43 堕天使ルシファー
「きみは、ヒトラーに憑りついていた“あいつ”の正体を知っているのか?」
サタンは、オカルトマニアらしいその生徒に訊いた。
「もちろん!知っていますとも!」その生徒は胸を張った。
「いったい誰だね?」
「堕天使ルシファー」
なんだと? なに寝ぼけたことを言ってるんだ? こいつは…
「たしか、きみはサタンが憑りついた…と言わなかったか?」
「はい。ですから、サタンの正体は堕天使ルシファー…」
「ちょっと待てっ! ルシファーがサタンだと言いたいのか? 冗談ではないっ! サタンはあんな羽根の生えた小僧などではないぞっ! いっしょにしてもらっては困る。いったいどこのバカが、おまえにそんなたわごとを吹き込んだんだ?」
ガンダルフのあまりの剣幕に、その生徒はたじろいだ。
「…えー、たしか、聖書にそう書いてあると…」
「イザヤ書 14章12節のことを言っているのか?」
◆◇◆◇◆◇
輝くもの、ルシファーよ、ああ、あなたが天から落ちようとは! 諸国の民を無力にさせていたものよ、あなたが地に切り倒されようとは!
あなたは心のなかで言った。『わたしは天にのぼる。わたしは神の星のうえにわたしの王座をあげ、北の最果ての会見の山に座すのだ。わたしは雲の高きところのうえにのぼり、自分を至高者に似せる』と…。
しかし、あなたはシェオルに、坑の最果てに下ろされるであろう
(イザヤ書 第14章12~15)
◆◇◆◇◆◇
サタンは聖書の一説をそらんじた。
「これのどこに、サタンはルシファーだと書いてある? 下っ端の小僧が、分不相応な高望みをして懲らしめられた…と書いてあるように思えるんだが、どうだ?」
「聖書のことは、よくわかりませんが…」とオカルトマニアの生徒は、うつむき加減にこたえた。
「わからんだと?」サタンは机を拳でドンッと叩いて言った。
「たったいま、おまえがそう言ったんだぞ! 聖書に書いてある…とな! いいか! 聖書のどこにも、サタンはルシファーだなどと書いてない! よく考えてみろ。サタンの最初の悪行はなんだ? 誰か知っているものは?」
「・・・・・・」
答えられる生徒は誰もいなかった。そもそも、生徒たちはそれどころではなかった。こんなガンダルフを見るのははじめてで、そのあまりの変貌ぶりに、すっかり度肝を抜かれていたからだ。
サタンは、比較的冷静そうな表情で、ことの次第をみまもっていたひとりの女子生徒を指さした。
「おまえ、知ってるか?」とサタンはその女子生徒に訊いた。
「禁断の果実。ヘビがそれを食べるよう、イブをそそのかした」
トモミがこたえた。
「そうだ!そのとおり!」
(やっぱり、こいつは頼りになるな。)
サタンはひとりほくそ笑んだ。
◆◇◆◇◆◇
さて、神が創られた野のすべての野獣のうちで、ヘビがもっとも狡猾だった。それで、ヘビが女にこう言いはじめた。「あなたがたは園のすべての木から食べてはならない…と神が言われたのはほんとうですか?」
それにたいして女はヘビに言った。「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。でも、園の真ん中にある木の実を“たべること”について、神は、『あなたがたはそれから食べてはならない。いや、それに触れてもならない。あなたがたが死ぬことのないためだ』と言われました。
それにたいしてヘビは女に言った。「あなたがたはけっして死ぬようなことはありません。その木から食べる日には、あなたがたの目が必ず開け、あなたがたが必ず神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです」
そこで女は見て、その木が食物として良く、目に慕わしいものであるのを知った。たしかに、その木は眺めて好ましいものであった。それで彼女はその実をとって食べはじめた。その後、共にいたときに夫にも与え、彼もそれを食べはじめた。
すると、その二人の目は開け、ふたりは自分たちが裸であることに気づくようになった。そのため、彼らはイチジクの葉をつづり合わせ自分たちのために腰覆いを作った。
(創世記 第3章1~7)
◆◇◆◇◆◇
(しかし、まあ、なんてへたくそな翻訳だろう…。中学の一年坊主だって、もうちょっとマシな訳し方ができるってもんだ。こんなことだから、この国じゃあキリスト教がそっぽを向かれているんだな)
サタンはため息をもらした。
「ヘビが女に話しかけた…とある。つまり、ヘビのなかに何者かが入り込んでいたということになるな──普通ヘビは話しかけたりせんものだ。ここで重要なのは、このとき“ルシファー”はまだ神の御使いだった…ということだ。ふとどきな野心などまったく持っていない、忠実で真面目な天使の一人だった。つまり、この事件は、サタンはルシファーではないということを証明する決定的な証拠なのだ」
(まったくばかばかしい。なんでおれがこんなことを証明しなくちゃならんのだ? 本人がそう言っているのだから、これほど確かなものはないってもんだ。人間、もっと素直にならなきゃいかんぞ!)
「つまり、先生はそのときのヘビがサタンだったと言いたいんですね」とオカルトマニアが念を押した。
「ヘビはヘビだ、ばかめ! なかに入り込んでいたと、さっきおれは言ったはずだ。そして、女に禁断の果実を食べるようそそのかした。まちがいなく、サタンが最初に人間に行った“悪行”がこれだ。だが、おれは悪行などとは、これっぽっちも思っちゃいないがね。悪いのはむしろ神のほうだ。絶対に食べるなと言っておきながら、見た目がきれいで、いかにもうまそうな果実が実るその木を、なんでわざわざエデンの園の、しかもいちばん目立つ真ん中に植えたんだ?]
「試したんだわ!」とトモミが汚いものを吐き出すような口調で言った。「信仰心を試しやがったんだわ!」
トモミの眉が、闘志のみなぎった空条ジョリーンのように、ググゥッと吊りあがり、シンジのいちばん好きな顔になった。
「そう、奴は試した」サタンは満足げにうなづいた。「あのクソ野郎はいつだってそうだ。罠をしかけて、人間の信仰がほんものかどうか、天使どもに見張らせている。ときには、天使をつかってそそのかし、わざと罠に誘い込む…というような汚い手をつかうこともある。そして、人間のなかでたったひとりが、その罠にはまって、結果的に神に背くことにでもなれば、それを人類全体の責任とし、街全体を、あるいは人類全体を、“天罰”と称して滅ぼしてしまう…。これまで何度かそういうことがあった。ノアの大洪水もそのひとつだ。どうだ、たまったもんじゃないだろ?」
「では、やはりサタンはルシファーなのでは?」とオカルトマニアの男子生徒が蒸し返した。「信仰心を試すために、ルシファーは“神の命令”で、ヘビのなかに入って、神に背くようイブをそそのかしたのではないでしょうか?」
「そうではないっ!」
(やれやれ。いったいどうすれば、サタンはルシファーではないと、こいつに納得させられるんだ?)
そうだ!! 手っ取り早い方法があるじゃないかっ! あいつに入り込めばいいんだ。入り込んで、『やあ、おれさまはサタンだ。ルシファーなんてヘンテコな名前のクソガキと一緒にしないでくれ』と、あいつの脳細胞ひとつひとつに、牛に焼き印を押すみたいに分かり込ませてやればいいんだ!
サタンはガンダルフから離れた。
◆◇◆◇◆◇
「なんだ、これはいったい?」
サタンは目を疑った。目の前に、大きな石をいくつも積み上げて造られた、とてつもなく巨大な壁がそびえ立っていた。
「万里の長城か? いや、そうではないらしい…。この壁は傾いている。…ピラミッド?」
サタンは思いきり背をのけぞらせ、そのピラミッドらしき建造物を仰ぎ見た。その頂上は、遥か雲のなかに消えていた。
「なんというバカでかさだ…。これが、こいつの倉庫なのか?」
左右を見渡しても、入口らしきものはどこにも見当たらない。それもそうだ…。サタンは自嘲気味に、フッと笑みをもらした。こいつがピラミッドなら、入口なんてものがあるはずがない。
「つまり…、俺はこいつには入り込めんというわけだ…」
いや、そうではない。入るには、入った…情報にアクセスできないというだけのことだ。時間さえかければ、この、一見難攻不落と思えるピラミッドのなかに入って、こいつを屈服させることは可能なはず!なんてたって、こいつはただの人間にすぎんのだからな!“黄金の精神をもった忌々しい代物”でない以上、屈服させるのは造作もないことだ。
「ただ、いまはそんな時間がない…」
サタンは、自分に言いきかせるようにつぶやいた。
それにだ。そもそもこいつを屈服させる必要などないじゃないか。サタンとルシファーは同一ではない!…とこいつに解らせるだけでいいんだからな。
サタンは、ピラミッドにクルリと背を向けると、ピンと指をのばした右手を、地面と平行になるようにして、額のところにあててヒサシをつくり、ぐるりと辺りを見回した。
(まったく、馬鹿げたポーズだ。こんなことで、遠くが見えるようになるわけないじゃないか。人間てやつは、なんてマヌケなんだろう)
などと、ぶつくさ文句をたれながらも、そのポーズをやめることをせず、とうとうサタンは目的地をみつけた。
はるか地平線上に、たくさんの建造物が、群となってかたまっている、都市のようなものが見えた。
「あそこだ。こいつの本体はあそこに居るにちがいない…。し、しかし……、なんて距離だ…。今日中にたどり着けるのか?」
サタンは、はあーと大きなため息をつくと、まるで蜃気楼のような、遥か彼方の都市とおぼしき場所にむかって、ダッと猛烈な勢いで走りだした。