41 なんだって死神がこんなとこに?
次の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。それと同時に、ガラガラと教室の扉をあける音がして、何冊かの本を小脇にかかえた、陰気そうな顔をした老人がそこからあらわれた。
「死神?…」サタンはつぶやいた。「あいつは死神じゃないのか?」
あろうことか、サタンであるにも関わらず、ほんものの死神というものを見たことがなかった。そもそも、死神なんていう怖ろしげな化け物が、ほんとうにいるのかどうかすらよくわからない。だがこいつはどうだ!シュワルツェネッガーの映画『ラスト・アクション・ヒーロー』に出てきた死神そっくりじゃないか!でっかい鎌も持っていないし、黒いマントも着ていないが、まちがいない──こいつは死神だ。
『ロード・オブ・ザ・リング』で、白の魔法使いガンダルフ役もやっていたイアン・マッケラン演じる死神に似たその老いぼれは、教室の扉を慎重な手つきで閉めると、ジロリと教室のなかを見回しながら、足を運ぶにあたって、この場所以上に気の進まないところなどこの世にない…と言いたげな重そうな足どりで教壇にのぼると、「じゃあ、そろそろはじめましょうか」と言った。
その口調に、なにかしら不自然なところがあることに、サタンは気づいた。足取りや態度とは裏腹に、その口調からは、かすかなやる気さえ感じられる。
はじめる?いったいなにを?こいつはいったいなにをはじめる気なんだ?
死神がはじめることといえば、…アレだ。例のやつにちがいない…。『肩たたき』…そうにきまってる。おれは知ってるんだ。ラスト・アクション・ヒーローでみたからな。死神が肩をたたくのは、そいつの寿命がつきたっていう合図だ。たたかれると、それまでピンピンしていたやつでさえ、急に咳き込み始めてあっというまに死んでしまうんだ。それをいまからやろうっていうのか?
(おい、コースケ!どうする?そんな真似を黙って見過ごすのか?おい!おいったら!コースケ!あれ?いないのか?どこへ行ったんだ?…どこにもいけやせんだろうが、おまえは!どこにいるんだ?)
しかし、コースケはうんともすんとも言わない。
ちくしょう…。肝心なときに役にたたんやつだ!そうだ!…シンジはなにやってる?
サタンはシンジを見たが、シンジはぼーとした顔で死神をぼんやりみつめていた──眠たそうに大あくびをして、目じりからこぼれ落ちた涙を、学生服の袖でぐいっとぬぐってる。
なにやってやがるんだ。のんきな顔しやがって!死神が『肩たたき』を始めようってこんな時に!…おれがなんとかするしかないのか?…やつの魂胆に気づいているのは、おれひとりだけなのか?…くそう、使うしかないか…アレを。アレを使うしかないか…、取り返しのつかないことになるまえに、アレを使うしかないかっ!
サタンは決断し、ポケットに手をつっこんで、手探りでひんやりとした感触の丸い物体をさがしてだしてそれを握り、ボタンをカチッと押した。
もう安心だ…。やつがなにをやらかそうと、こいつを始動させたからには──なんどでもやり直しができる『失敗を帳消しにする時計』を始動させたからには、なにひとつ、やつの好きなようにはさせないぜ!さあ、いつでもこい!準備はできた。お前がしようとしていることは、おれにはわかってるんだ!来るなら来てみろ!
サタンは死神をにらみつけた。メラメラ燃える憎悪の炎を瞳に宿して、サタンは死神をにらみつけた。そんなサタンのレーザー光線のような視線にも、まったくひるんだふうでもなく、死神は、その黄色く澱んだ目でコースケをみつめてこう言った。
「そろそろ授業を始めたいんだが…、コースケ君?席についてもらえると助かるんだが…」
その瞬間、教室にクスクス笑いが起こった。いつのまにか、突っ立っているのはコースケだけになっていた。ほかの生徒はいつのまにか、とっくに自分の席についていた。
なにい?はじめるっていうのは『授業』のことだったのか?するとこいつは先生なのか?…そうだ。そうにきまってるじゃないか!チャイムが鳴って教室に入ってくるのは先生だ──死神じゃない。
『死神』とはよく言ったもんだぜ!おまえ、ネーミングのセンス抜群だな!とコースケがカラカラと笑った。
コースケ!おまえちゃんとそこにいたんじゃないか!なんでさっきはいないふりをした?なに?おもしろそうだから、だまって見てただと?おれがビビッてただと?バカ言え!おれはサタンだぞ。ビビッたりするものか!戦う準備はちゃんと出来てたんだ……。いや、ちょっと待て!そもそも、なんでおれが、こいつらのために戦わなくちゃならんのだ?シンジやトモミになにかあったら、助けてやらなくちゃならないだろうが、それはふたりがおれの仲間だからだ。だが、ほかのやつらはどうだっていいはずじゃないか…。しかしおれは、このクラスのだれであれ、死神がゆび一本でも触れたら、おれは全力でやつをぶったおす覚悟だった…。なぜだ?本質?それがおれの本質だというのか?冗談じゃない──おれはサタンだ。ひとをたぶらかしたり、ひどい目にあわせたりするのがおれの役割で、困っているのを助けるのが仕事じゃない……。ところで、おまえはだれだ?コースケじゃないな!人助けがおれの本質だ…などというたわごとをぬかしたおまえは、いったいだれなんだ?
だが、その問いに答えるものはいなかった。
まあいい。空耳だったにちがいない。なにしろおれの耳は聞こえすぎるくらいによく聞こえるからな──昔から言うだろ…『地獄耳』って…。あっ!コースケ!おまえ、いま笑ったな?笑ったろ?たしかに笑った…。おもしろかったのか?笑ってないって?…強情なやつだ。もうすこし素直になったらどうだ。ところで、さっきおれに『ネーミングのセンスがある』って言ったな?ほんとうにそう思うか?…おお!そうか、そうか…なかなか素直じゃないか!いいぞ、それでいい。おれにはネーミングのセンスがあるか!シンジのやつは、おれにはセンスがないとか抜かしやがったが、なんだ、ちゃんとあるんじゃないか。おまけに冗談のセンスもある…。なに?それは認めないだと?おまえ笑ったくせに、それを認めんのか?
「うほんっ!」というわざとらしい咳払いを、サタンが死神と間違えた老いぼれ教師がした。その瞬間、またくすくす笑いが起こった。だれかがコースケの学ランの背中をぐいぐいと引っ張っている。振り返るとトモミだった。トモミは教室のど真ん中に突っ立っているコースケに、あごをクイッとしゃくって席に着くようにうながした。これまで、この学校で誰もなしえなかった大それた所業だったが、そびえ立つ不良は、べつに気分を害したそぶりも見せず、それどころか、びっくりしたようなきょとんとした表情で「なんだ?」とトモミに訊いた。トモミはそれにこたえて、ささやき声で「コウちゃん、席に着かなきゃ!」と言った。
「あ、そうか、そうか…」ととてもコースケとは思えない反応をし、おまけにコースケは、死神(生徒からはガンダルフと呼ばれている)に向かってぺこりと頭まで下げた。そして、さらにコースケは、だれもが予想もしていなかった、信じられない行動に出た。
コースケは自分の席には向かわずに、そのままずけずけと、机の間の通路を前に向かって歩いていくと、教壇のまん前の席に座っている、気の弱そうな男子生徒のところへ来て止まった。
「すまないが、席をかわってもらえないだろうか?」とコースケは、教室じゅうが唖然とする言葉を口にした。
おいおい!いったいなにしようって腹だ?とコースケが抗議したが、サタンは『勉強はおれの受け持ちだ』と言ってコースケを黙らせた。不良は教室の一番後ろの席って相場が決まってるんだ──それも窓際のな!とコースケがさらに抗議したが、サタンは受けつけなかった。
コースケに席をかわるように、コースケらしからぬ紳士的な態度で要請された男子生徒は、おそらくこれまで、コースケから声をかけられたことすら、一度もなかったであろう──それは、その男子生徒にとっては、もの凄いことだった。なかなか理解しにくいことではあるが、コースケのような手のつけようのない不良は、ある種の男子生徒にとっては憧れの存在でもあるのだ。だから、コースケに声をかけられて、彼がバネ仕掛け人形のように立ち上がったとしても、それはコースケが恐ろしかったからではない──うれしかったのだ。光栄だったと言ってもいいだろう。その証拠に、その男子生徒の頬が薄っすら赤くなっている。彼は手早く荷物をまとめると、それを両方の脇にかかえ、「さあ、どうぞ」と言った。その姿は、『プライベート・ライアン』という映画で、トム・ハンクス演じるミラー大尉から、一緒に来るようにと言われたアパム伍長を彷彿とさせた。
「おう、すまんな」とコースケから礼を言われるという奇跡に接して、その生徒の顔はますます赤くなった。
なんだ?なんでこいつ赤くなってるんだ?ひょっとして…、こいつ…
バカ言うんじゃねえ!とコースケが必死で弁解した。必死になるところがますますあやしいな…とサタンはさらにコースケをからかってやろうかとも思ったが、ガンダルフがその生徒に、早く席に着くように言ったのが、ほんとうは自分に向けられたものだと気づいたので、いまはそれどころではないとやめておくことにした。
「ところで、コースケ君は荷物はいいのかい?」とガンダルフが気を利かせてコースケに訊いた。
「荷物?」と言われても、いつも手ぶらだし、机の中も空っぽ…荷物なんてものは一切ない。「だいじょうぶです」とコースケは答えた。
「へ?」とガンダルフは虚をつかれたような顔で、ぽかんと口をあけてコースケを見た。「…教科書は?いくらなんでも教科書くらいは…」
サタンは、黒板の横の壁に貼ってある時間割表に、さっと目を走らせた。二時間目は?……世界史?世界の歴史ってことか?なら大丈夫だ。おれの得意分野だ──なにもかも頭に入ってる。本はいらない。
「だいじょうぶです。頭に入ってますから」
教室じゅうにざわめきが走った。あちらこちらでヒソヒソ話が起こった。にんまり笑っているのは、シンジとトモミのふたりだけだった。
「そうまで言うなら、…まあいいでしょう。では、そろそろはじめるとしましょう」
ガンダルフと本人が知らないところでそう呼ばれ、そして、それにくわえて、死神という新しい名前までいただくことになったその教師は、はぁーとちいさくため息をつくと教科書を開き、くるりと回れ右をして、白のチョークを手に取った。
『ナチスの台頭と第二次大戦』
と死神は黒板に書いた。
やったー!とサタンは小躍りして喜んだ。戦史だ!歴史はなんでも好きだが、そのなかで、おれがもっとも好きなのが戦史──いちばん前の席にかわった甲斐があったというものだ。
サタンは好きなアニメが始まるのを、わくわくしながら待っている子供のように、目をキラキラ輝かせて授業に臨んだが、ものの5分もすると、そんな気持ちはどこかへ吹っ飛んでいってしまった。
なんだ、これは?これが歴史だっていうのか?ただ、過去にあったことをだらだらと喋っているだけじゃないか!そらみろ。だれも聞いていやしないじゃないか!それでも教師か!…しかたない。おれがこいつらに本物の歴史っていうのを教えてやるか。老いぼれには、しばらくのあいだ、すっこんでいてもらうとしよう。
サタンはコースケからはなれ、ガンダルフ似の老教師のなかにはいった。