが、その声はどこかで聞き覚えがあった。
人影は岩山の上にすっくと立ち上がると、膝を曲げ、両手をうしろに引いて、ジャンプの態勢に入った。
「お、おいっ!まさか、その高さから飛び降りようっていうんじゃ…」
岩山のてっぺんから地面まで、控えめに見積もっても、ビルの三階ほどの高さがある。いくら地面が砂だとはいえ、円錐形の岩山の、ゴツゴツした斜面に着地するはめになるかもしれないじゃないか。実際のところ、助走なしでは、砂のところまで飛ぶのは不可能のようにみえる…。
黒い人影の膝が、勢いよくグンッと伸び、両手が振り上げられると同時に、足が岩山を蹴って離れた。
「くそう! こいつ、ほんとにやりやがった!」
人影は、背をのけぞらせた格好で、フワリと空中に飛び出すと、山の斜面はおろか、サタンの頭上をも飛び越えて、サタンの目の前に、背中向きに、片膝をまげ、右手だけを地面についた、短距離走の選手のクラウチング・スタートのような格好で、砂煙を巻き上げて着地した。
「しっ、信じられんっ!」
サタンがあんぐりと口をあけて見つめていると、その男はゆっくりと立ち上がると、クルリと回れ右をして、ニカーッと笑った。
やっぱりだ! シンジのやつだ。
「お、おまえ…、ここでなにやってるんだ? どうやって、ここに来た?」
「知らない」シンジは答えた。「気がついたら、そこの山のてっぺんにいた。下を見たらミスター・サタンがいたから、飛び降りたんだ。見た目はガンダルフだけど、なかにいるんでしょ?」
「たしかに、おれはなかにいるが…。そんなことより、おまえ、どうやったんだ? あんなところから、どうやって飛び降りた? なぜ、そんな無茶なまねをした?」
それを聞いて、シンジはニヤリと笑った。
「現実じゃないから。ここは現実の世界じゃない。だから何だってできる…と思う」
「思う…っておまえ、確信があったわけではなかったんだな?」サタンはあきれたようにそう訊いた。
「でも、なんともなかったでしょ?」
なんてやつだ、まったく…。こっちは寿命が縮むかと…。まぁ、おれには寿命なんてものはないが。…しかし、解せんな。シンジのやつは、どうやってこいつに入り込んだんだ? このオカルト野郎のガードが、とびきり甘いということか? …いや、そんな理由で、ただの人間が、他人の頭のなかに、自由に出たり入ったりできるものでもない。となると、行き着く結論はひとつ…シンジの能力ということになる。たしかにシンジは、そこいらにゴロゴロ転がっている奴らとは違う。だが、不可能なことは、やはり不可能なのだ。シンジがここにいるという事実は、シンジがただの人間ではないという証拠にほかならない。シンジは、ただの“黄金の精神をもった忌々しい代物”じゃないってことになる。
おい、ちょっと待てよ。まさか、そんな…。シンジは“海から来た獣”なんじゃ…。ヨハネの黙示録に書いてある、サタンが集める二匹の獣…。二匹の獣? すると、もう片方はいったい…。
すぐにサタンは、もう一匹の正体に思い当たった。
「あの女だ…」
“陸から来た獣”はあの女――トモミにちがいない。なんてことだ。俺はなんてことをやっちまったんだ。知らず知らずのあいだに、まんまと奴らの書いたシナリオどうりのことをやっちまった…。
「なんてこった…」サタンはがっくりと肩を落としてつぶやいた。
「なに落ち込んでるの?」とシンジが危機感のかけらもない調子で訊いた。
「おまえたちは、ひょっとして…」サタンは、腹の底からしぼり出すような声でいった。
「おまえたちって、だれのこと?」
「おまえと、あの女のことだ!」
そう言い放った瞬間、サタンは、自分の背中のほうに、なにやらぞっとする気配を感じた。そして、ゆっくりと後ろを振りかえると、そこに…
「あの女、あの女って、ちょっと失礼じゃない?」
なにい? ま、まさか…
サタンが振りかえると、そこに、白いまるいテーブルがあり、砂に突き刺したビーチパラソルでできた影の中に、白いエナメルの、踵がおそろしく高いハイヒールのサンダルを履いた、肌のなめらかな長い脚を優雅に組んで、女が座っていた。その女は、アガサ・クリスティーのミステリーにでてくる大富豪の令嬢といったふうな、サングラスをかけ、大きなつばのついた帽子をかぶり、白いスイミング・ガウンを羽織っていた。女は、なにやら得体の知れない、色鮮やかな液体のはいったグラスを持ち、ストローで中身を一口すすったあとで、ハァーイと手を振って、こう言った。
「わたしには、トモミっていう名前があるんだから、ちゃんと名前で呼んでほしいものね!」
やっぱりだ。この女が“陸から来た獣”なのはまちがいない。ちくしょう。悪の三位一体が完成しちまった。どうする?
・・・・・・・・
いや、ちょっとまてよ。いったい、いつのまに“第七の封印”は解かれたんだ? 7人のラッパ吹きどもは、いったいいつラッパを吹いた? あの小生意気な天使は、香炉を地面に叩きつけたのか?
「なに、ひとりでブツブツ言ってるの?」
突然シンジに声をかけられて、サタンは口から心臓が飛び出しそうになった。目の前に立っているシンジは、きょとんとした顔をして、ちょっと小首をかしげて、こっちをみつめている。
(こいつが、全世界を征服しようと企んでいるようにはとても見えんが…、ん? これはいったいどういうことだ? シンジは学生服を着ている。が、あの女のあの格好はなんだ? ガウンの下は恐らく水着にちがいない。ここにやってきたのが、陸の獣の力なら、あの女は、自らあの格好を選択したということになるが…)
「ちょっとぉーっ! なによ、この格好ぉー!」
トモミが大声で叫んだ。ガウンの前をぱっと開くと、そこから彼女の豊かな胸が、ポロンと転げだした。
「キャーッ!」と悲鳴を上げて、トモミはあわててガウンの前を閉じた。
まん丸な目をして、トモミの様子を見ていたシンジのにやけた顔にむかって、なにか硬そうなものが飛んできて、ちょうどおでこのあたりに命中し、カンッと乾いた音をたてた。
「痛ってぇー!」
飛んできたものは、ステンレスかアルミニウムでできた灰皿だった。投げたのは、言うまでもなく…
「シンちゃん、いま見たでしょ! ふんっ! 今日のところは、その程度でゆるしてあげるけど、こんど見たらぶっ殺す!」
くそう。まただ。また、このパターンだ。こいつらがいると、話がどんどん脇にそれてしまう…。整理だ。思考を整理する必要がある。
さて、そもそも、おれがここにいる理由はなんだっけ?
―─サタンはルシファーじゃないと解らせるため…だったんじゃない?
おお! そうだった。そのために、俺はこんなところまでやってきたんだった。まったく、なんてところだ、ここは、まったく。これこそまさに“地の果て”と呼ぶにふさわしい。ところで、えーと、俺はなにをしてたんだっけ?
―─あそこに見える街のようなところに行こうとしてたんでしょ?
おお! そうだ! そうだった…。…ん? だれだ? シンジか? 俺の思考に入り込んでいるのは! もしかして、…シンジか?
「なんだか、あそこに見える街並みって、モスアイズリー宇宙港のように見えない?」
シンジが言った。
「お、おい! シンジ! おまえ、いま、俺の心に入り込んだのか?」
サタンは、目ん玉を飛び出さんばかりに見ひらいて、そう訊いた。
「えっ? なんのこと?」キョトンとした顔で、シンジが訊きかえした。
「おまえ、俺の心に入り込んだだろ!」
「そんなことしてない。いったいなにが言いたいの?」
こいつ…、すっとぼけてるのか? それとも…、ほんとうにわからないのか?
「ねえ、あそこに行くんでしょ? モスアイズリーの町に! たのしみだな。ハン・ソロに会えるかな」